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■■ 内田誠のニュース&コラム「遠きより」 
■■                       2005/11/04【026号】
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《第二十六号発行にあたって》

 この間、アメリカ産牛肉の輸入再開問題で大忙しでした。ついにプリオン専門
調査会は答申原案の中で、輸入されるアメリカ産牛肉のリスクと国産牛肉のリス
クは小さいという意味の内容を盛り込み、半年にわたる議論を事実上終結させま
した。はたしてアメリカはキチンと上乗せ規制(対日輸出分についての特別な対
策)を実行するのか、そうして入ってきた牛肉は安全なのか。外食産業で使用さ
れる牛肉の原産地表示はやがて法的に義務づけられるのかなど、問題はいよいよ
大きくなってきました。別の場所で予告したように、近々、輸入再開問題の総括
的な記事を配信する予定です。

  今日はその前に、先月末に発売された雑誌「エルネオス」に私が投稿した記事
(無署名)を、許可を得て転載することにします。こちらは全く違うテーマで、
中国旧満州に取り残された日本人の遺骨に関する問題です。
 「エルネオス」は誠実な編集で知られる重要な情報誌ですが、直接購読のみの
販売です。みなさんの目に触れる機会が少ないかも知れませんので、こういう形
で転載させてもらうことにしました。もしも気に入られましたら、下記のホーム
ページをご覧になってください。

*ビジネス情報誌「エルネオス」http://www.elneos.co.jp/

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  ■旧満州の大地に眠る二十万の遺骨■
        〜「友好訪中団」と和解への遠い道のり〜
 
  真夏のように厳しい暑さがまだ日本列島を覆っていた今年の九月。中旬の一週
間を使い、中国に出掛けていった十人ほどの日本人団体客があった。いずれも中
年を過ぎ、さらに齢を重ねた男女たち。よくある団体ツアーのようだが、この人
たちの旅は、単なる観光や避暑のためではなかった。彼らがたどったのは、哈爾
浜(ハルピン)や敦化、牡丹江、延吉など、旧満州(東北地区)の街々。そこは
六十年前、彼らの肉親が最期を迎え、今もそこに眠っている場所だった。だが、
後に記すように、亡き父や兄の冥福を祈る現地での慰霊祭は、特殊な方法で、い
や、あまりにも控えめな方法で執り行われていた。

  ■「友好訪中団」

  この団体の名称は、「中国東北地区友好訪中団」。旅費の一部を国費で賄う、つ
まりレッキとした国の訪中団で、昭和五七年以降、毎年のように組織されている。
参加者を募集したのは、厚生労働省社会・援護局の援護企画課外事室(遺骨収集
や慰霊巡拝などを行う部署)であり、参加者たちは、いわゆる「先の大戦」にお
いて旧満州で命を落とした戦没者の遺族たちだった。だが、肉親の終焉の地を訪
問する遺族たちが、なぜ「友好訪中団」と名付けられていたのか。そこには、最
近の「反日」騒ぎとは次元の違う、六十年たった今なお埋められることのない日
中間の深い亀裂が顔を覗かせている。

  ■進まない遺骨収集

  厚生労働省によれば、「先の大戦」で亡くなった日本人の総数は軍民併せて三一
〇万人余り。そのうち海外地域での死者はおよそ二四〇万人で、全体の八割近く
を占める。地域ごとに見ていくと、最大の激戦地フィリピンの五一万八〇〇〇人
を筆頭に、中国本土の四六万五七〇〇人、中部太平洋の二四万七〇〇〇人と続き、
中国東北地区では二四万五四〇〇人の死者を数える。

  昭和二七年に対日平和条約の発効によって主権を回復した後、政府はアジア各
国の了解を取り付けながら、現地に取り残された遺骨を収集するため、第一次か
ら第三次にわたる「遺骨収集事業」を行ってきた。当然ながら、日本の戦争行為
や残虐行為によって多大な被害を被った各国の理解を得なければ、日本人犠牲者
の遺骨収集はままならない。日本に戻ってきた戦没者の遺骨は、併せて一二四万
体にも及ぶが、それでも、海外戦没者の二人に一人にとどまる。なかには水没し
た遺骨など、収集が困難な場合もあろうが、アジアの各地で山野に野晒しとなっ
たままの遺骨も依然として残されている。

  ■「過去の苦い歴史」という壁

  そうしたなか、中国における遺骨収集がこれまで全く行われてこなかったこと
はあまり知られていない。たまたま発見された遺骨が引き渡された例はあるもの
の、政府の「遺骨収集団」が中国に派遣されたことは一度もない。しかも「東北
地区」については、日本側の死者二四万五四〇〇人のうち、帰ってきたのはわず
かに三万九〇〇〇人余。残り八割以上、実に二〇万人を越える戦没者が今も旧満
州に取り残されたままなのだ。そればかりではない。中国に関しては「慰霊巡拝」
すら、公式のものは昭和五五年に行われた一回だけで、その後は一切許されてい
ない。その意味で、日中間の戦争はまだ終わっていないかのようなのだ。

 東北地区での遺骨収集や慰霊巡拝をめぐる日中間のやりとりが始まったのは、
昭和四七年九月の日中国交回復以後のことだ。厚生労働省によれば、政府は「外
交ルートを通じて中国政府に対し、遺骨収集や慰霊巡拝の実施を申し入れてきて
いるが、遺骨収集については、中国側の『過去の苦い歴史を思い出させる遺骨収
集は行わない方がよい。』という基本姿勢であり、遺骨収集を認めていない」とい
う。

 国交回復直後から遺骨収集の実現を目指していた政府は、昭和五三年になって
方針転換をする。来日した黄華外相に対し、「遺骨収集が困難であれば、せめて慰
霊巡拝団の実現」を要請した。この提案が実を結んだのは、翌年暮れのことだっ
た。訪中した大平総理に対し、「日本政府による慰霊団の派遣について原則的に同
意する」と応じたのは、華国鋒主席だった。さらにその次の年、昭和五五年にな
って、ようやく実際に日本政府派遣の慰霊訪中が実現(団長野呂厚生大臣と遺族
代表五一人)し、瀋陽・長春・哈爾浜(ハルピン)を巡る慰霊の旅が実現した。

 ところが、この画期的な「慰霊訪中」も、ただ一回きりのものとされ、少なく
とも公式には、その後、同様の訪中団は許されていない。その代わりに毎年のよ
うに執り行われているのが、冒頭に記した「中国東北地区友好訪中団」なのだ。
そして「友好訪中団」として行う以上、その慰霊事業には様々な制限がついてく
る。

 ■「しのび慰霊祭」

 今年に限らず、「友好訪中団」の旅程には、ホテルの部屋で行う慰霊祭が必ず含
まれる。慰霊祭はこんな風に行われる。まず部屋の中に祭壇を築き、日中の国旗
を掲げる。位牌の代わりになる標柱をたて、厚生労働大臣名の献花を両脇に配し、
肉親の写真を置き、タバコ、バナナやブドウなどの果物を供える。団長による追
悼の辞に続き、遺族代表の式辞、生花の献花と式は進んでいく。

 この慰霊祭は、別名「しのび慰霊祭」といわれ、徹底して秘められた形で行わ
れる。当初は会議室で行われたそうだが、突然入ってきた中国人のホテル従業員
に見られてしまい、それ以降は鍵のかかる一般の客室で行われるようになったと
いう。そのため、団長には必ず大きめの部屋を充て、そこを慰霊祭会場に使う。
祭壇にロウソクは立てるが、線香は使わない。匂いで外に知れてしまうからだ。
また、そもそも団長には敢えて現役の官僚を避け、社会・援護局のOBを充てる。
事前に「臨時職員」として辞令を交付するのだが、現役官僚を避けることが、中
国に対する配慮になるのだという。

 ■「戦争」を終わらせるために

 日本側からは、国が行う「慰霊巡拝」。それを中国側から観れば、単なる「友好
訪中団」となるカラクリ。日本側からすれば、遺骨収集も慰霊巡拝も許されない
状態で考え出された苦肉の策という面がある。しかし、こうしたことを繰り返し
ていれば、六十年前に終わったはずの戦争は、日本人の中でも中国人の中でもな
かなか終わることができない。中国政府は、戦犯を除く日本軍の兵士は戦争の被
害者だと表明しているが、旧満州の地には、日本兵に肉親を殺された強い恨みと
敵意が充満しているに違いない。そうした「敵意」と直接向き合うことなくして、
双方にとっての戦争を終わらせることは難しい。遺骨収集をなんとかして旧満州
で実現することは、「敵意」と向き合い、一般人のなかで戦争を終わらせる大きな
動きにつながっていく重要なきっかけとなるのではないだろうか。

 もっとも、繰り返される小泉総理の靖国神社参拝が、国内外、特に中韓両国に
いつも憤激を巻き起こしている状況では、中国での遺骨収集の実現など無理と考
えるのが普通だろう。だが、他に回り道はない。原点は飽くまで、「あの戦争」な
のであり、加害と被害の認識を深めること以外にはありそうもないからだ。

(ビジネス情報誌「エルネオス」http://www.elneos.co.jp/ 11月号所収)

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 ■編集後記
 10月から始まったJ−WAVE<JAM THE WORLD>の放送は快
調です。基本的に番組に連動することを目的に、ブログも立ち上げました。肩肘
張らずに眺めていただけるようなものを心がけていますので、そちらの方にもお
立ち寄りください。

* uttiiの東京ブランチ http://blog.so-net.ne.jp/uttii-jam_the_world/

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