ショートショート      

「ゆきのかおり」       


 「今日はどれにしようかな」
 真崎有紀のはずんだ声が聞こえる。

 有紀のアパートの浴室の小さな窓。その下に所狭しといろいろな形や色をした小さな瓶が几帳面に並べられている。瓶には小さなラベルが付いていた。ラベンダー、レモンバーム、カモミール・・・ハーブの名前が書かれている。有紀が集めてきたハーブオイルだ。
 浴槽の中に1〜2滴垂らすと、サッと香りが広がる。揮発性の高いオイルがお湯の中で急激に気化してハーブの香りが浴室いっぱいに花開く。

 ここは有紀一人の城。学生時代、ずっと親元から通い続け、就職と同時に実家を飛び出すように東京で一人暮らしを始めた。
 最初の1年は開放感とちょっとした緊張感で、瞬く間に過ぎていった。そして、今、忙しくそして充実した毎日を送っている。
 
 そんな彼女の小さな楽しみがハーブとともに過ごす安らぎの一時だった。
 自分のアパートに入ると、もうそこは解放された空間である。今日は彼と喧嘩別れをしてきてしまった。ちょっとむしゃくしゃしている。もう10時を回っているから誰も来ないだろうと部屋の中で大の字に寝ころんでいた。10分もそうしていただろうか、やっと落ち着いてきた。

 「よし、お風呂に入ろうっと」
 今時の風呂はスイッチポンで、適量のお湯をはってくれる。10分も待てば準備完了。
 「もういいかな」
 有紀は着ていたものをその場で脱ぐと、裸のまま浴室に行った。そして、ザブッと湯を浴びてから、かるく体を洗う。それから、いつものように、窓枠の下に並べられた小瓶に視線を移す。

 「今日は、どれにしようかな。」
 ・・昨日は、レモンバームだったっけ、そうそう、コンサートに行ったんだ。ちょっと興奮してたもんね。頭をスッキリさせるのがこの香りなのよね。
 ・・一昨日は、ラベンダーだったわ。急の仕事が入って家に着いたのが11時を過ぎていたわ。もうぐったりとしていたからラベンダー。これはとってもリラックスできるから。

 「今日は何にしようかな。」
 すると、薄いピンク色した小瓶が目に入った。
 ・・あら、これしばらく使っていなかったわ。
 手に取ってみるともう半分くらいしか残っていない。

 有紀はこの小瓶を手に入れた時のことを思い出した。それは半年ほど前のこと。一人で、ある若者のグループのコンサートに行った。すると、いつのまにか隣に老婆が座っていた。白雪姫に出てくる魔法使のおばあさんみたい、などと思った記憶がある。
 私以上に場違いな感じのする老婆だったが、その老婆が声を掛けてきた。
 「お嬢さんはハーブが好きみたいだね」

 そう、その日は午後から会社を抜け出したのだ。一度アパートに戻り大好きなハーブ湯に入ってから、このコンサートにやってきた。
 「ええ」
 ちょっととまどいながら答えると、
 「今度、これを試してごらん」
 と言って、うすいピンク色をした小瓶をくれた。
 「何ですか、これ」
 と尋ねると
 「とってもいい香りがするんだよ。ハーブみたいに使ってごらん」
 と言って、それきり横を向いてしまった。
 ちょっと、気になったけど、
 「ありがとう」
 といってその小瓶をもらった。
 そして、しばらくコンサートに気を取られていたら、いつの間にか老婆はいなかった。

 家に戻ってから、その小瓶を出してみた。瓶のラベルには「・・のかおり」と書いてある。何の香りか、文字がかすれてよく見えない。
 そっと開けてみた。
 その小瓶から溢れ出る香りは、部屋の中に何とも言えない豊かな雰囲気を作り出した。

 淡く、そして消え入りそうな香りなのに、体が本能的にほしがっている、とでも言うような素敵な香りだった。足の先から、髪の毛の先まで、体全体を優しく押し包んでくる香りだった。
 この香りに包まれていると、心がとても落ち着いてくる。自分の中で人間としての優しさが大きく広がっていくような気がする。それと同時に自分の人生がとても楽しく、豊かさに溢れるように感じられる。
 しびれるような爽快感に有紀は強く引きつけられるようになった。
 「何というハーブかしら」

 それからというもの、機会あるごとに同じ小瓶を探しているのだが、未だに見つけることができなかった。
 有紀は、この小瓶を大切な宝物として、自分のハーブコレクションの中に加えている。週に一度くらいのペースで、この香りを楽しんでいた。

 「今日もこれにしようっと」
 貴重なオイルだが、今日のムシャクシャした気分を晴らすには絶好のものに思えた。残り少なくなった小瓶から浴槽にぽたりと一滴。
 さっと広がる得も言われぬ香り。

 と、その時、濡れていた手から小瓶がすべり落ちてしまった。
 「あっ」
 急いで浴槽の中から小瓶を拾い上げた。同時に小瓶から流れ出たオイル、急速に揮発して小さな浴室を満たしていった。

 いつもなら有紀が香りを吸い込むのだが・・・今日は、強い香りが有紀の体を包んでいった・・・。
 体を鋭く貫く快感に、心も体も溶けて行く。有紀の白い顔が、徐々に空間に同化し、白く輝く肢体が淡い流れとなって空間に拡散していく。
 やがて有紀の白い体の輪郭がだんだんと薄れていく。

 静まり返った小さな浴室。その片隅に小瓶が転がっている。
 小さな瓶には、輝くような液体が入っている。
 しっかりと栓が閉まっていて、小さなラベルが貼ってあった。
 「ゆきのかおり」と書かれたラベルが・・・。



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