ショートショート  「植物人間の涙」




 私は、今、生きているのか死んでいるのかわからない。
 どうして、こんなことになってしまったのだろうか。
 きっかけは、ちょっとした事故だった。

*****

 久しぶりに雪が降った東京。以前、誰かに、雪の降った動物園は静かでいい、と聞かされたことがあった。
 私は、その日、何もすることがなかったので、動物園に行くことにした。
 果たして動物園に着くと、誰もいなかった。さすがに、こんな日に出かけてくる人は少ないのだろう。

 この動物園は、檻でなく、柵で囲った自然に近い環境で動物を飼っている。そのため、園内は凄く広い。そんな中を雪にくっきりと足跡を残しながら私は動物を見て回った。見物客がいないせいか、動物達も生き生きしている。

 しばらく歩いて、ちょっと変な雰囲気に私は気づいた。なんだか、誰かに見られているような視線を感じる。でも、辺りには誰もいない。なぜだろう。動物の視線だろうか。そんな疑問を抱きながら、私は園内を先に進んでいった。

 やがて、バクの前にやってきた。夢を食べると言われている動物である。
 私は柵の中を覗いて見た。だが、どこにもバクの姿が見えない。今日は寒いから外に出て来ないのだろうかとも思ったが、柵から身を乗り出すように下の方を覗いてみた。
 すると、私は雪で滑ってそのまま柵の中に落ちていってしまったのだ。
 そこは、約5メートル程の高さがあった。落ちたとき頭に強い衝撃を受けた。そして、その時一瞬動物の匂いがしたのを覚えている。
 その後の記憶はない。

*****

 気が付いたのは、2日後のこと、病院のベッドのなかである。
 身よりのない私は、一人でベッドに寝かされていた。
 後から聞いた話では、どうやら私は頭から動物の柵の下に落ちてしまったらしい。動物が逃げないように柵の直ぐ下は、深く溝が掘ってある。その下はコンクリートで固めてある。もし、頭からコンクリートの上に落ちていたら、たぶん助からなかったろう、と医者から言われた。

 なぜ助かったのか。
 その日、雪で滑った1匹のパクがその溝の中に落ちていた。足を骨折して動けなくなって、底でうずくまっていたらしい。まだ、子供のバクだった。
 たまたま、私はそのバクの上に落ちたのだ。バクがクッションとなり私は一命を取り留めたのだ。しかし、残念ながらバクはその衝撃で死んでしまった。
 私の命は、バクからもらったようなものだった。

*****

 今、私はすっかり治り、普通の生活をしている。
 いや、しているつもりだった。

 退院して、3日目、私は会社に戻った。2週間ぶりの出社だった。
 一応、仲間は私の体を気遣ってくれ、親切な対応をしてくれた。

 午前中、無事仕事を終わらせ、同僚と昼食に出た。
 私は、確かソバを食べたはずだ。とてもおいしかったことを覚えている!

 どうも午後になって、疲れが出てきたらしい。しばらくベッド生活をしてきたからだろうか。
 そう気づいたとき、私は大変なミスを犯していた。
 今朝の重役会議で決められた1時30分の買い注文をすっかり忘れていたのだ。ディーリングルームでは、1分1秒の違いが数十億という利益になったり、損失になったりする。単純ミスは会社の命取りになりかねない。

 このミスに気づいたのは2時の時報がなったときである。相場を見た私は、見えないはずの自分の顔が真っ青になるのが分かった。
 いけない。もうダメだ・・・!
 体中の力が抜けていった。

 *****

 私は目が覚めた。
 私は、病院のベッドにいた。目の前にカレンダーがあった。4月になっていた。
 確か動物園に行ったのが2月。その後、退院したのが3月。

 「そうか」、私は思いだした。
 会社で、途方もないミスを犯して、そのショックで気を失ってしまったのだ。
 そして、転落した時のショックと、このミスのショックが重なって、かなり長い間、眠り続けていたのだ。
 一体、その後、会社はどうなってしまったのだろうか。
 聞きたいと思ったが、部屋には誰もいなかった。
 ただ、静かに私の腕に点滴の液が入って行くのが見えるだけだった。

 *****

 それから3日後、私は退院した。その間、会社の人間は誰も来なかった。そんな訳で、私は電話で会社に問い合わせる気力もなくなってしまった。
 私は、黙って自分の家に帰った。

 家の中は、寒々としていた。
 人の出入りのない家は、こんなにもガランとしてしまうものだろうか。
 その時、私は1通の封筒が玄関に落ちているのを見つけた。
 切手が貼っていない。宛名も書いていない。これは誰かがドアの隙間から入れていったものだろう。

 中の手紙を取りだして、読んだ。
 それは、彼女からの別れの手紙だった・・・。
 そう言えば、もう3ヶ月もの間、一度も彼女と連絡を取っていなかった。
 彼女には、私が突然、姿を消してしまったように見えたのだろう。
 強い衝撃と、後悔が私の胸を走った。
 思わず「夢ならさめてくれ!」と大きな声で叫んでいた。

*****

 また、ベッドの中にいた。
 前と同じベッドである。
 カレンダーは5月になっていた。
 目が覚めてから、私はあのときのことを思い出そうとした。
 しかし、彼女からの別れの手紙を読んだところで、記憶はとぎれている。
 その後、私はどうしてしまったのだろう。

 心から愛していた彼女。そんな彼女からの絶縁は私の生きる望みを絶ちきってしまったようだ。
 点滴を受けている自分の体が、どんどん痩せ細っていくように感じる。

 しかし、若さゆえ成し得ることだろうか。驚異的な回復力で私は直ぐに退院することができた。
 5月末のころのことだった。

*****

 医者から退院の許可をもらった私は、爽やかな春晴れの日、久しぶりに生きている実感を得た。
 公園を歩くと若葉に飾られた木々が爽やかに香ってくる。穏やかな日だった。
 私は、久しぶりに歩いたせいか、ちょっと疲れが出てきたのでベンチで休むことにした。
 そして、木陰のベンチで公園にある大きな池を見ていた。コイが群をなして泳いでいる。

 そんな私の前に、突然、彼女が現れたのだ。
 「アーヤ」と私は信じられない気持ちで彼女を呼んだ。
 彼女は、私の隣に腰掛けた。
 彼女を見ると、今にも涙がこぼれそうだった。
 ごめん、連絡が取れなくてごめん、と何度私は心の中で謝ったことだろう。

 やがて、彼女は、私の方に体をあずけてきた・・・別れて行ってしまったはずの彼女が・・・
 私は、信じられなかった。
 
 これは、本当だろうか。夢ではないのだろうか?

*****

 私はベットの中に横たわっていた。
 カレンダーは6月だった。

 私は一体どうしてしまったのだろうか。
 これでは生きているのか、死んでいるのか分からない!
 健康なのか、病気なのか分からない。
 
 今、私は、確かにベッドに寝ている。
 私の腕には管が付いている。点滴の管が。

 また、私は公園で気絶をしてしまったのだろうか。
 彼女に会えた嬉しさから、また、気絶してしまったのだろうか。
 そんなに簡単に気絶してしまうのだろうか。
 一体私はどうなってしまったのだろう。
 そして、今、アーヤはどうしているんだろう。
 私の目から涙がこぼれた。

*****

「先生!」看護婦が叫んだ。
「どうしたんだね?」
「先生!この患者の目から今涙がこぼれましたよ。」
「ほう、植物人間になっても、心が残っているのかね?」
そんな言葉を残して、あまり興味もなさそうに医者は部屋を出ていった。

(終わり)

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