ショートショート   「古い電話帳」  ('98.8.23)




 40も過ぎると、体のあちこちに不調が現れる。今日も気怠い気分で目が覚めた。気持ちは若いつもりでも、世間はそうは見てくれない。何かというと、”いい年をして”とか”あの年になって”とか、当て付けがましく言われる。気にしないようにしているのだが、面と向かって言われると、ムカッとすることがある。確かに、この年で結婚もせず、1人暮らしで、しかも昼間からごろごろしていたら、周りの奥様方のいい話のネタになるのも無理はないかもしれない。


 今日は、土曜日。10時まで寝過ごしてしまった。夕べは、深夜12時ころまで飲んでいた。確かスナック神酒だ。店を出たところまでは覚えているのだが、あとの記憶がない。まあ、無事に自分の部屋で寝ていたのだから、とりあえず問題はなかったのだろう。

 大田 徹夫。42才。42才は”死人”と読む、とは同僚が言った言葉。まあ、サラリーマンの典型で、ひょっとしたらいてもいなくてもこの世の中には何の影響もないのかも知れない。突然死んでも、誰も悲しまない。家族はなし。親類も付き合いはない。

 「あーあ」と大きなあくびをして、起き上がった。すると、まだ、背広のままの自分に気づいた。こんな日常は改めないといけない、といつも思うのだが・・・
 着替えはないか、と押し入れを開けたところ、何の拍子か小物入れにしていたカラーボックスが倒れてきた。がたがた、どしゃどしゃ、と部屋の中はがらくたの海。慌てて避けたから良かったものの、まともにぶつかっていたら大怪我をするところであった。
 「なんてついていないんだろう」思わず大きなため息が出た。

 着替えを済ませてから、さっそく片付けを始めた。
 そのとき、懐かしい電話帳が目に付いた。それは大学を卒業したころ、使っていたポケット版の電話帳だ。昔から人づきあいは良くなかったけれど、さすがにあのころは何人かの遊び友だちはいた。

 「あ」行の項目からめくって見る。
 懐かしい女性の名前が出てくる。我ながら、几帳面な字で彼女の電話番号や住所が記してある。
 秋田由紀。もう彼女はどこかの奥さんになっているんだろうな。あのころあこがれだった彼女の顔がぼんやりと浮かんでくる。
 ’そうだ、彼女に結婚を前提にした交際を頼んだんだけど、断られたんだ。ほろ苦い思い出が甦ってくる。

 小山由利。そう言えば、もう子供がいるんだった。綺麗な子だったな。
 でも、私にとってあまりに高嶺の花だった・・・。さらに、ベージをめくる。

 「か」行。
 赤いペンで四角い枠どりをしてある名前を見つけた。木村ミキ。軽い衝撃が胸を走った。すっかり忘れていたけれど、今、この瞬間、鮮やかに彼女の記憶が甦ってきた。
 彼女の電話番号の下に、6月6日午前中電話のこと、走り書きしてある。

 ’これはもう18年も前のことだ。今でもはっきり覚えている。
 前日、私は彼女にプロポーズした。その帰り道、私は有頂天になっていた。ついに本命の彼女に結婚を申し込んだのだ。返事はもらえなかったけど、「明日午前中に電話くれますか。」と彼女が言ったのだ。決していやな顔はしていなかった。何か吹っ切れない過去を持っている、という印象だったが、きっと、1日考えていい返事がもらえるものと確信していた。

 その夜、家に帰ってから私は眠れなかった。夜2時になっても、目がさえて眠れない。
 ’彼女に電話し無ければ・・・
 ’オッケイの返事がもらえるだろうか・・・
 考えれば考えるほど眠気が吹っ飛んで行った。そこで持ち出したのが間違いだった。一升ビンからのコップ酒になってしまい、もともと嫌いでないため、あっという間にビンの半分ほどが胃の中に消えていった。そして、そのまま、眠りについてしまった。
 

 目が覚めたのが、翌日午後1時。

 あわてて彼女へ電話をかけた・・・
 が、彼女は出なかった。そして、その後二度と彼女と会うことはなかった・・・
 彼女は、当日昼頃、家を出たまま、行方不明になってしまったのだ。

 私は、急にミキへ電話したくなった。
 その後、東京の電話番号は1桁増えている。冗談のつもりで、古い番号をダイヤルしてみた。
 ピッピッピポ・・・

 ルルルル、ルルルル’呼び出している・・・!

 「もしもし、木村です。」 まぎれもない、ミキの声である。
 「あの〜、ミキ・・・」
 「あら、徹夫さん。夕べはありがとう。」
 「・・・・・・」
 「電話、ずっと待ってましたわ。」
 「・・・・・・」 私は、誰かにだまされているのかと思った。

 「どうしたんですか。徹夫さん。だまっちゃって。」
 「は、はい・・・」
 「昨日のお話。私一晩ゆっくり考えました。」
 「はあ・・・」
 「あなたはとても優しい人です。私はとても好きです。」
 「あ、ありがとう・・」
 「あなたと結婚できたら、きっと素敵な家庭ができると思います。」
 「そ、そうです、ね。」
 「ええ。私にはわかっているのです。」
 「はあ・・・」

 

 「でも、・・・」
 「で、でも・・・何でしょうか?」
 「でも、あまりに、遅過ぎました。この電話・・・」
 「・・・・・」

 「でも、本当に電話ありがとう!」


 プツン・・・ツーーー

 「もしもし、もしもし、ミキッ!」

 もうそれきり電話はつながらなかった。後、何度同じ電話番号を回しても「現在、その電話はつかわれておりません。」のアナウンスばかり。

 ******

 夢のような出来事だった。でも、彼女はきっと、どこかで幸せに暮らしているんだ、と私は信じることにした。

 (終わり)

  tol



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