北伐の目的について
☆第一次北伐
可能性としてはこの北伐が一番成功の可能性が高かったのではないでしょうか?理由としては
・文帝が死去した事による魏国内の動揺
・劉備死去後、蜀内には大した人物がいないのでとても攻めれないだろうと言う油断
とこの時期の魏には不安要素がありました。
しかし結果的に諸葛亮はそれらを生かすことができませんでした。まず文帝の
死去は226年でした。北伐が行なわれたのは228年、この2年の歳月の
間に魏国内の動揺はある程度納まってしまっていたようです。その間、
外地に駐屯した司馬懿は諸葛亮の北伐時に要となったかもしれない孟達の
反乱を未然に防いでしまっています。更にこの孟達の不穏な動きが結果的に
魏の蜀に対する警戒心を強めることになったかもしれません。
そのため諸葛亮が予想するよりも早く魏側に対応されてしまった
可能性が考えられます。
更に策を用いる順番も結果として誤ってしまいました。策は連動して行なう
方が効果があります。例えば孟達を寝返らすタイミング、
北伐を行なうタイミングが連動していれば魏は兵力を分散せねばならず、
蜀側に有利な展開となるでしょう。更に魏延の長安急襲策を用いることが
できれば本当に長安以西を手中に収めることができたかもしれません。
しかし最終的に彼の策は後手後手へと回ってしまっているのです。これは
彼が政治家、能吏であっても策謀家ではないと言うことと関連があるのでは
ないでしょうか?そのため第一次北伐は各個撃破される形で失敗に終わって
しまいました。
☆第二、第三次北伐
第一次の北伐が失敗に終わった影響は何処に出てくるでしょうか?まず北伐
の失敗によって諸葛亮や趙雲達の官位が下がってしまいました。そのため
蜀国内に不穏な動きが発生する恐れが・・・と言う可能性が考えられない
でしょうか?
例えば李厳等は劉備死去時に諸葛亮と共に後事を託され、軍事面を任されて
いたにも関わらず半ば軍権を奪われた状態にありました。ずるずる行くと
彼が黙ってはいないでしょうし、最悪内乱まで発展する恐れもあります。
諸葛亮の立場としては何らかの成果を上げるしかなかったでしょうし、
その手段として戦功を上げるしかなかったのではないでしょうか?そのため
多少無理をしてでも魏に僅かの隙が見られたらそこに乗じて北伐を行なった
ように思います。それが第二、第三次の北伐だったようにも思われ
ます。第二次は名将張コウが荊州に駐屯している隙をついて陳倉を攻めようと
したものです。しかしこの時は兵糧が続かず、また陳倉の守備も堅く魏側も
素早い対応をしてきたために退却せざるを得ませんでした。
この時は兵糧などの問題もありましたが魏側がすぐに援軍を送ってくる、
と言うことも蜀にとっては懸念材料でした。そこで魏の主力が援軍を送り
難く、また取られたとしてもさして気にならない地域を狙っていく事に
なるのです。それが第三次の武都、陰平の攻略となったのではないでしょう
か?そしてそれに成功することでひとまず国内における問題は多少なり
とも解消されたのだと思います。
☆第四、第五次北伐
前三回までの北伐で諸葛亮も魏を討つのが容易ならざる事、と言う結論に
達したのではないでしょうか?「諸葛亮集」の中で彼は「策謀を決め、兵員
を鍛え、士気を上げれば破れぬ敵はいない」と述べていますが、現実問題
としてそれだけでは魏を撃ち破れない事を痛感したと思うのです。そこで
魏を撃ち破る為の策を彼は考えました。それが木牛・流馬であり、連弩
だったのではないでしょうか?第二次の時の様に兵糧が続かなければ長期
戦は難しくなります。それを解消する為に木牛・流馬を発明したのは周知の事実です。
そしてもう一点、それまでの北伐で経験した魏軍の強さは諸葛亮にとって
更に頭を悩ませる材料だったと思います。おそらく正面からぶつかった場合、
五分がせいぜい、国力差を考え消耗戦になったら蜀が不利になると言う
思いがあったでしょう。その差を埋めるにはどうすれば良いのか?
直接ぶつかって駄目なら搦め手から、と言うのは曹操のやり口ですが、諸葛
亮の場合は曹操とも違うやり方でした。直接戦闘ができないなら、直接戦闘
を行う前に相手を倒す、要は織田信長が武田軍を滅ぼした長篠の戦いと同じ
状況を考え出したのだと思うのです。鉄砲を弩に置き換えれば良いと思うの
ですが、陣を整え、柵を設け(本当にそうしていたかは不明ですが)、弩で
待ち構える事に徹し、魏軍は蜀軍の陣地に到達する前にうち倒されることに
なるのです。司馬懿は一度の交戦で正面からぶつかることの愚を悟り、以後
は防御に徹するようになったのでしょう。
司馬懿が唯一相手に隙を見出せるとすればそれは相手が陣を引き払って退却
する時だったのではないでしょうか?231年、234年共に蜀の退却時に
司馬懿は追撃を行なおうとしていますが、これは相手の隙を突こうという意志
の表れだったように思います。そう言う意味では諸葛亮が構築した陣と言う
のは本当に防御に特化されたモノだったのかもしれません。
ただ、これによって魏軍の脅威はある程度緩和されることになりましたが
蜀側にも大きな問題が生じていた可能性が考えられます。弩は防衛戦には
絶大な威力を発揮するのですが、攻撃時にはあまり使い物になりません。
つまり弩兵を中心とした部隊編成を行なうと言うことは蜀側も迂闊には動け
なくなると言うことを意味しているのです。その結果、身動きが取れなく
なった諸葛亮は「相手が攻めてくれるのを待つ」しかなくなるのです。
第五次の北伐の時にあれだけ司馬懿を挑発しながらも、自ら相手の陣地を
攻撃しようとしなかったのはそう言った理由もあったからではないでしょう
か?
弩はサンプルデータこそ少ないですがうまくいきましたが、木牛・流馬は
思ったような成果を残せませんでした。もしかしたら諸葛亮は長期戦時に
必要な木牛・流馬、そして防衛戦に必要な連弩、どちらの方が効果あるか
の確認を行なうために北伐を行なったのかもしれません。木牛・流馬が四次
の時にうまくいかないと見るや五次の時には屯田を行ない、長期戦の可否
を調べようとしたのでしょう。しかしそれもあまりうまくいかなかった
ように思われます。そして北伐の困難さを痛感した諸葛亮は自分の死後は
専守防衛に徹するように言ったのだと思います。
以上が諸葛亮の五回の北伐に関する私なりの解釈でした。諸葛亮を偉大な
戦略家と考える方には思いきり否定されそうですが、これは諸葛亮の前半生、
そして諸葛亮の本質が張良と言うよりは簫何であったのではないか?と言う
視点に立った場合の考察です。その点、ご容赦願います。
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