散りやまぬ桜の下で

 

 いちどもお会いしたこともなければ、どのような方かも何ひとつ知らない貴女に、水津英夫さんのことが縁で、こうして手紙をさしあげるようになって、もうずいぶんになります。でも、そのたびにいつも少し不安になるのは、次に差し上げる手紙がつらいものになるのではないかという怖れがあったからかもしれません。

 その予感は十年以上前、アジアを横断してエジプトにやってきた当時七二歳のバックパッカーだった水津さんと初めて会ったときに、すでに心のすみにあったように思います。だから、昨年の秋、人づてに水津さんが末期の肺ガンで入院していると知ったときにも驚くというより、とうとう来てしまったなという思いでした。

 そのとき大阪にいたぼくは、その足で病院を訪ねました。一年ぶりに会った水津さんは、大阪城の見える四人部屋の窓際のベッドであぐらをかいて書き物をしていました。ぼくを見ると、きょとんとした顔で「なんでわかったの? だれにも知らせんかったのに」といいました。

 窓際には『地球の歩き方』の中国編やら地図やら国語辞典やら新聞の切り抜きなどが重ねられ、テレビの上には調味料の瓶がずらりと並んでいました。彼のベッドのまわりだけ、安宿のドミトリーめいた生活感が漂っていて、思わず苦笑しました。

 水津さんは血色もよく、頬も健康的にふっくらしていて、とても病人には見えませんでした。かくしゃくとして足早にとことこ歩き回るところも、まったく変わっていませんでした。

 水津さんは自分から病気のことを話し出しました。

「ぼくのガンは第四期なんです。第四期いうたら末期ですわ。治療しなかったら三ヶ月、したら一年と医者にいわれましたわ」

 それから、自分は若い頃、結核をやっているので、いずれは肺のガンになるだろうと思っていたこと。すでに脳にも転移が見られること。死んだときのための挨拶状を書いていること。脳に来ているというから、わけがわからなくなる前に書いておこうと思っていたことなどを話してくれました。その話しぶりには、旅の話をするときと同じような、どこか嬉々としたところさえありました。強がりもなく、自嘲もなく、ことさらに明るくふるまうでもなく、いま自分の置かれている状況をただそのまま受け入れ、愉しんでいるかのようでした。

 今回のことをだれにも知らせていなかったのも、病気になった自分の姿を見せたくないとか、しずかに最後のときを送りたいというのでもなさそうでした。水津さんにとって、死とはべつに大げさに騒ぎ立てるようなものではないというだけのことなのでしょう。

 それから一ヶ月ほどした十月の下旬、病状を知った水津さんの友人たちの企画で、「水津さんの旅立ちを励ます会」という小さな集まりが持たれました。食事をしながら、水津さんの撮った旅のスライドを見ようという会でしたが、友人たちとしては一種の生前葬のつもりでした。

 ところが、この日、病室で会った水津さんは、前にも増して血色のいい、ふっくらした顔でぼくにむかって「あのね、頭がガンが消えたんですよ」というのでした。「ええっ!」とぼくは思わず声を上げました。検査をした医者は、原因はわからないが消えています、六ヶ月後に来てください、といったそうです。

「六ヶ月後では、もうぼくは死んでいるはずなのですがね。ぼくは思うんですが、医者でもわからんこともあるわけです。ぼくはずっとじゃこを食べていたんですが、ひょっとしてそれが効いたのかもしれませんな(笑)」

 それから水津さんはアルバムから一枚の写真をとりだしました。写真には空に向かって屹立する奇妙な形の岩が写っていました。

「今日のために写真を整理していたら出てきたんですわ」

「これはどこですか?」

「さあ、覚えとらんのですけど、たぶん中国と思いますな。それよりこの写真を横にして見ると、まるでちんちんみたいでしょう(笑)」

「……」

 このあたりから、ぼくはもうしんみりとした気分にはなれませんでした。足取りの速さといい、弁舌のなめらかさといい、ベッド脇の棚に隠してある焼酎といい、その顔色や肉付きのよさ、食べっぷりや飲みっぷりのよさといい、どうも勝手がちがいます。

 やがてスライド上映が始まりました。壁にはつぎつぎとパキスタンやチベットやトルコあたりの風景が映し出されます。でも「水津さん、ここはどこ?」と聞くと、「どこじゃったかのう」「覚えとらんのう」「こんなとこ、ぼく行ったのか?」という答えばかりなので、ああ、やっぱり脳に来ていると、逆にほっとしたものです。

「水津さん、葬式の希望はある?」とだれかが聞くと、「葬式は金がかかるからせんでもええです。骨は電車の網棚に置き忘れてもらうのがええですな」と赤い顔をしていうのでした。そして来年の春にも水津さんが元気だったら、お花見をしようということになりました。とはいえ、それが本当に実現できるのかどうかは、だれにもわかりませんでした。

 そのとき水津さんが貴女の話をしたのです。水津さんが貴女と会ったのは十五、六年前の北海道だったそうですね。その後、ときどき手紙のやりとりをしていたそうですが、二年くらい前に貴女に出した手紙の最後に「憧れのひと」と書いてしまってから、貴女から手紙が来なくなったといいました。それを聞いて、おせっかいとは思いつつも、ぼくは貴女に手紙を書き、事情を説明し、水津さんに手紙を書いてくれませんかと頼みましたね。

 けれども、そんなこちらの心配をよそに、水津さんはいったん退院した後、なんとまた旅行に出てしまっていたのでした。軽自動車を運転し、「道の駅」で野宿しながら十一月の北陸を二週間ほどまわっていたというのです。

 その後、貴女からの手紙も届いたおかげでしょう、冬に少々体調を崩していた水津さんは、暖かくなるとともに元気を回復し、今年八四回目の春を迎えました。そして、旅先で知り合った水津さんと共通の知り合いにも声をかけ、やや葉桜になりかけた四月半ばのよく晴れた日、仁徳天皇陵のそばの花見の場所へと足を運びました。

 そこにはエチオピアの麦わら帽子をかぶり、青い作務衣をまとった水津さんが、花びらがおだやかに舞い散る桜の木の下、ひとりぽつねんと立っていました。それはよけいなもののいっさいない完璧な風景のように映りました。「水津さん」と声をかけると、ふいに風景がゆらいで、麦わら帽子のつばの下の顔がぱっと明るくなりました。

 その数日前、水津さんはぼくに「日本人が桜が好きなわけが、ようやくわかりました」といいました。「桜は散りぎわが美しいんですな。散り方がこんなに美しい花は桜だけです。しかも、風が吹くと散った花びらがまた舞い上がる。ああ、きれいだなと思いましたわ」

 お花見は不思議な時間でした。水津さんをかこむお花見だったのに、ぼくたちは春の光と散りぎわの桜がかもしだすやわらかな酩酊感に包まれていて、水津さんが「そろそろ私は先に失礼します」といって、すっと立ち上がったのにも気づかないほどでした。

 目を上げると、麦わら帽子をかぶった水津さんが桜並木の下をひとり飄々と歩き去っていくところでした。その姿があまりに自然なので、その場にいたぼくたちはそのまま彼を見送ってしまいそうになりました。きっと、この人は人生という宴をあとにするときも、怖れもためらいもなく、だれも気づかぬほどしずかに立ち上がって、旅立っていくのでしょう。

 古墳のそばの桜はいま夏の日射しの下、豊かな青葉を揺らしているはずです。でも、ぼくには風に揺れる葉桜の下をくぐっていく麦わら帽子の彼の姿が、永遠の原風景のように、いつもそこに透視される気がします。かすかではありますが、けっして鳴りやまぬ言祝ぎの声とともに。

(「旅行人」2005年夏号に掲載)

 

 

 

 

 

 

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水津さんてだれ?

水津さん、エジプトにあらわる 1993年

ロング・インタビュー2000年

水津さん 旅の履歴 2000年当時まで

旅の幸福術 2002年

ロング・インタビュー2003年

散りやまぬ桜の下で 2005年

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