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諏訪神社訪問記




最近、やりたかったことをやってみました。そのために仕事が終わってからすぐに群馬高崎を目指します。その目的とは、神社めぐり。今回は東方風神録でもでてきた諏訪地方です。みんながやっているから私もやってみたい。そういう心理も働いていたかもしれません。
まずは群馬。以前から榛名神社をみたかったからです。山岳信仰も残していそうで面白いかなと思いました。行ってみると神社というよりは寺。やはり山岳仏教と習合していたのでしょうね。神仏の統廃合ですっかり変わってしまったのでしょうが、神宮寺の色を濃く残した例と言えましょう。でも、神社の雰囲気からは少し離れているかもしれませんね。習合加減を見たければどうぞ。見所は自然です。
とまあ、ひとつの目的は達成しましたので、あとは諏訪に行くだけです。

まずは諏訪大社から東側の山にある神社が気になりました。地図では諏訪神社があると書いてあるんですよ。とりあえず大社を見る前に分社でもと、そう思ったわけです。でも、苦労しました。






下社御射山神社


苦労するのも当然。湿原のそばにあるような書き方になっているくせに、探せど探せどわからない。八島ビジターセンターでもわからん。これ、実際にあるのかなー? と不安に。その後も道を探しているとずいぶん離れたところに横道を発見しました。これか?いや・・・。とりあえずいけるところまで行ってみようかと進みますが、道は砂利道になり不安増大。本当に神社があるのだろうか? そして、なにやらぽつんと看板が・・・。

なんと、神社と思ってきたのに、神社はなくて跡地で、しかも遺跡でした!

まじかよー。でも、なにやら興味深いことも書いてあるじゃないですか。諏訪大社下社の神事がおこなわれていたところとなっているのです。室町幕府の豪族たちもここに集っていたというのですから神社が相当権力を持っていたことを伺わせます。 それにしても、御射山ってミシャ○○って読めなくも…、もちろん関連してますよね?

とりあえず、あまりに苦労したせいもあってか、跡地でも見てくるかと足を下ろして草原を歩いていくと、なにやら杜の濃いところがあります。鎮守の森というやつかもしれません。近づいてみると!? 社があります。しかも御柱が周りを囲んでいる。なるほど、諏訪大社の近縁の社には違いないわけです。しかし、この御柱。ちっこいけど結界の役目は見事に果たしているなー。鳥居より近づきがたいんですよ。本当は神自身を囲う結界ではあるのでしょうけど、こっちから見ても強力に響きます。

紙垂が下がっていることから、今もひっそりと祀っているんですね(このときは祭りがあることを失念)。周りには二つの水源がいまもこんこんと沸き続けています。不思議な空間でした。でも、すごく心地よい。しばらく空気を楽しみ、頭を下げてこの地をあとにしました。



諏訪大社 下社春宮


次はいよいよ諏訪大社を目指します。湿原センターの脇からいける道に行こうとすると「御柱用材伐採の為交通規制」という看板が。御柱祭は2010年ということでしたが、伐採は今年のうちにやっておくんですね。なるほどです。伐採は次の日らしいので、そのまま通過。

御柱の森と言われる場所だけに大きな樅の木がたくさんあります。後で知りましたが、ここは下社専用で上社は別に森を持っているようです。そして、もうひとつ。とにかく大きな石が多い。自然石なのですが、ひとつひとつが大きいのです。時には山肌に黒石が大量に流れ落ちてます。これは自然と石信仰が起きるだろうなと思わせるに十分な地域性だったわけです。途中に蠶玉神社やら道祖神やら見つけることも。

木落とし坂に到着。こりゃすごい。上から見る感じはスキーのジャンプ台そのもの。これはすごいです。下には小さな社がありました。木落社というそのもの名前。祀っているのは大山祇神。山の神様だそうです。あれ? コノハナサクヤビメとイワナガヒメの親にあたる神だったよう。他の浅間神社でも諏訪様が祭られている所があったので、お互いの相性は良いのかもしれません。あれ、そういえば、この神様には御柱がないね。



道なりにいくと春宮が近そうだったので、春宮へGO。

諏訪大社の大きな刻印がありわかりやすいです。大きな注連縄があるね。しかも房がついているよ。へぇ。狛犬もいる。やはり神宮寺の色があるということか。しかし、残念なことに本殿・拝殿は工事中で見れませんでした。わくわく感(高揚感)がありません。工事中…。残念ですね。



筒粥殿というものがありました。ここで神事が行われるそうですね。しかも夜から始まり、夜明けまでとか大祓詞をあげながら混ぜるのだとか。私も合気道の修行で数時間も鈴を振りながら三種祓詞を行ったことがありますが。はっきりいって荒行でした。でも、その米には神気が宿るのですよ。おそらく、筒粥神事も同じような感じじゃないかな? (どうやら占いをおこなっていたらしい)
ちなみに隣に浮島神社があって、ここの神様が大祓大神だったり。粥の大祓詞と関係ありますか?



ところで、上諏訪社という末社を発見…。春宮は八坂刀売命だけではなくて諏訪様(建御名方神)もご祭神であるから本殿におわすはずですが、なぜか末社もあるわけですよ!どうも下社と上社は別々だと言いたいらしいです。実は、このときまでは同じだと信じて疑っていなかったので、どうして末社があるんだ?とめちゃめちゃ不審に感じました。(縁の深い神を神社の中で祭る場合、摂社か末社という扱いになる。末社は血縁関係がない場合。縁が深いという認識ではあるが…)

だって、諏訪様を別々に祀ってあるようなもんでしょ・・・?
(上社では神をその身に降ろす大祝という役職があり自身が信仰対象になっていたため、諏訪様といえども別の諏訪様と言えるわけなのでしょう。今後は建御名方神なのか、ミシャグジさまなのか、大祝なのか区別がつけがたくなるので、すべて諏訪様とします)



諏訪大社 下社秋宮


 観光客がいっぱい。なんかテンション下がります。ひとごみ嫌いなんですよー。みんなもそうですよね?



それにしても、神楽殿の壮大さと幣拝殿の荘厳さは一見の価値ありですね。建築としてすばらしい。 あとは摂社末社あわせて10社もある。なんじゃろう、これは…。



御神湯。熱いってば!

季節によって神様が秋宮と春宮の間を移動する御舟祭という神事があるらしい。2月から7月までが春宮で、8月から1月までが秋宮で過ごすのだとさ。夫婦神そろってね。

(下社では現代の神社の感覚に近いと後々になって思った)



洩矢神社


 諏訪を語るにははずせないだろうと思いまして行きました。



 下社のような荘厳さはありませんが、とっても落ち着く神社です。そういや私は神社で遊んでたりしたなあ。村で維持していた神社で普段は宮司さんがいないのだけど、そこと雰囲気が同じなんだな。でも、造りは立派です。
 洩矢と書いてあるところが素晴らしいですね。

詳しい謂れは由緒書きを読むとわかります。守矢資料館でもわかります。でも、戦いに敗れ守矢として残り、洩矢という名がここにしか残らなかった理由はなんでしょうね。由緒書きにもあるように諏訪様の血が入ったからでしょうか。(どうやら、4代目で洩矢の直系が絶え、守矢として引き継がれたことがわかった。一応血は繋がっているのは間違いないようだ)



ちなみに氏神様も祀ってあるのですが、その反対側に名も無き社があったのですよね。しかも、注連縄が切れている…。御柱も無い。なんだろう、この神様。ひどく気になります。
さらに由緒書きを読むと、1700年付近で遷座されていることがわかります。見に行けばよかったなあと後になって後悔しました。

(ネットで調べると「諏訪大社と御柱」サイトさんの洩矢神社のページで写真が載っていました。なんと柵鳥居が同じ形。ということはあの社は再現したものかしら? 石の御柱があるように見えますが…。ああ、見に行けば)


諏訪大社 上社本宮


いきなり変わったつくりをしています。正面からはいったら、順路が左になっています。目の前にある階段はなんだろうと不思議に思うわけです。とりあえず、順路に従って行くと、大きな太鼓のある神楽殿や土俵などあったりします。さらにいくと東門が見えます。おそらく、古くはこちらが正門だったのではないかと思いました。こちらのほうが古いですし、そのまま入口御門を通ることができますからね。しかし、途中に階段があったり、門があったりとなんだか不思議。とにかく、中に入ってみると、山の方に拝殿があるわけではなく、左の方、つまり、東門側にあるのです。え? そっち向いて拝むの?と思いました。でも、ご神体は御山なのだそうです。諏訪様が降りたという硯石がちょうど山側にありますし、門がちょうどよく設えてあります。社殿(宝物殿)も山側。いろいろな思惑が交錯して、このような造りになったのだろうと伺わせます。本当に違和感ありますよ。拝殿側を拝めば良いのか。

諏訪大社発行のしおりを見ると昔は廊下から拝んでいたそうな…。

あと、神体山(御山)は守屋山のことを言い換えているのかなと思いましたが、家に帰って調べてみると守屋山ではないのかも?という雰囲気。しおりを読み返すと御山と守屋山は使い分けておりました。

あと近くにお寺があるのですが、どうやら昔は一緒にくっついていたようですね。これは博物館に行って知りました。もっと大きな規模で神宮寺を形成していたらしいです。前宮があるところから本宮があるところまで一帯だそうですよ。ちなみに御山と守屋山は両方とも神宮寺山とされていたので、両方とも特別な山であった可能性はあります。また、上社と下社は別々の神社ということもすこしわかりました。なぞは少し融解した気分です。

守屋山を語る場合、守屋山に鎮守する物部守屋神社がどのような位置にあったのかによると思われます。モレアさま、つまり洩矢神を信仰していたかもしれませんが、下諏訪と上諏訪の神社が異なるように、物部守屋神社も異なる神社の系譜になってしまったのではないでしょうか。



諏訪大社 上社本前宮


ここも本殿が無い神社だそうです。拝殿だけ。

元々の聖地だという書き方をされています。また、現人神である大祝の一族が住んでいた場所でもあるようで(腰を据えたから聖地という表現がいいのかは迷いどころですね)、ここら一帯が神原とされていました。ということで、神事を行う場所などはあるのですが、本殿というものはなかったみたいです。とりあえず、拝殿はあるので行って見ました。鳥居を潜ったのに民家があったりと謎な行程ですが、拝殿は御柱に囲まれ立派。建物は伊勢神宮のものだったそうで、古さと荘厳さを兼ね備えていました(しかし、諏訪さまに伊勢さまかよ!と思ったのは私だけではないはず。やはり人間と同じように神も時代で変わるのでしょう)。

でも、御柱はなにを囲っているわけでしょうか。実は拝殿だけでいいのかしら?と思いました。本宮も前宮も本質的な意味でご神霊を囲っていないのです。つまり、信仰している我々を囲っていると表現したほうがいいような気がするのです。下諏訪方面の神社から考えると異常な感じがします。もしくは御柱的にはどちらが源流なのでしょうか。私には、上社の御柱はとってつけたような気がするのです。だって、上社御射山神社もなかったしね。現人神でいるための鹿とか篭るとかの神事はこちらが「ぽい」なあとは思います。

 さて、私。鎌倉道という看板が非常に気になりまして、歩いて見ました。しかも、普通は本宮と繋がっているだろう方面へ行くのでしょうが、逆方向に行きました。今回は七石も七木も見るつもりは無かったので、別方向がいいなと思ったのです。
で、歩いてみると、最初は古墳があったりして応と思いましたが、次第に明らかな獣道となっていきます。年に100人も満たないような感じです。どんどん歩いていくと戦後かそのすこし後まで畑だったんだろうな場所を横目に見ることができます。神を養う畑だったのでしょう。途中、水眼の源へいく道を横目にみて、さらに奥へ進むと、いぼ石というのがぽつんとありました。諏訪様の御子であり、いぼ神である出早雄命に縁があるのでしょうか。気になります。さらに進むと、妙な社群にあたります。小海神社、小池神社とあります。名無しの社もありました。とくに名無しは、崖側に向いており、上ってくることはできないような位置にあります。誰かがちゃんと整えている雰囲気はありましたから氏子さんがしっかり手入れしているのだと思います。ただ、小池さまは石柱があり、ミシャクジ信仰になんらかの縁があるのだろうと思わせました。勘違いでしたら申し訳ないです。しかし、ネットを調べても一切でてこない。完全に地元の氏神さまには違いないでしょうね。そして、気になる御柱は全てに建てられていました。

(ちなみに前宮は八坂刀売命の御神稜があるらしいです。気づかなかった! そして、まわりにもいっぱいお墓があるのですよね。2時間ほど散策して確かにお墓が多いなあとは思いました。でも、とても重要な場所なのだということには気づけてよかったと思います。)


神長官守矢資料館


やはり、守矢家のことは気になると思いまして、博物館とあわせて行ってきました。

 そこには守矢家について解説されていたのです。

「今から千五・六や九年の昔、大和朝廷の力が諏訪の地におよぶ以前からいた土着部族の族長で洩矢神とよばれた。現在の守屋山を神の山としていた。しかし出雲もより侵攻した建御名方命に天竜川の戦に破れ、建御名方命を諏訪明神として祭り、自らは筆頭神官つまり神長(じんちょう)となった。中央勢力にやぶれたものの祭祀の実権を握り、守屋山に座します神の声を聞いたり、山から神をおろしたりする力は守矢氏のみが明治維新の時まで持ち続けた」

とある。どこのサイトでも考察されているようなので、私からの意見はとくに記しません。知らなかった人はなるほどと思ってくれれば良いかな。

で、気になるのはこの守矢家においてミシャグジさまが祀られている点。しかも総社となっている。源流と総社が一致するわけではないだろうが、ミシャグジさまを統べてきた洩矢神の後継であるならば、総社という主張は当然のものであろう。ただし、忘れてはならないのは洩矢神の系譜は諏訪様と混血し、直系が途絶えたことである(だから守矢という名に変わったらしい)。第3代までは直系だったらしく、それが千鹿頭神だそうだ。実際に千鹿頭神社もいくつか存在する。いくつかの千鹿頭神には御柱が建っていないことから、洩矢系列は御柱を用いないのかと思ったが、どうやら千鹿頭神は諏訪から追い出されたようなので、その理由からだろうと思われる。それならしっくりくる。とすると、洩矢神社の御柱の無い社は千鹿頭神と考えることはできないだろうか? 3代目の千鹿頭神は洩矢姓であるから納得いくのだが…。

資料館の館長ともお話ができた。その中でひとつ情報を得た。上社というのはもともと別の場所にあったらしく、古くは本宮と前宮の間のところにあったようなのだ。おそらく七石を追っている人は目にするだろう、小袋石のあたりである。そこの周辺に今は失われた神事屋や舞台などもあったらしい。実際に行ってみると、草木が覆い茂るところであった。いまは社と石が残るだけだった。

帰ってからGoogle Mapで調べていたら、興味深いことに出会った。大社四宮と洩矢神社など、おおかたの七石が海抜770メートル以上にあるのだ。湖との兼ね合いだろうか?それともなにかの理由があるのだろうか。不思議だ。

いろいろ憶測はでてくるが、小袋石や硯石は間違いなく別格ではなかろうか。信仰そのものであったと思う。


御柱のなぞ






いろいろな神社を回ってみて気になったのですが、どんな小さな社でも御柱がある場合があるのです。たとえば、この十五社では数多くある末社でも御柱があります。でも、ひとつだけ御柱が無い社がありました。熊野神社でも、御柱がある社と無い社があります。これはどういう住み分けがされているのでしょうか。私がひどく気になった問題です。どうにも解せないではありませんか。全てに建てればいいじゃないか!とさえ思います。



1、御柱は結界

 古事記などでは、出雲から逃げ落ちた諏訪様が自ら諏訪を出ないことを約束した証に御柱を建てたことになっています。
 この場合、土着神は出雲への証は必要ないので御柱は不要です。しかし、戦に破れたため諏訪様にあわせた格好を取るのは不都合ありません。支配下に入ったことをあらわすことができます。
 そうすると困ったことがおきます。結界を必要としない出雲の神々もいるわけです。つまり、逃げてきた諏訪様とは異なる別の出雲系や天津神たちです。信仰により呼び寄せられた彼らに結界の義務は不要です。実に大社における末社では御柱がありません。あくまでも諏訪様と八坂刀売命とその子供たちのはずです。でも、多くの神社で御柱が立ち並んでいます。神社とは言えない様な馬頭観世音という神社?の石仏すら御柱があるのです。(ひとつずらされてますが)



2、土着の風習

 この問題を解決するには、元々土着側の風習だったと考えるのが良いかもしれません。御柱祭や他の祭事は元々土着信仰から来ているといわれており、土着の風習には違いないですが、自分たちの意を通すために御柱が使われた可能性もあります。この場合、諏訪様も郷に入ったら郷に従え、というようにさせたと考えることができます。しかし、大社の管理が届くところでは、末社に御柱はありません。



3、覇権争い

 諏訪様の血を汲む上社と下社の大祝、彼らに従う神官武力、そして土着の神々を守る豪族たちと諏訪様を祭り利用した近隣の武将たち。それらの信仰の戦いがあったというのは間違いなさそうです。上社と下社の大祝どうしで血生臭い戦をしたという経緯もあるぐらいですから、御柱の裏にあるなんらかの主張があるように思えてなりません。また、下社御射山神社は御柱があるが、上社御射山神社ではない。というのも気になります。宮司が派遣されるようになってからの大社の位置づけはどこにあるのでしょう。



 理由はどうあろうとも御柱の位置づけは面白いものです。ミシャグジさまには本来不要という説と、必要という説もあり、私にはまとめることはできませんでした。ここで、洩矢神社のあの社が気になるのです。御柱が無かったので。

 大祝と神長官が執り行ってきた数多くの神事も興味深いのですが、いろいろ資料を集めないといけなそうなので見送ります。ここまでお付き合いいただきましてありがとうございます。 東方に当てはめて考えることはなるべく排除しましたが、ひとつだけ。神奈子と諏訪子、彼女らの血を受け継いでいる早苗さん。彼らは幻想に入ってまさに一家となったのでした。

 小さい社だけ無い(十五社神社)

 鳥居と石仏に御柱。ただし、ひとつ移動させられている。

 秋葉様の石燈すら御柱がある。

 御柱が無い社(熊野神社)

 スサノオすら封じ込める御柱(君津神社)

 御柱がある蚕玉神

 御柱が無い蚕玉神(乙事諏訪神社)



当旅行記は憶測と予断によって成り立っている部分があります。ご自身の判断により情報をご確認くださいますようお願いいたします。。