「ハンセン病首都圏市民の会」年末恒例!
リレー・トーク&望年会
 12月11日多磨全生園の福祉会館で、年末恒例の「リレートーク&望年会」が開かれました。ハンセン病支援学生グループ「チャオ」や、国立の自立支援グループ「ワンステップかたつむり」なども加わり、参加者は約70人でした。
 開会では、ハンセン病首都圏市民の会の鈴木禎一代表、佐川修・多磨全生園自治会長、また閉会では、久しぶりに元気な姿を見せた柴田良平さんから、あいさつがありました。
リレートークは二部に分かれ、前半が「ハンセン病国賠裁判勝訴から10年」、後半が「東日本大震災」でした。後半は震災発生以来現地でボランティア活動を続ける、加藤拓馬さんと酒井義一さんの報告がありました。
望年会には約半数が残り、豚汁、持ち寄りの一品、お酒を楽しみました。

リレー・トーク
 テーマ1
「国賠訴訟勝訴から10年――わたしたちが築いたもの,これからの課題」
神美知宏(こう・みちひろ)さん/全国ハンセン病療養所入所者協議会会長
 国立ハンセン病資料館で開かれている展示会「たたかいつづけたから、今があるー全療協60年の歩みー」でも見られるように、我々は60年以上も人権回復のための闘いを続けてきました。しかし、以前の運動はかならずしも市民の理解や支援に結びつきませんでした。闘争が隔離の壁の中にあったと言えます。ハンセン病国賠訴訟の勝利、控訴断念、ハンセン病基本法制定のための署名運動などを通して、運動が広がりを見せました。今後は保育所や、療養所の老人医療の蓄積を生かした福祉施設の誘致などを実現し、療養所を医療機関として地域に残すことを考えたい。
しかし、実情は厳しく、徘徊する入所者に睡眠薬を多量に飲ませ、部屋に閉じ込めたという実例も聞いています。市民の支援がますます必要になっています。

森元美代治(もりもと・みよじ)さん/IDEAジャパン理事長
 世界にはまだ22万人の新しいハンセン病患者がいて、インド、ブラジルやインドネシアなどアジア諸国、アフリカのコンゴ、エチオピアなどに多くみられます。IDEAジャパンは、集めた会費や寄付金でこれらの国々の人たちに資金援助しています。その中の一つフィリピンのクリオン島は、ハンセン病の患者を島に収容したため、「死の島」と言われたところです。現在は168名の回復者を含む2万人が住んでおり、島々の医療の中心になっています。日本の療養所も地域医療の中心になるよう、我々も働きかけてゆきましょう。

 テーマ2
「ハンセン病問題の学びから東日本大震災の支援活動へ」

加藤拓馬(かとう・たくま)さん/宮城県気仙沼市にある、FIWC唐桑キャンプ現地駐在員。ハンセン病患者・回復者を支援する学生グループ「チャオ」の元代表。4月に新卒で入社した会社を、現在休職中
 学生時代に「チャオ」のメンバーとして、中国のハンセン病の村に住み込み、仲間と道路の舗装や家の修理などワークキャンプをしました。この経験を生かし何かやりたいと考えていたとき、3.11東日本大震災があり、唐桑に行くことにしました。唐桑はハンセン病回復者で、国立ハンセン病療養所長島愛生園から社会復帰し、社会福祉法人「洗心会」を設立した鈴木重雄(園名田中文雄)さんの故郷です。FIWCと鈴木さんとの交流は長く、それが唐桑に行くきっかけでした。これからもハンセン病の村で学んだ事を、被災地で生かしてゆきたいと考えます。

酒井義一(さかい・よしかず)さん/首都圏市民の会・真宗大谷派ボランティア東京チーフ
「原発は安全」と押し進めた原子力行政とそれを信じた、あるいはそれを見過ごし、結果的に肯定した私たちーハンセン病と同じ構造です。原発あるいはハンセン病と向き合ってこなかった責任が、我々にもあります。これは次の3つの壁に象徴されます。
 一つは偏見による悪意の壁。福島の子どもたちが避難先で、放射能をうつすという風評被害を受けました。二つ目は無関心の壁。被害を受けた一人一人に関心を持たず、被災者としてカテゴリー化して見る。3つ目は善意の壁。上から目線で「可哀想な人たち」に慈善を施そうとすることです。これらのことはハンセン病の問題に共通しています。3つの壁を認識しながら、この壁を乗り越えてゆきましょう。
          ハンセン病首都圏市民の会   八重樫信之

「ハンセン病首都圏市民の会」事務局
担当:黒坂愛衣(くろさか・あい) oae2000@hotmail.com

秋季企画展 たたかいつづけたたから、今がある
 −全療協60年のあゆみー
連続講演会「わたしの運動の記憶」
企画展で展示している100枚の写真の中から10枚を選び、全療協運動60年の折々のエピソードをお話いただきます。
事前申込不要(先着150人まで)

日にちと講演者
 11月12日(土) 神 美知宏・全療協会長
 11月19日(土) 平沢 保治・前多磨支部長
 11月26日(土) 佐川 修・多摩支部長
 12月3日(土) 鈴木 禎一 ・元全患協事務局長
 時間は13:00〜15:00
 場所は国立ハンセン病資料館1階映像ホール  

問い合わせ 国立ハンセン病資料館 
〒189-0002東京都東村山市青葉町4-1-13
電話 042-396-2909

座談会「ハンセン病回復者と話しませんか」

11年11月5日(土)13:00〜16:00申込、会費不要
紅葉の園内散策

ハンセン病資料館1階研修室
これまでの報告

 10月1日(土)写真と人権
写真展「輝いて生きる ハンセン病国賠訴訟判決から10年」開催と共に考える人権の意味
 11月5日(土)紅葉の園内散策
「全生園の四季」鑑賞後、小グループに分かれて解説付き散策
 12月3日(土)退所者の老後に立ち塞がる偏見と孤独  
交通
西武池袋線清瀬駅南口→ハンセン病資料館前
(西武バス久米川駅行き)
西武新宿線久米川駅南口→全生園前
(西武バス清瀬駅、新秋津駅、所沢駅行き)
JR武蔵野線新秋津駅→全生園前
(西武バス久米川駅行き)

11年10月01日 座談会「写真と人権」
 
10月の座談会は、国立ハンセン病資料館のロビーで開かれた八重樫信之さんの写真展「輝いて生きる ハンセン病国賠訴訟判決から10年」に合わせ、人権について話し合いました。当日は、退所者が5名、入所者1名、高校生が6名参加するなど、25名程度の方が参加しました。以下は、当日の簡単なメモです。

<はじめに>
 八重樫さんはフォトジャーナリストとして、1996(平成8)年「らい予防法」が廃止された頃から国立ハンセン病療養所多磨全生園に通い始め、その後も、人権侵害を広く社会に伝えることを目的として、ハンセン病と関わってきました。八重樫さんには、写真の解説と合わせて、通い始めた1996年頃からの変化、そして2001(平成13)年ハンセン病国家賠償請求訴訟(以下、国賠訴訟)での勝訴と和解からの10年の変化について話してもらいました。八重樫さんの話の後には、当事者から、この10年間について発言がありました。

<八重樫さんが見た15年間・裁判が終わってからの10年間>
・ 全生園に通い始めた1996年は、園内でカメラを提げているとピリピリした雰囲気があった。入所者の人も、こちらが歩いてくるのを見かけると竹垣に隠れたりする人がいた。国賠訴訟が始まると徐々に名前を出す人がでてきたので、撮らせてくれる人を探して、どういう目的でどういう風に撮りたいか、どうやって使うかなど、やりとりをしながら写真を撮っていった。
・ 国賠訴訟は被害が公になった点では良かったが、まだまだハンセン病について知らない人が多い。(国賠訴訟が終わって)この10年間は、当事者の人たちが人間としての喜びを感じることが多くなった10年だったのではないか。その意味で輝いた10年間だったと思う。

<当事者たちの10年間>
◆退所者森元美代治さんの話
・ 現在、療養所を退所して暮らしている森元さんは、実名で1996年に本を出版し(藤田真一編、1996『証言・日本人の過ち』人間と歴史社)、その後故郷の鹿児島県名瀬市で講演に至るまでの話をしてくれた。本の出版、地元での講演、国賠訴訟に原告として参加すること、その都度兄弟や親戚からの反対があった。しかし、森元さんは「私が人生を生き直すことができたのは、多くの支援者のおかげです。みなさんのおかげでここまでこれました」と話した。

◆退所者Aさんの話
・ Aさんは、国賠訴訟当時の他の退所者の様子と、またこれからについて話をしてくれた。「(カミングアウトした)森元さんの話は大変参考になります。しかし、退所者の中でも裁判など(顔や名前を出して積極的)に携わったのは少なかった。それは、家族や親戚にどう見られるかということがあった。ただ偉大な先輩たちがいて、自分の身を切ってやってきてくれた人たちがいるので、これから自分たちも思いを引き継いでやっていきたいなとそう思っています。」

◆退所者Bさんの話
・ 国賠訴訟以前に退所し、長らく生活してきたBさんは、訴訟が終わって良かった事として、「退所者同士が繋がれたこと。それが生活の支えにもなった」ことを挙げる。しかし一方で、国倍訴訟が終わったと言っても、「 (ハンセン病を隠して)ずっと働いてきたから今更言い出すことは出来なかったんですね」と、今現在もハンセン病であったことを公にしない人たちがいることを話してくれた。

◆退所者Cさんの話
・ Cさんも国賠訴訟以前に退所し、現在は座談会に参加したり取材を受けたこともあったが、その際は顔や名前を公にしない。また現在住んでいる場所では療養所にいたことを知られないようにしている。その理由を、次のように話してくれた。「顔や名前がわかるのは嫌なんです。一番考えるのは、肉親のことです。自分が写ったのは見られたくないという思いです。何しろ怖いんです。住んでいるところでは言っていませんし、家内の仕事場が家の近くなんです。もしそれでばれたときになんて噂されるのか、どんなこと言われるのかと思うと怖いんです。」

<参加者からの発話>
◆現在、被災地からハンセン病療養所への受け入れを働きかけている人からは、次のような話があった。
・ 「ハンセン病の構造と似ていると気がする。福島だからということで車の給油が拒否されたり。これから先も『福島』ということを言えなくなるのではないか。療養所が被災者受け入れを示しているからそれの橋渡しができればと思って行ったり来たりしている」。

◆毎回座談会に参加している女性からは、氏名や顔などを公にすることについて、ハンセン病だけではなく他の例とも合わせながら、次のように考えたことを述べられた。
・ 「顔を出せる/出せないって話ですけどね、私はどっちのこともわかるなぁって思うんですよ。ユニークフェイスを持っている人はマスコミに勝手にモザイクをかけられて『差別だ!』と言って怒った。(…)当事者じゃない人が勝手に、言う(べき)/言わない(べき)とか、顔を出す(べき)/出さない(べき)ということは決められないと思うんです」

<おわりに>
当日の報告や議論からは、国賠訴訟によってハンセン病問題が認知されるようになっても、当事者の方にとっては、ハンセン病療養所にいたということが公になることは、家族や親戚が差別や偏見に直面し生活が壊れてしまう可能性があることとして存在しているということが、感じられました。
中央大学大学院 荻野浩


11年9月4日   座談会「断種・中絶」
 当日は総勢20名近くの参加があり、ハンセン病療養所多磨全生園の入所者は2名、退所者は1名でした。以下は、座談会の内容についてのメモです。

<ハンセン病・多磨全生園における断種・中絶>
[年表]
1915(大正4)年:初めての断種手術が第一区府県立全生病院(現、多磨全生園)で行われる。その後、全生病院では法的根拠もないまま1938年(昭和16年)まで計346人に断種手術が施されたことが明らかになっている(『倶会一処』)。
1940(昭和15)年:「国民優性法」成立。断種・堕胎手術は遺伝病だけに限り、ハンセン病は同法の対象から外れる。しかし、断種・堕胎手術は続けられる。
1948(昭和23)年:「優生保護法」成立。ハンセン病が対象として明記され、ハンセン病患者に対する断種手術がこの時点で合法化される。
1996(平成8)年:「らい予防法の廃止に関する法律」の制定に伴い、優生保護法が改正され、同法からハンセン病が削除される。
2005(平成17)年:ハンセン病問題に関する検証会議による調査報告によって、療養所に胎児標本があることが明らかになる。
[概要]
現在の多磨全生園が第一区府県立全生病院として開院した当時から数年、男女の付き合いについては、逃走など園にとってみればトラブルが多く発生したことから、園の職員によって厳しく禁止・監視されていた。園内では男女比が3:1と男性入所者が多かったために、男性は女性と付き合うために、よく働き女性から認められようとした。園はそれを利用し、入所者間の結婚を認めることで、男性入所者が結婚するためにより働こうとする意欲を増そうとし、またそのことによって療養所からの逃走を減らす・療養所生活を落ち着かせようとした。しかし、結婚するためには、夫となる人の断種が条件であり、妊娠した場合には強制的に堕胎手術が行われた。(多磨全生園自治会『倶会一処』)
ハンセン病患者の断種も堕胎も、医学的な根拠も目的もないままに、戦前の違法状態から始まり戦後も合法化されて続けられてきた。

<退所者Aさんの話>
断種はいつまでやっていたかわかりません。私は退所者です。退所者の会に参加していますが、(会員の)半数の人は子どもを持っていません。ほとんど話さないんですよ。話が出来ないんです。自分から話すということはないんです。
私はやりました。断種手術を受けました。家内も、全生園を退所したんですが、外で知り合いました。結婚が決まって、子どもが出来たときのことを考えた時、自分の体調や再発のことを考えて手術をしました。再発することが怖くて(手術を)受けることを決めました。私は2回再入所しているのですけどその経験もあって、家内もだいぶ病気で苦しんだことがあって、それで当時住んでいた場所から、全生園に(手術を)受けに行きました。
昭和47年(1972年)に、全生園で手術を受けました。術後に、手術室の前に廊下があって長い椅子があったんですけど、医者が少し休んでいけというので横になったんですけど、ものすごくさびしかった。将来子どもが持てないということが決まって…自分で決めていたんですけど、やっぱりものすごくさびしかったです。
私たち夫婦の間では「たら」「れば」はしない(話さない)んですよ。ですが、一度だけ女房に泣かれたことがあります。妻は5人姉妹で、姉妹が結婚して出産するたびにお祝いを贈るんです。妹が出産した時に一度だけ、(妻が)「私にだけは子どもがいない」と泣きました。子どもを持たないことは決めていましたけど、その時はつらかったです。
退所者のきょうだいの中で妹だけが子どもを持ち、弟たちは子どもを持ちませんでした。私たちは子どもを育てる楽しみは知らないですが、今親兄弟が寄ってきてくれてそういう所に楽しみを感じています。

<入所者Bさんの話>
断種手術の当日、この辺りから(手振りでお腹のあたりを指しながら)剃刀で剃るんだけどジョリジョリジョリジョリと。その音が今でも耳に残っている。(その経験は)悔しいよ。人間の屈辱ですよ。多くの人がやられた…みんな死んじゃったけど…。

<参加者からの話と会話>
・ 一人の参加者の方が、入所者から聞いた話。
全生園入所者で、堕胎させられて目の前で胎児を殺された方は、堕胎後全生園内の永代神社にお百度参りを「許してくれて」という思いで行った。
・ 入所者の方と初めて座談会に来られた方との会話。
参加者「これまで知らなかった。私たちの世代が話を聞ける最後の世代だと思う。ちゃんと知って伝えていかないといけないと思った。」
入所者「子どもがいらっしゃいますか?一人の子どもにどれだけの尊厳があるのかということを伝えていって欲しい。私たちはそういうこと(子どもを作ること)が出来なかったから、子どもに教育していって欲しい。」


フォトルポルタージュ 輝いて生きる
        ーハンセン病国賠訴訟判決から10年ー
鈴木禎一さん/'01年首相官邸前
'10年夏 多磨全生園
 ハンセン病国賠訴訟の熊本判決から10年目を迎えました。らい予防法が生んだ100年に及ぶ偏見と差別の時代の中で、この10年は、回復者にとってどんな時間だったのでしょうか?また、自分にとっては?何が変わり、何が変わらなかったかについて考えてみました。
同名のフォトルポルタージュ
八重樫信之著 モノクロ A5版 定価2000円+税 
合同出版刊(電話:03-3294-3506)


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