2003晩秋「各駅停車みちのく文学散歩ひとり旅」 |
( 目 次 ) | |||
| 11月18日(火) | (プロローグ) | ||
| 11月19日(水) | (弘前から五所川原、金木町) | (最初の目的地「斜陽館」) | (芦野公園を歩く) |
| (五所川原から青森市へ) | |||
| 11月20日(木) | (青森市街の散歩) | ||
| 11月21日(金) | (青森県から岩手県へ) | (渋民駅から石川啄木記念館) | (石川啄木記念館) |
| (盛岡城址のある岩手公園) | (啄木・賢治青春館) | ||
| 11月22日(土) | (定期観光バス乗車) | (新渡戸記念館) | (宮沢賢治記念館) |
| (イーハトーブ号からポラン号) | (宮沢賢治詩碑と桜地人館) | (高村山荘・高村記念館) | |
| (高村山荘の話) | (高村光太郎の苦悩) | (岩手県から秋田県へ) | |
| (秋田駅にて) | (エピローグ) | ||
| 2003年11月18日(火) |
| (プロローグ)
JR氷見駅20時43分発の列車に乗車。富山駅までは、毎日通勤している路線なのですが、尊敬する天才文人達を訪ねる旅の始まりなので気分は高まる。富山駅から寝台特急日本海1号に乗り換える。 前回の「みちのく秘湯旅」でも寝台特急で秋田まで行ったが、「寝台列車が好き」という訳ではなく、観光時間を少しでも多くしたいためです。要するに今回は「♪眠っている間に青森へ♪」となる訳です。 |
| 2003年11月19日(水) |
| (弘前から五所川原、金木町)
8時を少し過ぎたあたりで弘前駅に到着、外は思ったより寒くない。気温は富山と変わらない感じで、天気も雲は多いが晴れている。 駅前付近で朝食をすませ、JR五能線 9時25分発五所川原行各駅停車に乗る。しばらくして、津軽富士と呼ばれる岩木山が見えてくる。頂上付近は、雲に隠れていて一寸残念だが、それでもなかなか良い眺めだ。 川部駅を過ぎたあたりから右も左もりんご畑が続く、続く、続く・・・さすがにりんごの国である。五所川原駅で降車し津軽鉄道に乗り換える。このあたりから天気が崩れ、小雨がぱらついてきた。 津軽鉄道の始発駅である津軽五所川原駅舎にはいると「ストーブ列車が走っています」と書いたポスターが目に入った。 残念ながら、私が乗ったのは、ストーブ列車ではありませんでしたが、途中の駅で、車両の屋根にT型の煙突の付いた列車とすれ違ったので「これがストーブ列車か」と納得した。 金木町駅に着くと、外は土砂降りの雨。止みそうもないので、折りたたみ傘を出して、太宰治が生まれ育った「斜陽館」へと向かう。吉幾三の故郷でもある金木町、街並みを歩いた感じは、小さな観光地といったところである。 金木町駅から歩くこと7〜8分で「斜陽館」に着いた。 建物の中に入ると、広く長い土間があり、手前に家の説明書きと見取り図が掲示されている。 明治40年に大地主であった太宰治の父が、大変なお金をかけて建てた、木造二階建(1階11室 154坪、2階8室 100坪)の立派な建物である。 戦後人手にわたり、太宰の代表作「斜陽」から名付けた旅館「斜陽館」として、昭和25年から平成8年まで営業されていた。平成8年3月に町が買取り、現在に至っているとのこと。 見学順路に従い、奥の離れにある2階建ての展示室へ入る。たくさんの写真、本、物品等があったが、私が気にいった毛筆書「叔母の言う」を紹介します。 「お前は きりょうが悪いのだから 愛嬌ぐらいはよくしなさい 太宰の母は体が弱かったので、幼少期は叔母の「きえ」と女中の「たけ」に育てられたのだそうだ。ちなみに、太宰治の若い頃の写真を見るとなかなかのハンサムボーイなので「きりょうが悪い」は?である。 本館の1階で目を引いたのは、金融室と称するカウンターで仕切られた部屋で、金融業も営む大変なお金持ちだったようだ。 2階には「斜陽」の文字が書かれた襖のある和室と、大きくて立派な洋間が目に付いた。 太宰は、文学では天才的な才能を発揮した反面、私生活では20才の時の単独自殺未遂を初めとして、未亡人との心中で亡くなる39才までの間に、単独2回、心中3回の計5回も自殺を図っている。 極端な例として21才の時に企てた最初の心中がある。前月に他の女性と婚約したばかりなのに、知り合って間もない19才の人妻とカルチモン(睡眠薬の一種)自殺を図り、女性だけが亡くなってしまう。 一命をとりとめた太宰は、その翌月に婚約者の女性と温泉で仮祝言をあげ、その後同棲生活を始めている。詳しい事情は解らないが、結果だけをみると神経を疑いたくなる。(太宰は、境界型人格障害だったのではないかと言う医者もいる) 今となっては確かめる術はないが、自殺未遂は「本当に死ぬつもりだったのか」という点では疑問を残している。それにしても、太宰と本気で心中しようとした女性が3人(うち2人死亡)もいた、というのは驚きである。 太宰治の本名は、津島修治です。後日談ですが、最年少で芥川賞に輝いた綿矢りさが、「綿矢は同級生からもらった名前です」と語っていると聞いたとき、「太宰は同級生からとった」とする有力な説(諸説あり定かでない)があることを思い出した。 ちなみに、綿矢は太宰の小説のファンだということなので、その説を知っていて、太宰にあやかったのかもしれません。 部屋と資料を一通り見終わった後、休憩室で、太宰治を紹介する約10分ほどのビデオを見て斜陽館を後にした。 「斜陽館」を出ると曇り空ではあるが、雨は止んでいた。これから先は、ずっと外を歩くことになるので、このまま雨が上がることを祈りつつ、太宰治が小さい頃によく遊んだという芦野公園へと向かう。 方向が合っているのかどうか解らないまま、15分ほど一生懸命歩いた。「賽の河原」と書いた道標があったので、矢印のとおりしばらく進むと、湖が見えてきた。 賽の河原とは、湖が満水になると歩道が水没して、通れなくなる道の名称であった。今は水がないので、その賽の河原をさっさと通り過ぎ、公園の中心部に向かって、湖に沿って続く道をひたすらに歩いた。 途中で雉と遭遇、遊歩道から1mぐらい離れた草むらにいた。こんな近くで見るのは初めてである。寒いのか、目が合ったのに逃げようとしない。カメラを持っていたら撮りたいところだが、無かったので、驚かさないようにして通り過ぎることにした。 「賽の河原」から30分ほど歩いたところで、公園らしい風景が広がってくるとともに、やっと人影が見られた。 芦野公園は、面積約100haで、津軽鉄道「芦野公園駅」から「夢の浮橋」付近が公園の中心として整備されており、湖の周囲がアスファルトの遊歩道となっている。 しばらく歩くと、その「夢の浮橋」が見えてきた。浮橋の長さは200mぐらいで、湖を横断する形で架けられている。橋の途中に灯りがたくさんあり、夏の夜などは大変ムードがありそうだ。 浮橋を渡りきり、少し坂を登ったところに「桜松橋」がある。長さ100mほどの吊り橋で、頑丈な造りなので落ちる心配はないが、歩くとさすがに揺れた。 「撰ばれてあることの 恍惚と不安と 二つわれにあり」 と文字が刻まれている。この言葉は、太宰治が好んで口にしたヴェルレーヌの一節だと書いてある。碑の最上部には、金属製の不死鳥と炎の浮き彫りが冠されている。また、隣のもみじの紅葉がとても綺麗で、それが文学碑を際立たせている。 さらに遊歩道を歩くと、もう一つの名所「太宰橋」があった。この付近で、太宰の姿がよく見かけられたことから名付けられたという。「全長31.5m、幅1.4m、あすなろ材使用」と書いてある。斜陽館と同じ木を使っているところがしゃれている。 列車の発車時間が近づいてきたので、公園内にある動物園を素通りして、津軽鉄道「芦野公園駅」へと急いだ。 これが本州最北の11月中旬の気候か、と疑うほど暖かく穏やかで、斜陽館を出てからは、心配した雨に降られることもなく、再び津軽鉄道の列車に乗車できたのは幸いでした。 五所川原からJRに乗り換えて、宿泊地の青森市街へ向かう予定でしたが、駅の時刻表を見ると、「乗車予定の列車がない!」どうやら、インターネットの時刻表を見間違えたようだ。 JR五能線は、運行列車の本数が少なく、川部駅(乗り換え)での接続列車の待ち時間も長いので、次の列車だと青森駅に着くのが7時過ぎになる。 なんとか明るいうちにホテルに着きたいと思い、JR五所川原駅の向いにあるバスの案内所に入り、バスの時間を調べることにした。 うまい具合に、3時半発で青森市街に4時半に着くバスがあったので、これに乗車し、明るいうちに本日宿泊のホテル「アップルパレス青森」を見つけて、チェックインすることができた。 地図を見れば解るが、JRの五所川原、川部、青森駅はV字の路線になっている。バスは、Vの上の部分を通るので、停留所が多く信号や制限速度があっても、時間的に早いのです。 「めでたし、めでたし」と言うことで、本日は、ここまで。 |
| 2003年11月20日(木) |
| (青森市街の散歩)
「わたしは不思議でたまらない」 これは、私の好きな 「金子みすず」 の詩の一節です。 昨日に引き続き、青森は今日も不思議なくらいに暖かく、オーバーが邪魔でたまらない一日でした。 青森の人に聞いたら「ここ数日は異常気象です」と言われた。 朝日浴び すずろ歩きは 海の方 行きあたるなり 青い海公園 公園の 中に立派な ピラミッド それはアスパム 観光物産館 駅の方 海を眺めて 歩くうち 姿あらわす 黄色いお船 船の名は 八甲田丸と 申します 連絡船の 姿止めん 帰り道 ベイブリッジを 渡る中 眺める海は 素晴らしきかな 雄大な ベイブリッジは 斜張橋 氷見にもあるぞ 比美乃江大橋 最後は散歩と関係ありませんが、勢いで入れてみました。 「アスパム」は、青森県観光物産館で、外壁がガラス張り、形はピラミッド型の大きなビルです。私が散歩したときは、まだ入り口が開いていませんでした。開いていれば、最上階(14F)の回転展望レストランに行って景色を眺めたかった。 「八甲田丸」は、青函連絡船最後の乗客を運んだ船です。メモリアルシップとして青森駅の北側に置かれ、一般公開されています。遠くから八甲田丸を眺めたとき「かぐや姫」の歌「黄色い船」が思い浮かんだ(古いね)。 「ベイブリッジ」は全長1,219m、幅25m(比美乃江大橋は、全長112m、幅21m)で、斜張の柱が2つある大きな橋です。広い歩道は「ラブリッジ」と名付けられ、カップルの定番散歩道となっているとのこと。 今日は平日の朝ということもあって、カップルは見かけませんでしたが、夜は、時間帯によってグリーン、オレンジなど、ライトアップされるそうなので、カップルの散歩には最適なのでしょう。 本日は、文学散歩の旅が「お休み」なので、これにて失礼。 |
| 2003年11月21日(金) |
| (青森県から岩手県へ)
今朝も曇ってはいるが、そんなに寒くはなく、異常気象は続いているようである。 列車の中は、通勤時間帯であるため、会社員、高校生等が多く結構混んでいる。 天候は、曇り時々雨とあまりよくなく、車窓からの景色も薄暗い。 八戸駅で下車し「盛岡行」に乗り換える。ここから目時駅までは「青い森鉄道」、目時駅から盛岡駅までは「いわて銀河鉄道」とかっこいい名称がついている。 目時駅をすぎて、ほどなく青森県と岩手県の県境にさしかかった。 列車が、いわて銀河鉄道「渋民駅」に到着した。運良く雨は上がっている。 ふるさとの訛りなつかし が書かれている。(この短歌の停車場は、渋民駅ではなく上野駅です。念のため) 私も、啄木が利用していた好摩駅から「石川啄木記念館」へ行こうと思ったのですが、地図でみると、渋民駅から歩く倍ほどの距離があるのであきらめました。 渋民駅から坂を下りながら、7〜8分歩いて国道4号線に出る。国道を北に向かってしばらく歩くと、北上川に架かる「船田橋」があった。 かにかくに渋民村は恋しかり 曇っているので、残念ながら岩手山も姫神山も見えませんでしたが、これが啄木の「おもひでの川か・・・」とかみしめながら北上川を渡る。ここからさらに、国道沿いに20分ほど歩いて、「石川啄木記念館」にたどり着いた。 記念館窓口の職員の方が、親切に荷物とコートを事務室に預かってくれたので、手ぶらで見学することが出来ました。 館内には、啄木ゆかりの写真や物品が年譜とともに展示されている。 石川啄木は、明治19年岩手県日戸村にある曹洞宗常光寺の住職の長男として誕生し、満1才の時に父が渋民村宝徳寺の住職に変わったため、一家は渋民村へ転住した。 啄木は、学齢より1才早い5才で渋民尋常小学校へ入学し、同校を首席で卒業したといわれています。 そのかみの神童の名の (「そのかみ」は「昔・その当時」の雅語です。自分を神童とは啄木らしいところ。) さらに啄木は、盛岡高等小学校を経て、名門(後に大臣や文人となる先輩が在学)盛岡中学校を受験し、合格者128名中10番の好成績で入学しますが、最終学年である5年の半ばで退学してしまいます。 盛岡中学退学後、文学で身をたてるべく上京し、東京で暮らしますが、収入のない生活は長くは続かず、4ヶ月足らずで父に迎えられて帰郷します。 帰郷後、啄木は詩集「あこがれ」を発行するとともに、初恋の人との婚約・結婚を果たします。しかし、その一方で、父が宗費滞納により、曹洞宗から住職を罷免され、一家は生活基盤を失います。 (啄木の東京生活における借金の返済が影響した、との説があります)
はたらけど 啄木は、一家を養うために渋民尋常小学校の代用教員となります。 また、父の住職再任運動の挫折、檀家間の紛争による家出という、地域と家族との問題も重なり、啄木は渋民村を出ることを決意します。 そして、1年余りで代用教員を辞職し、函館にある同人文芸雑誌社「苜蓿社」(ぼくしゅくしゃ)を頼り、北海道へと向かいます。次の短歌は啄木の代表作ですが、函館の大森浜を歌ったものだそうです。 東海の小島の磯の白砂に 苜蓿社の人々は、詩集「あこがれ」で啄木の天分を認めていたため、暖かく迎えてくれ、同人の世話により、函館の弥生尋常小学校の代用教員として就職します。 さらに、その2ヶ月後には、函館日日新聞社の遊軍記者ともなり、文才を発揮して充実した日々を送るはずでした。 しかしながら、その一週間後、函館の大火により、苜蓿社、小学校及び新聞社は全焼し、啄木は代用教員の職も失ってしまいます。 函館のかの焼け跡を去りし夜の その後、北海道の地方新聞社を転々(札幌、小樽、釧路)としますが、文学の夢は捨てきれず、再び上京します。 上京した啄木は、精力的に小説を書き、いくつかの作品を発表しますが、本人の自信とはうらはらにさっぱり売れず、評価もされませんでした。 生活に窮した啄木は、生活の基盤を得るべく、東京朝日新聞社にいる同郷の編集長を頼って、校正係として就職します。 京橋の滝山町の 東京朝日新聞社に入社した啄木は、上司に短歌の才能を認められ、同社が新設した朝日歌壇の選者となります。 そして啄木24才の師走に、記念すべき第一歌集「一握の砂」を刊行します。 (第二歌集「悲しき玩具」は、亡くなった2ヶ月後に刊行されました。) 今日もまた胸に痛みあり 啄木は、天才であるがゆえに人間関係に無頓着で、生活基盤に対する執着も薄かったようです。 この記念館を見学して、改めて天才啄木の苦悩に満ちた生涯を認識しました。 私見ですが、啄木の歌集「一握の砂」は“泣き、なみだ、かなしみ“、「悲しき玩具」は”病“がキーワードになっていると思う。 記念館の隣の庭には、啄木が学び、後に教鞭をとった「渋民尋常小学校校舎」と、同校の代用教員時代に間借りしていた「斉藤家」が移設され、保存公開されている。それぞれを見学して、当時の生活・教育を偲んだ。 啄木記念館から渋民駅に戻り、再びいわて銀河鉄道「盛岡行」の列車に乗る。 盛岡駅から地下道を出て真っ直ぐ進み、「開運橋」を渡って少し歩いたところに、今晩の宿「ホテルパールシティ盛岡」がある。 岩手公園は、立体的で美しく、庭園や樹木もきれいで、とくに、もみじの紅葉が鮮やかでした。また、城跡の頂上にあずまやがあり、そこから眺める山並みが素晴らしいので、椅子に腰掛けて、しばらくボーっと眺めていた。 盛岡城址は、若き日の石川啄木・宮沢賢治が好んで時間を過ごした場所である。 盛岡城址にかかわる、啄木の短歌を紹介します。 教室の窓より逃げて 不来方のお城の草に寝ころびて 城跡の 啄木は、盛岡中学時代、授業中によく教室を抜けだしてこの城跡に来て、もの思いにふけっていたと言われている。 「不来方(こずかた)」とは、盛岡の旧地名であり、「盛岡城址」は、別名「不来方城址」とも呼ばれている。また、不来方という言葉の意味は未来です。 これを掛け合わせて考えると、啄木はここに寝ころんで、青く澄んだ空に、自分の将来の夢を描いていた、ということではないかと思う。 「禁制の木の実」とは、アダムとイブが神様の言いつけを破って口にした、甘酸っぱい果実。これを食べたことにより、二人は生まれて初めて性を意識するのです。 そう、それは初恋。 啄木はここの石垣に腰掛けて、初恋の人(後に妻となる堀合節子)への思いをつのらせていた、と言うことなのでしょう。 岩手公園から川をはさんだ隣に「啄木・賢治青春館」がある。 ここでは、啄木、賢治と盛岡との関わりをクローズアップし、両者が盛岡で暮らした青春時代を中心に紹介している。 建物は、明治時代に建築された、旧第九十銀行を改装したものです。道路に面して扉があるが、そこは出口で、入り口は、横の通路を入った奥にあった。 入場は無料で、入ると正面に喫茶店があり、その喫茶店と通路を仕切るようにして、啄木と賢治の写真に年譜の記された、両面のパネルが並べられている。 二人の写真を見比べると、啄木はいかにも秀才型、賢治は人なつっこい感じで、特に目が印象的です。 通路の右側には旧金庫室の扉があり、中は絵と光と音により、啄木と賢治を体験する部屋になっている。通路の奥には、啄木・賢治にかかわる盛岡ゆかりの資料の展示と、各種グッズが販売されていた。 私が思う啄木と賢治の共通点。 1 天才文人であること 二階へ上がると、企画展「ぼくらの青春時代展」が開催されていた。こちらは、入場料300円でしたが、面白そうなので見学することにした。入り口は、神社の参道になっており、ここを通ってタイムスリップ。 稲荷神社を拝んで会場に入ると、昔懐かしい駄菓子屋、玩具屋、貸本屋、レコード店、雑貨店が立ち並んでいた。子供の頃に見た、買った、遊んだ、懐かしい品物を飽きることなく見て回りました。 啄木・賢治とは関係のないイベントでしたが、ここにいる間は、子供の頃に帰ったようでした。 見学を終えると、外はもう薄暗くなっていた。この季節にしては、暖かいこともあり、人出が多く、富山より賑やかな感じです。盛岡の繁華街をぶらぶらして、ホテルへ戻った。 |
| 2003年11月22日(土) |
| (花巻から定期観光バス乗車)
今朝は寒く、歩く人の吐く息も白い。最終日にして、初めて晩秋のみちのくらしい気候である。ホテル出てオーバーコートの襟をたてながら盛岡駅へと向かった。 盛岡駅 8:22発JR東北本線各駅停車に乗り、花巻駅で下車。あいにく外は小雨がぱらついていたが、今日は、昨日までのように歩き回ることはないので、さほど気にならない。 しばらくすると、定期観光バス「イーハトーブ号」が来た。今日は土曜日なのだが、観光シーズンから外れているためか、大型バスにお客は、私と60代に見える夫婦の3人だけでした。 「イーハトーブ」とは、宮沢賢治が岩手のことを呼んだ言葉です。岩手は、旧仮名で「イハテ」それをエスペラント風にすると「イハト」さらに、語尾にドイツ語で「場所」を表す「ヴォ」を加えて「イハトヴォ」となり、これが訛ったのだそうです。 バスガイドさんはいませんでしたが、運転手さんが花巻市の紹介ビデオをはじめとして、移動中に、順次見学先のビデオを見せてくれました。 イーハトーブ号の最初の見学先は、熊野神社の「毘沙門堂」。お堂の中に入って、先ず目に付くのが、身の丈4.73mの毘沙門天です。驚いたことに、下に小さな女性がいて、その女性の手の上に乗っている。 そのほか、毘沙門天の左右に置かれる二鬼坐像や吉祥天など、たくさんの木彫りの仏像が並べられていた。 熊野神社は、稚児の泣き相撲が行われていることでも有名です。 記念館の職員の方が、館内の案内と展示品の解説をして下さいました。とても丁寧な説明で、かつ「新渡戸家及び新渡戸稲造の素晴らしさを一人でも多くの人に知ってもらいたい」と言う熱意が伝わってきました。 新渡戸家は、江戸時代、新田開発などの地域開発に大きく貢献しています。その業績を広く顕彰するために、この記念館を設置したのだそうです。常設展示場には、新渡戸家ゆかりの物品が数多く展示されていました。 新渡戸稲造は、祖先に大きな誇りを持ち、深く尊敬していた。その念が、稲造を不断の努力へと向かわせ、天才を引き出したのだという。 私のこれまでの稲造に対する認識は、五千円札の肖像になるときに、「世界平和に貢献した人」と聞いたことが記憶に残っている程度でした。 確かに、7年間にわたる国際連盟事務局次長時代の活躍をはじめ、外交面での実績は素晴らしいのですが、それだけではなく、教育者、農業技術者、ジャーナリストとしても、数多くの業績をあげました。 また、敬虔なキリスト教徒で、博愛・平和主義に満ち溢れた人格者であったとも言われています。 小さい頃から「太平洋の橋となりたい」という信念のもとに生きた稲造は、世界平和の実現に大切なのは「異なった国民相互の個人的な接触」だと言っています。 これは、コミュニケーションが大事ということで、国家、民族、宗教等が異なっても、世界中の人々が、同じ一人の人間として交流を深め、お互いを理解すれば、国際的な問題が起きても、自ずと公正で理性的な解決が図られるということだと思う。 稲造は、若いときにドイツとアメリカで生活し、アメリカ人の女性と結婚しています。そういう自らの経験から、身をもってそのことを実感したのでしょう。 また、日本人の心を世界の人々に理解してもらおうと、「武士道」という本を書いており、今でも世界中の人に読まれているという。 しかし、稲造の晩年 世界は列強国相互の疑惑と利己主義から、国際平和とはほど遠い状況になります。日本では軍部が満州事変をおこし、国内に軍国主義が浸透して行きました。 これを憂いた稲造は、軍閥批判を行います。これが、軍部や右翼の反発を買い、生命の危険にさらされるとともに、人々のこれまでの稲造に対する賞賛が、糾弾へと変わったのです。 稲造が大きな業績を残したにもかかわらず、それほど知られなかったのはこのためではないかと思う。
「橋は、決して一人では架けられない。 という言葉を残しています。 ここは大人気で、館内はかなり広いのですが、たくさんの見学者がいた。特に親子連れが多く、とても賑やかです。この人気の理由を考えてみた。 1 宮沢賢治の人気及び知名度が高い。 と言ったところでしょうか。 宮沢賢治の文学は、岩手の豊かな自然をモチーフに、豊富な科学知識と宗教観をもって、心の深層から四次元宇宙に広がるドリームワールドを創造しています。 私が選ぶ賢治のベスト作品は、「銀河鉄道の夜」です。この物語は本だけでなく、 この物語の主人公ジョバンニは、父親が行方不明で、かつ、母が病弱なために働きながら学校へ通う、けなげで心のやさしい少年です。 しかし、父親の悪い噂のために、同級生からはいじめられ、仕事場でも冷たい目でみられているため、孤独で内向的な生活をしていました。 そんなジョバンニが銀河祭の夜に、あこがれの親友カムパネルラと銀河鉄道列車に乗合わせ、一緒に旅することになります。 ジョバンニは、旅の途中にいろんな人と出会い、交流する中で、「みんなの本当の幸(さいわい)」について考えさせられます。 そして、旅の終わりに、カムパネルラに対し、どこまでも「みんなの本当の幸」を探しに行くことを誓い、一緒に行こうと誘いますが、いつのまにかカムパネルラはいなくなってしまいます。 カムパネルラは、同級生を助けるために、川に溺れて亡くなっていました。この銀河鉄道列車の旅は、カムパネルラを天上に送る旅だったのです。 遠い昔の記憶にある「木造車両の蒸気機関車」で、宇宙の星々を旅する。それだけでも、胸が熱くなります。子供中心の物語ですが、哲学や宗教的な要素が多く含まれているので、奥が深く、子供から大人まで楽しめると思う。 ちなみに、ジョバンニは「賢治」、カムパネルラは賢治の妹「トシ」がモデルだと言われています。ジョバンニが銀河鉄道の旅の最後に生きる目標とすることを誓った「みんなの本当の幸(さいわい)」は、賢治のめざした理想の社会だと思います。 トシは文学的才能に恵まれており、賢治の童話や詩の最大の理解者であり協力者でした。賢治はトシとともに「みんなの本当の幸(さいわい)」を追求して行きたかったに違いないと思いますが、トシは若くして結核で亡くなってしまいます。 賢治は、トシが亡くなってしばらくしてから、樺太鉄道で北に向かって感傷旅行をしています。銀河鉄道の夜は、この旅行を元に創作されたとのことです。24才で亡くなったトシの最後は、賢治の詩「永訣の朝」に悲しくも美しく詠われています。 賢治は、明治29年に花巻の質・古着商の長男として生まれ、盛岡高等農林学校(日本初の高等農林学校、現岩手大学農学部)を卒業した後、同校の高農研究生となって在学し、研究生修了時に助教授に推薦されますがこれを辞退します。 その後、家業を手伝いながら童話の創作と宗教活動に力を注ぎますが、宗教上の問題で父と衝突し、家族に黙って上京してしまいます。 上京した賢治は校正・筆耕の仕事に就き、宗教活動と童話の創作も続けますが、しばらくして、妹トシが病気との知らせを受けて帰郷します。 帰郷後、地元農学校の教諭となり、約4年半、大変ユニークな授業を行ったと言われています。生徒に対し卒業したら農民となるように奨めていた賢治は、自らも農民となることを決意し、農学校を依願退職します。 そして羅須地人協会を設立し、地域農家の青年達とともに、科学と芸術を活かした豊かな農村社会の実現を目指しました。 記念館の展示室には賢治の描いた絵画や音楽に関する展示物もあり、その多才さがうかがわれます。 午前中の見学を終え、昼食場所である「金婚亭」へ到着した。 もうすぐ金婚式と思われる夫婦(失礼)は、建物の中には入らず、ここでタクシーに乗り換えて何処かへ去って行った。 「金婚亭」は大きな土産物屋さんで、奥に食堂があり、ここで昼食をいただいた。 たくさんある土産物を見ているうちに、発車時間が来たので、イーハトーブ号に乗車。次の、終点新花巻駅まで、バスの中は運転手さんと私だけになりました。 新花巻駅に到着すると、運転手さんが 「午後のポラン号も同じこのバスですが、規則なので一旦降りて下さい。20分後に、またここに停車しますから、そのときに改めて乗車して下さい」 と言われたので、一旦バスを降りた。 新花巻駅は、新幹線の停車駅です。建物は、外壁がガラス張りで立派なのですが、周りには土産物屋が1軒あるだけの、寂しいところでした。 バス停に「ポラン号」が来たので、再び同じバスに乗車する。 「旅行クーポンに、この定期観光バス付きのものがあるので、運行期間中は、予約がなくてもここへ来て、発車時刻まで待っていなければならないんです」 と言う運転手さんの話を聞いているうちに、夫婦と子供二人のグループがやってきた。まさに、運転手さんの言う旅行クーポンのお客さんだった。 本日の当該定期観光バスの乗客は、イーハトーブ号2人、ポラン号4人と両方乗車した私の計7名でした。 ちなみに、「ポラン号」は、賢治の童話「ポランの広場」からとったものだと思われる。また、宮沢賢治記念館の側に賢治が設計した花壇があり、そこが「ポランの広場」と呼ばれている。 ポラン号が発車すると、まもなく「みぞれ」が降ってきた。 ポラン号は、先ず「賢治の生家」(普通の家ですが、ちょこっと洋風)を車窓見学し、「イギリス海岸」の近くを通り、ほどなく「宮沢賢治詩碑」、「桜地人館」に到着した。 この移動の間に、天気はみぞれから雪に変わる。運転手さんに「初雪ですか」と聞くと「初雪です」と答えてくれた。 小雪が舞う中、寒さに震えながら「宮沢賢治詩碑」を見学する。詩碑には、「雨ニモマケズ」の後半「野原ノ松ノ林ノ蔭ノ・・・」が刻まれている。 揮毫(きごう)したのは、かの高村光太郎であるが、後半部分のほうが好きだったのだろうか・・・。 この詩碑が建っている小さな公園のあずまやに、賢治が使用していた井戸の跡がある。この地は、賢治が設立した羅須地人協会の建物があった場所なので、「下の畑」での農作業のあと、この井戸水で手を洗ったり、喉を潤したりしたのでしょう。 来た道を戻り、「桜地人館」に入る。ここは比較的小さく、展示品の数もそれほど多くありませんが、宮沢賢治と高村光太郎の関係を示す展示物が並べられているのが特徴です。 また、萬鉄五郎(岩手県出身の画家)、船越安武(同彫刻家、高村光太郎賞受賞者)の作品等もありました。
特に印象に残った話 「宮沢賢治詩碑に刻まれている詩の一節に「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」とあるが、賢治のメモ帳には「ヒデリ」ではなく「ヒドリ」と書いてあるとのこと。 「ヒドリ」の意味については、「ヒデリと書くのを間違った」、「日銭を稼ぐ、日取りであろう」、「肥取りではないか」などの説があり、明らかではない。 詩碑が建設される以前から、世間に間違って伝えられたようである。」 いずれにしても、詩碑は記念碑だから本人が書いたものと同じであるべきだとは思う。宮沢賢治記念館に直筆のメモが展示されていたと思うが気が付かなかった。 (陰の声:「ヒドリ」だと、学校の先生が生徒に質問されたとき、答えに困るだろうな・・・) また、この職員の方は元教師で、教え子に宮沢家の子供がいたそうです。 「宮沢家の人は、とても温厚で良い人たちだった」 とも語られました。 賢治は、30才(昭和元年)の時に上京し、光太郎と会っています。その時は、あまり光太郎の記憶に残らなかったのか、その後の付き合いはありませんでした。 賢治の没後に、その才能に興味をもった光太郎は、宮沢賢治全集の出版に尽力するとともに、昭和11年に、先に見学した詩碑の建設発起人の一人となり、宮沢家との付き合いが始まります。 そして昭和20年、戦災にあった光太郎は、宮沢家に疎開します。 見学を終えて管理室を通ると、職員の方がおいしいリンゴをごちそうして下さいました。熱心な解説と親切な対応に感激した。 最後の見学地、高村山荘に到着した。雪で周囲の景色はよくわかりませんが、人里から離れたところにあるのは間違いありません。 バスの運転手さん自ら案内し、高村山荘の入り口の戸を開けてくれました。結構大きな建物だな、と思いながら中に入ると、窓ガラス越しに小屋があった。これが、高村光太郎が住んだ「高村山荘」だった。 外から見えるのは、この山荘を保護するために建てられた 「套屋」 と呼ばれる建物で、周りが通路になっている。 この通路から、ガラス越しに高村山荘を見学するのだ。 運転手さんが電気を付けてくれたので、通路を一回りする。小屋の入り口が開け放しになっているので、そこから、中の様子を見ることができた。 すきま風が吹きまくりそうな、狭いこの小屋に7年間も一人で生活するとは、驚異的な精神力である。 見学を終えると、運転手さんは、電気を消し戸締まりして、バスの方へ戻って行きました。どうもご苦労様でした。 私は案内板に従って歩き、高村山荘から少し離れた林の中にある、高村記念館へ入った。ここは大きな蔵といった感じの建物で、中には光太郎の山荘生活当時の装備品、手紙や書、智恵子の切り絵などが展示されていた。 展示品の中に、とても大きな長靴があった。光太郎は、身体も手足も大きく、特に靴は靴屋で通常に売られているものから、サイズの合うものを見つけるのは難しかったようだ。(アメリカ人からもらったという特大の革靴も展示されていた) この長靴は、ある靴屋の店先に宣伝用として置かれていたもので、たまたま目にした村人が店の人から譲ってもらい、それを光太郎の所に持ってきてくれたのだ。村人達に慕われていたことを証する一品である。 見学を終え、帰り際に記念館の職員の方と交わした会話です。 職員 「どちらからいらっしゃったんですか」 富山県の知名度の低さを再認識しました。寒さは岩手県にかないませんが、降雪量は富山県のほうが多いと思います。(自慢にはなりませんが・・・) 記念館を出てすぐ隣にある、わき水「智恵子の泉」を眺めながら、山道の階段を登った。階段を登りきったところから、吹雪きになってきた。 我慢してしばらく歩くと、光太郎が好んで散策したという「智恵子展望台」の立て札があったが、その先は真っ白で、なんにも見えません。ゆっくりの散歩はあきらめて、小走りで「民俗資料館」に駆け込んだ。 ここには、お祭り用と思われるたくさんの人形と、昔の農機具や生活器具などが展示されていた。 ここの遊歩道は、とても雰囲気がいいので、天気の良い日にゆっくりと散策すれば素敵だろうと思った。智恵子展望台からの眺めもきっと素晴らしいに違いない。 見学を終え、案内所に入って光太郎グッズを見ていたら、職員の方が、高村山荘の話をしてくれた。その内容は、次のとおりです。 「空襲で東京のアトリエを焼かれた光太郎は、昭和20年5月に宮沢賢治の弟を頼って、ここ岩手県大田村山口(花巻市)に疎開してきました。しかし、その後宮沢家も戦災にあったため、居を転々としたあと、しばらく山口小学校の宿直室で過ごします。 このときに光太郎は、村人たちとの交流を深めるのですが、村人の誰もが「戦争は終わったし、文芸の大先生だから、ほどなく東京へ帰るのだろう」と思っていました。ところが光太郎は、村人達に「ここに住みたい」と言ったのです。 そこで、鉱山の飯場小屋を移設し、村人の一人一人が木の一本一本を持ち寄って、この山荘が完成しました。 こうして、自らは 「地上のメトロポオル(中心)」 と思い、「山林孤棲とひとのいふ」 山荘での、農耕自炊の生活が始まったのです。 光太郎がここに住んでいる間に、たびたび彫像制作の依頼があったようですが、その一切を断り続けました。 おそらく、ずっとここで、ひっそりと暮らすつもりだったのでしょう。 しかし、昭和27年のある日、光太郎が大変世話になっているお医者さんから、十和田国立公園功労者記念碑の彫像制作を依頼されます。 「恩人の頼みを断ることはできない」 と考えた光太郎は、東京のアトリエへ帰って彫像制作することを決意します。 こうして、7年間にわたるこの山荘での生活が終わったのです。」 案内所で聞いた高村山荘の話は以上です。 光太郎は、この山荘で詩作した「裸形」の中で、 智恵子の裸形(らぎょう)をこの世に残して と最後の彫像制作をする意志を詠っています。 自分の体力の限界を感じてきた時期でもあり、恩人や関係者の熱い説得をきっかけに、この記念碑を最後の彫像制作として引き受ける決心をしたのだと思う。 記念碑完成の2年半後に光太郎は亡くなり、この十和田湖畔の「乙女の像」が最後の彫像作品となりました。 この像は、智恵子にそっくりだと言われます。 その問いに光太郎は、「智恵子だという人があってもいいし、そうでないという人があってもいい。 見る人が決めればいい」 と答えている。 智恵子に見えるのは、意図したものではなく「裸形」の詩の一節にあるように「自然が定めた約束」だということなのでしょう。 この記念碑の依頼主である、青森県の当時の知事 「津島文治」 は、太宰治の実兄です。 昭和22年、初の民選で知事に就任した津島文治は、既存の記念碑建設計画を見て「世界的な景勝地に、ありきたりの石碑では似つかわしくない」と白紙に返すとともに、建設準備委員会を設置させ、新たな構想による計画の策定を命じます。 知事の命を受けた建設準備委員会は、芸術作品を据えることとし、高村光太郎に彫像の製作を依頼することを提案します。文芸に理解のある知事はこの提案に快く賛成し、新たな建設計画がまとまります。 そして、この計画の実現に向けて建築家、彫刻家、美術評論家、詩人らをメンバーとした建設委員会が発足し、メンバーの精力的な働きと彫像制作を引き受けた光太郎の意欲的な創作活動により、昭和28年10月に記念碑が完成しました。 光太郎は、乙女の像の完成に満足し、感謝の意を表してこの彫像の原型となった60p大の小型像を青森県に寄付している。その像は、今も青森県庁の知事室に飾られているという。 何故、光太郎はこの山荘で7年も暮らしたのか、種々の資料を参考に私なりに考えてみました。 昭和6年、最愛の妻である智恵子に精神分裂病の兆候が現れ、以後、症状が悪化して行きました。そして、病気が回復しないまま、昭和13年に粟粒性肺結核で亡くなってしまいます。 芸術と心の支えである智恵子を失った光太郎の精神的打撃は大きく、直後は「芸術的制作もなにもする気力を無くした」と自身が言っています。 昭和16年に、詩集「智恵子抄」をとりまとめて出版しますが、それ以後は、この山荘で生活するまで、智恵子の詩は作っていないようです。 その反動かどうかはわかりませんが、光太郎は、時代の要請に従い、戦争賛美の詩を書きました。 それは、戦争の義を信じた愛国心ゆえの行為なのですが、心の奥 には「智恵子の発病は、自分との生活にも原因があった」と自身を責め、「智恵子を苦しめた償いに、せめてお国のために役に立ちたい」という気持ちもあった のだと思います。 戦争詩は、他のたくさんの文人たちも書いています。また、当時の日本の情勢からすると、戦争の後押しをするという過ちは、事の大小はあれ、大半の国民が犯したのではないでしょうか。 しかし、終戦後間違いに気付いた光太郎は、すべての文芸の役職から退き、天職と信ずる彫刻も断ち、この山荘での半ば拷問のような生活に身を強いたのです。 それは、本人が言うところの、戦争協力に対する自己流謫(るたく:罪により遠島(地)へ追いやられること)であり、自分の愚かさを反省するためだったのです。 しかしそれだけではなく、自然を愛した智恵子のことを、厳しい自然と接する中で、自身の体の一部として感じていたい、という気持ちが強くあったのでしょう。 この山荘で生まれた「智恵子抄その後」「典型」等の詩がそれを語っています。 光太郎の没後、山荘の囲炉裏の中から、兎の首のブロンズ像が発見されています。 山荘生活の7年間で残した唯一の彫像です。 私は、この彫像を制作しようとして途中でやめ、灰の下に埋めた光太郎の気持ちを想像すると、目頭が熱くなります。 高村山荘を後にした我らがポラン号、花巻温泉にて親子連れが降りたので、再び乗客は私一人になった。次の停車は、終点の新花巻駅(JR釜石線)でしたが、運転手さんに便宜を図っていただきました。そのときの会話です。 運転手 「バスを降りたら、どちらへ向かわれますか」 というわけで、JR花巻空港駅でポラン号から降ろしてもらい、充実した定期観光バスの一日が終わった。 運転手さん、いろいろお世話になり、有り難うございました。また、おかげさまで、花巻空港駅17:36発の列車に乗ることができました。 感謝の気持ちをこめて、コマーシャル。 ・花巻観光バス株式会社(0198−26−3122)の定期観光バス(予約制です) 北上駅に着く頃には、もう外は真っ暗でした。ここで、北上線に乗り換えて岩手県から秋田県へ。さらに、終点横手駅で「みちのく秘湯旅」で通った懐かしの奥羽本線に乗り換えて、秋田駅へと向かった。 秋田駅に着いて驚いた。なんと、奥羽本線の「森岳−北金岡」間で多量の落葉が発生したために、列車が運行できず遅れているとのこと。とっくに通過しているはずの「日本海2号」が、未だ到着していない。 落ち葉で、列車が遅れるというのは生まれて初めての経験でした。 私の乗る「日本海4号」は、約50分(日本海2号は約170分)遅れるとのことなので、食事を兼ねて焼き肉屋に入り、一杯(たくさん)やった。 結局、70分遅れで秋田駅に日本海4号が到着した。列車に乗り指定の寝台を見つけ、浴衣に着替えて横になる。今回の旅で訪ねた施設や文人達のことを回想しながら、眠りについた。 最後に、今回の旅行で訪ねた天才達がいつ生まれて、そして亡くなったかを記します。 高村光太郎 1883.03.13(明治16)〜1956.04.02(昭和31) 73才 新渡戸稲造 1862.09.01(文久02)〜1933.10.15(昭和08) 71才 |
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