石田三成公と石田館妙高ホテル
 関ヶ原で徳川家康に敗れた石田三成は京都六条河原で処刑されましたが、口伝によると
 長男隼人正重家の子治郎右衛門直重は越前北庄藩主松平忠直の庇護をうけ、
 忠直の長男光長(徳川家康の次男結城秀康の孫)の国替えで高田入封で随伴、
 その後藩主の命により妙高山麓東南斜面(妙高市毛祝坂)の新田開発、開村を命ぜられ
 定住、治郎右衛門を名乗り十代庄屋として明治にいたりました。
 毛祝坂石田家が連綿と家系を保てたのは、関ヶ原での三成と直江兼続の盟友関係、
 結城秀康、松平氏の保護、さらに旧上杉領住民の理解、同情によるところが大きいと
 考えられます。
 当石田家は四代前に分家し三代前に妙高温泉開湯以来現在地へ移り旅館を営んで
 おります。
三成公     三成公旗印「大一大万大吉」
  旧北国街道毛祝坂(けわいさか)は江戸時代十四の大名が参勤交代のため信州、越後境の関川関所
 (毛祝坂から約1.5km)を越える前に身支度を整えたところで化粧坂ともいわれました。
 加賀の前田侯は毛祝坂の清水(当館の所有地)で身を清め、近くの神明神社に参拝し関所に
 むかったと言われています。

 毛祝坂には石田家代々の墓があり、明和六年(1769)、文化十三年(1816年)施主石田治郎右衛門
 建立と彫られた石碑、墓石があります。
毛祝坂の清き泉 文化13年建立の墓
毛祝坂神明神社 北国街道関川関所