フランス議会は男女半々(パリテ)へ
−イヴェット・ルーディさんに聞く−
                       三井マリ子著『月刊自治研』2004年1月号 
「女性の地位を上げるには議会に出ることです」と
イヴェット・ ルーディさん(右)
2003年夏パリのルーディ邸にて
 衆院選が終わった。
「女性は社会のほぼ半分を占めるのだから、社会のしくもを決める場でもほぼ半分を占めるようにしよう」という私にとって至極当たり前の目標は、今回も一顧だにされなかった。
日本女性が初めて投票したのは
1946年の衆院選のことだった。衆院の女性議員は466人中39人を占めた。8.4%だった。しかし、57年が過ぎた現在、480人中わずか35人、7.3%。増えるどころか減ってしまったのである。
 皮肉なことに、選挙の直前、日本政府は、国連から「国会議員などにおける女性の割合が低い現状を改善する特別措置をと
るべきである」と勧告されたばかりだった。
また、衆院選の半年前に行われた統一地方選でも、女性議員は全体のわずか
76%という結果に終わった。さらに、女性議員のひとりもいない地方議会である「女性ゼロ議会」が1220も残った [1] 。これは全自治体の375%にあたる。女性議員がいても「紅一点議会」に過ぎないところも数多い。
21世紀の今日、日本の国会も地方議会もまだ圧倒的な男社会なのである。
 一方、国外に目を転じれば、法律でクオータ制を定めている国は75ヶ国もある [2] 。クオータ制quota systemとは男性と女性がある一定の割合で存在するよう定める制度(割当制)のことだ。ノルウェーでは、政策決定の場の男女不均衡を解消するために世界に先駆けてクオータ制を法律化した [3]

50%クオータ制にしたフランス

 注目すべきは、フランスである。
19996月、憲法を改正し、当選者の数が男女同数になるようにせよ、という条項を入れた。
つまり、憲法第3条の最後に「法律は、選挙によって選出される議員職と公職への女性と男性の平等なアクセスを助長する」 [4] と明記した。続く4条には「政党および政治団体は、法律の定める条件において、第3条の最後の段に述べられた原則の実施に貢献する」と付記した。
このようなフランスの改革は、50%クオータ制ということになる。それをフランスではパリテParité(男女同数)と称している [5]
2000年には、「公選職への女性と男性の平等なアクセスを促進する法律」を制定し、候補者を男女半々とするよう政党に義務づけた。
同法は、いわゆる「パリテ選挙法」と呼ばれる。政党は候補者を男女同数にしなければ、政党助成金が減額されるといった具体的罰則まで盛り込まれている。
 先ごろ、パリでフランスの元「女性の権利省」大臣イヴェット・ルーディさん(
74歳)に会った。
彼女は、閣僚、欧州議会(EUの議会)議員、国会議員、市長などの豊かな経験を生かし、パリテ導入に絶大なる影響を与えた。フランス女性政治家の師とも仰がれている人物だ。
憲法改正に到った経緯を聞いた。

フランスは男女平等の国ではない

三  井 「いわゆるパリテ憲法、パリテ選挙法が施行された後、2001年の統一地方選、2002年の総選挙で女性議員が急激に増えましたね」
ルーディ 「これは法の成果です。とくに地方議会で顕著でした。法の対象となった人口3500人以上の市町村で、女性議員は22%から47.5%へと爆発的に躍進しました。たとえば、パリ市では29.4%から44.8%になりました。パリテ選挙法の 対象から外れた3500人未満の自治体を含めても33%です。これは悪くない数字です」
三  井 「その一方で、総選挙は期待したほどではなかったようですね」
ルーディ 「大統領多数派連合は候補者の20%以下、パリテ導入の急先鋒だった社会党さえ、あろうことか30%台しか、女性を立てなかったのです。女性を増やすよりも、政党助成金をカットされる方を選んだのです」
三  井 「でも、いったいなぜ?」
ルーディ 「国会の半数を女性にしようという強い意志が主要政党に欠けていたからです。政党は女性議員を増やすことにかけてはまったく消極的でした。もうひとつは、比例制の地方選と異なり、国政が小選挙区制選挙だったことも原因です」
三  井 「小選挙区制は、女性に不利だとおっしゃるのですね」
ルーディ 「選挙区から1人しか当選できない小選挙区制では女性がはじきとばされます。政党は1人しか候補者を出しませんから、候補者選びの時点で女性が残らないことが多いのです。それでも、2002年、女性の国会議員は10.9%から12.3%になりました」
三  井 EU(欧州連合)加盟国の中ではフランスは女性議員の割合が少ない方ですね」
ルーディ 「フランスは男女平等の国ではありません。イタリアとギリシャを除いて、最も女性議員が少ないEU国、それがフランスです。でも、パリテ選挙法がなかったら、もっと少なかったでしょうね。その意味では、パリテ選挙法は成果を上げたのです」
三  井 「あなたは1970年代から大勢の女性を議会に送るため、クオータ制を唱えてきています。あなた自身『うんざりするほど』と形容していますが、それほど長い間クオータ制の運動をしてきた」
ルーディ 「ハハハ・・・。その本(ルーディ著『フェミ二スムの現在』を指して)に全て書いているでしょう」
三  井 「この本には、欧州議会の選挙の際、社会党が候補者リストを作成する時、あなたは『女性を30%、30%、10人に3人』と言って歩いたと書かれています。30%のクオータ制を目指して党内で闘ったのですね」
ルーディ 「欧州議会の選挙は完全な比例代表制ですので、クオータ制を導入しやすい・・・・。1979年には、私も欧州議会議員に当選しました」

 

保守派女性政治家たちと共闘

三  井 「欧州議員に当選したあなたが、女性の権利委員会を創設したこともこの本に書かれています。どのようにして新しい委員会を作ったのでしょうか」
ルーディ 「あれは、ドラマティックな思い出です。フランスの元厚相シモーヌ・ヴェイユが欧州議会の議長をしていました。彼女は保守派。私とは党は違っても仲間でした。彼女のところに行って『ね、女性の権利を話し合う委員会がないので、作りたいんだけどどうかしら』と話を持ちかけました。彼女は『いいわね』と同意してくれました」
三  井 「シモーヌ・ヴェイユ! 妊娠中絶法を成立させた人ですね」
ルーディ 「彼女は、欧州議会の議長として保守派をまとめる力を持っていました。その彼女と共同戦線をはったのです。女性の権利のための委員会創設を求める文書の草案を作ったのは、私たち2人なんですよ」
三  井 1994年、欧州委員会から招待された私は、EUの男女平等政策を調査しました。ストラスブルグにある欧州議会も視察しました。その時、常任委員会のひとつに『女性の権利委員会』があることを知った私は委員会の傍聴を要望しました。偶然、委員会が開かれている日に日程が合い、この目で見ることができました。EUに最初から女性の権利委員会があったのかと事務局に聞いたら、女性議員が要求して作らせたのだという答えでした。それが、あなただったんですね」
ルーディ 「ええ、女性の権利委員会をつくるよう働きかけたのは私です。でも、1979年には、女性の権利に関する特別委員会でした。女性の権利にかかわる問題を話し合うための委員会を設立したことで、EUの女性政策が進むこととなりました。何年かして、特別委員会が、常設の常任委員会になったのです」
三  井 「フランス国内の動きにもどりましょう。1982年『地方選の候補者リストは、同性の人が全体の75%を超えてはならない』というクオータ制の法律が成立しましたが・・・」
ルーディ 「長年の運動の成果でした。しかし、そのクオータ法が憲法院にかけられ、同年、違憲との判決が下ったのです。それ以降、何年間もクオータ制導入運動は困難を極めました」
三  井 「その暗い時代を乗り越え、憲法改正まで到達できたきっかけは何でしょう」
ルーディ 「第一に欧州連合EUの圧力です。1992年の『アテネ宣言』 [6] によってEU加盟国は、男女同数の議会をめざすよう外堀が埋められました」
三  井 「あー、アテネ宣言。欧州議会を視察した際、アテネ宣言の広報ポスターをいただきました。男女平等の議会をつくることの必要性がとてもよくわかる文章したので、私はそれを日本で翻訳しました」
ルーディ 「EUは、女性の地位向上については加盟国を先導しています。アテネ宣言は、じつに説得力がありました。当時、あの宣言を受けてフランスでは女性たちが男女同数の議会に向けて運動を起こしました」
三  井 「EUからの外圧はわかりました。そして内なる圧力は・・・」
ルーディ 「第二は、私が音頭をとった『パリテのための10人宣言』です。1996年、週刊誌『レクスプレス』のフロントページに、『政党は、男女同数議会をめざすためにクオータ制を導入すべきだ。それには憲法改正が必要である』という宣言文を載せたのです。この宣言を載せるにあたって、まず私は、元厚相シモーヌ・ヴェイユに話し、同意を求めました」
三  井 「またしてもシモーヌ・ヴェイユとの共闘。EUの女性の権利委員会創設のときと同じように、超党派による女性運動ですね」
ルーディ 「元首相のエディット・クレソンも含め女性政治家10人を説得しました。
左派5人、右派5人の10人です。超党派の実力者が実名入りでアピールをしたのです」
三  井 「多くの文献に、その『パリテのための10人宣言』によってパリテ論争の火蓋が切られたと書かれています。ルーディさんの作戦が成功したのですね」
ルーディ 超党派の大物女性政治家が行ったその宣言に、世間はアッと驚きました。それ以降、他のメディアもクオータ制やパリテについて関心を示すようになりました。ね、女性の側からの働きかけがもっとも大事なのですよ」

 

パリテこそ新しい民主主義

三  井 「なるほど、党派を超えた粘り強い女性運動が最も大切だと・・・」
ルーディ 「女性が運動すること以外に社会を変える道などないのです。一にも二にも運動です」
三  井 「そうした国内外のキャンペーンによって政党はクータ制導入に動き始めたのですね」
ルーディ 「1997年頃から、メディアで白熱した論戦が行われるようになりました。同年、総選挙がありました。ついに社会党が、リオネル・ジョスパン党首の下、国会議員候補者の30%を女性にしました [7] でも、その当時でさえ、男性党員には反対者が大勢いました。最終的には折れましたがね。ただし、男性党員たちは、できるっだけ男性と考えが似ているような女性候補を選ぼうとしたり、フェミニスト的考えの女性を避けたり、女性候補には当選しそうもない選挙区を当てたり・・・と、いろいろ邪魔しました」
三  井 「その総選挙で、社会党は大躍進し、社会党を主軸に左派連立内閣が成立しました。閣僚26人中8人、30パーセントが女性でした。リオネル・ジョスパン首相は、施政演説で、男女同数の議会をつくるための憲法改正すると述べた [8] と聞いています」
ルーディ 「その総選挙で、選挙の予測を超えて大勢の女性が当選しましたからね。それに、もともと、選挙で社会党が勝てば、首相がパリテ法案を提案することになってはいたのです」
三  井 「そして、1999年、ベルサイユ議会で憲法改正が可決されました」
ルーディ 「ジョスパン首相の妻でもある哲学者シルヴィアンヌ・アガサンスキーがパリテ賛成論をリードしました」
三  井 「人類は女性と男性の混成であり、普遍的にダブルなのだから、主権を担う人民も、男性と女性の二元構造であるべきだ、といわれる理屈ですね」
ルーディ 「パリテこそ新しい民主主義だという世論が優勢となりました。そして、憲法にその理念が明示され、やっと真の民主主義の入口に到達したということです」

 

まずは女が連帯を

三  井 「その翌年にはパリテ選挙法が制定され、政党は候補者を男女半数ずつにすることが義務づけられたのですね」
ルーディ 「地方選では、候補者リストに載せる女性と男性の数の差が一人限りとされました。さらにそのリストの上位から6人を一区切りとし、そこに女性候補が3人いなくてはならないと定められました。これが統一地方選で実施され、女性大躍進につながったのです。」
三  井 「日本はどうしたら動くでしょうか」
ルーディ 「クオータ制を政党が自主的に採用することを待っていてもダメです。政党の内外で、女性が運動をすることです。家庭と仕事の板ばさみでイライラして頭がおかしくなる前に、両立できるような社会サービスを充実させなくてはなりません。それには、とりあえず議会に女性を増やすことが最も大切なのです。そのためには、なんといっても女性たちが連帯して声を上げること。議論をする、書く、訴える・・・粘り強く続けること。そして将来は、小選挙区制度という女性に不利な選挙制度の改正も進めなくてはいけません」

主要参考文献

イヴェット・ルーディ著、福井美津子訳 『フェミニスムの現在』(朝日新聞社)

      梶本玲子著のフランス関係論文(『国際女性』No.12、13、14、15、16)

堀茂樹著「パリテ論争」(藤原書店『普遍性か差異か――共和主義の臨界、フランス』)

「政治参画とジェンダー:フランスのパリテ法を中心に」(糠塚康江 『ジュリストNo.1237』)

三井マリ子著『ママは大臣 パパ育児:ヨーロッパをゆさぶる男女平等の政治』(明石書店)


[1] 超党派のNGO「全国フェミニスト議員連盟」(代表木村民子文京区議、名取美佐子日野市議)が、女性議員のいない議会を「女性ゼロ議会」と呼び、それをなくすためさまざまな運動を続けている。創設者であり、世話人である筆者も長年この運動に関わっている

[2] http://www.idea.int/quota

[3] ノルウェーのクオータ制については三井マリ子著『男を消せ! ノルウェーを変えた女のクーデター』(毎日新聞社)に詳述されている

[4] フランス憲法の改正文の和訳は堀茂樹「パリテ論争」より引用

[5] 欧州連合における女性の政治参加を進める団体EWLは、50%のクオータ制とパリテは違うという見解をとる。それによると、「クオータは社会的少数派の権利を保障するために一定の数を割り当てて確保する手法である。一方、パリテは単なる参加ではなく全社会の権力を均等に分割するさらに総合的概念であり、クオータはパリテへの始めの一歩である」という

[6] 1992年ギリシャのアテネで開かれた「政治権力と女性」という国際会議で採択された。参加したのは当時のEU加盟国の女性大臣たち

[7] 1985年、ケニアのナイロビで開かれた国連女性の10年最終年世界会議において採択された「ナイロビ将来戦略の第1回見直しと評価に伴う勧告及び結論」には1995年まで政策決定の場における女性の割合を少なくとも30%にするように明記されている

[8] 梶本玲子「フランスの女性の政治参画」(『国際女性 No.12 』)より引用