北海道の歴史とともに歩んだ 四つの小・中学校の物語り

『廃校のうた』



北海道新聞(2010年1月10日付記事)に取り上げられました。
 


 『廃校のうた』 菅谷 誠



◆ 2009年12月 「柏艪舎」(札幌)刊

B6版、本文354頁

◆ 定価  〔本体1800円+税


◆ ISBN  978-4-434-13623-8



 
【内容】

■ 1984(昭和59)年春――筆者は、歌登町立辺毛内(ぺんけない)小学校を訪問したのがきっかけで、北海道内各地のへき地校取材にとりかかりました。 とどまるところを知らない過疎化のなか、それぞれの地域の財産であった学校は、次々と廃校の運命を迎え、翌年3月、辺毛内小学校も67年の歴史を終えたのです。
それから 四半世紀――北の大地の生活風景はさらに大きく様変わりし、もはや「へき地」、「へき地校」は言葉だけの存在に変わってしまったか、との感すらおぼえます。二十五年の間に、たくさんの学び舎が閉じられていき、千八百ほどあった道内の小学校は、その数をさらに五百近くも減らしました。
歌登神恵内苫前利尻――四つの学校と地域をあらためてたどり見つめ直そうと企画した「旅」のレポートが本書です。「帰るべき故郷」そのものでもある母校を失った卒業生や旧教職員の思いをしのびながら、時代の証言を拾い集めつなぎ合わせることに微力を注ぎました。


  T. 歌登(うたのぼり)町立辺毛内(ぺんけない)小学校

= 1918(大正7)〜1985(昭和60)


  最後の在校生三人は
  開拓の労苦をしのぶ賛歌で
  消える学び舎を送った


■ 酷寒の開拓地に灯りつづけた学び舎の明かりは、国鉄・美幸(びこう)線延伸の夢がついえるのと同時に消えた。 「昭和59年度卒業式」に続く「閉校式」であいさつに立った町長は、「十二あった小学校のうち七校が消えた。食べ物がなくて、七人の子どもを死なせたの と同じ。町がここまで冷えこんでしまうとは」といったきり、言葉を失う。
■ 校歌を持たなかった学校の最後の式典に響いたのが、〈辺毛内賛歌〉。「幌別川の上流に鍬(くわ)打ちそめて七十余(しちじゅうよ)年……」 ―― 三人の児童と校長、担任教師が声を合わせた。

《早春の校庭で》
= 1984年5月
Photo / Makoto Sugaya

■ 「いちばん変わったのは、寒さかも知れない」2006(平成18)年、枝幸(えさし)町と合併した地元に暮らし続ける人々は話す。温暖化のせいか、かつてはひと冬に数回経験した、気温マイナス30℃ 以下の朝を迎えることのない年が、しばしば現れている。なお今日、旧歌登町域には、在校児童百人に満たない歌登小学校一校が残るのみである。


《閉校式》 = 1985年3月
Photo / Makoto Sugaya



  U. 神恵内(かもえない)村立川白(かわしら)小中学校

=1897(明治30)〜1998(平成10)


  詩人は
  おかしな注文にこたえ
  雪の険路を「どんづまりの村」へと歩いた


■ 「作詞料の代わりに新鮮な魚を食べさせるから…」 ―― 1962(昭和37)年3月、校歌づくりをたのまれた一人の文学者が、積丹半島の孤絶した漁村集落・川白を徒歩で目ざした。
■ 「神恵内まで行ったら、もう一週間も時化(しけ)で定期船が止っているということだった。山よりも海に弱い私は、幸い山越えをするという道づれを得て、正面から口を塞(ふさ)ぐように吹きつける風に向って宿を出た。同行した人は古くこの海岸に漁場を持っていた親方の子孫で、途中で一休みしたとき『今年は海が荒れるもんだから、感冒(かぜ)も入って来ませんでした』といった。私はその意味がなかなかのみ込めなかった。日用品も感冒も海が荒れると船が来ないので、入って来ないのだということだった」 ―― “原野の詩人”更科源蔵(さらしな・げんぞう)は、その雪中行を著書『北海道の旅〈新潮文庫版〉』に記す。

大漁旗はためく運動会》
= 1955年ごろ
三澤ヤス子さん 提供


■ 荒天による欠航もしばしばの沿岸航路がバス路線に取って代わられるのは、二十年以上も後の1985(昭和60)年。その日まで川白は、映画『駅 (STATION)』に描かれた増毛(ましけ)町雄冬(おふゆ)と並ぶ「北海道最後の秘境集落」であり続けた。
■ いま、そこに足を止める観光客は、車の入らなかった昔よりもさらに少ない。川白小中学校が廃校となる二年前の1996(平成8)年に全線開通、半島周回を可能にした国道229号が、 かつての「どんづまりの村」を単なる通過地点に変えてしまったのだ。



《川白の教室で語る更科源蔵氏》 = 1962年3月
白戸仁康さん 提供



 V. 苫前
(とままえ)町立三渓(さんけい)小学校

=1907(明治40)〜1990(平成2)


  「熊風」の里に生きる人々を写した
  校長先生のカメラ

 
■ 三渓(旧名・三毛別)は、ヒグマの出没におびやかされた山あいの開拓地。大正はじめ、この地で六人が殺害された史上最大の惨事は、小説『羆嵐(くまあら し)』(吉村昭・作)に描かれるなどして、広く知られている。
■ 戦前から戦後にかけての十二年間、小学校の校長をつとめた関三雄(せき・みつお)さんが学校や地域の日常を撮影したフィルムは、1985(昭和60)年夏、子息で開拓史研究家、秀志(ひでし)さんの編纂により写真集『三渓の四季』として刊行された。父子二代の労作は、「北海道民の生きた姿をまざまざと語 り伝える、得難い資料」 (高倉新一郎・北海道開拓記念館長=当時)―― との高い評価を得る。

《働く子どもたち ― 薪運び》
= 1952年4月
Photo / Mitsuo Seki

■ それから二十年余、筆者は関秀志さんとともに三渓を訪ね、豊かな自然に育まれた幼き日の思い出や「熊風」の伝承を共有する人たちの輪に加わって、『三渓の四季』のページを繰った。


《校庭の雪踏み》 = 1952年12月
Photo / Mitsuo Seki
                 



  W. 利尻(りしり)町立久連(くずれ)小学校
                   

= 1897(明治30)〜1987(昭和62)


 離島に残された
  墨塗り校史と
  若き作曲家の校歌

 

■ 1984(昭和59)年6月、高校野球取材の合間に立ち寄った学校で、筆者は、一連の貴重な史料を目にする。「久連小学校沿革史」 ―― 明治34年開校以来の歴史を代々の校長が書き継いだ記録のうち、終戦時までの部分は、あちこちが黒々と塗りつぶされていた。 かろうじて透かし見える文字をたどると、浮かび上がってきたのは、さまざまな軍国主義的記述。文部省の指示で実施された国定教科書の「墨塗り」に並行、も しくは先行する動きがあったのは明らかだった。
■ 数か月後にふたたび島へ渡り、学校周辺に住む卒業生らから聞き取った沿革史の記述にまつわる思い出語りとともに記事にしたのが、朝日新聞(北海道支社版) 1984年11月9日付の《今も残る「墨塗り校史」》、および同月12日付の続(詳)報《戦争・貧乏・ニシン漁――離島の生活 連綿と》である。

《墨塗りされた「久連小学校沿革史」》
= 1984年
Photo / Makoto Sugaya

■ 校歌が著名な作曲家・廣瀬量平(ひろせ・りょうへい)の若き日の作であることを知ったのは、2008(平成20)年6月。久連小学校最後の校長であった草間喜美男(くさま・きみお)さんの口から、「昭和32年、小学校時代の恩師の詞に、まだ東京芸大の学生だった彼(廣瀬氏)が曲をつけた…」と聞いたのだ。
■ 筆者の問い合わせにこたえ、恩師・松田正雄(まつだ・まさお)先生について詳しく話してくれた廣瀬氏は、同年11月下旬に急逝したが、そのわずか三週間前には故郷・函館を訪ね、松田先生との出会いの場であった母校=市立柏野(かしわの)小学校の創立80周年記念式典に出席している。廣瀬氏は、在校生らに向けた記念講演で、何事にも疑問を抱くことが大切であると説きつつ、小学校以来の恩師から受けたおしえの数々をあげ、「現在まで全国三十校くらいの学校の校歌を作りましたが、松田先生は、私に校歌の依頼をしてくれた、仕事をくれた最初の方です」と、語った。



《久連小体育館の校歌・歌詞ボード》
= 1984年6月
Photo / Makoto Sugaya

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