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マイプロフィール目次
(自分の人生のルーツ、親からの抑圧、学校でのマイナスの経験値の積み重ね、神経症のどん底生活、奇跡の復活)
はじめに
ここでは僕の子供の頃からの人生を書いています。すべてを書くことは不可能ですが、だいたいの流れは提示したつもりです。
僕の恩師のもとでルーツ分析という自分の過去の人生の流れを分析整理する作業があります。
それをより概要的にし、個人情報に触れるところは削って掲載しています。
なぜ、他の人間は、僕ほどに人に対して恐怖を持たないのに、自分はもってしまったか……、それを僕がよくしてもらった先生の神経症克服プログラムにより、ルーツを遡り、こうしてなったんだと納得でき、そして恐怖感がだんだん消滅していきました。自分のルーツをたどることは、とても重要なことです。見ている人も、それぞれ悩みとなったルーツを抱えています。ドラマになるような衝撃的なトラウマを持つ人もいれば、僕みたいに、じわじわと悪化したり、時にはがつんと悪くなる型もいるわけです。いずれにしても、どこかに悩みの原因となった出来事と、それの積み重ねによってできあがった、その当時ごとの心境を遡ることは、治すためには、必須なことです。
皆さんも、まだしていない人がいれば、是非してください。心の闇を覗き込むことは勇気が要るし、気分が悪くなってしまうものですが、「恐怖」を減じるには、その経験が必要です。直面する勇気が必須です。きついですが頑張ってください。もし原因が全くわからないで苦しんでいる人があれば、原因を無意識的に知りたくないことから生じているかもしれません。そのためにも無意識からルーツと自分を分析することが必要だと思います。僕も最初から分析できたわけではありません。無意識からぱっと思いついたことが、神経症が治るきっかけの一つになりました。催眠状態ではちょっとそれは難しいと思いますが、本当に深いトランス状態ならば可能でした。
心からわかると言うことは、頭の上で納得しているものとは明らかに違います。それがパワーになります。頭の上での理解ならば誰でもできます。でも症状は相変わらず軽減しない。それは、わかっていないことと同じです。
親のこと、抑圧のこと
心の悩みを抱えている人にとって、親との絡みは何よりも大きな要素です。
母親は、プライドが異常に高い人だった。言葉の端々に見え隠れするそのプライドの高さを幼少時から、僕は感じ取っていた。「人から良く思われなければ」「最低限人から嫌われるようなことは避けよう」「自分はもっとレベルの高い人間だ」ということが染みついてしまった。それが対人恐怖症に結びついたのは、自分の人生を見れば見るほど重要であることがわかった。悩みのどん底にいたときはそんなこと考えもしなかったけれど、家庭環境が個々まで自分に影響しているとは、知覚したとき驚いた。僕の場合、表面的な親の害は、他の人に比べて少ないと思う。でも、しっかり抑圧がかかっていたみたいです。
父親は、枠がない、つまり遊び心がない、仕事人間で、融通がきかない、頑固な人だった。だから、自分に伸び伸びと自由に、楽に考える余裕を与えられない大きな原因だった。他の悩まない人は、例えば人から悪口を言われたときに、枠をもっていれば、聞き流して、その後普通にとらわれることなく生きられるのに、僕の場合は、どんどん考えて考えて考えすぎてしまって、どんどん悪循環に落ち込んでいった。ここでもちゃんと抑圧がかかっていた。
抑圧というものは、神経症の最大のキーワードと言っていいかもしれません。抑圧は親などの環境とか学校、仕事場の雰囲気などありますが、悩める人は絶対抑圧のかかっている人生を送ってきた、送っているはずです。抑圧があるが故に、自分を押し殺して、周囲に無理にあわせようとして失敗してもがいて、それでも頑張って、さらにどん底に落ち込んでいって、にっちもさっちもいかなくなる……抑圧がなくて、のびのび枠のある気持ち、人生を歩んでいたならば、ある自分にとって不都合な出来事でも、聞き流すことができたはずです。エゴを押し殺してきたために、どんどん心の底に何らかの鬱憤がたまっていって、身動きがとれなくなる。その反面、自分はこんな人間じゃないというプライドの高さや、エゴを満たしたいが故に、エゴ、自己中心的になってしまう、それが症状を良くするのに大きな障害になってしまう。これはもう矛盾としか言いようがありませんね。もはやここまでいったら、自分だけの力では解決しようがありません。もがけばもがくほど、悪くなってしまうだけです。自分がまさにそうでした。
抑圧がかかったら、普通の人は何らかの形で発散します。でも、それを十分にできない人は、落ち込む。はまれば、よけい発散できなくて、抑圧をため続ける。だからどんどん悪化していってしまいます。ほんとうにそう痛感しています。
☆ 小学校時代
もともと人見知りがあったが、友達とも普通に付き合い、遊んでいた。まあ、普通の子供だった。サッカーが好きでずっとやっていたし、勉強、運動ともに割合、得意で劣等感もなかった。人見知りの対象は、目上の人、例えば、先生、長らくあっていない親戚、他のクラスの生徒だった。5年の時に塾に通い始めた。目的は中学受験で、その為に好きだったサッカーを6年最初にやめた。とはいえ、塾はすごく楽しく、そこでは先生に人見知りもせず、時折いやな気分を味わった小学校では経験できない開放感を満喫した。だから、受験勉強が苦しいと感じたことはあまりなく、希望通りの中学に合格した。
しかし、この小学校時代に自分の人生をずっと支配することがおこった。それが自分の対人緊張、恐怖症を心の底で操り続けることになったのだ。4年の時、幼い頃から一緒に遊んでいた仲の良いKに「いつも僕らが遊ぶ約束している中に、あとから入ってきて、みんなとても迷惑してるんだよ」と下校途中に言われた。いつも集団で野球とかキックベースとかやっていたが、まさか、そいつにそう思われているとは知らなかった。そして、みんなからもそう思われているのか!? みんな、自分に迷惑していたのか!? と急に怖くなった。今では、そのKは友達でも陥れるところがあって、自分がその集団で優位に立とうと狙って言ったと思っている。その後も、僕はその集団に入って遊んでいたし、疎外感も感じなかったので、絶対そうだ。しかし、Kの言葉でこういう気持ちが起こった。「みんなから嫌われないようにしよう。人からよく思われよう」と。それがどんどん病的な域にまで高まっていった。
一般の子供よりもずっと感じやすい人間だったことは確かだ。他の子供なら、全然気にならないことを、病的までに気にするということが多くあった。傷つきやすい子供だった。
☆ 中学校時代(対人恐怖症になるまで・中一)
Kのあの言葉が、心の底でずっと自分を支配していた。中学受験をして、私立の中学校に入ったが、自意識が芽生える頃だし、Kの言葉もあって、人よりも、「嫌われないようにしよう」という気持ちがどんどん強くなっていった。その妄想にとりつかれているときに、また自分にとって衝撃的な事件が起こった。一つは、一年の時、友達の帽子が壊されていて、みんな、担任から放課後残されて、犯人探しをした。犯人がでるまで帰さないという風に。その友達と、その朝、一緒に登校していたことをいわなかったばっかりに、担任から、まるで、自分のせいでこんな遅くまで放課後残された、というような言われ方をされてショックを受けた。自分のせいでこんな遅くなった、といわれたのも衝撃的だったが、よく喧嘩していたMという友達が、まるで、俺のせいだ、とばかりに自分を睨んでいたので、やっぱり自分の失敗でみんなに迷惑をかけてしまった、と思ってしまった。「やばい、みんなに迷惑をかけた、嫌われてしまう」とすごく気が落ち込んだ。その帰り道はどん底の精神状態だった。そしてそれが、より「嫌われないように」という思いに拍車をかけた。
もう一つは、そのころ一番仲の良かった奴が、「みんなから嫌われたらどうしよう」という妄想に病的にとりつかれていたときに、急によそよそしくされたことだった。無視はされないが、何か自分を避けているので、自分の妄想が正しかったのか? とショックを受けた。そして、このことが、自分が対人恐怖症になった、ほとんどすべて理由だと、僕が通ってよくなった先生に(間接的に)諭されるまで思いこんでいた。いまでは、それは大きなことだが、すべてではない、と思っている。
☆ 中学校時代(対人恐怖症になるまで・中二、中三)
中2になっても「よく思われよう、嫌われないようにしよう」という気持ちはどんどん強化されていった。また、「この人達から嫌われているんじゃないか」、という妄想も強くなっていった。雪だるま式だったと言ってよい。しかし、「この人達」はあとでわかったが、自分を嫌っているわけでもなく、後に一緒に帰るようになった人もいたので、やはり妄想だったのだ。そして、それにとりつかれていた自分にとって、また大きな衝撃的な出来事が起こった。臨海学校のとき、浜辺で自分の悪口を言っているのを聞いたことだ。Sという人間が自分の悪口を言っていたのだが、人生で初めて、そして唯一(軽いのをのぞく)、人が自分の悪口を言っているのを直接耳にした。「嫌われているんじゃないか」という妄想が、こうして現実のものになってしまった。そして悪口を聞いている人間が、(そのことがあったあとでも、仲がよかった)仲の良かった友達で、そいつも相づちを打っていたことに、よりショックを受けた。こうして対人恐怖症になる下地はできあがったといってよい。これでよけい「人からよく思われよう、嫌われないようにしよう」という考えが病的なまでになってしまった。あとは、日常生活に支障をきたすようになったのは、それから一年ちょっと経った席替えの時だった。
小学校時代からの延長で、人とは違う捉え方を病的にしていたのがこの時期だ。今から思えば、まさに坂道を転がりこむような悪化の仕方だったが、全然日常生活は普通にできていたし、当時は気がつかなかったのはいうまでもない。しかし、着実に悪化していたのだ!
部活に精を出していれば、こんなことにならなかったのに、と今でも後悔している。多感な時期の思索を少しでも逃れることができたからだ。思えば、燃えるものが全くなかった。
☆ 浪人時代
周囲の眼もあったので、とにかく予備校に通うことにした。最初は無理にでも通っていたが、緊張のあまり、下痢は日常茶飯事だった。また一番後ろに(出来れば端に)座りたかったため、始まるギリギリに教室に入っていたが、入る場所は前にあるので、入室の際、百人ぐらいいる人間の視線を浴びて通らなければならなかった。見ていない奴の方が多いだろうが、こっちはどうしても皆見ている、と感じてしまうので、(たとえ百人のうち一人しか自分が入ってくるのを見ていなくても、その一人のために緊張してしまうのだ)どっちにしろ、かなり心の負担になってしまっていた。そして一回さぼった。そのときの心がホッとした気持ちは、もうこれ以上あの場所に行きたくない願望を、強固にした。だから、ずっと予備校をさぼることになった。親は毎日通っていると思っていたらしいが。とうぜん夏期講習など親から金をもらって自分で頼むのだが、それをCDを買う金に換えていた。そのとき、ちゃんと対人恐怖症をなおすためにためとけば、大学時代に、金をためたり、節約する苦労を味合わなかったのに、と後悔した。暇つぶしは、本屋やゲームセンターにかよったり(50円で何時間も粘るゲームを見つけたからよかった。ちなみに予備校をさぼっている人間がそこには大勢いた)、近隣センターや図書館で勉強などをやっていた。受験はまあまあ満足いったが、試験においても僕の対人恐怖症は適用されてしまうので、普通の人よりのかなりのハンデを背負っていた。例えばカンニングだと、思われたらどうしようとか、なによりつらかったのは集中できないことだった。
ちなみに中学3年の時の席替えの時、隣に座った友達とはずっと友達関係が続いていて、浪人時代は本当に世話になった。彼が一人いただけでも、幸せと考えなければならないと思う。浪人という社会からも、学校からも解放されていたこの時期、まあまあよかった時代だった。が、症状は以前つらいし、待ちかまえているのは、このままいったら、自殺しなくちゃいけないな、という暗い雲行きだった。死までのタイムリミットは、大学4年が終わる時期まで(社会に出る時期)だった。4年でどうにかよくならせなくちゃいけない。さもなくば、自殺。
☆ 大学時代前半
大学は地方に行った。一人暮らしは孤独だったが、家族と暮らすよりもよっぽどよかった。が、やる気が全く起きなかった。当然サークルにも入らずに、とにかく英語など出なくちゃいけない授業をのぞいて、休むようにしていた。ここで問題が起こる。隣の壁が薄いのだ。最初は隣の音など、素通りできていたが、いったん気になったら最後、とことん病的にまで気になってしょうがなかった。学校から近いため、よけい隣の奴がどんちゃん騒ぎをみなとやっていた。部屋にいるのが苦痛になった。かといって、外に出ているのも苦痛だ。くつろげるのは、隣の奴がいないときだけ、寝ているときだけだった。
ともかく催眠療法にもう一度頼ってみようと思った。しかしお金が必要だったので、食費をとことん切りつめた。そして通った。まったく効果なかった。今から考えれば、なおりっこないのだ。実力のない奴がやっていたって、ほんの少し催眠に自信がある奴がやったって、悩んでいる=催眠にかかりにくい(自意識が高く、雑念が多い)自分がかかりっこない。かかったところで、所詮は気休め程度の暗示だけだっただろう。そんなものが無意識深くまで訴えかけられるだろうか。不可能だ。しかし、だらだらとそこに通ってしまった。
バイトはまったくしてこなかった。しかし、お金がなくちゃなんにもならない。しょうがなく、勇気を出してやってみた。しかし、みんなと溶け込むことなど不可能だった。あまりに重かった。死せる生はまだ続いていた。タイムリミットは迫っていたが、なるべく考えないようにしていた。やる気が全く起こらず、自律訓練のテープで必死に奮い立たせていたが、何の役にも立たない。部屋にいるとよけい気が沈み、頭が重くなったり、つらくなるため、なるべく外に出た。スクーターに乗って、いろいろと廻った。が、症状はいつだって、自分にまとわりついてくる。
他に治す方法はないかと模索した。図書館を徹底的に調べたのだ。しかし、それらが直接治してくれることなどない。しかし、それしか救いはなかった。が、インターネットが、自分の人生に大きな転機となった
☆ 大学時代後半その1
大学校舎が変わったため、引っ越した。部屋探しは大変だった。そして不安だった。前住んでいた薄い部屋では、自分の居場所がまたあと2年間なくなる。自分にとって、安息の地は部屋以外ないのだ。それが騒音で邪魔されてしまう。つまり、24時間ホッとできるところがないことになる。壁の厚さなど、実際住んでみなくちゃわからなかったが、なるべく高いところにした。騒音効果もあるだろうと思って。結果はよかったといってよいだろう。ホッとできた。
例の如く、大学だし、あまり出なくていいので、その分は楽だった。単位も順調だった。しかし友達は作らなかった。あまりに自分にとって、重いのだ、つらいのだ、めんどくさいのだ。バイトはちょくちょくしていた。が、短気限定に限っていた。自分を周囲にさらしたくないのがその理由だ。ともかくお金を貯めて、治してくれるところがあれば、通おうと思っていた。そして資料集めに精を出していた。しかしどこもダメだった。治してくれるところなどどこにもない! そういう考えが日に日に深まっていた。
就職活動が迫っていた。非常に不安だった。社会に出ることは、つまり生きていけないことを身をもって知らされる。自殺しなくちゃいけないタイムリミットはどんどん短くなっていった。症状は一向に良くなっていないのだ。しかも、同世代の人間は普通になんら神経症にわずらわされることなく、青春を謳歌している。焦りもどんどん出てきた。自分の境遇を嘆いた。
インターネットが自分の人生を変えた。自分の悩みを、そのような関連のHPのBBSにのせたのだ。そしたら、いい先生を紹介してくれるという親切な人がいた。自分と同じ悩みで、そこで克服したという人だ。これがあったからこそ、今の自分がある。これがなければ……考えることすら怖ろしい。いまの自分はどうなっていただろうか。
☆ 大学時代後半その2
一変したと言ってよい。本当の実力のある先生(岩波先生といいます)に出会えたのだ。インターネットで教えてもらったのだが、そこで治った人とのやりとりでは、かなり実力がある先生で、格が違う、自分もいろいろな療法をやっていたが、これにより治った、と書いてあった。詳しく聞くと僕と本当に似ていた症状だった。その人が治って、社会生活を送っている、ならば! とおもって電話した。電話での感想は、かなり自分の能力に自信を持っている人だと感じた。ともかく会ってみよう決心し、お金を必死に貯めた。それはつらかったが、バイトを一生懸命やり、やっとお金が貯まった。早く通いたいため、親にお金を借りた。
通ったら、大ホームランだった。奇跡が起こった! 希望がぐんぐん芽ばえて来たのだ。これで自分は大丈夫だと思った。それくらい能力のある先生だった。またそこの先生を知った経緯から言っても、運が良かったと言わざるを得ない。あの時、たまたまBBSに悩みを書き込んでいなければ……(そもそも書く柄ではない)。そしてたまたま親切な人が、本当にいい先生を教えてくれなければ……(ただの先生を紹介してくれる人などいくらでもいる)
最後の最後で自殺しなくてすんだ。ほんとうに人生は綱渡りだといってよい。そして出会いの大切さ!
もっと早く知りたかった、通いたかった。でも、僕の二倍年をとっていても、巡り会えない人に比べれば、どんなに幸せなことか。
本当に良かった。助かった。
ぎりぎりのセーフだった。
運命の分岐点だった。
悩みの解決だけじゃなくて、一度生をうけた以上、どう生きればいいのかまで大事なことを学ばせてくれた。
悩んでよかった。遠回りだったけれど、近道だったかもしれない。
そういう心境に至るまでになったきっかけだった。
素晴らしい出会いは、人生を変えてくれる。
☆ エピローグ・天才的なカリスマ性のあるセラピストとの出会い
そして、セラピーを受けて
その天才的な辣腕と直感を持つ心理セラピストの治療を受ける。独自のあり得ない手法とノウハウを駆使する人で、毎回毎回が驚きと喜びの連続だった。はじめて意識の変容状態に導いてくれたときの感激は、言葉で表しようがない。何をやっても効果がない療法を受け続けてきた自分にとって、その状態は衝撃的だった。人生が一変したと言っていい。これで治るのだ! ぱっと光が心に差し込んだ。俺がずっと求めてきたことに、俺はまさに体感している! そして実際にどんどん改善していき、昔できなかったこと、どうしようもなく気になっていたものがどんどんできるようになり、気にならなくなっていった。つまり劇的に良くなっていった。劇的によくなると書いたが、その途中ではもがき苦しんだこともあった。うまくいかないこともあった。でも、結果的に劇的に改善したいったのは間違いない。
今までの自分はなんだったんだろう? そう思った。加速度的に人生を快調に暮らせるようになった。どんどん友達もでき、人の目を見て話すことができ、楽しく話せ、それまで不可能だったことが可能になっていた。自信も当然ついてきた(自信は考えたって生まれない。覚悟と行動が必要!)。傷つかなくもなった。逆に栄養になって、経験一つ一つが自信となって積み重なっていった。よくなっていく自分が好きになった。同時に過去の自分のあまりの人生の地獄絵図が余計恐ろしくなった。でもいまはもう過去なんて、トラウマなんてどうでもいい。とことんまで走ってやる、という心境だ。そして神経症、視線恐怖症、対人恐怖症から脱却した。悩む思考回路の怖さを同時に思い知り、神経症は時間が解決してくれないことを知った。昔の自分の甘さがなさけなくなった。過去の自分を反面教師にして、どんどん行動していく。人に振り回される人生にピリオドが打たれた。ほんとうにのびのび。
これらは徹底的に悩みのもと、神経が過敏にどうしてもなってしまう根本を無意識から(言い換えれば本能か)克服していったからだ。暗示がダイレクトに脳にはりついて離れない威力はすさまじかった。感情が理性ではとどめられないほど、一方的に発散された時の気持ちよさとすっきりした心の状態もすごかった。それを可能にする先生の能力は段違いだった。もちろん岩波先生の能力だけに寄りかかっていてはいけない。ちゃんと先生から言われたこと以上に努力した。呼吸法や自己暗示CD、ルーツ分析と。そしてそれを武器にして実践で行動していった。考えていただけじゃ何にも変わらないから。それら含めて本当にラッキーだった。だからHPをつくった。ほんとうに凄すぎる体験ができる(こちらも必要以上に行えばもっと凄い)。自分の中にものすごい抑圧と抑えきれないほどの感情の渦、そして何よりも変わりたい! 夢を叶えてやるという気持にも改めて気づかせてもらった。自分を普通のゼロベースにしてはいけない。もっと高みを目指してはじめて「地球にうまれて良かった!」状態になる。そのための秘訣もたくさん教えてくれた。その感激はお金に変えられなかった。
ネット上ではほぼ100パーセント!神経症や心の悩みで苦しんでいる人ばかり。そういえばそうだ。よくなった人、治った人は悩みのホームページをのぞく必要がないのだから。だから、ホームページを立ち上げたし、すこしでも励みにしてもらいたかった。その感動があるってことを知らしめたかった。
僕自身、かなり重い症状だったという自信があり、なにをやっても効果が出なかった人間で、なんらみんなと変わらないし、もしかすると僕の方がはるかにきつかったかもしれない。でも、こういう結果が出た。だから今、こうして駄文を読んでもらい、少しでも何か変化が芽生えれば、と願っています。
神経症(対人恐怖症・あがり症・抑うつなど)は、征服可能だし、克服できます。
そうじゃなければ、人生は闇だ。
そうだから、生きていて良かったと思える。
巡り会い、すべてはこれだと思う。
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