下流部の橋景色

 隅田川の下流部には、大正12の関東大震災による復興事業で架橋され、技術遺産とも言われる著名橋と、変貌した両岸の街並みを意識し、近代の技術や工法で架けられた橋とが、競い合うように並んでいます。
 隅田川両岸の往来を支える施設は、「渡し」から、初期の木橋を経て鉄橋へ、そして今日の橋へと変遷してきましたが、「渡し」の名称や初期の橋形式、或いは橋詰の風情など、そこここに、これまでの歴史を受け継いでいます。
 その下流部に架かる橋から、幾つかの橋景色を紹介します
。なお、順序は上流側からになっています。

千住大橋 Senju-ohashi  (日光街道)
 
 徳川家康が江戸に入って間もない文禄3年(1594年)、隅田川で初めに架けられた橋であり、奥州街道の往還に寄与しています。
 両国橋が架設される迄は、単に大橋と呼んでいたといいます。
 現在の橋は昭和2年に完成したものですが、 国道4号(日光街道)上にあることから交通量が多く、昭和47年には下流側(写真下方)に新たに橋を架け、上り車線と下り車線に分けて使われています。
 上流側に平行して架かっているのは水道管用の橋です。



白鬚橋 Shirahige-bashi  (明治通り) 
 この橋の付近は、“橋場の渡し”と“白鬚の渡し”で往来需要を支え、架橋されたのは大正時代に入ってからです。
架橋された橋の名称は、現在の白鬚橋東詰交差点から堤通りを南に300mくらいの位置にある「白鬚神社」にちなんだものです。
 初代の木橋は、地元町民の基金によるもので、大正3年5月に完成した有料(賃取橋)の橋でした。当初は大人一人が1銭の渡り賃だったのが、後に2銭になったそうです。それでも維持費が賄えず、大正の末に東京府が買い取っています。
 二代目が現存の橋で、昭和6年の6月に完成しています。タイドアーチで形成されたこの橋の景観は、軽量感のなかにバランスの良い安定感が感じられ、隅田川のなかでも見応えのある橋の一つだと言えるでしょう

 向島百花園にもほど近い、橋名に縁の白鬚神社。
 


言問橋 Kototoi-bashi           
 この橋は震災復興に伴う橋の一つで、大正14年5月に起工して昭和3年2月に完成しています。
 この橋の上・下流にあった渡しを総称して「言問いの渡し」と呼んでいたことから橋名になっています。著名な「名にし負ば いざ言問わん 都鳥」と、在原業平が伊勢物語の東下りで詠んでいる古歌とゆかりをもっている、との記述も。
 沿川に桜の多いことでも知られる隅田川ですが、特に言問橋前後の桜並木は見事で、桜の季節は隣接する公園、河岸のテラスや遊歩道、更には川面から遊覧船でと、観桜客で大変に賑わいます。
 しかし、昭和20年3月の東京大空襲では、火勢から橋上に逃れた多くの人々が、そのまま橋上で被災したという悲劇の場所としての歴史も刻んでいます。



吾妻橋 Azuma-bashi        
 江戸時代に隅田川5橋と呼ばれた中では最後に架けられ、 安永3年(1774年)に「竹町の渡し」があった所に初代の橋が架けられました。幕府へ願い出た町人によって架橋されて有料の時代もあり、後の明治20年に完成の橋は、ピン結合のトラス鉄橋もありました。現在の橋は、やはり震災復興で架け替えたもので、昭和6年の完成です。
 初代のころは「大川橋」と呼ばれていたようですが、明治期に現在の吾妻橋の橋名となっています。新橋名の背景には、江戸の東に位置することから東橋(あずま橋)と呼ばれ、後に日本武尊命の東征伝説にある「吾妻はや・・・」に掛けて吾妻橋になったと記述する書もありまが、東岸側にある吾嬬神社に参拝する道筋にあったことによる、とも言われます。この神社は、現在の墨田区立花一丁目で、浅草通りを東へおよそ4km行ったところの、北十間川に架かる福神橋の北東詰めにあります。今の社はさほど大きくありませんが、境内の由来書きによれば、かつて神社周辺は八丁四方の小高い森だった、とあります。
 また吾妻橋は、浅草寺に最も近い橋で、橋の西詰には、隅田川を巡る遊覧船の乗船場もあって、いつも賑わっています。
橋名に縁と言われる吾嬬神社



  

駒形橋 Komagata-bashi  (浅草通り)  
 橋の西詰に、古くから観音様を祭る駒形堂という御堂があり、付近にあった“渡し”も「駒形の渡し」と呼ばれていたことから、架けられた橋の名称にもなっています。 昭和2年に架けられた現在の橋が初代のものです。
 また、橋の西詰めで交差する江戸通り沿いには、老舗の店も多く、食通の客で賑わっています。
  
橋の西詰めに建つ橋名縁の観音堂



厩 橋 Umaya-bashi  (春日通り) 
 
 江戸時代、西岸側に幕府の厩があり、「御厩河岸」(おんまいがし)と呼ばれていたと言います。その付近にあった「御厩の渡し」のところに、明治の初期になって架橋され、橋名に引き継がれています。
 市民から募った資金で架橋され、有料の時代を経た橋の一つです。
 関東大震災当時は既に鉄橋でしたが、火災による影響を受けたため、やはり震災復興事業によって架け替えられ、昭和4年に完成したのが現在の橋です。その頃架橋した橋では珍しい下路橋になっています。
 



蔵前橋 Kuramae-bashi  (蔵前橋通り)
 関東大震災の震災復興で架けられた現在の橋が初代です。 橋の西詰めにある碑の説明書によれば、江戸幕府の米蔵として大阪、京都二条、そしてこの浅草御蔵が、三御蔵といわれたそうです。そして江戸中期以降は、浅草御蔵の前側を御蔵前と呼んでいたと書かれています。この橋の名称も地域の呼び名からとられています。架橋された昭和2年当時としては、めずらしいアーチ橋で、橋脚部分にはバルコニーも設けられています。
 
橋の西詰めにある御蔵跡の碑



両国橋 Ryogoku-bashi   (京葉道路) 
 隅田川では千住大橋に次ぐ二番目の橋として、寛文元年(1658年)に最初の木橋が架けられています。橋名は、武蔵の国と、対岸の下総の国とを結ぶことから、両国橋とされました。以降、時代時代の歴史を多く刻んでいる橋です。
 江戸時代の橋詰には、火除地として広場(広小路)が設けられ、勧進大相撲などいろんな興行が行われ、賑わいの様子が時代小説によく登場します。また、飢饉や流行病での死者を慰霊したのがきっかけという花火の打ち上げも、この付近で行われています。
 橋の架け替えは、木橋であった江戸時代にも何度かありましたが、明治37年には鉄橋になっています。それも関東大震災で影響を受け、震災の復興事業として昭和7年に現在の橋が完成しています。なお、この架け替えの際、鉄橋の一部が他に(南高橋)転用され、今も現役で機能しています。
 しかし、江戸時代に橋名として誕生した「両国」と言う名称が、地名や施設名など広範に使われているのも、この橋の存在価値かも知れません。



新大橋 Shin -ohashi   (新大橋通り) 
 最初の橋は元禄6年(1693年)に架けられ、隅田川で三番目の橋でした。現在の両国橋が大橋と呼ばれていて、これに続いて架けられたことから新大橋の橋名になったといいます。 
 明治45年、米国から輸入した鋼材で架け替えられた橋は、関東大震災にも耐えた橋としても知られています。
 昭和53年現在の橋に架け替えの際、古い橋の一部は、愛知県犬山市の明治村に復元され、また、レリーフは現在の橋に取り付けられています。



清洲橋 Kiyosu-bashi  (清洲橋通り) 
 関東大震災による復興事業で新設した幹線道路上に架けられた橋で、昭和3年に完成しています。
 遊興地として賑わったという日本橋中洲と江東区清澄地区を結ぶことから、両岸の地名をとった橋名になっています。
 当時世界でも代表的な美しい橋と言われた、ドイツのライン川に架かるケルンの吊り橋をモデルにしたと言われています。 一つ下流に架かる永代橋と対比して、その優雅な景観が評されています。
 なお、平成19年には、下流の永代橋、勝鬨橋と共に、貴重な建造物として国の重要文化財に指定されています。



永代橋 Eitai-bashi   (永代通り) 
 「深川の大渡し」に代って、元禄11年(1698年)に永代島と呼ばれた地に架けられ、この橋名になったといいます。
 現在の橋は、関東大震災の復興事業として大正15年に完成し、隅田川に架かる橋のうちで最も古い橋です。架橋した時には河口から一番目の橋であったことから、帝都の門としての形式や重量感をもたせ、男性的なイメージになっており、二番目の位置になる清洲橋の女性的な形式と対称的になるよう計画したといいます。



相生橋 Aioi-bashi   (清澄通り) 
 清澄通り架かるこの橋は、隅田川の派川部分に位置し、近年架け替えが行われました。架け替え工事中も下流側に仮の橋を付設して進められ、工事の進捗に合わせて順次新しい橋に交通を切り替え、全ての完成は平成11年です。
 橋としては、明治36年に月島側へ水道を渡すために架けれたのが始まりで、永代橋に対比してこの橋名になったと言われます。当初の木橋形式を継承する趣旨から、隅田川では唯一のトラス橋になっています。



中央大橋 Chuo-ohashi          
 隅田川に架かる橋の中では新しく、平成5年8月26日に開通式が行われました。 地元中央区のシンボルとして名づけられ、大川端再開発事業などによる近代的な街並みの中にある斜張橋です。塔の形はかつてこの地域が鎧島と呼ばれたことから、兜をイメージしています。また隅田川がパリのセーヌ川と友好河川であることから、パリ市から送られたザッキン作のブロンズ像が橋脚上に飾られています。


勝鬨橋 Katidoki-bashi   (晴海通り) 
 隅田川の玄関口に架かる橋で、月島・晴海など埋立地へのアクセス強化等で昭和8年に着工し、同15年に完成しています。 橋名は、日露戦争における明治38年の旅順陥落にちなんで開設された「かちどきの渡し」の名称を継承しており、帆船などの航行も可能にするため、橋の中央部が70度くらい両側に開く双葉跳開橋で、我が国最大級の跳開橋として有名です。
 橋の開閉は、通行する船の減少と、幹線道路上に位置して交通遮断の影響が大きいこと、などから昭和43年で休止し、同45年の点検開閉を最後に、以降行われていません。
 
ただし、その開閉機構などは、平成17年に東京都と都の公社が西詰に開設した「かちどき 橋の資料館」や、橋脚の中に梯子や階段で降りて見学するミニツアーで、見聞することができます。(橋の資料館、 ツアー受付 
“まちの催として開閉を”と言う声も多く、先頃は関係学会による調査も行われました。その結果によれば、“致命的な支障は見あたらないが多くの点検補修が必要”としており、交通閉鎖対策と共にその費用が課題でしょう。加えて、以降も開閉を可能にしておく場合には、保守体制や維持費も難題かもしれません。

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