私の叔父であります、依藤義人氏に依る歎異抄の現代語訳です。
元漢文の先生で有りますので、これでもまだ難しいですが、
なにかの参考に していただければ幸いです。
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現代語訳歎異抄


依藤義人訳

歎異抄(たんにしょう)


つくづく思うと、愚かな私ながら親鸞聖人在世の昔と今を大体くらべますと、宗祖聖人が直接伝えられた本当の信心と異なった説がひろがっていることが残念で この状態では後輩の人々が必ず不審を抱くにちがいないということを思うにつけて、幸いにもご縁の深い師尚に遇わなければどうして他力易行のこの念仏門には入ることができましょうか。決して自己の独断で真宗他力の宗旨を乱してはなりません。それで故宗祖聖人のみ教えの中で耳の底に強くきざみこまれていることを少しばかり記します。ただただ念仏御同朋の方々の不審を無くそうと思うばかりです。

@信心正因章

「おまえわまっ先に救うぞ」と言って下さるこの上ない大きい慈悲の阿弥陀如来のお力により極楽往生は疑いなしと信じて念仏を称えようとの思いが起こったその瞬間に早く阿弥陀さまの胸の中にしっかりと抱きしめられてもう絶対に離されることはありません。

阿弥陀仏の御約束(本願)には老人・少年・善人・悪人の差別はありません。ただ信心の一つが大切です、そのわけは重い罪や限りない欲望を持った衆生を助けるための御約束だからです。故に仏の御約束わ信じたからには他の善も必要ではありません。念仏以上の善はないのだから。また悪おもおそれる心配もありません、念仏に打ち勝つほどの悪も存在しないのですから、と申されました。

A本願念仏章

あなたがたが、関東からわざわざ十余ヶ国の境をこえて命がけで私の所に来られたのは定めし極楽往生の法わ聞くためでしょう、しかし、念仏よりほかに往生の道を知っており、またそれらについての経論釋の文句などをも知っているだろうと邪推しているならば大きな思いちがいです、もしそうならば奈良興福寺や比叡山延暦寺にすぐれた学僧が大ぜい居られるからそれらの人々におあいして往生のかなめをよくお聞きなさるがよい。
「親鸞においてはただ念仏して弥陀のおたすけにあずかりなさいとの法然上人のみ教えを受けて信ずるほかに別のわけはぜんぜんありません。」
念仏はまことに浄土に生まれる要因であるのか また地獄に落ちる業因であるのか全く私は知りません、たとえ法然上人にだまされても念仏して地獄に落ちたとしても決して後悔はいたしません、そのわけは念仏以外の行をはげんで仏になれるはずのわが身が念仏を申して地獄に落ちたのならばだまされてしくじったとの後悔もあるでしょうが、もとからどんな行もできない身であるので 全く地獄よりほかに行き場所のない私です、弥陀の御約束が本当のものなら釈尊の教えは間違いないでしょう、釈尊の教えに間違いないなければ善導大師の教えに間違いないでしょう、善導大師の教えに間違いなければ法然上人のお言葉に間違いのあろうはずはありません。法然上人の仰せが真実ならば親鸞のことばになにのいつわりがあろうか、この上は念仏を信じようが捨てようが皆様方のご判断におまかせします と申されました。

B悪人正機章

「善人でさえ極楽に往生できるのだから まして悪人は言うまでもないことです」ところが世の中の人は口をそろえて悪人でさえ往生できるのだから まして善人は当然のことだと言います。

このことは一応の理由はあるようだけれど弥陀他力の御約束の意味を誤っています。その訳は、自力で善行を積む人は、まったく仏の力をたのむ心を欠いているので弥陀の心に適っていません。しかし自力の心を捨てヽ仏の他力に心を寄せれば真実の報土に生まれることができます。欲望、怒り、愚痴という迷いの固まりである我らはどんなに修行わしても苦界をはなれることのできないのを憐れみなされて四十八願を成就なされたご本心はただ悪人成仏が目当てなので他力を依りどころとする悪人こそが往生の正客なのです。それで「善人でさえ往生するのだから まして悪人はなおさらのことだ」ともうされたのです。

C慈悲差別章

「慈悲に聖道・浄土の二つがあります。」
聖道の慈悲とは全てのものを憐れみ痛み育て上げることですが これは自分の思いどおりのように助けとおすことはできません。浄土の慈悲というのは念仏して早く仏になり限りなく大きい慈悲の心で思いどうりに衆生を助けることができます。この世でどれほどかわいい かわいそうだと思ったとて思いどおりには助けにくいのでこの聖道の慈悲は中途半端で徹底的なものではありません。それで念仏申すことこそが徹底した大慈悲心ということです。

D念仏不回章

親鸞は父母の追善供養と思って一度も念仏を称えたことはありません。 そのわけはすべて生命持つものはいつかの世で父母兄弟となるもので誰も皆、この次の世で自分の称える念仏の力に功徳があるのならば父母をもすくえるでしょうが そうではないのですからできるはずがありません。ただ自力をすて浄土に生まれて仏になってら六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)や四生(胎生・卵生・湿生・化生)の迷界に苦しむものを絶対の仏力によりすくうことができるのです。

E不私弟子章

念仏行者の仲間でわが弟子人の弟子との争いがあるのはまことに道理に反することである。
親鸞は弟子一人も持っていません。そのわけは自分の力で人に念仏をとなえささせてこそ弟子でありますが、ただ弥陀如来のお力によって念仏を称える人をわが弟子だと言うことは極めて思い上がりです。仲良くなる縁があれば一緒になり離れねばならない縁があれば離れることもあるのに、私にそむいて他の人に従って念仏すれば往生はできないなどということは筋の通らぬ話です。如来からお受けした信心を我がもの顔に取り返そうとするのだろうがどんなことがあってもこのようなことはあってはならないことです。素直に如来のお慈悲をよろこぶ気持ちなれば仏恩をも知り、また師尚の恩も知るようになるのですと申されました。

F無碍一道章

念仏は何ものにも妨げられない絶対最勝の一道です、そのわけは念仏行者には天地の神々も称讃し悪鬼異端も土下座します。どんな罪悪もむくいも消されてしまい、どんな諸善万行も太陽の前の星に等しいものですから絶対最勝の一道というのですと申されました。

G非行非善章

念仏は行者にとって非行非善です。自分の力で行ずる修行でないから非行であり、自分の力で造る善行ではないから非善といいます。ただ仏のお力であって自力をはなれているために行者にとっては非行非善であると申されました。

H煩悩所為章

唯円「念仏を称えてもおどり上がる喜びの心も起こらず また急いで浄土に参りたい気持ちにもならないのはなぜでしょうか。」
親鸞「親鸞にも同じくこの疑問があったのだが唯円房よおまえと全く同じ心持ちであったことです。しかしよくよく思ってごらん、天におどり地におどるほどに喜ばなければならぬことを喜ばない故にますます浄土往生はまちがいなしと思ってよろしい。喜ばねばならない心をおさえて喜ばせないのは煩悩(迷い)の所作です。ところが仏はかねてから知りぬかれて「迷いの固まりの凡夫」とおっしゃられるのであるから他力のすくいの御約束はこのような私たち凡夫のためであったとわかりいよいよ念仏がたのもしく思われるのです。また浄土に急ぎ参りたい心もないのにすこし苦しいことがあれば死ぬのではなかろうかと心細く感じることも煩悩のしわざです、遠い昔から今まで迷い回ってきた苦しみのこの世でも住みなれた家であるからすてがたく、まだ生まれない安養の浄土は恋しく思われないのはまことに煩悩の心が強いためです。尽きぬ名残は惜しまれてもこの世に縁がなくなって命が終ればかの浄土に参れるのです、仏は急ぎ参りたい心のない凡夫の私たちをことに憐れみ下さっています。
これにつけてこそいよいよ大きいお慈悲はたのもしく往生はまちがいなしと思ってよろしいです、天地におどる喜ぶ心もあり浄土に急ぐ心もあるときは自分には煩悩の心がないのではなかろうかと不思議に思いなさい。

I無義為義章

「念仏には一切の理屈は無用でただ信じてありがたく称えることに念仏の尊さがあるのです、念仏は口で説明することと頭で考えることも凡夫の力では絶対に及びつかない真如の世界です」と聖人は申されました、思いますと祖師聖人御在世の昔同じ信心の心ではるばると遠い京都に上り、一つ信心から同じ浄土に参りましょうと心がけた人々は直接 聖人からお話をお聞きしましたが その後にこれらの人々に従って念仏申す老若男女が大そう多い中に聖人の仰せに異なってたことを近頃は多く口にしているとの由を耳にします。これからその全て事実無根の項目について述べてみましょう。

J誓名不二章

「一文字も知らぬ人が念仏を称えているに対して、弥陀は必ずすくうという『弥陀の御約束』を信じてそれとも『六字の名号』を信じて称えるのかと言い驚かし、二つの事柄の内容をもはっきり説明しないで人の心をまどわすこと」このことはくれぐれも注意して心がけておくべきことです。
御約束の強い心により称え易い名号を成就なされて、この名号を称えるものを浄土に迎えようとの御約束ゆえ、まず弥陀の大悲に助けられ迷界をはなれることができると信じて念仏を称えるのも如来のお力であると思うと少しも自分のはからいはまじわっていないために弥陀の御約束にしっかり適って真実の浄土に往生できるのです。これは弥陀の御約束の力を信じ申しているので名号の力も含まれており、御約束と名号の二つが一つになり別のものではないのです。
つぎに 自分の偏見で善悪の二つについて往生の可否を別々と思うのはこれは御約束の力をたのまずに往生の業因を積み重ねて称える念仏をも自力の行とするのです。この人は名号のいわれをも信じないのです。信じないけれど一度は辺地懈慢・疑城胎宮などの方便の化土に生まれさせ下され なおも真実報土に迎えとることができなければ正覚を取らじという果遂の願(第二十願)により報土に生まれるのは名号の力です。これがまた御約束の大きい力のいたすところですので結局二つは一つのものなのです。

K学文非要章

「経文を読み学問をしていない者は浄土往生は出来ないということ」これは実に取るにも足らぬ話のことです。他力真実の内容を明かしたすべての聖教は如来の御約束を信じ念仏を申すと仏になる。そのほかに何の学問が往生に必要でしょうか。まことにこの道理のわからない人こそもっと勉強して如来の本願(御約束)のお心を知るべきです。いくら経典釈文を読んで学問しても聖教の本意を理解せなければまことに気の毒なことです。
一文字も知らぬ人で経釈の筋道もわからない人が称え易いための名号なので易行という。「学問することにより誤って名誉利欲に陥るならば浄土往生はむずかしい」という証拠の文章もありますよ。 当時専修念仏の人と聖道門の人が議論をして「わが宗旨はすぐれ余他の宗旨は劣っている」など言うので敵もできまた法をそしる者もできます。しかしこれらは自分で自分の首をしめかかっているようなものです。たとえ他の宗旨全部が「念仏は愚かな人のためのもので教えの内容はきわめてつまらないものだ」と言っても決して争わずに 「私のような一文不知の愚か者が、信ずれば助かることをお聞きして信じておりますので たとえ優秀な人には幼稚なことでも私達には最上の法です。たとえほかの教法は優れていても自分にとっては力がないので及びません、生死の迷界をはなれることが諸仏のご本意ですからどうか邪魔はしないで下さい」
とおだやかに言えば誰がけんかを仕掛けてくるでしょうか。「諍論にはいろいろの邪念が伴う故に智者は離れるべきである」という証文もあるのです。

故聖人の仰せには「この念仏の法義は信じる者もそしる者もあるでしょう、と釈尊は説かれているのですから私はもとから信じています。ほかの人がそしるので仏説はまちがいなしとわかる証拠です。それで往生はいよいよ決定と思ってよろしい、もし逆にそしる人がおられないときにこそ どうして信ずる人がいるのにそしる人がおらないのかと思うがよろしい。だからといって決して人からそしられようと願うのではない、釈尊はもとから信ずるそしる二つがある状態を予想されてうたがいをあらせまいと説きおかせなされたことを申すのです」と言われました。
今の世には学問して人のそしりをやめさせよう、ただもう諍論第一と思って意気込んでいるのではないですか、学問をするといよいよ如来のご本願を知り広大な慈悲を頂き愚かな身で往生は出来るでしょうかと案じている人にも如来の御約束には善悪上下の別のないことを説き聞かすことこそ学問した価値があると言えるのです。
たまたまなに心もなく如来のお慈悲に感動して念仏する人に学問して理解できるのだなどと言いおどすことはまさに法の悪魔であり仏の敵です。自分で他力の信心を傷つけるだけではなく誤って人をも迷わすものゆえ十分慎み怖れねばならない。また多くの師尚がたのお心にも背き弥陀の御約束にも反することになるのです。

L賢善批判章

「阿弥陀仏の本願に思い上がり、悪をもおそれないのは本願を笠にきて、おごる本願ぼこりというものは往生できない」ということこれは如来の本願をうたがう善悪の宿業ということを理解していないのである。
善心のおこるのも悪心の起こるのもすべて善業悪業それぞれの原因からであり、故聖人の仰せには兎毛羊毛の先にはいる塵ばかりもつくる罪の宿業でないものはないと申していることによって理解すべきです。
ある時
「唯円坊よ 私の言うことを信ずるか」と申されたので
「もちろんのこと信じます」と答えますと
「きっとまちがいはないか」と重ねて申されますので
「つつしんでお受けします」と答えると
「それでは千人の人を殺せば往生できるから殺しなさい」と申されますので
「仰せでございますが 私としては一人も殺すことはできそうにもありません」
「それではなぜ親鸞の言葉にしたがうと言ったのか、さあこれでわかったでしょう。何事につけても自分の意志どおりに行えるならば往生のために千人殺せと言われたならば殺すであろう、しかし一人をも殺す業縁がないので殺さないのです。自分の心が良くて殺さないのではなくまた害せまいと思って百人千人殺すこともあるのです」
と申されたがこの教えの意味は 自力修行の者は善をすれば往生がかない 悪をすれば往生ができないと自分の心を基準として、仏の願力によって往生が決定するのであることをも知らないのです。

かつて思い違いの人がいて悪をなしても助けるという御約束があるから大丈夫と思いわざと悪事を働きしだいに悪評が広まった時に お手紙で「薬があるからといって毒を好んではいけない」と言われたのは この思いちがいをやめさんがためです。決して悪は往生の障りにはなりません もし戒律を守らないでは本願が信じられないのならば私達はどうして生死の苦界を渡り切れましょう。われながら愛想のつきるようなものでも本願におあいできたればこそ思い上がれるのである。だからといって縁のない悪事はたとえ造ろうと思っても造れるものではないのです。またかの「海や河で網をひいたり釣りをする人(漁師)も野山で鳥獣をとる人(猟師)も商人も農民もすべて前世の因縁によるのでどうしてもかくならねばならない因縁が熟すとどんなことをなすかわかりません」と聖人は仰せられたのに当今の人はさも信者ぶって善人だけが念仏を称える資格を持つように思いともすれば念仏者が集まる場所に掲示して「○○の者入場を禁ずる」などということをあえてしているのはひたすら賢善精進の姿を外面に示し内面には虚仮不実の心を持っているのである。本願の上にあぐらをかいて造る罪も宿業のためである、だから善悪ともに縁にまかせて専ら本願を頼みとしてこそ他力信心です。唯信鈔にも「こんなに罪の深い身であるからお助けにあずかるのはむずかしかろう、などと思うとは一体阿弥陀仏にどれほどの力があるか知ってのことか」と書かれているではないか。
本願におごるほどでこそ他力の信心がしっかり身につくのだ、思うに悪業と煩悩を無くしてから本願にすがるならば本願にほこる心もなくしてよかろうがこれは筋の通らぬことで煩悩を無くせば仏で仏になった者に阿弥陀仏の五劫修行は無駄ではないか、他人を本願ぼこりに陥っているのだ、何が本願ぼこりでないのかいずれも幼稚な争いである。

M一念摂取章

「一声で八十億劫の重罪を無くすることを信ぜよと。」
このことは十悪五逆の罪人が日頃念仏を称えずに臨終にはじめて善知識の教えで一声称えると八十億劫、十声で八百億劫の罪を消すという。これは十悪五逆の軽重を知らすためにで念仏者との立場を異にする。

私達は弥陀の光明に照らされて一念発起の説きに、金剛の信心を与えられるゆえ命終われば多くの煩悩を転じて仏となるのである。この本願がもしなければ、このようなつまらない罪人がどうして迷界をはなれることができようかと思い。
「一生称える念仏はすべて如来の大悲に対する報恩謝徳と思うべきです」
もし念仏を称えるたびに罪を消そうと信ずるのは、自力にて罪を消して往生しようとの思いである。もしそうなら一生の間思うこと全てが罪悪煩悩なのであるから命終わるまで念仏怠ることなく励まねば往生できないということになる。しかし宿業はどうすることもできないからどんな目にあうかもわからず、また病苦に心が乱れて死ぬようなことがあれば念仏を称えることは難しいだろう、その間につむ罪をどうして消すのか、消えねば往生はではぬ。

弥陀本願を信ずれば、どんな宿業で罪を造り、念仏を称えないで一生を終わっても必ず往生ができる。
また、臨終に念仏を申されるにしても、それは悟りを開こうとする機会が近づくにつれていよいよ弥陀をたのみお礼を申し上げる気持ちが強くなったのである。罪をほろぼそうとするのは自力の心で臨終に心を乱すまいとする人の誤った心でこれは他力真実の信では無いのである。

N彼土得証章

「煩悩具足の身で悟りを開くということはまちがいである。」 即身成仏は真言密教の教義で三密行業(手に印契を結び、口に真言をとなえ、意に本尊を観じ大日如来と行者の夫々三業を合致させる)が成就しての結果である。六根清浄は法華一乗の所説で四安楽行(身安楽行、口安楽行、意安楽行、誓安楽行)が成就しての結果である。それらはみな難行で上根のつとめ観念成就の悟りである。

浄土成仏は他力浄土の宗旨、信心決定の道であり易行下根のつとめ善悪平等の法である。今生において煩悩を消すことは大変難しいので真言法華の仲間たちでさえなおこの世ではだめだとあきらめ次の世を願うのであるから、まして戒律も智慧ない私どもには此土にてのさとりは望みえない。
しかし弥陀の本願の船に乗りこの世の苦海を渡りかの浄土の岸に着いたときには煩悩の黒雲は速く晴れ真如の月光清らかに六方世界到らぬ隈なく無碍の光明と一つにとけあうことが一切衆生にできるようになってこそ本当の悟りと言えます。
この身で悟りを開くという人は釈尊のように衆生の機根に応じて三十二相八十随形好を示し説法できるのか、これでこそ此土開悟といえようが そうでなければだめな話である。和讃に
『金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ
弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける』 信心決定するときに摂取不捨の身となり六道輪廻よりまぬがれると理解するを「覚る」というので「覚る」と意味を言いまぎらわしてはならない。
浄土真宗にては今生に本願を信じて、浄土にてはじめて悟りを開くのであると聖人は申されました。

O回心獲信章

「信心の行者がふと腹を立てたり、良くないことをしたり、信者同志で言い争いをしたらその都度に回心反省すべきである」
これは悪を止め善を修める気持ちか。
一向に他力の本願をたのんで念仏する人の上には回心ということは生涯に一度
しかないことである。

その回心とは今まで本願他力真宗を知らない人が弥陀の智慧により今までの心では往生はできないと思い反省して本願にはいったのを回心と言うのであるすべてのことに回心しなければ往生がなきならば一寸先は闇である人間の運命の一生で回心もせず柔和忍辱の心にならない先に命終われば如来の摂取不捨の御約束も空しくなるではないか。
口では願力をたのむといいながら内心では「どれほどの悪人をすくう本願でもやはり善人をこそ先にお助けなさるだろう」と、本願他力をうたがって方便化土の往生しかできないことは残念なことである。
信心が定まれば往生は弥陀に任せればよいから自分の独断は必要ない。自分の悪さに気付くにつけてもいよいよ本願にたよるならば自然に往生に必要な柔和忍辱の心も起こるのである。
つまりすべてのことについて往生は善人ぶった思いを持たずただひたすらにほれぼれと弥陀のお慈悲の深きことに思いを致すべきで称なうれば自然に念仏が口に出るのである。
小賢しいはからいの心を捨てる、これが自然(じねん)であり他力であり両者は一つである。
両者別々だと物知り顔に言うのは実に残念なことである。

P辺地堕極章

「方便化土に生まれる人はついに地獄に落ちる」
と言う者がいるが、これはどの出拠の文によるのか、自任学者の中にこのようなことを言う人がいることは意外なことである。
仏の経説菩薩の論釈その他の聖教をどのように読んでいるのか、私達は、まことの信心の欠けた行者は本願を疑うにより化土に生まれ、この罪をつぐなってから報土に生まれ悟りを開くと聞いています、真実の信者が少ないので如来は一応化土に多く摂め入れられるのに、最後にはだめになるなどというのは、自分の異見を如来におしつけて釈尊が偽りを申したことにしてしまうというのでまことに歎かわしいことです。

Q施物非因章

「仏に供養するお供え物の多少により、大小仏になるということ」
このことは全くでたらめな腹立たしいことである。まず仏に大小の区別を定めることがあってはならないことである。かの安楽浄土の教主のご身体のことが経典にはとかれているがこれは方便法身の姿である。真如法性の実体は長短方円の形も青黄黒白の色もなく何を基準として大小を定めるのか。なるほどある経典には大声で念仏すれば大仏を小声なれば小仏を見ると記されているがこれは自力で悟りを開こうとする聖道門の行者が観念をこらしてみる化仏の大小を言ったので自分が仏になった上の大小を言ったものではない。しかしこのようなことにひっかけて言い立てたものである。また聖道門の人のする檀波羅蜜即ち布施行をすすめる一派であるる
どれほとの宝物を仏前に供え師尚に施すとも信心を欠くと何の効果もない、一紙半銭も上げなくとも他力本願を旨として信心深ければ仏の本意にかなうものです。すべて仏法にかこつけて財物をむさぼろうと念仏者をおそれさす邪説です。

(総結)

以上十一条から十八条まで みな信心の異なる所から起こるものである。故聖人のおん時に多くの弟子たちの中に同じ信心の人も少なかったので聖人と他の弟子たちの間で諍論がありました。それは
「親鸞の信心も師尚の法然上人のご信心もおなじである」
と申されたので 勢観房念仏房などが非常に争われて
「どうしてお師尚さまのご信心と同じであろうか」
と申されたので
「法然上人さまの広い智慧才覚と同じと言えば これはまちがいですが信心においては全く同一です。」
とご返答なされると
「それでも どうしてさようなことがあろうか」 とうたがい反論したので上人の御前にて是非を定めようと申し上げたところ法然上人は 「私の信心も如来からいただいたもの 親鸞の信心も、如来からいただいたものゆえ全く同じです。別の信心の人は、私が参る浄土へは、決して参りになられますまい」
と仰せになられましたから 今の一向専修の人々の中にも聖人の信心と同じでない人もおられるだろうと思います。
以上 どれもこれもくどくどとつまらないとですが書きつけました。老いの身は露の命のわずかに枯草にかかっている状態です。今日までは同じ道を一緒に連れ立ってきた方々に不審の点があればそれをもお聞きし聖人の仰せられたことを申したことですが閉眼の後はさぞばらばらになるのではなかろうかと心配して 以上のことを言い立てる人々から言い迷わされるようなおそれのあるときは 故聖人のお心にかなってお用いなられたお聖教をよくよくご覧下さるがよい。
およそ聖教には真実と方便ともにまじわっています。方便をすて真実をとることが聖人のご本意です。十分に用心して聖教を読み誤りなきようにおねがいします。大切な証文を少々ぬきいでまして目易書にこの書に加え申し上げます。
聖人の常に仰せられていたことは
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく考えると、この親鸞一人のためです。されば多くの罪業をもったわが身であるのに助けようと思い下された本願の何とありがたいことよ。」
としみじみおっしゃったことを 今また考えますと善導大師が
「私自身はこれ現に罪悪生死の凡夫で想像もも及ばない遠い昔から常に沈み常に六道を流転し生死の迷界から離れ出る法縁に恵まれません。」
と貴いお言葉に少しもしたがっておられません。だから勿体なくも聖人はわが身のこととしてお話になり、私達が自分の罪悪の深さを知らず。如来の恩徳の高きをも知らずして迷っているのに気付かせようとの思し召しです。まことに如来のご恩を思わずに誰も彼も善し悪しということを言いあっていますが、聖人の仰せには
「私は善悪二つ、全く解りません。このわけは如来の心に善しと思し召すほどに知り通してこそ善を知ったと言えよう、迷いのかたまりである凡夫火のついている頼りない世界はすべてのことことごとくうそごとふざけごとでまことの心が無いが ただ念仏だけが本当のものです。」
と申されました。まことに私も人もうそごとばかりを申しあっています中に一つなげかわしいことがあります。それは、念仏するにつけて信心上のことで互いに問答するときに聖人の仰せでないことをも仰せと言い張ることを残念に思い悲しく思うのです。この旨をよくよく注意して心がけておいてほしいことです。
以上は決して私個人の独断からではありませんが、経釈の筋道も法文の浅学もわきまえない私ですので定めしお笑いのことでしょうが故親鸞聖人の仰せになられたご趣旨を百分の一かたはしばかりを思い出し記したのです。
せっかく念仏しながら報土に生まれないで化土にしか生まれられないことは残念です。一室の行者の中に信心のちがうことのなきようにと泣く泣く筆をとってこれを記しました。歎異抄と名付けます。人に見せないようにおねがい致します。

○歎異抄のこと

悪人正機といえば歎異抄、歎異抄といえば悪人正機と思われるほどに両者の関係は強い。私がはじめて歎異抄を読んだのは旧制中学校二年のときです。当時「出家とその弟子」の名作で全国的に読まれていた作家倉田百三氏の「歎異抄と一枚起請文」の書を読みその激しい表現に大きい印象を受けました。昭和十年に龍大に入り自由購読会に入学して歎異抄を聞くかたわら洛北顕真学苑仏教講座月二回参加して梅原真隆師の講義を受けておぼろげながらに歎異抄に親しみを覚えるようになりました。
当時教界は宗論が盛んで特に仏教界の改新を説いて「真理運動」興じた友松円諦氏によって問題化された「指方立相論」石川舜台氏の「名号をたのむか仏体をたのむか」(全九巻)をはじめ暁烏敏・金子大栄・曽我量深氏みな歎異抄に信仰の依り所を置いていたようです。特に梅原師は歎異抄により一念発起 信仰を確立され教界諸師の中には深刻な苦悩を歎異抄によりやわらげることができたとせられる方が多いです。
作家の丹羽文雄氏は実母の不倫のため悩み抜き苦しみのはてに歎異抄に出合うことにより暗闇の心中に月の出のようななつかしさを感じるようになったとのことです。小説「親鸞」連載 作(昭和四十四年より四十七年五月四日)新聞の切り抜き千二百二十枚挿し絵と共に保存していますが単行本全五巻中の第四巻に同氏は歎異抄に就いて詳しく記しています。私は偶然に昭和四十四年二月姫路日赤病院に入院中右の産経新聞が目についたのでもし入院していなければ産経とは無関係でした、従って千二百二十枚の切り抜きは全く入院中の逆縁の賜と喜んでいます。丹羽氏には「蓮如」(全五巻)があり興味深いものです。
昭和五十五年夏安居副講は歎異抄、講師師八十八歳の老躯を演壇に運んで十三日連続講義、声涙共に下って聴講八十名満場ただ感激の息のみ。松島善暁和上は初日いわれたとおりその年の秋に逝去されましたが十年前の悲痛の声は耳に残っています。和上は定めし最後の講義「歎異抄」の御聖教の中に楽しく往生を遂げられたことと思います。和上講本「歎異抄」は和上を憶う好資料です。宗祖聖人を知る最良最短の書は歎異抄です。親しく身近に接した弟子唯円の目にうつったありのままの姿の宗祖にこの上もない大きい力と慈愛の心を感じます。本典が宗祖の礼服であれば歎異抄は平服の姿と言えましょう。
「善人でさえ浄土に往生できる。
まして悪人は浄土に生まれられないはずがない。」(歎異抄第三章)
このような常識をこえたおそろしいことを口にした者は東洋は無論世界の宗教家思想家の中にも存在したであろうか。しかし親鸞聖人はいとも自然におっしゃったのである。
「世間では善だの悪だのとさかんに取りざたするが私は何が善か悪かの区別は一向に理解できない。仏の心に善しと思いしめさるほどに私が明確に判断できようか、迷いの固まりである人間界
のことはすべて そらごとたわごと本当のみのとて何一つ存在しない、ただ念仏だけが本当のものです。」
人間界の善悪は頼りないものです、殺人は最大の重罪ですが 戦争では最大の功勲になりすべての倫理的なものも相対性であり、ひとたび如来の法界に出ると無価値なものになります。善人賢者と自認する上流支配者に上求菩提の求道心は望み得ず悪人愚者と内省する土族庶民の中にこそ光る仏身をご覧なされた宗祖はゆわゆる世間の善人賢者を嫌い悪人愚者に心を寄せて愚禿親鸞と名乗られたのでしょう。
「愚禿」なんというすがすがしい名前でしょう、邪見驕慢の心は塵ほどもなく 何一つとしてでき得ない愚悪な我が身と信知して如来大悲の前にひざまずかれた宗祖は美しい「分陀利華」そのものです。
「善人でさえ浄土に往生できるのだもの悪人はなおさらのことだ」
宗祖聖人のこのお言葉におであいするとき私はいつもこのように受けとっています。「どんな修行もできなく地獄にしか行き所のない愚かな悪人の我が身にとってただ一つの救い手となった弥陀の願力しかもこの親鸞一人のために造って下さった法蔵四十八願の大綱を両手でしっかと握りしめたとき法悦の心底からにじみ出たよろこびの言葉にほかならない。」とうけとめています。

歎異抄には浄土真宗の根本義が易しく端的に示されている。弟子の唯円房が宗祖聖人口伝に反した異説の流布を歎き、泣く泣く筆を執って記した一字一涙の書に私たちは心から拝読讃歎せねばなりません。
「念仏は無碍の一道なり」
迷い・おそれ・うたがい・ためらい、何の心配もない唯如来の本願を信じて真一文字に進めばよい、超世の悲願を聞いたからには私の心はすでに浄土に通って弥陀同体の境地に安住している境地に在る。
「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。」
私はこの言葉が歎異抄の中で一番好きな御文で次のように教行信証の四法を極めて明瞭に現わしていると拝読しています。



一九九七年十一月一日

浄福寺 依藤義人



この、歎異抄の現代語訳を色々な方に、見てもらったところ、
御本願を、「御約束」と訳すのに、疑問が出ました。
「御約束」というのは、両者の合意のうえに成り立つものではなかいと、 いう疑問です。たしかに、そうだということになったのですが、歎異抄の 本文の中に「御約束」という言葉が出てきますし、親鸞聖人のお手紙の なかにも、御本願を「御約束」とされる部分があのるで、このままで おこうということに成りました。