御同朋の社会をめざして 正定聚の身を生きる
−門信徒と僧侶が共に歩む基幹運動−

 

 はじめに

  今年度新たにスタートした「基幹運動計画」は、「門信徒と僧侶が共に歩む基幹運動」が中心課題として掲げられています。「基幹運動とは」の「基幹運動のあゆみ」の中では、特にこれまでの運動の成果の中から、門徒推進員養成のための連続研修会(連研)や、門徒推進員の活動が確認されています。さらに、運動の課題として、「このような基幹運動の取り組みを、一層着実に進め展開するためには、門信徒の参画が不可欠といえます。これまで以上に全員聞法・全員伝道を実現するという目的を門信徒と僧侶が共有していかねばなりません。」としています。ここでは、改めて、「門信徒と僧侶の課題の共有」の課題を、門徒推進員の養成の過程とその活動を中心に考えてみたいと思います。 

 「門徒推進員」誕生に至るあゆみ

  1962(昭和37)年、「名ばかりの門徒 形ばかりの僧侶」という教団の現状を克服し、名実ともに教えに生きる門徒・僧侶になるため、「全員聞法・全員伝道」を合い言葉に、本来あるべき伝道教団に回帰しようとして始められた門信徒会運動は、来年が40年目の年にあたります。運動の過程で、1978(昭和53)年の『宗報』に、「混迷する現代の社会に、究極のよりどころを明らかにし、ひろく人類の苦悩に応えていこうということが、この運動の願いであります」との集約のもと、門徒推進員養成のための地方連続研修会(連研)が開始されると同時に、第一回の中央教修が行われます。そして、1981(昭和56)年には「門徒推進員要綱」が策定され、門徒推進員の登録制が実施されたのです。ここに、各組において実施される「連研」を修了し、中央で開催される三泊四日の門徒推進員養成「中央教修」を修了して誕生する門徒推進員の形が整ったのです。

 「還るお寺」に成り得てきたか?

  現在、「本願寺新報」に、「“いいおかあさん”やめませんか」を連載されている富田富士也さんは、その著書『お父さんお母さんこっち向いて』(本願寺出版社刊)の中で、神戸児童連続殺傷事件の少年Aは、犯行声明のなかで自らを「透明な存在」と呼び、社会を震撼させ、「14歳」を印象づけた。(中略)ゴチャゴチャした人間関係があれば、善し悪しに関係なく、人は手の届くところに必ずいることがわかる。「透明な存在」になってはいられない。絡みあえば互いを肯定しあえる。そして絡みあいつつ、弱音や愚痴をはいたり、聞いたりしてやり取りできる空間を、私は「還る家」とイメージしている。いま相談の場に身をおいている私は、「帰る家」はあっても「還る家」のない子どもたちが増えていると実感している。と、指摘されています。 この指摘は、子どもたちをめぐるさまざまな問題を考える視点として、ただ単なる建物としての家=「帰る家」はあっても、いろいろと絡みあい、互いを肯定しあえる人間関係の中にある家=「還る家」がないという点が表明されているのだと思います。その言葉を、今までの私たちの教団のあり方に当てはめたとき、はたして、私たちの教団、寺院、僧侶が、この「還る家」いや、「還るお寺」になり得ていたでしょうか。
「御同朋・御同行」の平等の教えをいただきながら、部落差別をはじめとするさまざまな差別の現実を課題にすることが出来なかった事実。差別法名・過去帳調査で明らかになったような教団・寺院・僧侶の差別の事実。また、信心の社会性の課題が示しているように、現実の生き方と社会のありようが問われない教学。さらには、僧侶中心の教団・寺院運営やそれに伴う僧侶の教化者意識、一方的に僧侶から門徒へ説かれていく布教のあり方など、教団の現状を考えると、答えは否としか言えないのではないでしょうか。

 門徒推進員養成の中で−話し合い法座の意義

 このような教団の原状を克服するために、基幹運動の推進に大きな役割を果たそうとしているのが、「親鸞聖人の教えに信順し、如来の本願を大地として、その教法に生き、御同朋の社会の実現をめざす基幹運動を僧侶とともに実践する門徒」(門徒推進員要綱)、つまり、門徒推進員なのです。現在、全国で4648名(2000年度末現在)の門徒推進員が活動されています。その門徒推進員の養成の過程、すなわち、各組で行われる「連研」においては、「話し合い法座」が重視されています。「話し合い法座」は、単に「教学を知識的に学ぶ」のではなく、「連研に参加されているご門徒さん一人ひとりの抱えている、より具体的な苦悩を共有・共感していく」という視点での話し合いという形になり、さらに、連研修了者が参加する中央教修においても、この話し合い法座の視点が徹底されるのです。中央教修修了後のアンケートの中から、いくつかの感想・意見を紹介します。 

・ 同じ思いを持った同士でしたので、安心感や信頼感を得られた。
・ 緊張した研修会であったが、講師の方々のあたたかさにふれ、支えられた日々を送らせていただいた。
・ み教えに生きる者として、僧も門徒も同じ人として話し合えたことはうれしかった。
・ 初対面の人たちと全員が一丸となって同じ仲間という感じで話し合いが出来て、であった全員が他人と思えなく兄弟のように思えた。
・ 自分の実家に帰ったような気持ちになりました。
 このような、あたたかい人間関係を感じることのできる「話し合い法座」の雰囲気の中で、支えあいの世界を体験することが出来、その結果、 
・ 人間関係について悩みが多くありました。阿弥陀さまと共にいるのだと思えば人間関係もうまく行きそうです。
・ 「私は同和地区の出身です」と法座の中で申し上げました。班のみなさんが本音でお話をしてくれました。同情ではなく、共に涙を流し話し合いました。今までこんなに真剣に話し合ったことはありませんでした。有り難く感謝しています。
・ 人の悩み事や悲しみから救われてこそ宗教と思っていましたが、浄土真宗ではどのようにしたら救われることが出来るのかが疑問でした。示談の時に先生がやさしく聞いてくださり、「このままの私で私の出来ることをすればいいんですよ」とさとされ、肩の荷がすっかりおりてしまいました。しっかり自分を見つめ、念仏をとなえる人生のすばらしさを感じ取れるような気になりました。
 という共感の世界が生まれます。まさに、冨田冨士也さんの言う「絡みあえば互いを肯定しあえる。そして絡みあいつつ、弱音や愚痴をはいたり、聞いたりしてやり取りできる空間」を体験することができます。この体験によって、「お互いが大悲につつまれたいのちであり、御同朋であることを知らされ」、「そこから自己中心的な生き方を見つめ直し、いのちの尊厳と平等観に樹って、本願にもよおされた新しい人生がはじまる」(「基幹運動計画」「浄土真宗のみ教え」)のです。この、御同朋として共に生きることこそが、正定聚の身を生きるということでしょう。このように、養成の過程で「苦悩を共有・共感していく」学びを経験された門徒推進員は、苦悩の現実から出発し、基幹運動計画、重点項目Bの「人々の悩みに応える活動を展開し、開かれたお寺にしよう―すべての人びとが参加し、家庭・地域・職場にみ教えの心を―」という活動など、基幹運動の担い手となっているのです。

 「全員聞法・全員伝道」− 何を聞き、何を伝えるのか

  門徒推進員の研修協議会で、「『全員聞法・全員伝道』と言われますが、阿弥陀さまや親鸞聖人のみ教えを聞かせていただくことはできますが、伝えるとことは難しくて到底できそうにありません。」という意見が出されることがあります。
 親鸞聖人は、『正像末和讃』に、「如来の作願をたづぬれば/苦悩の有情をすてずして/回向を首としたまひて/大悲心をば成就せり」(『浄土真宗聖典(註釈版)』606頁)と、阿弥陀如来がご本願をおこされたのはまず衆生の苦悩の姿を見られ、その衆生の苦悩を哀れんで、大悲のこころを成就されたのだと示してくださいました。その阿弥陀さまのご本願は、「若不生者 不取正覚=もし生ぜずは、正覚を取らじ」(『同』18頁)と誓われているお心、「あなたが仏になることができないなら、私も仏になりません」、すなわち、「あなたの喜びが、私の喜びです」「あなたの悲しみ苦しみが、私の悲しみ苦しみです」というお心でしょう。その阿弥陀さまのお慈悲に包まれ、悲しみ、苦しみを乗りこえる力が与えられます。そのはたらきの中で生き抜く一人ひとりが、お互いに支え合い認めあうところに、正定聚の身を生きる念仏者の姿を見出すことが出来ます。
 私一人のすくいにとどまることなく、どのような形で人びとの苦悩に共感し応えることができるのか、また、人びとの苦悩の中から何を学んでいくのかを、一人ひとりの課題すること、それが「聞法」であり、私たちの身近な人びとの悲しみ、苦しみ、喜びに焦点を当てて、その人びとの悲しみ、苦しみ、喜びに共感し、共に歩むということが、阿弥陀さまの暖かいお慈悲の心を伝える、つまり「伝道」といえないでしょうか。
「阿弥陀さま」「ご本願」「お念仏」といった言葉を聞き、伝えるということを超えて、お慈悲の心を聞き伝えるという営みが、「家庭・地域・職場にみ教えの心を」ということでしょう。門徒推進員は、このような意味において、阿弥陀さまの暖かいお慈悲の心を伝えるために、具体的には、掲示伝道の設置運営や、家庭法座の推進、寺報の作成協力や法座開催に関わるお手伝い、また、新たな門徒推進員を生み出す土台となる各組における連研の運営等を通して、幅広い視点で活動されているのです。
 1997年に勤修された「基幹運動推進御同朋の社会をめざす法要」に際しての消息においてご門主は、「私たちは、差別を根絶するために取り組んでこられた先人の努力の足跡を学び、差別の現実に学んで、その撤廃に積極的に取り組む自らの姿勢を築きあげなければなりません。そのためには、予断を取り除き、思い上がりを離れて、差別・被差別の実態を知るだけにとどまらず、いのちの共感を妨げているものを見抜き、『一切の有情はみなもつて世々生々の父母兄弟なり』というおこころを体して、自ら生き方を変えていくことが大切です」と示されました。
 また、2000年11月6日、本山総御堂においてご門主ご親修のもとで、「同朋運動50周年記念法要」が行われましたが、その法要の表白において、「このたびの同朋運動50年の節目に際し、先人の労苦に思いをはせ、これまでの成果をふまえつつ、宗祖聖人のお心に立ち返り同朋精神にあふれた心豊かな人間関係を築いてゆかねばなりません」と示されました。つまり、基幹運動は、「差別の事実から出発し、予断を取り除き、思い上がりを離れて、差別・被差別の実態を知るだけにとどまらず、いのちの共感を妨げているものを見抜き、同朋精神にあふれた心豊かな人間関係を築いてゆく」中で、推進されなければなりません。まさに、門徒推進員は、消息で示された「いのちの共感」、表白で示された「同朋精神にあふれた心豊かな人間関係」をめざす様々な活動を展開されているのです。

  門信徒と共に歩む僧侶となるために

  前出の富田富士也さんは、「子どもに懐いてもらえる脇の甘さを親自身が育てているだろうか。脇の甘さとは、親のいたらなさも謙虚につぶやくことである。それが絡みあいの第一歩である。」(『同書』)とも指摘されています。
 親として子どもの前に立つとき、なかなか親としてのいたらなさを謙虚につぶやくことはむずかしいようです。僧侶を親、門信徒を子というようにとらえて言うわけではありませんが、ともすれば、僧侶の立場で門信徒の前に立つとき、謙虚さを失ってしまう意識があるように思います。そのことを私たちは、僧侶の差別体質・特権意識・教化者意識と運動推進の中で総括してきました。
 その僧侶としての差別体質を克服することを課題にしなければ、門信徒と課題を共有することはできません。たとえば「差別法名・過去帳調査」で明らかにされた課題、つまり差別法名、差別添え書き、規定外法名をつけてきた過ちを門信徒に謝罪することなしには、法名の本来化の課題を門信徒と共有することはできません。そのような意味で、まずは、門信徒と共に歩む僧侶となることからはじめなければなりません。さらには、「人びとの悩みに応える活動を展開する」と言うとき、悩みを相談するのが門信徒でその相談に応えるのが僧侶であるといった固定的な意識を乗り越え、僧侶としての悩みを門信徒の前に披瀝し、相談するという中で運動を推進するという視点も大切です。このような視点を持って、門信徒と僧侶が共に歩む第一歩を踏み出したいと思います。


昨年(2001)8月に宗報に掲載された文章を季平さんから提供して頂きました。
有難う御座います。