『中外日報』5月4日より転載※尺一氏の意向により中外とはいくぶん違います。

 

「還浄」ないしは「還浄運動」肯定論について

尺一顯正

  還浄ないしは還浄運動肯定論者の人たちは、還浄の概念の正統性を、字義を黙殺して、単に論理の整合性によって主張されているように見受けられます。
  ところで、人の死を「浄土に還る」とする理解は、人間は本来仏であるという立場を離れるわけにはいかないでしょうから、肯定論者のいうような仏教理解は、宗祖においては、比叡山時代の勉学で充分にされていたはずであります。ですから、肯定論者の方々は、宗祖が比叡山をおりられたことの深刻さや、恵信尼文書にみられる法然上人との憾動的なであいは問題にならないのではないのでしょうか。そうとすれば、本願大悲を口称念仏でとらえられた宗祖の体験を無視した、非常に観念的な議論であるとしか言いようがありません。

  ことに私は、この還浄の用語については教団当局に向かってただしたにもかかわらず、当局は何もいわないのに、基幹運動関係者がいろいろと反論されるのはどういう意味があるのでしょうか。
  とくに沖氏は、この還浄運動を「過渡的な形式である」と公言されていますが、過渡的ということは、一時的な便法ということでありましょう。しかし、このような教義の根幹にかかわる問題の表現を、しかも現在これほどまでに意見が分裂している問題であるにもかかわらず、それは過渡的一時的に使うのだと公言するようなことは、まったく無責任といわねばなりませんが、教団当局はどういう考でのことでしょうか。

  また、肯定論者の人たちには基幹運動関係者が多いようですが、この運動にはおしなべて教団の現実の差別体制への批判がないところからは、その、所論の帰結として、何事も現状肯定的方向に向かうことになるのは、自覚されていられることでしょうか。
この国では、かって直接の戦争犠牲者の死を「英霊」と美化することで、国民の不満を吸収しました。そして、私たちの教団は戦時教学によって、こうした国の政策を念仏信心の名において支えました。そのことの反省なくして人の死を「還浄する」と美化することは、ふたたび念仏信心の本義を歪曲することになり、機の深信をかりそめのものとするだけでなく、反靖国をスローガンとして掲げながら、靖国思想を肯定する一面を担うという矛盾を持つものであります。そうした立場を私は教団のエゴイズムだと思うのですが、別の理解の仕方があるのでしょうか。
私は還浄ないしは還浄運動肯定論者は非僧非俗の立場、真宗の人間の生き方を無視されていると思いますが如何なものでしょうか。

  先日、本願寺へ行きまして、入り口の庶務で議員の住所を記載した名簿を求めましたところ、ただ今議会の開催中で本人の承諾が得られないから出せないと拒否されました。そしてこれは、現実の教団の差別体質のほんの一例にすぎません。このようなことは他にもあまりにも多くありすぎますが、そのような現状が全く問題にされていません。

  なお、小武さんの穢れ論ですが、「(穢れ)意識は内心の問題であり、自由であるべきで規制できません。またケガレ意識のあるなしにかかわらず差別は発生します。差別の原因は、経済的・社会的・文化的なさまざまな条件を考えなければならないので、ケガレ意識(観念)だけを特別視するのは問題です。私たちの結論の一つは、ケガレ観念と現代の部落差別問題とを強引に結び付けてはならない、というごく常識的なものです。  (『部落』4月号)」という意見を、私はまっとうな見解だと思います。小武さんの所論は「余のひとびとを縁と」されるあまりの勇み足でありましょうか。


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