せいてん質問箱bS7
(1999夏号6月1日発行)

ふたたび、「浄土にかえる(還浄)」について
ご意見ご質問への答え

    本誌四十四号の私の回答について、ご意見(ご質問)が四通まいっておりましたので、前回の答えを補いながら、再度お答えいたします。四十四号の本文と合せてお読みください。

    まず確認しておきたいのは、四十四号のご質問のテーマ(問題)です。それは、最近葬儀などの際に「浄土にかえった」とか「還浄した」といわれるが、それが真宗の「人の命終(臨終、死)」の表現としてふさわしいかどうかということでした。
    現生(平生)において「浄土にかえる」とする宗祖の用例はかなり多くありますし、平生と臨終、現生と来生、現・当の二益は因果関係にありますから、法義として通じていくのは当然ですが、今の問題は平生業成を宗義とする当流の、人の臨終(命終)に際して使われる言葉づかいの問題です。
 
 

そこで私は、宗祖が「浄土にかえる」と使われる場合で、とりあえず「命終(臨終)の際に使えそうだ」と思われるものを「帰」と「還」と「来」の字に集約して考察するという答え方をしてみたわけです。

▼まず「帰」の字に関係する表現の例として、正信偈の「帰楽邦」をあげ、ついで「帰去来」の語をあげて、これらは直接には平生(現生)の「帰」であって、臨終の時にあらためて「帰する」(かえる)という意味ではないことを示しました。
    善導大師には他にも「帰去来」という語に続く「帰」や「還」の用例がありますが、前後の文脈からお読みになれば、やはり平生(現生)の立場で使われていることがわかります。
    また大師は陶淵明の言葉を借りて「浄土」を「故郷(ふるさと)」になぞらえて表現されますが、それはわれわれが通常に使う「生まれ、育った土地」という意味ではありません。われわれは「曠劫よりこのかた六道に流転して」きたわけですから、われわれ凡夫の「ふるさと」とは、むしろ『歎異抄』に「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里(ふるさと)」とある表現の方がふさわしいと考えて、本文にはそれを引用したわけです。

▼次に「還」の字に関係する表現について、宗祖が法然上人の命終について使われている例、および源信和尚の例をあげました。
宗祖が具体的な人の命終(臨終、死)について、「浄土にかえる」とか「還帰」と使われた例は、結局はこの法然上人の場合に限られます。
    またそれは、もともと浄土に居た人が、その命終によってもとの「浄土(本土)にかえられた」という意味で使われていることを示しました。
    さらにひるがえって、私どもの他力の信心(安心)を二種に開いて示される二種深信の「機の深信」の表現でいえば、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし」(「信巻」、二一七頁以下など)とされるわれわれ凡夫の場合、もともと浄土に居た存在ではありませんから、信のうえからも同じ意味で「かえる」「還る」と使うのはふさわしくないという旨を示しました。

▼ついで「来」の字に関連するものとして、『唯信鈔文意」に「法性のみやこへかえる」と使われる例をあげました。「唯信鈔文意」には「来」の字を「かえる」と釈される例として、一つは法照禅師の「五会法事讃」の「観音勢至自来迎」の「来」(七〇二頁)、もう一つは慈愍三蔵の「聞名念我総迎来」の「来」の釈(七〇五頁以下)の例があります。
    これらは「来」の字を「かえる」と読むことによって臨終来迎でない旨を表そうとされる宗祖の釈でしょうから、基本的には立場を平生(現生)に置いて表現されたものですが、一応考察してみました。
今回沖氏がとりあげられたのはこの前者の「来」の部分です。私はこの部分を法性法身と方便法身との関係において解釈すべきではないかと考えておりますが、ここはやや研究の余地がある部分ですので、四十四号本文では前者をふまえて述べられているであろう後者の例を引いて、「法性のみやこへかへる」と使われるが、それは仏の側からの(約仏の)表現であり、仏が「むかえ率てかえらしむ」こと、つまり仏がもとの浄土およびさとりに「つれてかえる」「かえらしめる」のであって、衆生の立場からの(約生の)表現ではないという旨を示しました。
    そして、それを傍証するために「法事讃』の「仏の帰家に従いて本国に還る」という文をあげ、さらに「愚禿鈔」の「報土に還来せしめん」という文をあげておきました。
    宗祖において(善導大師の引用において)右の文脈で「かえる」と使われる場合、「仏に従って」という前置きがついているということ、またそれがない場合も仏を主語にして、仏が「かえらせる」という意味で使われることを理解していただきたかったわけです。
    それはたとえば病院で生まれた子供が、一度も帰ったことのない家であっても、母親とともに帰るからこそ「家にかえる」といえるのと同様です。「親がかえるのに従って」であるから、子供についても「かえる」と言いうるわけですが、やはり親の立場からの言葉でしよう。

    ご理解いただきたいのは、私は「浄土にかえる」という表現の全てを否定したのではありません。法悦的・詩的な表現は自由な方が味わい深い場合も多いと思います。
    しかし、たとえば妙好人・浅原才市同行が、ご法義をよろこんでお称名することを「念仏の咳が出る」と表したことが、出典はなくてもおもしろい表現だとされるとしても、それを単純に一般化し広めて、「お称名いたしましょう」という場面で、「念仏の咳をしましよう」と表現することがふさわしいとは思えないのと同様に、「浄土にかえる」「還浄」という表現を単純に一般化することは、適切でないという結論を示したのが、私の前回の答えでした。
    伝統的には、弥陀の化身といただく宗祖の命終でさえ、たとえば「殿の御往生」(「恵信尼消息』、八一一頁)と言って、「還浄」とも「浄土にかえる」とも表現してこなかったと思います。                末尾
      (龍谷大学助教授    深川宣揚)



この文章は、龍谷大学助教授深川宣揚師が本願寺から出版されている「季刊せいてん」に 書かれた文章を先生の了承を得て掲載させてもらいました。
先生の御厚意に感謝いたします。
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