浄土真宗において「お浄土にかえる」
という表現はふさわしくないか?

「せいてん質問箱」(『季刊せいてんno.44』)
の回答を批判する

 
安芸教区佐伯奥組大通寺住職・種智院大学教授 沖 和史
 
 
はじめに
 
 私がここで問題とする記事は、「『お浄土にかえる』とは、どういうことですか
?」と題する記事です。最近葬儀の挨拶や書状などで「お浄土にかえりました」「還
浄しました」という言葉を聞くが、目新しい表現に思えるので、その意味を聞きたい
ということでしょう。
 それに対して、回答を担当した深川宣暢氏は、「気になる表現」であるとし、その
表現の根拠となる出典を探した結果、「われわれ凡夫衆生の往生を『お浄土にかえ
る』と言うのにふさわしい出典は見当たらないように思います」と結論づけ、「お浄
土にかえる」と言う者を異義者扱いし、また、「還る」という表現を使用する者は信
心があるかどうか疑わしいとまで極論しています。
 もちろん、深川氏の出典探しが正当なものであれば、この結論と罵倒はゆえあるも
のとして受け入れることができますが、事実は、深川氏の主張通りではありません。
その点を明らかにし、深川氏には、上の不適切な結論を撤回し、事実に基づかない罵
倒を取り下げていただきたいと存じます。また、浄土真宗教学研究所は、このような
不適切な記事を掲載したことをご反省賜り、親鸞聖人のお言葉に従う原点に立ち返
り、事実に基づく編集の決意を新たにしていただきたいと存じます。
 
私の論点
 
 結論から申しますと、宗祖親鸞聖人は、「証大涅槃」(仏さまと同じお悟りを開
き、仏さまと同じ活動をすること。後述典拠8,証巻p.307, p.335参照)について、
「お浄土に往く(参る)」「往生する」などの表現に加え、「お浄土にかえる」とい
う表現の根拠となる引用やご自身のお言葉を残して下さっています。したがって、
「往生の素懐を遂げる」「お浄土へ往く」などと表現することができる事態を「お浄
土にかえる」「還浄する」と言っても、何ら問題はありません。残念なことに、深川
氏は偏った資料しか提供していませんし、示された出典も誤読しています。ですか
ら、親鸞聖人のお示しにしたがって回答しないと、一方的な情報のみを提示して、言
論を操作することになってしまう危険があることを指摘したいと存じます。
 
深川氏の主張の概要
 
 深川氏は、「(凡夫がいのち終わって)お浄土にかえる」と表現する出典は見いだ
せない、なぜなら、いくら親鸞聖人が「(浄土に)かえる」と表現なさっていたとし
ても、
 (1)「帰る」に関しては、浄土が凡夫の故郷ではないから、
 (2)「還る」に関しては、浄土から来た人がもとの所に帰る場合にしか使わない
から、
 (3)「かへる」「来」に関しては、仏がもと居たところに凡夫を連れ帰るのだか
ら、
いずれも「(凡夫がいのち終わって)お浄土にかえる」のとは別のことを意味するか
らだ、と主張されているようです。以下順にこの三点の主張が妥当しないことを証明
します。
 
(1)「帰る」
 
 まず、「(凡夫が浄土に)帰る」という表現の根拠となる文について、深川氏は
 
  典拠1 またいはく(定善義)、「西方寂静無為の楽(みやこ)には、畢竟逍遥
して有無を離れたり。大悲、心に薫じて法界に遊ぶ。分身して物を利すること、等し
くして殊なることなし。(中略)また讃じていはく、帰去来、魔郷には停まるべから
ず。曠劫よりこのかた六道に流転して、ことごとくみな経たり。到るところに余の楽
しみなし。ただ愁歎の声を聞く。この生平を畢へてのち、かの涅槃の城(みやこ)に
入らん」と。(本典証巻、註釈版 p.312; 真仏土巻、註釈版 p.369;七祖篇
pp.405-406)
 
の一部を引用し、「これを根拠に『浄土にかえる』と使うことができると言えなくも
ない」と言いながら、「残念ながらわれわれ凡夫の故郷は『久遠劫よりいままで流転
せる苦悩の旧里』でした」と、凡夫の故郷を娑婆世界(穢土、迷いの世界、苦海)に
限定しています。そして、そのことを理由として、上の文を「ですからここは、善導
大師がこの言葉を借りて、『曠劫よりこのかた流転』してきた迷いを捨てて『浄土に
生まれたい』という強い意志をあらわされたものというべきで、やはり命終の時に
『かえる』と使う根拠になるとは思えません」と結論づけています。
 ここでは、凡夫の故郷は迷いの世界だけであって浄土ではないのだから、「帰去
来」という表現は単に浄土に生まれたい強い意志をあらわしたに過ぎず、いのちが終
わった時に浄土にかえることを意味しないから、「お浄土にかえる」という表現の出
典とならない、という主張になっています。
 しかし、この主張は根拠をもっていません。浄土真宗においては、第一に、凡夫の
故郷はこの世(迷いの世界)に限られているわけではありませんし、第二に「いのち
終われば浄土にかえろう」という「意志」の表明は、この世のいのちが終わるとき浄
土にかえること(浄土で悟りを開くこと)を抜きにしては、空虚な願望の表明に過ぎ
なくなり、回向された真実信心(願生心)を表したものではあり得なくなるからで
す。
 また、善導大師がなぜわざわざ陶淵明の「帰去来(さあかえろう)」の表現を借用
なさったのか、この主張では少しも分かりません。
 凡夫の故郷は穢土だけだという第一の論点を否定すれば、深川氏の主張はまったく
成り立たなくなりますので、その点を論破するために、浄土を故郷とお述べ下さる引
用文、用例を提示します。
 まず、典拠1の文意ですが、当面の論点に関しては、
 
  このいのち(この世の生活)が終われば(「この生平を畢へてのち」)、ふるさ
とである浄土(「西方寂静無為の楽(みやこ)」「涅槃の城(みやこ)」)に帰ろ
う、「魔郷」である「六道」(迷いの世界)には、長く逗留すべきではない。
 
というのが大意です。親鸞聖人は『唯信鈔文意』においては、おそらくこの文をもと
に「法性のみやこへかへる」(後述典拠8)と表現していらっしゃいます。
 善導大師はこの文においては、この世を故郷ではなく「魔郷」(煩悩に支配された
迷いの世界)であって、私たちが長く逗留すべきではない環境であると捉えておられ
ます。善導大師は、以下の文では「魔郷」(迷いの世界)を「他郷」(よその土地)
と仰り、浄土を「自家国」「本国」「本家」(私たち凡夫の帰るべき故郷)と仰って
います。
 
  典拠2 慶ばしきかな、希に自家国を聞くことを得たり。諸仏還帰することを得
と証判したまふ。(法事讃下、七祖篇 p.570)
  意訳:よろこばしいことだ、希有なことに、(私たちは)自分たちの本国(すな
わち帰るべき故郷が、阿弥陀仏によって建立され、いまあること)を聞くことができ
たのである。諸仏は(私たちが故郷である浄土に)帰ってくることができると証明し
請けあって下さっておられる。
 
  典拠3 言を有縁の同行者に寄す。つとめて迷ひを翻して本家に還れ。(往生礼
讃、七祖篇 p.700)
  意訳:同じ念仏行の道を歩む有縁の方たちにことばを与えます。努力して迷いを
転じて(帰るべき)自分たちの家に帰りなさいと。
 
  典拠4 慶ばしきかな人身を得て要法を聞き たちまちに他郷を捨てて本国に帰
ること (般舟讃、七祖篇 p.738)
  意訳:よろこばしいことだ、人間存在に生まれて肝要な(浄土の)教えを聞き、
すぐさまよその土地(である迷いの世界)を捨てて、(自分たちの)本国(すなわち
帰るべき故郷である浄土)に帰ることは。
 
  典拠5 十方の如来舌を舒べて証して 九品還帰することを得と定判したまふ 
(般舟讃、七祖篇 p.746)
  意訳:十方の如来は説法して、かならず往生を求めるあらゆる方たちが(本国で
ある浄土に)帰ることができると、明確に証明してくださっている。
 
  典拠6 またいはく(法事讃・下)、「帰去来、他郷には停まるべからず。仏に
従ひて本家に帰せよ。本国に還りぬれば、一切の行願、自然に成ず。(下略)」と。
(化身土巻p.411、七祖篇 p.585)
  意訳:また善導大師はこうも仰っている。「さあ帰ろう。よその土地には長く逗
留すべきではない。(阿弥陀)仏(の「帰ってきなさい」というご命令)にしたがっ
て、帰るべき家(である浄土)に帰りなさい。*(帰るべき)本国(すなわち故郷で
ある浄土)に帰ったならば、あらゆる行と願が自然に完成するのだ。
*あるいはむしろ「(浄土が帰るべき)本家(であるという教え)に帰順しなさい」
と読むべきか。
 
 以上の用例は、善導大師が浄土を私たち凡夫の帰るべき故郷(本国、本家など)と
表現なさっている例です。浄土が明確に帰るべきところとされている用例は、典拠1
のほかに、
 
  「帰去来、極楽は身を安んずるに実にこれ精なり」(七祖篇 p.450)
 
があります。
 親鸞聖人も浄土について「本国」「本家」という表現を採用なさっていることは、
典拠6において
 
  「去来、他郷には停まるべからず。仏の帰家に従ひて本国に還りぬれば」
 
という善導大師の原文(深川氏が引用)をそのまま引用なさらず、わざわざ
 
  「帰去来、他郷には停まるべからず。仏に従ひて本家に帰せよ。本国に還りぬれ
ば」
 
という表現に変更していらっしゃることから、明らかです。また、穢土(迷いの世
界)を「他郷」(よその土地)と表現なさり、真実の故郷である浄土と対比してい
らっしゃる点は、善導大師からそのまま受け継いでいらっしゃいます。ですから、
「残念ながらわれわれ凡夫の故郷は『久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里』でし
た」という深川氏の理解が、いかに一面的であるかが分かります。
 もちろん、親鸞聖人は、念仏の衆生がお悟りを開くことを、「浄土に往く」「浄土
に往生する」とも表現なさり、「浄土という故郷に帰る」とも表現なさっているとい
うことです。それゆえ、私たちが親鸞聖人にしたがう真宗信者であるならば、「浄土
に往生する」という表現を排除することがあってはならないのと同じく、「浄土にか
える」という表現を排除することもあってはなりません。むしろ、私たちは、親鸞聖
人が「浄土にかえる」とも表現なさった意味や意義をたずねていく必要があると申せ
ましょう。
 親鸞聖人が引用なさった慈愍和尚の次の文も、善導大師の文と同じく、故郷は浄土
であることを明示しています。
 
  典拠7 「ゆめゆめ回心して帰去来。借問ふ、家郷はいづれの処にかある。極楽
の池のうち七宝の台なり。かの仏の因中に弘誓を立てたまへり。名を聞きてわれを念
ぜばすべて迎へ来(かえ)らしめん。」「借問ふ、いづれの処をあひ尋ねてか去かん
と。報へていはく、弥陀浄土のうちへ。」(行巻 pp.173-174)
 
 この文では、故郷(家郷)は「極楽の池のうち七宝の台」とあるとおり、浄土の蓮
であるとされています。だから、「いのち終わればこの世から去って、阿弥陀さまの
浄土という故郷にかえってゆく」という意味が歴然としています。
 以上、「帰る」という表現に関する深川氏の論理(浄土は私たちの故郷ではないの
だから、「われわれ凡夫が浄土に帰る」という表現はふさわしくないという論理)は
成り立たないことを証明しました。
 ですから、「帰る」の語に関して新説を唱えたのは、「いのち終わればお浄土にか
える」「(お浄土をふるさとと仰がれた方が)いのち終わってお浄土にかえられた」
と語った人ではなく、親鸞聖人に背反して、お浄土を帰るべき故郷と受け取ることが
できない深川氏自身です。この「帰る」の一例だけを見ても、深川氏が傲然と「あえ
て『宗義になきおもしろき名目』を使って、それを広めるほどのことはない」と非難
する根拠が存在しないことが分かります。
 
(2)「還る」
 
 つぎに、「還る」の出典探しでは、深川氏は、『源空讃』の一例をあげるだけで
す。また、「還」の字の意味を「もといた所へもどる」という意味でしか理解せず、
「まだ見ぬ故郷に帰る」という用例を否定しているようです。
 しかし、その理解は間違いです。典拠6に示されるとおり、親鸞聖人は、「(凡夫
が浄土に)かえり、悟りをひらく」という意味で「還る」を使用しておられます。そ
れが正しい漢字の使用法であることを示す善導大師の他の用例は典拠2,3,5に見
られます。
 もしも善導大師、親鸞聖人が「還る」の使用をふさわしくないとお考えであったと
すれば、このような用例は絶対に見いだせないことでしょう。すなわち、「還帰」に
せよ「還」にせよ「帰」にせよ、それらの字を使って、「凡夫が悟りをひらく」こと
を「いのち終わるとき凡夫が穢土を去ってお浄土にかえる」と表現してもまったくさ
しつかえないことは、上の典拠から明らかです。
 一方、「還帰」「還」の字を「もともとお浄土から来られた方」(還相の菩薩)だ
けに使用すべきであるという深川氏の主張には、親鸞聖人、善導大師の上の用例を覆
す根拠が示されていません。深川氏は、親鸞聖人や中国人の善導大師より漢字の使用
法に詳しいお方なのでしょうか。
 さらに、典拠2,3,5,6を無視して「凡夫の往生を『浄土に還る』と言うのは
ふさわしくありません」と言い、「機の深信は無いのかしらんといぶかしく思われま
すし」「法の深信も無いのかと疑われかねません」と言う深川氏は、「機の深信・法
の深信」を私たちにお示し下さった善導大師、親鸞聖人を根拠なく誹謗することに
なってしまっています。これでは、深川氏の主張と、それを掲載した浄土真宗教学研
究所とが依って立つ立場はどこにあるのか分からなくなってしまいます。かように、
深川氏の用例探しはずさんで、批判に耐えないものです。
 
(3)「来」と「かへる」
 
 深川氏は、『唯信鈔文意』の一文を引用して、この場合の「かへる」とは、「如来
さまがつれてかえるという『かえる』です」「われわれ凡夫衆生から言えば、やはり
如来さまにつれられて『往く』、あるいは『参る』ことになる」と言い、通常の日本
語の使い方を破壊しています。
 日本語の使い方において、連れて帰って頂くのなら、「かえる」と言うべきではな
い、「いく」と言うべきだ、という深川氏の主張は妥当性をもちません。たとえば、
白川晴顕氏は
 
  「最近は病院で出産する人が殆どです。子供が誕生してしばらくすると、母子と
もどもわが家に帰っていきます。病院で生まれ、いまだ一度も帰ったことがない家で
あろうとも、『家に帰る』という使い方がされます。この娑婆世界に生まれ、一度も
往ったことのない浄土であっても、帰るべくして帰るわが家こそ安住の地である浄土
の世界といえます」(『大乗』通巻五六二号)
 
と、「帰る」という言葉が使われることをはっきり示しています。
 しかし、現下の主題は、私たちの「かえる」の使用法ではありません。親鸞聖人の
ご使用法なのです。『法事讃』にも、その引用である典拠6にも
 
  「本国に還りぬれば」
 
とあるとおり、私たち衆生が阿弥陀仏にしたがって「帰る(還る、還来する)」と表
現して何らさしつかえないことが、善導大師、親鸞聖人の「かえる」のご使用法から
明白です。
 阿弥陀如来の他力回向により、私たち衆生が「(浄土に)帰る」(悟りをひらく)
のに他ならないからこそ、親鸞聖人は「法性のみやこへかへる」と仰ったはずです。
もし、「かえる」がふさわしくないと親鸞聖人がお考えであれば、次に示す典拠8の
文脈で、わざわざ典拠1に基づく「かへる」という表現を採用なさるはずがないでは
ありませんか。
 
  典拠8 「来迎」といふは、@「来」は浄土へきたらしむといふ、これすなはち
若不生者のちかいをあらはす御のりなり。穢土をすてて真実報土にきたらしむとな
り、すなはち他力をあらはす御ことなり。
 Aまた「来」はかへるといふ、「かへる」といふは、願海に入りぬるによりてかな
らず大涅槃にいたるを「法性のみやこへかへる」と申すなり。「法性のみやこ」とい
ふは、法身と申す如来のさとりを自然にひらくときを、「みやこへかへる」といふな
り。これを「真如実相を証す」とも申す、「無為法身」ともいふ、「滅度に至る」と
もいふ、「法性の常楽を証す」とも申すなり。このさとりをうれば、すなはち大慈大
悲きはまりて生死海にかへり入りてよろずの有情をたすくるを「普賢の徳に帰せし
む」と申す。この利益におもむくを「来」といふ、これを「法性のみやこへかへる」
と申すなり。(唯信鈔文意 p.702 文中の番号は説明のため筆者がつけた。以下の例
も同じ)
 
 この文は、「観音勢至自来迎」という文中の「来」という語を、他力信心の立場か
ら再解釈なさったものです。ですからつねにこの点に留意しながら拝読する必要があ
ります。(1)「帰る」(典拠1)の項で指摘したとおり、「法性のみやこへかへ
る」という表現は、善導大師のお言葉を日本語で表したものですから、素直に読め
ば、@「来」(きたらしむ)の字は、阿弥陀仏が本願力により念仏の衆生をして
「(念仏の衆生の故郷となった)報土にかえってこさせる」(『愚禿鈔』 p.539では
「還来せしめる」)こと、すなわち「他力」を示す、A念仏の衆生が往相回向の利益
としてお悟りを開き、そしてすぐさま還相回向の利益を得るのを「法性のみやこにか
える」と表現する、という親鸞聖人のご指摘であろうと存じます。これは証巻の内容
(p.307, p.335参照)と比較しても容易に理解することができます。
 Aのご指示で明らかなとおり、親鸞聖人は、凡夫がお悟りをひらくのを、法性のみ
やこに「かえる」と仰り、「参る」「往く」とは仰っていません。ですから、親鸞聖
人が「かえる」という表現はふさわしくないなどとお考えになったはずもありませ
ん。かえって、来迎往生と紛らわしい深川氏の読み方とは対照的なご説明をなさった
ことが分かります。
 
  典拠9 「総迎来」といふは、「総」はふさねてといふ、すべてみなといふここ
ろなり。「迎」はむかふるといふ、まつといふ、他力をあらはすこころなり。「来」
はAかへるといふ、@きたらしむといふ、B法性のみやこへむかへ率てきたらしめ、
かへらしむといふ。C法性のみやこより衆生利益のためにこの娑婆界にきたるゆゑ
に、「来」をきたるといふなり。A法性のさとりをひらくゆゑに、「来」をかへると
いふなり。(唯信鈔文意 p.705)
参考:「総迎来」は、Bすべてみな浄土へむかへ率て、かへらしむといへるなり。
(唯信鈔文意 p.707)
 
 この文は、深川氏も引用しています。典拠7にある文「かの仏の因中に弘誓を立て
たまへり。名を聞きてわれを念ぜばすべて迎へ来(かえ)らしめん」に対するご説明
です。この文章は難しく、私にはうまく理解できませんが、典拠8と同様に、自力信
心(来迎を待つ心)の立場から「私(阿弥陀仏)が来迎して連れ帰りましょう」とい
う意味でこの文を捉えてはならないことを示すために、「迎来」という語を他力信心
の立場から解釈なさったものです。だから、「来」という字は、@如来の側からいえ
ば衆生を「(故郷の浄土に)来させる」、A衆生の側からいえば「(故郷に)かえ
る」、B阿弥陀仏は、念仏の衆生をして「すべてみな」(「総」)、「むかへ率て」
(「迎」)、「(法性のみやこへそしてこの娑婆界に)きたらしめ」「(法性のみや
こへ)かへらしむ」(「来」)、C(往生者が)衆生利益のためにこの娑婆世界に来
る、の四通りを意味するのかと存じます。
 すなわち、真実信心の行者にとっての「迎来」とは、他力により往相還相の二回向
が実現することであると領解せよとのご指示と受け取ることができます。
 この場合も、典拠8の場合と同じく、もしも「かえる」という表現は凡夫にふさわ
しくないと親鸞聖人がお考えであったとすれば、A(「『来』はかへるといふ」「法
性のさとりをひらくゆゑに、『来』をかへるといふなり」)のご説明はあり得ないこ
とです。また、深川氏の理解のように、たんに「(如来さまが)つれてかえる」とい
う意味のみであるとすれば、「臨終来迎」との区別が曖昧になってしまうおそれが出
てきます。
 すなわち、ここで「来」と表現されているのは、「帰去来(さあ帰ろう)」という
信心(願生心、欲生心)を私たちにもたらす、阿弥陀如来の「かへらしめむ」(帰ら
せずにはおかない)という誓願なのだということを、親鸞聖人はお示し下さっている
のです。ですから、私たち念仏の衆生の側から言えば、「他力回向により、私たちは
浄土に帰る、すなわち、法性のさとりをひらく」という表現が妥当することが分かり
ます。
 
(4)間違った結論に基づく情報操作の問題
 
 以上、「われわれ凡夫衆生の往生を『お浄土にかえる』と言うのにふさわしい出典
は見当たらない」という結論が、一方的な情報の提示による間違った結論であること
を示しました。
 ですから深川氏が、この間違った結論と、この表現が最近使われ始めたという臆断
から、「なぜこういう言い方がされるようになったのか」と、理由を現代に求めて妄
想しても、適切な理解が得られるはずがありません。まして、親鸞聖人、善導大師に
遡ることができる「お浄土にかえる」という表現を、「宗義になきおもしろき名目」
と断言することなど、言語道断です。それとも、深川氏と浄土真宗教学研究所の「宗
義」とは、お二人のお言葉をないがしろにするものなのでしょうか。
 さらに、深川氏は回答の最後部分で、「お浄土にかえる」という表現が「味わい深
く、ご法義に適うような表現」ではないと断じておられるようですが、そうであれ
ば、上に挙げたとおり、親鸞聖人も善導大師も、味わい浅く、ご法義に適わない表現
を採用していらっしゃることになってしまいます。「お浄土にかえる」という表現が
味わい浅くご法義に適わないと断ずる深川氏自身とその深川氏の見解を掲載した浄土
真宗教学研究所の浄土真宗のよりどころは何なのでしょうか。読者も私もとまどうば
かりです。
 以上の通り、一方的な情報を提示して「お浄土にかえる」と表現する者を貶める、
深川氏のこの回答と、それを掲載した浄土真宗教学研究所の姿勢は、自らを検閲官と
して言論を操作し統制しようとする危険な兆候を明らかに示しています。ですから、
このような情報操作に陥らないためには、最初の問題の立て方を改めて、「お浄土で
お悟りを開く」ということを「お浄土に往く」とも「お浄土にかえる(かへる、帰
る、還る)」とも表現する事実から出発し、読者の質問にお答え下さることが必要で
あったということでありましょう。そうすることが、一九九七年「秋の法要」におけ
るご門主の御法話をゆえなく貶めることにもならない道であろうと存じます。
 
 
上記の文章は、沖師が教学研究所宛に提出したもので、『季刊せいてん no.44』に掲載された深川宣暢氏の文を逐一批判したものです。
 この文では長すぎるという教学研究所の意向にしたがって書き直したのが「親鸞聖人のおことばにしたがって浄土にかえろう」(『季刊せいてん no.47』)です。
 沖師から、原稿を送って頂きましたので、ここにアップいたします。
公開は、始めてのようで、「還浄」問題を考えるにあたって第一級の資料と成るうるでしょう。
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