せいてん質問箱bS7

(1999夏号6月1日発行)

ふたたび、「浄土にかえる(還浄)」について



親鸞聖人のおことばにしたがって
浄土にかえろう

安芸教区佐伯奥組大通寺住職・種智院大学教授
沖和史

浄土真宗教学研究所の委嘱により「せいてん質問箱」を担当する深川氏は、宗祖親鸞聖人の「言葉の使い方」を調べた結果「われわれ凡夫衆生の往生を『お浄土にかえる』と言うのにふさわしい出典は見当たらない」と結論づけ、「御同行が浄土にかえられた」と言う者を異義者扱いし、「還」の字を使用する者は信心があるかどうか疑わしいと極論しました。
  しかし「法性のみやこへかへる」という宗祖のお言葉は、《私たち念仏の衆生がこの穢土の命を終えて浄土に生まれ、仏さまと同じ悟りを開く》ことを意味しています。宗祖のこの表現を氏が正当に扱わず、命終時に「念仏者が浄土にかえる(帰る、還る)」と仰る方々すべてを誹諺しているのは、とてもいたましく悲しいことです。
  仏教の伝統に従い、宗祖は凡夫の悟り(証大涅槃)をさまざまに表現なさいます。「証巻」では、
  煩悩成就の凡夫(中略)正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。かならず滅度に至るはすなはちこれ常楽なり(三〇七頁)
と仰り、以下「畢寛寂滅」「無上涅槃」「無為法身」「実相」「法性」「真如」「一如」と言い換えておられます。善導大師からは、
  畢命を期として、この穢身を捨てて、すなはちかの法性の常楽を証すべし (三一二頁)
  西方寂静無為の楽には、 畢寛逍遥して有無を離れ たり。(中略)帰去来、魔郷 には停まるべからず。曠劫 よりこのかた六道に流転し て、ことごとくみな経たり。 (中略)ただ愁歎の声を聞 く。この生平を畢へての ち、かの涅槃の城に入らん (三一二頁)
の二文を引用され、命終後の法性・常楽・寂静・無為・涅槃という悟りの境地(浄土、『唯信鈔文意』七〇九頁)を示す「楽」「城」を、西方の「みやこ」と訓読なさいます。おそらくこれらの文に基づき、宗祖は『唯信鈔文意』で「法性のみやこへかへる」と仰いました。
  また「来」は「かへる」とい ふ、「かへる」といふは、願 海に入りぬるによりてかな らず大涅槃にいたるを「法 性のみやこへかへる」と申 すなり。「法性のみやこ」 といふは、「法身」と申す 如来のさとりを自然にひら くときを、「みやこへかへ る」といふなり。これを「真 如実相を証す」とも申す、 「無為法身」ともいふ、「滅 度に至る」ともいふ、「法性 の常楽を証す」とも申す なり。このさとりをうれば、 すなはち大慈大悲きはまり て生死海にかへり入りて よろずの有情をたすくる を「普賢の徳に帰せしむ」 と申す。この利益におもむ くを「来」といふ、これを 法性のみやこへかへる」 と申すなり (七〇二頁)
  この文により、浄土で凡夫が悟りを開くこと(自利利他円満)を「法性のみやこへかへる」とも表現することが明らかです。
  したがって、この穢土の命が終わる時に私たち凡夫が浄土に「往く」もしくは「かえる」と言う場合、ともに《凡夫が悟りを開き、すぐさま利他行に専念する》ことを意味します。凡夫の往生成仏を「浄土にかえる」とも表現する根拠は、宗祖の以上の叙述に明瞭に見いだすことができます。
  なお、「来」が他力を意味するという宗祖の第一釈は、仏を主語として「来」を「きたらしむ」(七〇二、七〇五頁)または「かへらしむ」(七〇五頁)と使役形で訓読され、凡夫を主語とする「かへる」という定動詞形では訓読されません。第一釈と第二釈とは、
それぞれ、
[願力成就の阿弥陀仏が 凡夫をして穢土をすてさせ て]浄土にかえらせる(「来」 は仏の他力を示す) [阿弥陀仏の本願力回向 により、凡夫は城土を去り] 浄土にかえる(「来」は凡夫 の開悟を示す)
と現代語で示すことができます。同じ事態について視点を変えて仰っていることが明らかです。ですから「われわれ凡夫衆生から言えば、(中略)『往く』、あるいは『参る』ことになる」という深川氏の主張は、宗祖の言葉のご使用法に違背しています。
  そして、宗祖がここで「往く」でなくわざわざ「かへる」と仰るのは、上述した善導大師の文に「帰去来、魔郷には停まるべからず」とあるのによると思われます。つまり、浄土を凡夫の故郷に見立てて「みやこへかへる」と仰ったのです。それを傍証するのは宗祖の次の引用です。
  ゆめゆめ回心して帰去来。 借問ふ、家郷はいづれの 処にかある。極楽の池のう ち七宝の台なり。(中略) 借問ふ、いづれの処をあひ 尋ねてか去かんと。報へて いはく、弥陀浄土のうちへ (一七三〜四頁)
  これは、浄土を凡夫の帰るべき「家郷」(故郷)と明示する文です。善導大師も、浄土を凡夫願生者の「自家国」「本家」「本国」と仰って帰るべき故郷になぞらえ(七祖五七〇、七〇〇、七三八頁)、浄土に対する穢土・魔郷を「他郷」と表現なさいます(同五八五.七三八頁)。これらの表現を宗祖も採られたことは、
  帰去来、他郷には停まる べからず。仏に従ひて本 家に帰せよ。本国に還りぬ れば、一切の行願、自然に 成ず
という引用文(四一一頁、「他郷」の脚註もご覧下さい)から知ることができます。
  さらにこの文から、悟りが自然に完成する境地である浄土(本国)に凡夫が「かえる」ことを示す漢字は、「還」でもよいことがわかります。もしも宗祖が「還」の使用を、命終時の凡夫往生の表現には「ふさわしくない」とお考えであ
ったとすれば、この引用はありえなかったことでしょう。
善導大師の用例は、七祖五七〇、五八五、七〇〇、七四六頁に見られます。
  以上の簡単な考察により、
@浄土は凡夫の故郷ではないのだから、「帰る」は命終時には使えない、
A死の場面においては、化身が浄土に帰る場合にしか「還る」は使わない、
B「かへる・来」に関しては、命終時に仏がもといた所に連れて「かえる」のだから、凡夫が行う行為としては「往く」と言うべきだ、という深川氏の主張(取意)は、いずれも宗祖の「言葉の使い方」に基づかないことが判明しました。
ですからこれらを論拠とする氏の上述の結論や極論が正しくないのも当然です。私たちは氏の誤った見解に惑わされることなく、宗祖が「かえる」と表現なさった意義を学ぶ必要があると申せましょう。
  なお、「浄土にかえる」と言う方々を貶める深川氏の極端な主張を採用した浄土真宗教学研究所は、読者に偏った情報を与えて言論を操作する過ちに陥っています。ですから、偏らない回答のためには、「浄土に生まれ悟りを開く」ということを、浄土に「いく」とも「かえる」とも表現なさった事実から出発することが必要であったということでありましょう。



沖さんの他にも、
「仏典の表現において阿弥陀様とわたしの関係を、親と子としての比喩表現でとらえ味わっていくなかで、如来様よりひとり子としてみそなわされ親元へつれ帰るぞとのはたらきをまうけにうけた表現として、〈還浄〉や(還帰〉という表現が今日使われるのではないでしょうか。〈還浄〉を信をはなれて機の側より文字どおりみると、われわれはもともと浄土に存在していたとは考えられないとなりますが、私たちの信心が仏のはたらきによって成立していることから意味するところを味わうと、仏の側からのはたらきかけから(還浄〉と信のうえからは使ってもよいのではないでしょうか。〈還浄〉や(還帰〉を仏の心として考えた場合には、それら二つの表現は慈悲心と言うことになると思います」
とのご意見や、
「昭和五十年代の頃から忌中に代って〈還浄〉の文字をもって表示され、葬儀が執行されつつあります。この用法は、本願寺教団における統一見解に基づくものでありましょうか。私が聴聞させていただいた感覚では、阿弥陀様の本願力(名号の功徳力)によってお浄土に往生させていただくのですから(往浄〉のほうがより適切な用語のように愚考されますが、いかがなものでありましょうか」とのご意見もいただいております。


この文章は、種智院大学教授沖和史師が本願寺から出版されている「季刊せいてんbS7」に 書かれた文章を先生の了承を得て掲載させてもらいました。
先生の御厚意に感謝いたします。
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