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「お浄土にかえる」
とは、どういうことですか?

●質問●
最近、葬儀などで、「お浄土にかえる」という言葉をよく聞きます。
会葬の方がおっしゃることもありますが、ご遺族か
ら「還浄しました」という知らせがあることもあります。
「お浄土へ往く」とか、「お浄土へ参る」とはよく
聞きましたが、「かえる」とはあまり使われていなかったように思います。
いかがなものでしょうか。

●回答●
確かにあまり耳慣れない、気になる表現ですね。
「お浄土にかえる」と言われる場合、問題はその「かえる」という言葉の使い方でしょう。親鸞聖人が使われた「かえる」という字を見てみますと、ひらがなの「かえる(かへる)」以外に、反る、向る、更る、来る、廻る、帰る、還る、還来る、等がありますが、命終のとき「浄土にかえる」と使われる文脈で通ずる用例としては、「帰る」と「還る」、そして「来る(かへる)」とに集約できると考えられます。
    まず「帰る」という字は、通常「帰命」「帰依」「帰入」などの意味で使われていますが、「浄土に帰る」という文脈では、「正信偈」に、「焚焼仙経帰楽邦(仙経を焚焼して楽邦に帰したまひき)」という例が出てきます(二〇五頁)。

    しかしこれは曇鸞大師が仙経を焼き捨てて浄土門に帰入したという意味ですから、現生、平生の「帰る」であって臨終の際に使われるべき「かえる」ではありません。
「帰」の字の意味で命終の時に使えそうな例を探してみますと、善導大師が「定善義」に陶淵明の「帰去来の辞」をもちいて、

    帰去来、魔郷には停まるべからず。曠劫よりこのかた六道に流転して、……この生平を畢へてのち、かの涅槃の城に入らん

とあるのを引用されたものがあります(「証巻」、312頁、と「真仏土巻」、三六九頁に引用)。
    これを根拠に「浄土に帰る」と使うことができると言えなくもないとは思います。
    しかし、この「帰去来」は、陶淵明が職を辞して故郷に帰ろうという強い決意をあらわした言葉ですが、残念ながらわれわれ凡夫の故郷は、「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里」(『歎異抄』、八三七頁)でした。
    ですからここは、善導大師がこの言葉を借りて、「曠劫よりこのかた流転」してきた迷いを捨てて「浄土に生れたい」という強い意志をあらわされたものというべきで、やはり命終の時に「かえる」と使う根拠になるとは思えません。
次に「還」の字で「浄土にかえる」という文脈にあう例を探してみますと、

    本師源空命終時
    建暦第二壬申歳
    初春下旬第五日
    浄土に還帰せしめけり
        (「源空讃」、五九八頁)

とあって、お師匠・法然上人の命終をうたわれた和讃があります。この「還帰」は、その三首前の和讃に、

    阿弥陀如来化してこそ
    本師源空としめしけれ
    化縁すでにつきぬれば
    浄土にかへりたまひにき

とある意味で、「浄土にかへる」と使われていることがわかります。すなわち法然上人は、もともと浄土からこの土(娑婆)にこられた方であるから、「浄土にかえ」られたというわけです。
    これと同様の例は源信和尚の和讃にも「本土にかへる」(五九三頁)として使われていますが、いずれにしても、もともとお浄土から出て来られた方が、もとの浄土に「還られた」という意味です。
「還る」とは、もといた所へふたたび行くこと、もどるということですね。
    今の問いにある「浄土にかえる」は、この「浄土に還る
という意味で使われているようですが、やはり凡夫の往生を「浄土に還る」と言うのはふさわしくありません。
    かえって「罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず」(二一七頁)という「機の深信」は無いのかしらんといぶかしく思われますし、ひいては「願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず」という「法の深信」も無いのかと疑われかねません。
    もう一つ「来」の字で「かえる」と使われる例に「唯信鈔文意」があります。すなわち、

    「来」はかへるといふ、きたらしむといふ、法性のみやこへむかへ率てきたらしめ、かへらしむといふ。
    法性のみやこより衆生利益のためにこの娑婆界にき    たるゆゑに、「来」をきた    るといふなり。法性のさとりをひらくゆゑに、「来」をかへるといふなり                                (七〇五頁)

と使われています。
しかしこれは、文中にあるように、弥陀如来が「むかへ率てかへらしむ」ということ、つまり如来さまがつれてかえるという「かえる」です。
    すなわち如来さまから言えば、もといた所につれて「かえる」なのですが、われわれ凡夫衆生から言えば、やはり如来さまにつれられて「往く」、あるいは「参る」ことになるわけです。

善導大師の「法事讃」には、

    去来、他郷には停まるべからず。仏の帰家に従ひて    本国に還りぬれば、一切の    行願自然に成ず                                (七祖五八五頁)

とありますし、「愚禿鈔」に、

    「来」の言は、去に対し往に対するなり。また報土に還来せしめんと欲してなり                                (五三九頁)

といわれるのも、その意味をあらわしています。
    右のように見てみますと、やはりわれわれ凡夫衆生の往生を「お浄土にかえる」と言うのにふさわしい出典は見当らないように思います。
    ではなぜこういう言い方がされるようになったのかと考えてみますと、そこに「往生」という言葉が世俗化してしまったという原因が考えられます。つまり「往生する」という言葉が世間の手垢のついたものになってしまったからではないかということです。
    しかしだからといって、あえて「宗義になきおもしろき名目」(「御文章」、一一七七頁)を使って、それを広めるほどのことはないと思います。
「お浄土へ往く」とか「参る」「往西方の本懐を遂げる」あるいは「往生成仏の素懐を遂げる」などという表現でおもしろくないのなら、もっとおしゃれで味わい深く、ご法義に適うような表現を探してみてください。

(龍谷大学助教授    深川宣揚)



この文章は、龍谷大学助教授深川宣揚師が本願寺から出版されている「季刊せいてん」に 書かれた文章を先生の了承を得て掲載させてもらいました。
先生の御厚意に感謝いたします。
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