棚原正智様

  まだまだ問題は続くでしょうが、一応、いままでのやりとりで締め括りをしておきます。

  私が人の死を「還浄」とする言葉を知りましたのは、2・3年前のことであります。そして、こういう言葉が生まれるのは、親鸞聖人の「証知生死即涅槃」とか、「煩悩菩提体無二」というような論理の斉合性を超えた表現を理解するために天台の本覚法門を導入したのだなと理解していました。今もその通りであります。
  なるほど天台の本覚法門を採用すれぱ、人間本来仏であるということですから、「証知生死即涅槃」とか「煩悩菩提体無二」という表現は簡単に分かります。しかし、このような理解は非常に観念的な理解に過ぎないものでありまして、心身を満たすものではありませんために、親鸞聖人が法然上人の教えによって、口称念仏によって体得された世界であり、口称念仏の開く世界であればこそ具体的な世界なのであります。
  観念的な理解に過ぎないということは、昨年住職である私の息子が、1月17日に死んだのでありますが、彼の死を「還浄」、浄土に還ったと捉えればよく分かることであります。私の息子の死が「還浄」したということであれば、彼は『竹取り物語』の「かぐや姫」と同じ存在になりますし、残された私たち遺族は、「かぐや姫」に捨てられた養父母ということで、死にました息子と私たちは全く種類のちがった人間であったということになってしまうからであります。

  私の議論に対していろいろと反応がありましたが、ひとつだけ代表的なものをだしますと、龍谷大学編・昭和38年第10版『真宗要論』107頁「衆生論」によるものであります。それによりますと、

  「しかしながら、仏と衆生とはひとしく一如法性より縁起したとは言え、仏は全性修起したものであるから、一如の徳が全現しているのに対し、衆生はそれに背反して願われ出たものであるから、一如の徳は全く覆蔽されている。ここに同じ真如一元より縁起しながら、迷悟両界として別れる理由がある。さりながら、この衆生も一如真如より縁起したものである限り、その根底には本具の性を認めないわけにはゆかない。云々」
とあるから私の議論は間違いだということです。しかし、この議論は責任主体もない非常に観念的なもので、カメレオンが枯葉の上では枯葉色になり、青葉の上でに青色になるたぐいのものでしかありません。私は沖論説が何ゆえに「還浄」なのがどうも見当がつきかねていますが、どうやらこのカメレオン的なせいで見当がつきかねていることが分かりました。人の死を還浄ととらえることは、人間は浄土から生まれて来たものであるということが前提になっています。とすれば人間の行業も仏の行為と解釈することも可能となり、現実肯定的な立場を開くもので、同和問題と自己矛盾する立場ともなるのであります。
  『中外』で拝見しました論説は、
(真俗二諦という)『内面に閉じ込められた信仰の帰結として、〈来世の浄土(この世から隔絶した別時間・別世界)においては、完全平等が実現するが、穢土であるこの世と教団においては、身分差別が存在するのは当然だ〉とする、身分差別を内包する「真宗」教義が説かれていく』
とされながら、
『「忌中」も「清め塩」も止めよう、そして「還浄」を梃子にして真宗の死生観を伝えていこう、というのが「還浄」運動である』
とカメレオン的な、とんでもない発言となりますから、
『「還浄札」自体は無意味であるが「還浄」の張り札は、過渡的な形式であると考えている』
となるのでありましょう。「還浄」乃至は「還浄運動」を対策的なものとして肯定し、その展開をはかることになるのでしょう。運動を肯定することは、そうなります。

  これで一応の締め括りとします。

1999・12・28  尺一顕正



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