ハンセン病差別から見えるもの

棚原  正智

【はじめに】

  過去宗門では、1987年にハンセン病差別法話問題が提起され、取り組みがなされてきた。しかしハンセン病差別という点では、1954年(S29)年の<註1>亀川村差別事件がある。これを契機に部落差別と業に対する取り組みは不完全とはいえなされたが、同時に前世の業とされたハンセン病に対する取り組みの皆無であったと言えよう。
  この小論は、今改めてハンセン病を取り巻く差別と佛教の関係を明らかにし、今後同様の差別構造が継続しないために確認をするものである。
  ここで問題とするハンセン病は、かつて「らい」と呼ばれていた。この「らい」という病名からくる差別と偏見に対する固定観念を打破するために、全国の療養所入寮者の団体である「全患協」では病名変更運動を展開し、現在はハンセン病という名前で定着したと思う。
  しかしこの小論では、明治期以前の病名を「らい」、発症者を「らい者」と記すことにする。理由は、後に記述するが「らい」という言葉は病名だけの意味ではなく、身分を指す名称であると推測されること、そして、明治以前は、「らい」という病名は、現在のハンセン病を指すだけではなく広く皮膚病を指していたように思われ、その中でハンセン病だけを取り出して論じることが不可能なことというのがその理由である。
  近世以前においては、病気の名称であり身分の名称であったことが、ハンセン病を取り巻く差別が複雑化する要因であったように思える。また近代・現代には、富国強兵論や優生思想による、発症者の囲い込み。そして、今なおHIVやB型肝炎、また障碍者に対してにハンセン病発症者が受けている差別構造が移行しているように思える。
  浄土真宗においても「らい」及びハンセン病に対する歴史を明らかにしているとは言えない。

【身分の時代】

  まず、「らい」とは、歴史的には広く皮膚病が含まれる、人類が最初に認識した感染症ではないかという推測がある。
  この病気に対する受け取り方は時代や文化によっても様々である。
  日本では、日本書紀・令義解など8.9世紀の頃から記載がある。<註2>日本霊異記下巻20には、法華経を書写していた女の人をそしった罰として「白癩」になるという話が出てくる。これは「法華経・普賢菩薩勧発品」を元とした説話で、後々業病説と言われるように成った所以である。また、ここから「らい者」が法華経に帰依すると病気が治るという逆説的伝説が生まれ、熊本の本妙寺のように「らい部落」が出来る要因になったところでもある。
  先の業病という概念であるが、日本では、元々業病説ばかりでは無かったようで「覆載万安方」では主に風病(五大種の内のバランスが崩れること)鎌倉時代の医学書「医談抄」では、天刑病「天の病ましむる病也」とし、律令は解説書である「令集解」では毒虫説)としているが、仏教が広まるとことにより「業病」説が定説化していく。
  ハンセン病と業の関係では、先の法華経が有名だが、浄土教の聖典である法事讃にも「人中に生じて、聾盲レル・疥癩癰疽・貧窮下賤にして、」(註釈版七祖篇P544)と業病としてのハンセン病が出てくる。
  仲尾俊博師の指摘に、<註3>「倫理性の強い因果思想は中国に入って中国の勧善懲悪な儒教倫理に順応して差別を支える」とあるように、中国に入って為政者の思想である儒教を取り込んだことに問題があるように思える、また日本での佛教は元々為政者のものであったのでこのような儒教的因果論や業は都合が良かったのかも知れない。しかしそのような為政者の論理である業論を点検もせずに用いてきた僧侶の責任である間違いはない。
  さて、キリスト教文化圏では、聖書に基づくラザレットという施設が療養所の先駆け的存在であったが、日本では、光明皇后の悲田院や、文殊信仰や地蔵信仰の影響から「救癩事業」は多数見られる。特に叡尊(1201−1277)や忍性(1217−1303)の救癩活動が有名で、中には西山光明院のように近代まで続いたものもあるが、残念ながら南北朝以降無くなる。その救癩活動だが、今日考えられるような、治療行為が主な活動ではなく、病人の極楽往生をかなえるために、念仏を称えさせたり臨終行儀のための行為であったとの指摘がある。また日蓮(1222−1282)は忍性たちの救癩を含めた慈善活動を「聖愚(しょうぐう)問答抄」1265年の中で、偽善的である言っている。
  しかし、社会福祉という言葉もなかった時代、忍性たちの行動は一定の評価出来るものである。
  さて、親鸞聖人(1173−1262)と「らい者」との関わりであるが、歴史的資料としては残っていない。しかし、いくつかの関係は推測出来る。
ひとつは親鸞聖人と<註4>善光寺の関係である。親鸞聖人と善光寺は非常に深い関係があるという五来重師の論がある、善光寺聖としての親鸞聖人像がそれである。善光寺には、「町離」とよばれるエタ身分、「横大門の者」というヒニン身分そして「道近坊」という三種の賤民が在った、「道近坊」には頭がいて、「町離」頭の支配を受けていたようで、この「道近坊」と呼ばれる人たちは「らい者」の集団で、僧体で善光寺境内や町中で勧進(物乞い)や、病人の介抱や死体の処理、田畑の見回りをしていたとされる。このことは田畑の見回り以外は中世の時宗僧や聖たちと同じである。親鸞聖人も聖としてこの集団の中で交流があったはずだ。
  次に、親鸞聖人との関係を伺わせるものに、御絵伝に見られる「犬神人(いぬじにん)」を通しての関係である。犬神人(いぬじにん)は元来、神社の下級神職を指す、社の清掃・警固、祭礼の先達、葬送、らい者やヒニンの管理、山門強訴の先兵などと、当時の社会からは考えると非日常的な部分や社会外の部分「ケ」を担わされていた。
  この犬神人がなぜ、親鸞聖人の葬送の場に登場するのか。明治三十二年刊の「親鸞聖人四幅御絵傳指南」には、「是なるは犬神人(つるめそう)なり。また夙(しゅく)のものともいふ。(略)祇園會には甲冑を帯して鉾を突出(つきいづ)るなり。今本寺方の葬儀の時にも是の如く。赤き装束に白き頬冠りをして。棒を突きて出る。」とあります。犬神人(いぬじにん)弦召(つるめそ)夙(しゅく)と混乱が起きているが、歴代門主の葬送には犬神人が先達したということが述べてある。例えば、「実如上人闍維中陰録」(真宗資料集成第2巻)「一御葬送御供之次第。一番に棒の衆十人、次に調声鈴の役人、次に御一門衆、次に坊主衆、次に提灯、次に御輿、次に若子・蓑衣の衆悉御供なり。」中の「棒の衆」というのがそれにあたる。また、<註5>証如上人の日記にも度々「弦懸」あるいは「つるかけ」として出てくる。このことについては、<註6>これまで犬神人は葬儀の先達が仕事であると説明されてきたが、河田光夫氏は<註7>「本願寺由緒紀」をあげて、親鸞聖人と「犬神人」との伝承を取り上げられ、親鸞聖人の教化をうけた「弦練作(ツルメソ)」が代々申し渡して、親鸞聖人をはじめ代々門主の葬儀の時に先達をしているのではないかと推測しておられる。
  善光寺の道近坊や京の犬神人も、親鸞聖人とのはっきりとした交流は確認されていない、いずれも推測の依稀を出ていないのだが、「れふし、あき人、様々なものは、みな、いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり」という言葉は、この人々との交流から出たのであろう。
  中世から近世にかけてらい者は、先の「道近坊」の他に、「物吉(ものよし)」「オトラシャ」「青癩」と呼称されたグループがある。「物吉」は京都と石川県での呼称で、<註8>京都では、「ものよし」という言祝ぎの言葉をかけながら市内を勧進してまわった門づけの「らい者」集団であった。しかし、京都以外では「物吉」は、らい者を含める場合もあるが、らい者を管理する集団を指す場合がある。また、青癩とは南九州での呼称で京都の物吉と同じような構造であった。
  始めに、「らい」という言葉は病名だけの意味ではなく、身分を指す名称ではなかったのかと書いたのはこのような理由からである。感染力が弱いために濃厚皮膚接触した四歳児未満の人しか感染しにくく、潜伏期間が長く発病した時には既に元々の発症者は亡くなっている場合が多い。衛生学という言葉すら無い時代に於いては業病説や家筋(遺伝病説)が出てきても無理もないことである。その結果としてらい者は元々の自分の生活圏を追われたり逃げ出したりして集団で暮らすようになる。この集団が中世・近世には賤民身分として認識され近世に於いては制度として、「らい」という身分が確立していたのだろうと思う。また家筋がさらに偏見を助長し「らい部落」を生み出して行く。実際にはその集落にハンセン病発症者が一人も居なくても、周りから疎外され結婚等の交流がないといった被差別地区が出来ていったようだ。「らい」が被差別身分であるということは、<註9>石川県で1871(明治四)年に出た解放令の中にも見ることができる。
そこには「物吉」も今後同様に一般の民籍へ編入するようにと書いてある、これは「物吉」という集団あってそれが身分として認識されていたということを示すものである。
  らい=病気という認識で今まで考えていたのだが、近世以前には、病気という面と被差別身分であったという側面を見落として来たのでは無いかと思う。

【隔離の時代】

  幕藩体制崩壊後、明治新政府は欧米諸国を目標に、天皇を中心に国家体制の確立と経済基盤の充実を目指し、解放令・学制発布・徴兵令・地租改正と矢継ぎ早に政策を発表し富国強兵、殖産興業を急いだ。その中で、「ハンセン病発症者」の囲い込みを始める。
  前節で、ハンセン病発症者は患者ということ以外に「らい」という身分であると書いたが、1871(明治4)年に出た解放令により、賤民身分の名称は無くなった。それに伴い被差別身分が持っていた特権である旦那場や勧進場がなくなり貧困が深まっただけで、差別は残こったように、らい者も「物吉」「道近坊」制度が無くなる。そして「浮浪らい」として、例えば四国の<註10>「ヘンド(辺土)」のような生活しか無いような状態に追い込まれて行く。もちろん、在宅の発症者も多数あったようだが、治療のために悪徳売薬業者に引っ掛かり財産を食い潰された末に結局浮浪らいになるということが多々あったようで。浮浪らいになる原因は、日本の道徳律の基本である家制度を護るためであり、決して個を護るためではなく。また個を護るべき佛教思想も前世の業を説く故に発症者を抑圧する。その業論が近代に入り遺伝と結びつき、発症者は家制度・業・遺伝に挟まれ家庭に居住することがますます困難になっていった。
  これに対して政府は当初何の対応もしていない。それどころか弾圧を加えてゆく。例えば、1922(大正11)年3月25日大分県別府町的ヶ浜の非人(山窩)部落を警官十数名により焼き討ちされるという事件があった、公安上、犯罪防止上有害と判断したので焼き払ったとの発表であったが、実際は載仁親王の日豊線通過のおりに目ざわりであったためというのが真相であろう。
  それに対して、大分新聞が違法性を非難し、また憲政会(政党)による追究もあった。当時結成されたばかりの水平社は、色々と議論があったようだが米田富が代表として出向いている。
  しかし、それより時代が下がる、1940(昭和15)年に熊本県本妙寺のらい部落が警官の手により強制的に解体させている。(同様のことは、全国で終戦後まで何回か見ることが出来る)これに対しては世論もマスコミも特に取り上げていない。熊本市側の資料によると「従来この部落は社会的落伍者、前科者、不具者、癩患者に依って形成された特殊部落であるので・・・・・(藤野豊・「いのち」の近代史)」と当時の被差別部落への名称である「特殊部落」を使っている。しかしこの時は水平社も特に動いていないようである。
  水平社を非難するわけではないが、この事件は日本のハンセン病への思いを表す典型的な事例であると思う。
  唯一当時布教が解禁されたばかりの<註11>キリスト教の救癩活動があった。しかしこのことが逆に政府の無策が問われることになる。
  1899(明治32)年に欧米間との新条約が発効され、欧米人が自由に国内を往来出来るようになると、神社仏閣の付近でたむろしていたハンセン病発症者の集団が国辱として認識され、政府は、1909(明治42)年に「癩予防二関スル件」として全国五ヶ所に公立療養所が設けられ発症者の収容を行う。しかしこれは欧米人の目の届かない所へ発症者を隔離するものであり、民族浄化の為であった。このことは「本案ニ於マシテハ主トシテ浮浪徘徊シテ居ル者デ病毒ヲ散蔓シ、風俗上ニモ甚ダ宣シカラヌト云ウモノヲ救護イタシテ此目的ヲ達スルト云フコトヲ第一ニ致シテ居マス」という審議録から見ても明らかだ。この法律は元来浮浪徘徊者を対象とした法律であったが、1931(昭和6)年に「癩予防法」に改正され全患者の隔離を対象に広められる。このことに大きく貢献したのが光田健輔であった。光田は1951年文化勲章を受けるなど所謂名士だが、彼のハンセン病に対する考えや行動を調べると疑問点が数多く出てくる。光田の考えに対しては<註12>大谷派の僧侶で医師である小笠原登や本願寺派の僧侶でジャーナリストであった三浦参玄洞の反論をするが、結局はハンセン病患者の隔離を進めていくことになる。この政策の過程で、隔離の大切さを説くためにハンセン病の伝染性をことさら強調し恐い病気であるということを宣伝してゆく。この結果として差別・偏見や恐怖感をさらに植え付けることになってゆく。これが今も続いている差別の一因をなしている。
  一方隔離した患者には、「監獄より一等を減じるという位」(全生園患者自治会・倶会一処より)という対応しかなされない処へ押し込む形になった。宗門内で起こったS布教使ハンセン病差別法話の中に出てくる「病気というより収容所だね。」という言葉はあながち間違ってはいない。しかしなぜこのような収容所になったのかという原因を明らかにしないと、差別を再生産するだけである。ここで差別布教を弁護をするわけではないが、このような偏見を生み出されて来た経緯と、それに本願寺教団がどの様に関わりを持っていたの明らかにしないと、差別が見えなくなるだけで無くなることにはならないはずである。
  残念ながら本願寺教団がハンセン病に対して何をしていたのかということは、今回この一文を作成にあたり調べたのだが、詳しくは解らなかった。しかし、療養所に関しては早くから関わりがあったことは解る。例えば多磨全生園の記録をみると、1928(昭和3)年5月19日に前年に門主になられたばかりの光照前門主(17歳)が訪ねている。これは他の宗教団体と比べて見ても門主レベルの訪問は始めてのことで、どのような経緯で訪問されたのかは解らないが、注目すべき出来事である。
  特に長島愛生園との関わりは深いものがある、それは1931(昭和6)年に愛生園が開園した時から始まる、この園は81名の患者さんが開拓者として長島に入られてからのもので、開拓という名前から解るように、とても開園とは言いにくいものであった。その開拓者の中に栗下信策氏が入っておられることが真宗との縁となる。栗下氏はまだ浮浪徘徊の患者でないと入院できなかった1912(明治45)年に光田健輔に懇願して全生院に入寮する。以後光田に恩義を感じて「全生院入院後、先づ院内同病者の求道信仰相続を計り、『真宗報恩会』を組織し、各宗と共に精神文化向上を計り、五ヶ所療養所内の病友と友好を計らん・・・」として信仰運動を繰り広げていく。これに対して真宗は東西両本願寺教団ともに支援をしてゆく。これは近世後期からの<註13>国家神道への流れの中で起こった廃佛運動に抵抗するだけではなく、真宗は国家神道体制への移行の中にあって、いかに真宗が有意義であるかという<註14>「真俗二諦」論が影響していると思われる。
  この俗諦の中で、入寮者も慰問に訪れる人間も動かされているように思われる。確かに接することが出来る数少ない外部社会の人間は宗教者だけという側面もあり、入寮者は慰問に訪れられる人に対して、大変感謝をされている。また、1964(昭和39)年4月の本山団体参拝は、愛生園始まって以来のことで、島の中にとじこもるという観念が破られたということで、療養所としても重要な意味があった。このことが全国の療養所に知られることになり、なんとか本山へお参りしたい(園外に出たい)という動きになったようである。しかし、当時はまだまだ偏見や差別が根強く残っていて、入寮者の宿泊先を確保するにも苦労したという話を聞いたことがある。こうして見ると、療養所に関わった人は偏見等は無かったように思える。しかし、視線は療養所内に向いていて、なぜ園外の世間では偏見や差別があり、その原因は何であるのかということを考えるまでは至らなかった、園内にいかに真宗の法を説いて、入寮者の安穏を願おうかということに苦心されていた。その象徴が、1935(昭和10)年に建立された愛生園の<註15>「恵の鐘」で、この撞き初式、落成式には大谷(糸+壬)子裏方の代理本願寺派の高木執行が参列し、裏方の御訓話を代読している、
「“恵の鐘”は無限の法悦を伝えるものでなければなりません。患者の心の救いを呼び醒まし、社会に向かっては、健康日本建設の先駆たる役目を果たすよう念願します」(長島愛生園真宗同朋会五十年記念誌−淨華−ヨリ)という主旨の内容であった。これは大谷派暁烏敏の「皆さんは自分が悪くて病気になったのではないが、国家のために、多くの同胞のために、ここに家を離れて病気を保養しておるのである。皆さんが静かにここにおられることがそのままたくさんの人を助けることになり、国家のためになります。」と述べていることと趣旨は変わらない。ここでは、外部社会と関わらないのことが、社会の為であり、療養所が入寮者の為に存在したのでは無いということが解る。いわば隔離に対する思想的協力である。このことは戦後も継続する、例えば愛生園では<註16>「法務部員」として園内だけでの衣体着用の許可を1955(昭和30)年、1969(昭和四十四)年に兵庫教区が出している。これは栗下信策氏の要望に応えたものだが、現在の続いているものであり、社会外の者として肯定しているような事例なので早急に対応をするべきものである。
  かつて、岡山で愛生園・光明園の報恩講や降誕会に出勤させてもらったことがある。<註17>その時に長年にわたり園に通われて入寮者の方々と交流を深められた方のお話を聞く機会があった。外部から遮断された園では、真宗のみ教えが唯一の生きる糧であったということを何度もお聞きした。閉じられた園にあっては真宗しか無かったのであろう。しかし、残念ながらそのみ教えは、世を問うてゆくものとしては働かなかったようだ。

【新たな差別を見据えて】

  近年部落差別を創りだして来たものとして「ケガレ」というものが注目されている。「ケガレ」は色々な意味を含んでいて、その中に「化外(ケガイ)」という概念がある。これは社会外という意味で。いままでハンセン病の歴史を見てきたが、ハンセン病患者は一貫して「化外」に置かれて来た。現代でも、元患者の方までも入寮者として「化外」に置いている。このような化外の民に対して真宗は何をして来て何をしなかったのであろうか。結局のところ、「真宗」だからという特筆すべきことはあまり無かったのではないかと思う。確かに新生園、全生園、愛生園、光明園、青松園、恵楓園の各園では、個人的に交流があり、真宗の教えによって自死を思い止まられたという入園者のお話は聞くが、これは個人的なものであって、<註18>真宗あるいは真宗教団とは言えない。差別がある故に、生前は本名を名のれず、骨になっても帰る所が無い。このような差別構造に、真宗は何もしなかった、何もしなかったというのは社会の中に埋没して差別に荷担したことである。
  今後このような人間を化外の者として排斥する構造に対して私たちは注意をはらわなければならない、そうで無ければハンセン病差別を反省したとは言えないからだ。
  信心の社会性という言葉が言われて久しいが。私たちは、ハンセン病問題で問われたことを、未来に向けて問い直し、新たなる化外を生み出さない営みを親鸞聖人の信を通して確立しなければならないであろう。
 

【註】

註1.亀川村事件
1954年(S29)年5月に惹起した亀川村差別事件、『不幸な運命に生まれるものは不幸な種をまいている。幸福な運命に生まれたものは幸福な種をまいている。エッタボシ(著者註  歴史的賤称語。「穢多」をより差別性を強めてなまった言葉)や※ドレに生まれるものは、前世でそのような種をまいている。』(1986年・御同朋の社会をめざして・第3集・差別事件に学ぶヨリ)
「差別事件に学ぶ」では、「ドレイ」と記載してあるが、正しくは「ドレ」和歌山地方での「ハンセン病患者」への賤称語であると岩本孝樹氏の教示して頂いた。

註2.日本霊異記
  例えば、完訳日本の古典8・日本霊異・小学館刊では「白なまず」と記されている。白ナマズも重い皮膚病一般をさすが、ここでは特に註もなく見過ごしてしまいそうな記載で、聖書もそうだが、歴史的事実であるので正面から受け止めていくべきである。

註3.「差別を支えた『善悪因果経』をめぐって」−同和教育論究.7号−

註4.「善光寺まいり」五来重−平凡社−

註5.石山本願寺日記・上巻より
天文5年1月7日
弦懸越中、弦十張あげ候。いつも弐百文取之由、取次周防
天文5年2月6日
つるかけのほうらい、つる20張上、毎年五百文遺よし上野申、其分候
天文6年1月6日
弦懸越中拾張、如佳例倒来候。取次周防
天文6年1月17日
住吉長居の宿、興五郎弓弦五張出候。毎年大坂にて鏡取候由候間、一枚遺候
天文6年1月29日
つるかけほうらい廿張持参来候
天文7年1月7日
弦懸越中如嘉例  十張捧之候、即廿疋やり候。取次周防
天文8年1月6日
弦懸十張上之
天文8年1月9日
住吉長井之宿弦十張出之。即鏡取也
天文9年1月6日
弦懸越中十張上之
天文11年8月1日
弦懸ほうらい弦廿張出之。(※この限りではないかもしれない。)

註6.例えば、「聖典セミナー親鸞聖人絵伝・平松令三・本願寺出版」P280
註7.『大谷本願寺由緒緒通鑑』(正徳五=一七七五年刊、外題「本願寺由緒紀」)河田光夫著作集一巻より孫引き。

問テ云ク、『御絵伝』御葬礼ノ所二赤装束ノ者六人アリテ、是ヲ弦練作(ツルメソ)ト云ハ何者ゾヤ。
  答云ク、是ハ〔親鸞〕聖人ノ御教化ヲ請タル履(クツ)作也。……京建仁寺ノ辺二住シ、沓ヲ作、又弓ノ弦等ヲ造テ渡世トス。祇園ノ祭日ニ詣テ神輿ヲ衛衛スル役アリ。是ヲ世ニ犬神人ト云也。

  祖師〔親鸞〕聖人ノ御在世ニ、竹摩ト云沓作リ御勧化ヲ受テ、他力往生ノ信心ヲ得タリ。聖人越後御住居ノ時分、毎年北国ヘ下リ、御拝顔セリ。聖人、京都ノ義、委細御尋アリテ、御満足アソバサレケル。承元四年ノ夏ノ初、竹摩越後ヘ参リケル時、聖人仰ラレシハ、「毎年、其方遠キ道ヲ経テ来故、上方ノ物語具ニ聞テ慰ナリ。此比ハ、汝ガ来ルコトノ遅キヲ待カネタリ。其方来コトハ、宝ノ降来ヤウニ思ゾ」ト、仰ラレシヨリ、宝来トゾ申ケル。
聖人御帰洛ノ後ハ、参仕絶ズ、御教化ヲ受悦ケル。御葬送ノ時ハ、親族六人申シ合セテ、野辺ノ御供仕リシナリ。

    此子孫相続シテ、御代々御相承ノ善知識ノ御葬礼二出ルノ例トナリ、今ニイタリテ宝来ト異名シケルナリ。

註8
別冊宝島EX・京都魔界めぐり「陰陽師・阿倍清明像を祀る“病人の村”の正体」1994年

註9
穢多非人等の称廃せられ候条、一般の民籍へ編入し申すべき義等御布告に付、右非人等とこれ有る義は、藤内も同様に御座候哉と伺い奉り候所、右伺の通り相心得べき旨仰せ渡せられ、就ては地租其外除・(ケン)の仕来りこれ有り候はば、引直し方見込取調べ御達申すべき旨仰せ渡せられ候、仍て左の者の義も同様取しらべ申すべく存じ奉り候

一  皮多
一  物吉
一  舞々

    但、此外にも従前非人の扱の者これあり候えば書上げ申すべく候右の者迄も地租取しらべ、左の通書上ぐるべく存じ奉り候(上杉聰  天皇制と部落差別  三一新書)

註10
四国巡礼は通常「遍路」というが、ハンセン病発病者の場合は侮蔑的に「ヘンド」といわれた。「差別者のボクに捧げる・三宅一志」によると、P48「四国のへんどの墓石は、自然石のままの粗末なものである。『釈明岳信女  文化四年十二月二十七日』」とある。ここに真宗の法名と推測される名前が出てくるが、先の「過去帳法名調査のまとめ」を見てもヘンド墓等の報告が無い、本派以外の法名であるかもしれないが、この辺りはもう一度取り組むべき問題である。

註11
テストウィード.静岡復生病院。ハンナ・リデル.熊本回春病院。ケリー・ヤングマン.東京慰廃園。ジャン・マリー・コール.熊本侍労院。

註12
小笠原登については、ハンセン病関係の本に比較的載っているが、三浦参玄洞については、水平社運動史や本願寺派の同朋運動史を考える上で、さらなる研究が待たれる。

註13
国家神道という用語は1945年12月15日に連合最高司令部が出した「神道指令」によって一般化した。
  それより以前に文部省宗教局員の豊田武が1938年に出した「日本宗教制度史」が最初であると思われる。
  豊田はこの中で、「国家神道乃至は神社神道が信教の自由の外に置かれたことは、我国独特の制度といわねばならぬ。しかもかかる神道主義の鼓吹は国家意識の高まりとともにますます強く行われ、今や信教の自由もただ神道の権威を害せざる範囲においてのみ存在をゆるされるが如き状態となった。」と、日本独特の制度として、信教の自由の外に置かれる。

註14.真俗二諦
例えば、1886年の「一宗の教旨は、仏号を聞信し大悲を念報する、之を真諦と云ひ、人道を履行し王法を遵守する、之を俗諦と云ふ。是即ち他力の安心に住し報恩の経営をなすものなれば、之を二諦相資の妙旨とす」や、明如上人の「のちの世は弥陀の誓いにまかせつつ生命をやすく君に捧げよ」など。

註15.
この鐘には、大谷(糸+壬)子裏方の姉にあたる貞明皇太后の「つれづれの友となりても慰めよ  行くこと難きわれにかはりて」という詩が裏方の揮毫で刻まれており、仁徳の代理を裏方が担っていることがわかる。

註16.法務部員
長島愛生園真宗同朋会五十年記念誌−淨華−より。
【法務部結成】
  終戦後、徐々に園内にも物心両面に好転の兆候が見えはじめてきたとはいえ、なお心の安定は見い出されず、暗中模索の暮らしが続くなかおのずから何かに頼らねばと気付くものが多かった。当時の宗教団体の指導的立場の栗下信策には特に強くひびいたのであろう。
  そうした最中(さなか)の昭和二十二年十月、僧籍のある藤井善が入園して協力者となり、いよいよ繁栄の気運にのり充実を見ようとする時、藤井導使は精神的過労も手伝ってか病名不明の熱病におかされ、生死の危機の重体におかされたことがある。栗下は折角運営が軌道にのったのを惜しみ、藤井導使に若しもの事態があれば会の運営に支障のあることを憂慮して、継続と将来の繁栄を願い「法務員」をつくることをひそかに思考したのであった。(略)

    速進を求めるの書
  一、得度式希望者募集の件
右は本年(二十九年)五月、真宗同朋会幹事会に於いて導師を養成し、希望者を求め資格を受くる事を決議いたしたるも早や六ケ月余りを経過す。いまだ何んらの具体的兆候を見ざるは誠に遺憾の極みであります。
  このような事は平常の準備と機会を得た手続きをいたしおかねば俄かに出来るものに非ず、尤も後生の一大事に於いては得度をいたさぬとも信心一つに極まることは申す迄もありません。
  しかし我れらも社会組識の中に生存するものにて愛生園もその中に在って園外にあるものに非ず、されば時代に即応したる方法に則って進むことを最も肝要のことと存じます。その故は、各宗それぞれの本山に於いては宗法宗義を定めこれに依って律しこれに従って行動いたしおるのであります。これを宗典に求むれば、教行信証に義なきを以って義とすと仰せられ御文の八ケ条にくわしく示しあり、また、私共が集会毎に領解文として述べる中に「定めおかせらるる御おきて一期をかぎりまもりもうすべくそうろう」と、社会一般の定めに準ずべき事を明きらかにしておるのであります。
  そこで愛生園内の各宗状態を見れば昔と異なり、一般社会と同様の方法を以って進み、これがためか宗勢は盛んになり充実発展しつつあるのが実状であります。
  この実例をあげれば、キリスト教にては小倉健次氏牧師、伊原国策氏は長老、玉木愛子姉は執事。禅宗にあっては澄川泰仙氏は僧侶となる。この方々は愛生園内に在ってこの資格を得られた人々である。
また、天理教にては教師免状なければ先達の資格なし。日蓮宗も牟田大峯氏は血脈相伝の僧にあらざれば印導を渡す資格なく、また無効なりという。真言宗もまたこれと同じような事を申しおられるのであります。幸い我が真宗にみりては藤井善氏ありと謂ども、導師とても金鉄の身にあらざれば永遠不変に相競すること不可解と存じます。また、導師以外に僧侶が出来て悪いと云う事もあるまじく、衆人は僧侶の多き法事こそ大法事として尊敬し随喜するのが実感実状であります。
  然らば、現在将来に対し各宗団と相伍しゆく上において、また、らいを病む身と難ども国法に従い療養所に安住する我らが、この社会同様の資格を受くる事あえて差しつかえなき事と存じます。且又、衆人が三宝僧に随喜す実感情よりするもこの僧侶の資格を受くる事が、今の発展充実相続のために重要且
つ緊急の事と存ずる次第であります。仏法は無常をとき実践実行を生命といたします。この故に来る幹事会に於いて担当区内の信者より希望者を尋ね、氏名年令を記し速やかに申し込まれんことを御願いいたす次第であります。
          南無阿弥陀仏          合  掌
        昭和二十九年十二月十六日
                              栗下信策
      同朋会々長    小谷好生殿

  この栗下の強い願望と熱意に現状を見るとき、今後の法務執行の上から法務員の必要性は欠くべからざるものであり、こうした実状をいつまでも放置しておくことはできなかった。そこで法務執行に志ある希望者をたずね懇請したのであった。そして気分的にも略式ではあるが法務の認可を兵庫教務所に請願した。その結果次のような通知書が届けられた

      昭和三十年十月八日
          兵庫教区教務所長村上貫之  印
    愛生園真宗同朋会々員
          内野幸一殿
    法務執行に関する通知のこと
  かねて願い出のありました貴殿が、愛生園内に於いて法務を執り行われることについて本願寺より差し支えのない旨の通知がありましたので此の段御報せ致します。

  右の通知書と同時に許可証も下りた。
    許    可    証
                  内  野  幸  一
  右は愛生園に於いて真宗本願寺派の法務を執行することを認めます
        昭和三十年十月八日
          兵庫教区教務所長  村上貫之  印  (以下略)

註17
  岡山から長島愛生園・邑久光明園を始めとする全国の療養所の縁のあった教団人も高齢化が進み、たま亡くなられた方も多く。教団側の資料が不足していることを考えると、教団として聞き取り調査等資料として残しておく必要がある。

註18
  教団全体としては、宗祖七〇〇回大遠忌法要の記念事業の一環として新生園、愛生園、光明園、青松園に佛教会館を建築がなされた。しかし、これも火葬場、納骨堂、とセットとしての葬場としての会館という意味があるのではないか。確かに欧米の療養所では教会を併設している所があるが、日本ではハンセン病療養所だけに見られる特異な姿であり、ここに化外に押し込めたという政策を追随した本願寺教団の問題性がある。



※上記の論文は、同和教育論究23号に掲載された私の論文です。
論文というほどのものではないかとおもいます、特に隔離政策が実施されてからの事実の掘り起こしを色々としたのですが、論文には反映できませんでした、しかし真宗教団とハンセン病の関係が少しでも明かになれば幸いです。
また論究23号には私の論以外にもハンセン病差別関することが掲載されていますので、どうぞご購入下さい。

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