高僧和讃に聞く(還浄問題のみ抜粋)
 

(2)浄土に還る

  親鸞聖人は、法然上人を浄土から現れ出たお方と仰いでおられますから、その上人の往生を「浄土に還る」と表現されたのも自然なことだったでしょう。「源空讃」の最後には、
    浄土に還帰せしめけり  (『註釈版聖典』五九八頁)
とうたわれ、ここでも上人の往生を浄土に「還帰」されたと表現されています。

  ところで、こうした用法とは全く違った場面で、最近「還浄(浄土に還る)」という言葉をめぐっての議論を見聞きすることが多くなりましたので、そのことについて考えてみたいと思います。

  事の発端は、いわゆる「忌中札」の代わりに「還浄」と書いたらどうかという提言から始まったようです。世間では家族に不幸があった場合、四十九日の間その家の入り口に「忌中」と書いた札を貼るという習俗が行われていますが、真宗門徒はこれを止めて「還浄」にしようというものです。

  なるほど「忌中」というのは、仏教徒としてふさわしいものとは思われません。肉親の死を穢れたものとして「忌む」という考えがあるから「忌中」ということになるのであって、念仏者にとっては、肉親の死は悲しいことではあっても忌むべきものではないでしょう。むしろ故人はめでたく浄土に往生されたのだから、「還浄」と書くべきだという提言には一理あるようにも思われます。

  しかし、「浄土に還る」という表現はおかしいという意見もあります。「還る」というのは「もともといた場所に戻る」という意味ですから、法然上人を阿弥陀如来の化身と見て浄土に「還帰」されたと言うことはできても、凡夫である私たちの往生を「浄土に還る」とは言えないという意見です。確かに、それでは私たちは生まれる前に浄土に居たことになってしまいそうです。
  親鸞聖人が、
    曠劫多生のあひだにも
    出離の強縁しらざりき(『同』五九六頁)
とうたわれましたように、私たち凡夫は久遠劫来迷いの生死を繰り返して来たのであって、決して浄土に居たのではありません。その流転の生を繰り返して来た私が、本願念仏に遇えたからこそ浄土に往生する身となるのです。

  むやみに「還浄」という言葉を使えば、誰でも彼でも死にさえすれば浄土だということになって、命がけで聞法する姿勢を暖昧にし、本願を信受して浄土に往生する身とならせていただいた慶びをないがしろにすることにもなりかねません。忌中札がふさわしくないということなら、「還浄」という札に代えるのではなく、そもそも札など貼る必要はないという運動を進めた方がよいのではないでしょうか。

  しかし、それなら「浄土に還る」という言葉は全く使えないのかと言えば、私はそうでもないと考えています。自分自身の姿を見つめれば、もともと浄土に居たとは決して思えませんが、榎本栄一さんの詩に、

    自分一人では
    できぬことが多い
    お世話くださるひと
    みな  菩薩さま

とありますように、自分の周りの人を浄土から現れて下さった菩薩と仰ぐことはあってもいいような気がするからです。あの方もこの方も浄土から現れた菩薩であるなら、その人の往生は「還浄」と言ってもよいでしょう。

  また、私自身にとってのお浄土は、この生を終えて初めて生まれる世界ではありますが、初めて訪れる場所に対して「還る」と感じることも有り得るのではないかと思います。

  今から二十年程前、私は初めてインドに参りましたが、その時何だか無性に懐かしい故郷に帰ってきたような気がしたのを覚えています。貧しくて不衛生ではありますが、土の上を歩き木陰で休息し、日の出とともに始まり日没で終わる一日。これが人間の本来あるべき姿なのだと思えたからです。

  善導大師の「観経疏」にも、「帰去来、魔郷には停まるべからず」(『註釈版聖典七祖篇』四〇六頁)という言葉が見えます。これは有名な陶淵明の「帰去来辞」を受けて、「涅槃の城」即ち浄土に生まれることを「帰る」と言われたものです。また「往生礼讃」には「迷ひを翻して本家に還れ」(「同」七〇〇頁)という表現もあります。とすれば、本来のあるべき場所に立ちかえるという意味で、「浄土に還る」という表現があってもいいのではないでしょうか。(略)

筑紫女学院大学教授・小山一行



大乗2000年2月号より、還浄に問題を抜粋させて頂きました。
掲載を許可して頂いた、小山先生ならびに先生への連絡をして頂いた 藤岡崇史師に感謝いたします。 
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