日本佛教学会年報  第六十六号(2001年5月)

「還浄」の論議における解釈技法の問題

沖  和史(種智院大学)

0.はじめに

  文献資料を読解する場合、文献学的方法に基礎づけられた方法を用いないと主観的な解釈に陥りやすい。
  かつて岸本英夫は宗教学研究の立場を信仰の立場からの研究(神学的研究、宗教哲学的研究)と客観的な立場からの研究(宗教史的研究、宗教学的研究)に分類して、自らの立場を「宗教学的研究(宗教の科学的研究)」に位置付けた。1  このいずれの立場においても、資料を恣意的に選び読むことが許されないことは言うまでもない。むろん宗教の科学的研究についても我々は楽観的になれない。なぜなら書き手と読み手との間の幸福な知識の一致を前提とすることができないからである。特に仏教学の場合、歴史的にも地域的にも遠く離れた対象を扱う場合が多い。読み手である研究者の知識と経験に制約を受けるという意味で、文献解釈の方法を自覚的に選ぶ必要がある。
  小論においては、浄土真宗本願寺派(以下本願寺派)において現在論議されている「還浄」問題に関する文献の扱いを実例として、解釈の方法の問題点を論ずることとする。
 

1.「還浄」の論議の概要

  まず、「還浄」論議の概要を見よう。
  従来、本願寺派においては、信者の死の表記には「入滅」「往生」「逝去」などが用いられていた。親鸞は同朋(阿弥陀仏の本願を信じ念仏するよき友)の死を「往生」と言う場合が多いが、師源空に関しては、「入滅」「浄土にかへる」「浄土に還帰」という表現をも採用している。  また、蓮位は同朋の死を「おわる」「滅度にいたる」と表現している。江戸時代には「入滅」「遷化」「往生」「寂」「逝去」という五通りの表記が見られ、しかも序列化されて使われている。4  現代では「逝去」「往生の素懐を遂げる」が使われる例が多い。
  一方、主として「忌中」「喪中」の習俗に対する反省から「還浄」という表記が使用されはじめて、すでに二十年以上になる。すなわち、死をケガレと捉える差別思想に対決し、死の表記の序列化に反対する方法の一つとして、「還浄」という表記が採用されたのである。
  この新しい表記に対して、最近相次いで疑問が提出された。  その内容は大きく二点に絞ることができる。ひとつは、同朋の死を「浄土にかえる」と表現するのは本願寺派の「宗義」に適わないとする深川説、もうひとつは、「還浄」は「還相の菩薩」にのみ適用することができる表現であり、「凡夫」である同朋の死の表記には使えないという、反対論すべてに共通する説である。
  これらの説を支える理論を検討することにより、真宗学という神学的研究の方法論の欠陥を指摘し、基礎学としての文献学を適用することができる範囲を提示し、その範囲を超えた点にのみ「解釈」が可能であることを以下示したい。
 

2.「還浄」の論議の特徴

  1.で示したとおり、「還浄」論議は現場の実践的課題(ケガレ意識の克服、宗派内序列意識批判)として提起された運動がその端緒となっている。したがって、この論議は客観的研究のみで論じ終えることができない性格をもつ。すなわち、論者は必ず実践現場の評価を行わなければならないはずである。
このことは、本願寺派神学に含まれる「真俗二諦之妙旨」に対する姿勢を明確にすることを論者に迫ることを意味する。一般化して言えば、信仰に基づく実践に関する論者の立場を明確にすること(現場に裏づけられた神学の表明)が研究の性格を決定する要素であり、信仰の現場(神学の主体的受容)を無視した純粋の仏教研究(没主体的科学研究)という想定が成り立たないことを前提とする論議である、ということである。
「還浄」反対論者には、この点に対する自覚が希薄であるように見える。8  それゆえ、新しい表現法に対する嫌悪が表面に表れており、立論するためのそれ以外の実践的動機を反対論者は示すことがない。したがって、「聖教にない」という反対理由しか示すことがなく、必然的に新たな実践に反対するのみの論調となってしまっている。
このような姿勢は、必然的に「聖教」の扱いの偏向を産む。すなわち、自分に都合のよい例を集め、恣意的な解釈を加え、権威主義的な非難の言葉10を発することになる。
したがって、妥当な用例を収集し、文献学に基づく解釈法を提示することが、筆者の役割となる。
 

3.用例の範囲と文献学的解釈法

31.親鸞の用例

  「浄土にかえる」「還浄」という表現が本願寺派において妥当性をもつためには、まず宗祖親鸞の用例の範囲を定めて検討しなければならない。
  深川[1998]は「命終のとき『浄土にかえる』と使われる文脈で通ずる用例としては、『帰る』と『還る』、そして『来る(かへる)』とに集約できる」という妥当な見解を示し、以下この三項目の用例を検討する。11  しかし、「還」の用例検討で明らかなように、検討すべき用例を自分の解釈に都合のよい例に限り、他の用例を無視するから、その方法が恣意的である。12
  以下親鸞の用例を挙げ、検討する。
資料1:法性のみやこへかへる(来)(『唯信鈔文意』13
資料2:  来言対去対往也、又欲令還来報土也(「来」の言は、去に対し往に対するなり。また報土に還来せしめんと欲してなり)(『愚禿鈔』下、真聖全二477a,  註釈版  539)
  資料1は「(臨終時に同朋が)浄土にかえる」という表現にもっとも密接に関連する用例である。さまざまな表現に言い換えられているので、宗教的象徴的表現を考察するうえで貴重である。資料1の「かへる(来)」の意味は、「還来の義」14または「来還の義」と説明される。これは、資料2に基づく説明である。この両資料にしたがえば、「かへる」という日本語にあてることができる漢字は「来」「還」の両方であることが明白である。「来([なんじただちに]きたれ)」の字が示す阿弥陀仏の意図を「還来せしめむ([念仏の衆生をして]還ってこさせよう)」と親鸞が示していることを信楽[2000]は無視しているので、例外表現という位置づけしかできず、結局は氏自身の仮説に基づく解釈の一貫性を放棄していることになる。
しかし、次の資料を参照すれば、親鸞が「来」を「きたらしむ」のみでなく「かへらしむ」とも訓読していることが知られるので、「還(かへる)」を例外的表現と理解する必要はない。
資料3:  名を聞きてわれを念ぜばすべて迎へ来へらしめむ。(「行巻」引文、真蹟集成一  91,  真聖全二25)
資料4:「来」はかへるといふ、きたらしむといふ、  法性のみやこへむかへ井てきたらしめ、法性のみやこへかへらしむといふ13
  「浄土にかえる」の用例ではないが、「還来」を「かへる」と訓読する例も存在する。
資料5:生死輪転の家に還来(かへ)ることは  決するに疑情を以て所止と為す(「正信偈」真蹟集成一152,  真聖全二46,  註釈版207)
この結果、漢字の「原義」を作業仮説としてまず想定したのちに、その仮説を親鸞の用例にあてはめるという信楽の方法は、文献学的手法としても、文献解釈法としても、妥当性が疑われる。15
深川[1998]は資料4にたいし、「これは、文中にあるように、弥陀如来が『むかへ率てかへらしむ』ということ、つまり如来さまがつれてかえるという『かえる』です。/すなわち如来さまから言えば、もといた所につれて「かえる」なのですが、われわれ凡夫衆生から言えば、やはり如来さまにつれられて『往く』、あるいは『参る』ことになるわけです」という、文法規則を無視した解釈を提示する。「(念仏者が)法性のみやこへかへる」という親鸞の文を、「約仏」という宗学体系に拘束されて考察した結果と考えられる。16しかし、表現の問題を扱うときの方法としては、この親鸞の文が「約仏」という宗学体系に収まるのかどうかがまず吟味されるべきである。文献学が基礎的学問とならなければならない所以である。
「法性のみやこへかへる」(資料1)という表現が示す意味内容と同じ意味内容を指示する象徴的表現のリストは、以下の通りである。
(番号は註13に引用した文中の番号に従う)
(B1)(願海にいりぬるによりて)かならず大涅槃にいたる
(B3)法身とまふす如来のさとりを自然にひらく(とき)
(B4)真如実相を証す
(B5)無為法身[を証す]
(B6)滅度に至る
(B7)法性の常楽を証す
(B8)この[還相回向の]利益におもむく
  一見して判るとおり、これらは「悟り」を表す象徴的表現のリストであり、すべて念仏者(凡夫)を主語としている。つまり、「法性のみやこ」とは、仏教一般に共通する悟り(すなわち涅槃)の境地であり、「かへる」とはその境地に「到達する」ことを意味するのである。親鸞の場合、この表現を
(B9)真実信心をうれば実報土に生る
と言い換えても、同じ内容を表すことになる。17  これと同類の象徴的表現のリストは「証巻」冒頭にも見られる。
(B1)無上涅槃  (B1)無上涅槃の極果  (B2,B7)法性
(B4)真如  実相
(B5)無為法身
(B6)かならず滅度に至る
(B7)常楽
(その他)利他円満の妙位,  畢竟寂滅,  一如(真蹟集成一  339−40,  真聖全二  103,  註釈版  307)18

次に「化身」を主語とする用例を見よう。
資料6:源信和尚ののたまはく/われこれ故仏とあらはれて/化縁すでにつきぬれば/本土にかへるとしめしけり(『高僧和讃』真蹟集成三  239)
資料7:阿弥陀如来化してこそ/本師源空としめしけれ/化縁すでにつきぬれば/浄土にかへりたまひにき(『高僧和讃』真蹟集成三  266)
資料8:本師源空命終時/建暦第二壬申歳/初春下旬第五日/浄土に還帰せしめけり(『高僧和讃』真蹟集成三269)
  これらの資料に見られる「浄土にかへる」「還帰」は、従来の主張のとおり、既に到達した境地にあらためて帰ることを意味すると理解することができる。しかし、この理解に基づいてただちに資料1,2を解釈してはならないことは自明であろう。「還浄」反対論者は、この理解を過大適用して「還」の字の使用を躊躇しているように見える。
  なお、白川[1997]、信楽[2000]は、「浄土に帰る」という表現の根拠として
資料9:濁世の有情をあはれみて/勢至念仏すすめしむ/信心のひとを摂取して/浄土に帰入せしめけり(「正像末和讃」真聖全二520)
を挙げているが、深川[2000]は、これに反対しているようである。19

32.親鸞引用文

  次に「法性のみやこへかへる」(資料1)という表現に関連する親鸞の引文20を検討する。
資料10:西方寂静無為の楽(みやこ)(に)は、畢竟逍遥して有無を離れたり。大悲、心に薫じて法界に遊ぶ。分身して物を利すること、等しくして殊なることなし。(中略)
帰去来(いざいなむ)、魔郷には停まるべからず。曠劫よりこのかた六道に流転して、盡ごとく皆経たり。到る処に余の楽なし。ただ愁歎の声を聞く。此の生平を畢へて後、かの涅槃の城に入らん、と。(「証巻」引文、真蹟集成一348,  真聖全二106,  註釈版312;「真仏土巻」引文、真蹟集成二462−3,  真聖全二139,  註釈版369,  七祖篇405−406)
資料11:帰去来(いざいなむ)、他郷には停まるべからず。仏に従ひて本家に帰せよ。本国に還りぬれば、一切の行願、自然に成ず。(「化身土巻」引文、真蹟集成二  547,  真聖全二165,  註釈版411)
参考資料12:やかに寂静無為の楽(みやこ)に入ることは」(「行巻」真蹟集成一152)
参考資料13:なほ正道のごとし、もろもろの群生をして智城(左訓:みやこ)に入らしむるがゆゑに」(「行巻」真蹟集成一140)
資料14:普く道場の同行のひとを勧む。ゆめゆめ回心して帰去来(いざいなむ)。とふ、家郷はいづれの処にかある。極楽池の中七宝の台なり。かの仏の因中に弘誓を立てたまへり。名を聞きてわれを念ぜばすべて迎へ来へらしめむ。(「行巻」引文、真蹟集成一91,  真聖全二25,  註釈版  173−174)
  これらは、親鸞が「みやこ」と訓読する漢字が「楽」「城」(「寂静無為」「涅槃」の象徴的表現)であること、したがって、これらの引文にもとづき、親鸞が「無為」「涅槃」の同義異語「法性」を採用して「法性のみやこ」と表現したことを示す資料である。また、「かへる」という表現は、「家郷」「本国」「本家」など、帰るべき故郷を意味する言葉に対応する象徴的表現であることが分かる。21
  しかし、「法性のみやこへかへる」という、宗学者を混乱させる表現をなぜ親鸞が採用したのかという彼の内面的動機は、以上の文献学的検討によっては伺うことができない。この点こそ、文献学的方法を踏まえた解釈学の活躍すべき領域であると考えられる。22

略号
七祖    :浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)(本願寺出版社,  1996)
真聖全  :真宗聖教全書(興教書院,  1949)
真蹟集成:親鸞聖人真蹟集成(法蔵館,  1978−9)
註釈版  :浄土真宗聖典(註釈版)(本願寺出版部,  1988)

参考文献
沖  和史  1999「親鸞聖人のおことばにしたがって浄土にかえろう」『季刊せいてんno.47』浄土真宗教学研究所、1999.6.
1999a「『還浄』運動と教学論争」上中下、中外日報、1999.7.1,  7.3,  7.6.
2000  「『還浄』考  親鸞聖人の象徴的表現」中外日報、2000.3.7.
小武正教  1998『真宗と葬儀…同朋運動の視点から…』本願寺出版社、1998.3.
2000「『還浄』で何を問うのか  第二ラウンド『還浄』論争」上下、中外日報、2000.3.30,  4.1.
小山一行2000「高僧和讃に聞く〈35〉」『大乗』通巻597号、2000.2.
岸本英夫1961:『宗教学』大明堂
基幹運動本部事務局  1997『法名・過去帳』(ブックレット基幹運動  No.4)
齋藤隆信1994「善導の還帰往生」印度学仏教学研究  42−2、1994.3.
信楽峻麿  2000「『還浄』について  教団当局にただす」中外日報、2000.1.18.
2000a「『還浄』問題  再び教団当局にただす」中外日報、2000.8.22.
白川晴顕  1997「『浄土和讃』に聞く〈最終回〉」『大乗』通巻562号、1997.3.
深川宣暢  1998「『お浄土にかえる』とは、どういうことですか?」『季刊せいてんno.44』浄土真宗教学研究所、1998.9.
1999「ふたたび、『浄土にかえる(還浄)』について  ご意見ご質問への答え」『季刊せいてんno.47』浄土真宗教学研究所、1999.6.
普賢晃寿2000「聖典読本  唯信鈔文意(10)」『宗報』2000.2.
2000a「聖典読本  唯信鈔文意(12)」『宗報』2000.4.
霊山勝海  2000「正信偈を味わう(24)」『大乗』通巻598号、2000.3.
森田真円2000「お浄土にかえる?  還相回向」『ひらがな真宗』本願寺出版社、2000.
 

1  岸本[1961:5−9]

2  真聖全二202,同514,同665などを参照されたい。

  真聖全二680.

4  江戸時代の表記については、小武[2000]が詳述している。

  「忌中」という表記は「物忌み」を非仏教徒の振る舞いであり、信心の欠如と捉える真宗の思想に矛盾する。「喪中」という表記は、主として年賀欠礼の挨拶文中に用いられるが、忌中と同じ意味で通用しており、また服喪していない実態との乖離が甚だしい。また、「往生の素懐を遂げる」という表記は、実質的には僧侶とその家族の死の場合に限られている。

6  白川[1997],深川[1998],森田[2000],信楽[2000][2000a]

  真聖全五777−8.「真俗二諦の法義」(同777)「真俗二諦の教旨」(同780)「真俗二諦の宗風」(同783)「本宗二諦の教旨」(同785)「真俗二諦の教義」「真俗二諦の遺訓」(同789)などと名づけられている、本願寺派の実践論の中心にあった理論。この理論は、応用して「王法為先の宗風」とも語られ「すでにして我等王法為先の宗風を伝承す、平生業成の宗義炳乎として明かに、往生の大事は現前に決定し、現生已に大悲慈懐の中にあり、今日何ぞ生死を論ぜんや。唯無我報恩の念より粉骨砕身皇化翼賛の大義に殉ずべきなり」と、「平生業成の宗義」と並列して、世俗追随(この場合、天皇のために死ぬこと)を合理化するために用いられた。

  例えば深川は、浄土真宗教学研究所を介した小武との往復論争で「『忌中』の問題は、質問箱の質問とはテーマが別だと思いますが、(中略)小生は葬儀の場合、故人については『往生浄土の本懐を遂げました』としましたし、遺族としての表現としては『服喪』、『喪中』という語を使いました」(インターネットホームページ「坊さんの小箱」で公開)と述べ、「還浄」という表現が使われている実践現場に無関心な態度を表明している。また、「還相の菩薩」にしか「還」は使えないという、「還浄」反対論者に共通する説は、「同時代の同朋は還相の菩薩ではない」という信念を前提としているが、「還相の菩薩」を書物の中に閉じこめるこの信念に対する批判は霊山[2000]に見られる。

9  註7で紹介した小武との論争で、深川は「『常套句』として使われている『お浄土にかえる』という言葉を、お聖教の上で(いわゆる聖教量において)確認してみようというところから始めております。つまり『聖典にあるかないか』を差し置いて答えたものではありませんから、その意味ではご質問とはもともと噛み合わないのかもしれません」と答えている。布教現場の慣用表現を聖典に立ち戻って確認することは大切だが、聖典に基づかない深川[1998]の推量(「ではなぜこういう言い方がされるようになったのかと考えてみますと、そこに『往生』という言葉が世俗化してしまったという原因が考えられます。つまり『往生する』という言葉が世間の手垢のついたものになってしまったからではないかということです」)への小武の批判をはぐらかすために深川は「聖教」を利用しているように見える。

10  深川[1998]:やはり凡夫の往生を「浄土に還る」と言うのはふさわしくありません。/かえって「罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず」(二一七頁)という「機の深信」は無いのかしらんといぶかしく思われますし、ひいては「願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず」という「法の深信」も無いのかと疑われかねません。/(中略)あえて「宗義になきおもしろき名目」(「御文章」、一一七七頁)を使って、それを広めるほどのことはないと思います。(下線筆者。以下同じ)
信楽[2000]:勧学寮の皆さんは、このことこそ異安心として、厳しく取り上げられるべきではありませんか。

11  これに対し信楽[2000]は「親鸞聖人においては、『かえる』と訓む漢字は、基本的には『帰』と『還』とを用いていられます。親鸞聖人が、この二字を選んで用いられるについては、それなりの意趣、思想があったと考えられます」と述べて「かへる」「帰」「還」のみを検討し、「来」を無視する。これは、彼の検討方法が「来」を検討することができないものであることを示す。彼は、親鸞が「帰」を「はじめてゆく/かえる」、「還」を「ぐるりとまわってもとのところにかえる」という「原義」を重視して使用したと解釈し、この二字を二項対立的にとらえるから、「来」を検討する場を失ったのである。「漢字の原義」という作業仮説を偏重し、用例に即した仮説の検証に不注意な氏の方法論の問題点がよく示されている。沖[2000]参照。

12  深川[1998]は「次に『還』の字で『浄土にかえる』という文脈にあう例を探してみますと、(中略)/浄土に還帰せしめけり  (『源空讃』五九八頁)/とあって、お師匠・法然上人の命終をうたわれた和讃があります」と用例を挙げ、「もともとお浄土から出て来られた方が、もとの浄土に『還られた』という意味です。『還る』とは、もといた所へふたたび行くこと、もどるということですね」と解釈する。しかし当然検討すべき次の用例は「かへる」の補助論証に引用しているに過ぎない。深川[1998]:「善導大師の『法事讃』には、/去来、他郷には停まるべからず。仏の帰家に従ひて本国に還りぬれば、一切の行願自然に成ず  (七祖五八五頁)/とありますし、『愚禿鈔』に/『来』の言は、去に対し往に対するなり。また報土に還来せしめんと欲してなり  (五三九頁)/といわれるのも、その意味をあらわしています」
  しかしこの二文を文献に即して検討すれば、「『還る』とは、もといた所へふたたび行くこと、もどるということ」という断言は不可能であったはずである。また、「還る」主体は「還相の菩薩」あるいは「化身」に限られるという印象を読者に与えることもなかったはずである。
  「還」の検討に際して「源空讃」のみ参照する手法は、白川[1997]も採用している。

13  (1)『唯信鈔文意』(真蹟集成八  270−4,  真聖全二641−2,  cf.624,  註釈版  702)[以下筆者が用例に付けた記号のうち、(A)は仏を主語とする使役形の用例、(B)は念仏者を主語とする動詞基本形の用例であり、(C)は還相回向の利益を示す個所である]:
「来迎」といふは、
(A)「来」は浄土へきたらしむといふ、これすなはち(A1)若不生者のちかいをあらはす御のりなり。(A2)穢土をすてて真実報土にきたらしめむとなり、すなはち(A3)他力をあらはす御ことなり。
(B)また「来」はかへるといふ、かへるといふは、(B1)願海にいりぬるによりてかならず大涅槃にいたるを(B2)法性のみやこへかへるとまふすなり。法性のみやこといふは、(B3)法身とまふす如来のさとりを自然にひらくときを、みやこへかへるといふなり。これを(B4)真如実相を証すともまふす、(B5)無為法身ともいふ、(B6)滅度に至るともいふ、(B7)法性の常楽を証すともまふすなり。このさとりをうれば、(C)すなはち大慈大悲きはまりて生死海にかへり入りて(よろずの有情をたすくるを)普賢の徳に帰せしむとまふす。(B8)この利益におもむくを「来」といふ、これを法性のみやこへかへるとまふすなり。
(2)『唯信鈔文意』(真蹟集成八  286−96,  真聖全二  644−6,  cf.626−8,  註釈版  705−7):
  「総迎来」といふは、「総」はふさねてといふ、すべてみなといふこころなり。「迎」はむかふるといふ、まつといふ、他力をあらはすこころなり。
「来」は(B)かへるといふ、(A)きたらしむといふ、(A’)法性のみやこへむかへ井てきたらしめ、法性のみやこへかへらしむといふ。(C)法性のみやこより衆生利益のために(この)娑婆界にきたるゆゑに、「来」といふ。これをきたるといふなり。((B2,B3)法性のさとりをひらくゆゑに、「来」をかへるといふなり。)
(中略)すべてよきひと、あしきひと、たふときひと、いやしきひとを、無碍光仏の御ちかひにはきらはずえらばれずこれをみちびきたまふをさきとしむねとするなり。(B9)真実信心をうれば実報土に生るとをしへたまへるを、浄土真宗の正意とすとしるべしとなり。「総迎来」は、(A’)すべてみな浄土へむかへて、かへらしむといへるなり。

14  普賢[2000]参照。信楽[2000]は資料2の「還来」を「念仏者の浄土往生」を示す表現であることを認めつつ、「これは善導の『散善義』の二河白道の文の中の、『直来』の来の字を説明するについて、『来の言は去に対し、往に対するなり』という文を受けていったもので、その『往』の字に対応して、帰の字を用いずに、あえて『還』の字を用いられたものと考えられます。(中略)かくして、この還とは、この『愚禿鈔』の一例を除いては、すべてその字義の如く、『ぐるりとまわってもとのところにかえる』という意味において、使用されているといいうる」と解釈して例外的表現と見なしているが、根拠が薄弱である。沖[2000]参照。

15信楽の用例解釈に対する筆者の批判は、沖[2000]  を参照されたい。

16  もちろん、「法性のみやこへかへる」のは念仏者であり、「かへらしむ」のは阿弥陀仏である。したがって、「(凡夫が浄土に)かえる」という表現と「(如来が凡夫を連れて)かえる」という表現とに関して、親鸞が主語を混同して「かえる」を使用したと主張するに等しい深川の主張は受け入れがたい。この点に対する筆者の批判は、沖[1999]を参照されたい。深川[1999]は「『法性のみやこへかへる』と使われるが、それは仏の側からの(約仏の)表現であり、仏が『むかえ率てかえらしむ』こと、つまり仏がもとの浄土およびさとりに『つれてかえる』『かえらしめる』のであって、衆生の立場からの(約生の)表現ではないという旨を示しました。(中略)/宗祖において(善導大師の引用において)右の文脈で『かえる』と使われる場合、『仏に従って』という前置きがついているということ、またそれがない場合も仏を主語にして、仏が『かえらせる』という意味で使われることを理解していただきたかったわけです。/それはたとえば病院で生まれた子供が、一度も帰ったことのない家であっても、母親とともに帰るからこそ『家にかえる』といえるのと同様です。『親がかえるのに従って』であるから、子供についても『かえる』と言いうるわけですが、やはり親の立場からの言葉でしよう」と主張し、使役文と動詞基本形の文を混同する理由、つまり、文法規則に従わないで文を読む理由を「約仏」という宗学用語で語る。しかも、文中で「『親がかえるのに従って』であるから、子供についても『かえる』と言いうる」(したがって「凡夫が浄土にかえる」という表現は法義に適う表現であると、深川は言わねばならないはずである;白川[1997]参照)と言って「われわれ凡夫衆生から言えば、やはり如来さまにつれられて『往く』、あるいは『参る』ことになる」という前言[1998]との矛盾を露わにしている。文献を書かれているとおりに読む努力を放棄した解釈の典型であると言える。もしこのような解釈が可能なのであれば、本願寺派真宗学は神学でさえもなくなるであろう。

17  仏を主語とする表現は「生ぜしむ、往生を得しむ」などであり、凡夫を主語とする表現は「生る、往生を得」などである。したがって、「往生する」という表現も「他力回向により」(「願海にいりぬるによりて」あるいは「仏に従ひて」)という前提をもつことは明らかであるから、同朋の死を「往生する」と表現することができるのであれば「浄土にかえる」とも表現することができるのは明白である。この表現が「約仏、約生」の宗学体系と直接関わらないことも明白である。

18  その他親鸞の用例を挙げる。
「涅槃」の同義異語(唯信鈔文意:真聖全二647−8,  cf.630,  註釈版  709):
(B2,B7)法性  (B3)法身  (B3)如来  (B4)真如(B4)実相  (B5)無為  (B6)滅度  (B7)常楽
(その他)安楽、一如、仏性。「この信心すなはち仏性なり」
類例1:(B9)安楽土に到れば、必ず自然に、(B7)即ち法性の常楽を証せしむとのたまへり(『入出二門偈』真聖全二484,  註釈版  550)参照:「正信偈」(真聖全二  45,  註釈版206);引文「ただねんごろに法に奉へて、畢命を期として、此の穢身を捨てて、即ち彼の法性の常楽を証すべし」(真蹟集成一  348,  真聖全二  106)
類例2:(B9)安楽浄土にいりはつれば、すなはち(B1)大涅槃をさとるとも、また(B3)無上覚をさとるとも、(B6)滅度にいたるともまふすは、御名こそかはりたるやうなれども、これみな(B3)法身とまふす仏のさとりをひらくべき正因に、弥陀仏の御ちかひを、法蔵菩薩われらに回向したまへるを、往相の回向とまふすなり。(『末燈鈔』21、真聖全二  693,  註釈版  779)
類例3:(B9)速やかに無量光明土に到て、(B1’)大般涅槃を証す、(C)普賢の徳に遵ふなり(「行巻」真聖全二35)
  深川[2000]は「これらは『来』の字を『かえる』と読むことによって臨終来迎でない旨を表そうとされる宗祖の釈でしょうから、基本的には立場を平生(現生)に置いて表現されたものです」と述べる。「基本的には立場を平生(現生)に置いて表現された」という文の意味が不明であるが、「かへる」が入涅槃(証大涅槃)と同じ事態を表す象徴的表現であることが明らかである以上、臨終時の事態を表すとしなければならない。「臨終一念の夕べ大般涅槃を超証す」(「信巻」真聖全二79)という文も参照すべきである。

19  深川は、「帰」はすべて「帰する」すなわち「帰依・帰順する」(信じる)という意味で使われていると解釈するようである(深川[1999]:まず「帰」の字に関係する表現の例として、正信偈の「帰楽邦」をあげ、ついで「帰去来」の語をあげて、これらは直接には平生(現生)の「帰」であって、臨終の時にあらためて「帰する」(かえる)という意味ではないことを示しました。/善導大師には他にも「帰去来」という語に続く「帰」や「還」の用例がありますが、前後の文脈からお読みになれば、やはり平生(現生)の立場で使われていることがわかります)。この点についての批判は別稿を予定している。

20  信楽[2000]は親鸞の引文を全く無視するという方法を提示しているが、現実的ではない。例えば、親鸞が付けた訓点は親鸞自身の理解を示しているし、原文に手を加えて引用する例(資料11)もあるからである。これに対して、深川[1998]は、親鸞の引用(資料11)がある場合にも敢えて原文を引用するなど、親鸞の用例を軽視する傾向がある。

21  「帰」「還帰」に関する善導の用例については、斎藤[1994]を参照されたい。

22例えば次の文が参考になるだろう。『末燈鈔』(真聖全二662):  光明寺の和尚の『般舟讃』には、信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居すと釈したまへり。居すといふは、浄土に、信心のひとのこころつねにゐたり、といふこころなり。


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