同和教育論究第18号
1997年3月20日

わたしはどこに立っているのか?

-糾弾により問われた僧侶の「立場」−

 

小武正教
はじめに
 ・わたしの原体験
 ・糾弾は出発点になっているか
 ・宗祖の「悪人」が糾弾会で問われた

第一章  「糾弾」を受けて
  第一節  一番目のボタン
  第二節  糾弾をなぜうけたのか-過去帳差別記載糾弾学習会の中から−
  第三節  糾弾を受けることによって、差別している自己の姿に気付いた
  第四節  僧侶研修会が始められた中で連続差別事件が起こる
  第五節  本山での糾弾会、各教区での点検糾弾会は、糾弾という形で問われた質を受け止めたか

第二章糾弾の歴史
  第一節  水平社による糾弾
  第二節  糾弾闘争の深まり
  第三節  西光万吉の「徹底的糾弾の妥当性」
  第四節  糾弾否定の動きは現在も

第三章  「国民相互の理解」への批判
  第一節  『同和はこわい考』−両側から超える−を批判する
  第二節  差別・被差別の関係の中で、まず差別者自らの「立場」を問う
  第三節  教団の内にみる融和主義・「両側から超える」を問う
     第一項  教団僧侶の声
     第二項  水平社に対する本願寺教団の融和主義的親鸞理解
     第三項  本願寺同朋運動をすすめる上で「一本化」という融和主義

おわりに


はじめに


・わたしの原体験

  まずはじめに、全く個人的体験を記す。
  「あんたも同じか?」。二十五年前、私が中学校一年生の時友だちから私に投げかけられた一言が今も胸にある。小学校から中学校へ進学した四月のある日曜日、初めて一緒になった同じクラスの友だちの家に小学校時代の同級生を誘って遊びにいった、一九六九年のことである。彼の家は被差別部落の中にあり、当時は同対審答申は出されたとはいえまだまだ地域の環境改善はなされていなかった。私は同和教育を受けておらずなぜ劣悪な環境かと不審に思いながらも、当時はやりの野球ゲームに魚釣りにと一日遊んで帰った翌週、事件はおこった。一緒に行った友だちが、遊びに行った彼と同じ被差別部落の同級生に言い争いの中で、賎称語を投げ付けたのだった。それは差別発言として問題となり、学校や解放同盟の人を交えて取り組むこととなった。私は何が起こったのかわからなかった。身を小さく縮めて嵐の過ぎるのをジットまとうとした。それは遊びに行った彼とも一緒に行った友だちとも自然、距離を置いた。事が起きてどれくらいたったろうか、彼を避ける私に彼が最初の一言を言った。その一言は私の胸にグサッと突き刺さった。それいらい私は彼の家に行かなかった、いや行けなかった。
  中学校を卒業し、私は広島市内に出たため、彼とひさしぶりにあったのは二十歳を過ぎてから選挙の会場だった。「今自分は○○の宗教に入っとる、お前も聞いてみいや」「じゃあ今度」というような会話をして別れた記憶がある。それから十年、私の上にも過去帳差別記載糾弾学習会が起こり、教区の一員としてそれに参加し僧侶としての自分を問い返され学ぶ機会がはじまり、大部分の時間それにかかりっきりといってもいい状態で生活していた。そんな或るとき、久しぶりに偶然出会った彼が私にこう言った。「お前今ごろ解放運動をしょうるんか、頑張ってくれえよ」と。突然の彼の言葉に私は驚き、「ああ分かった」というのが精一杯だった。今思えば彼がどんな思いでその一言をいったのか、今となっては尋ねようがない。彼は一年前の春病気で亡くなった。
亡くなる半年程前に何度か私に電話がかかってきたがまさか病気とは知らず、二十五年ぶりに家を尋ねた時には姿はなかった。仏間に通して下さったお父さんが、「息子は『(私の住んでいる)東河内には友だちがおるんじゃ』とよう言うておりました」と言われた言葉には胸が痛んだ。
  今彼の顔を思い浮かべながら思う。糾弾学習会の機会を得てよかったと。二十五年前、私に投げかけられ、澱のように胸にあった「あんたも同じか」という言葉が、「頑張ってくれえよ」の一言で救われた思いがする。
  そして確かに、「差別者は差別した事実から逃げることはできない。差別された人間と向き合うことによって差別した人間自身が救われるのだ」ということを思う。

・糾弾は出発になっているか

  今私たちは本願寺教団の中で起こってきた連続差別事件(東海教区住職差別発言事件・「本願寺派関係学園理事長協議会」差別発言事件・浄土真宗本願寺派札幌別院「差別落書事件」)によって五回の糾弾を受け、各教区においても地元の解放同盟と点検糾弾会を重ねてきた。水平社以来本願寺教団が糾弾されることは何度かあったが、教団に所属する全僧侶を対象として、各教区ごとに回答書を提出して糾弾会が行われたことは前代未聞のことだ。九六年八月一日、中央での第五回糾弾会を受け、十二月に提出された総括書で一連の糾弾会は終わった。
もちろん、「法要」の勤修や「過去帳の再調査」という課題を残してのことではあるが、糾弾という形のものは一応の区切りをつけた。「これは終わりではなく、新たな同朋運動の出発であります」と松村総長は私たち僧侶を代表して決意を述べた。しかし、教団が本当に新たな同朋運動の出発になるのか、「やれやれ、これで糾弾されずにすむ」ということになるのか、ごまかしようなく結果は正直に現れる。本山においても、それぞれの教区においても、私たち僧侶ひとりひとりにおいても。
  私たちはこの度の点検糾弾会では、「連続する差別事件を縁として」、糾弾を受けるという中で、私たち僧侶の差別性を自ら明らかにすることを求められた。そして今まで気付かなかった自らの差別性を文章にしていった。その文章に書き記したことが実践されていくかどうか?、それは糾弾を受けるということが、いかに私たち親鸞の教えに生きんとするものにとって本質的な出来事として受け止められたかということにかかっているといってもいい。糾弾をうけるということは、私たちが今までと同じ調子で「これも御縁です」と、何でもかんでも「縁」の一言に、結果として現状丸ごと肯定として収めてしまうことの出来るものではない。私たち僧侶が糾弾を受けるということは、言葉を変えれば、「あなたのいう信心はニセモノではないか」と満身の怒りを持って訴える人の前に我が身を置くことである。袈裟を掛け衣を身に着ける者のまさに〃いのち〃が問われる出来事だから。だからこそ「古き我に死して、新しき我に生きる」ことが出来るかどうか、まさに「信心」そのものの問われた場である。
  それは本来、この身・この世の現実が明らかになっていく以外の何ものでもない親鸞の教えが、「真俗二諦」の教えによって、あたかも「信仰の内面」と「社会生活」を切り離せるかのように観念し、「こころの内面」に自己完結・自己閉塞した信心理解と、現実の矛盾を丸ごと肯定してしまうという真俗二諦的現実を、いま私たち僧侶が破ることが出来るかどうかが問われる正念場でもある。部落差別の現実を私たち僧侶が主体的に受け止めるということは、そのことを抜きにしてはあり得ない。
したがって私たち僧侶にとっては、糾弾を受けるということは、教団内に差別事件が起きたからそれにたいして、二度と起こらないようにうまく「対策をこうじる」ためというものではないことは言うまでもない。

  ・宗祖の「悪人」が糾弾会で問われた

  本山における第五回の糾弾会において、教学的内容としては唯一「親鸞聖人は『悪人』ということをどのように受けとめておられたのか?」という問いが投げかけられた。本山を代表して教学研究所所長が答弁していることをまとめてみると次のようなものである。(※1)
 

  悪人とは、経論の一般的な解釈の場合は、「お経に書いてある十悪とか五逆罪を作ったものとか、正法を誹諺するもの」というように、社会的な意味ではなく限定して使われている。親鸞聖人の場合、それをふまえながらも、社会的に下層とみなされてい
た「屠沽の下類」と呼ばれる人たちに対して具体的な悪人という視点をもっておられたと。つまり社会的な意味を含んで悪人という言葉が使われている。
  これは従来の本山の「真俗二諦」の枠に閉じ込められた「安心論題」からすれば確かに一歩踏み出した見解であるには違いない。しかし、この回答には致命的な欠点がある。それは糾弾を受けている私たち僧侶の立場がないということである。この回答では従来の「こころの内面」に閉じ込めた悪人もはっきりと総括されることもなく、それはいわゆる「仏法へ対する悪人−の見解」として闇に許容しながら、解放同盟から求められた「社会的要素としての悪人−」も認めるという「うまく擦り合わせ」した妥協の産物となっている。本山の現状という立場への配慮からの教団護持的な精一杯の発言ではあるが、それは「対策」にはなっても、「悪人とは何か?」ということを、自己の立っている立場が問われたということにはなり得ていない。もっと詰めていえば、「社会的立場の悪人ということを親鸞聖人が『救いの目当て』だとおっしゃるなら、あなたたち僧侶の救いはどのようにして明らかにされるのか?」という展望が示されなくては糾弾会の回答にはならない。
  私たち僧侶は糾弾によって差別者という立場に立っていると問われた意味が明らかにならなくてはならない。
そして差別者がどうしたら救われるのか、糾弾の声の根っこを尋ねながら問い返してゆく所から始めて、「いなかの人々」と「われら」と名告って生きた宗祖の「歩み」と立たれた「場」が私たち自身の実践を通うして明らかになってゆくはずである。そしてそこで私たち僧侶の、糾弾を受けることによってこそ明らかになる「救い」が証されるといえよう。
  私たち僧侶は今こそ問い返してみなければならない。
私たち僧侶は糾弾会によって、誰に出会ったのか。出会いによって何があきらかになったのか。誰と新しく生きる身になったのか。「救い」の中身は変わったのか。
糾弾の声は、その答えを、親鸞を宗祖と仰ぎ、念仏を称えて生きんとする者としての、僧侶としての私たち一人一人に求めている。
 

第一章「糾弾」を受けて

  第一節  一番目のボタン

  一九九四年十月、部落解放同盟大阪本部で第一回糾弾会が開催されたおり、上杉佐一郎委員長は、「なぜ、真宗の僧侶方がこのような差別事件を繰り返して起こすのか、私たちは本願寺派の門徒として、怒りよりも情けない思いで一杯です。そのような思いを込めて、今後二年間、私たちは浄土真宗本願寺派を糾弾いたします」と述べている。
  そして本山での四回の糾弾会、さらには全国三十一教区での点検糾弾会、さらにまとめとして本山での第五回の糾弾会をへて、九七年一月、部落解放同盟中央本部に「総括書」を提出した。その中に次のように書いている。
 

  差別事件という事実を前にして「あなたは親鸞聖人の遺弟だ、弟子だ、親鸞聖人の御跡を継ぐ、慕って歩いているのだということを、胸を張って言えるのか」ということを問われています。「私は親鸞聖人の弟子です、親鸞聖人を宗祖と仰いでいます」と公言しているけれども、そのことをあなたは、真に公言できるのかということを問われたのが今回の糾弾会や教区における「点検糾弾会」でありました。(※2)


  この意識が、私たち教団僧侶の一人一人に徹底されたかどうか、今後の取り組みの上に問われてくる。
  そしてその時最も肝心なことは、何をなすべきかということよりも、「糾弾を受けた」という事実をどこまで風化させないかということだ。糾弾をうけるということが、僧侶であることの一部が問われたのではなく、「僧侶であることそのもの」が告発されたのであり、「僧侶である私たちの信心が違うではないか」という訴えを受けたという意識こそが、私たち僧侶の差別体質を問い続け、糾弾に真に応えうる歩みをもたらす原点である。
  「そんな僧侶なら袈裟をはずせ。衣を脱げ」と満身の怒りを込めて投げかけられた言葉の前に立ち続けることを無くしたら、自分の差別体質を問うことなどしない。
目を背けたとたんに、自己弁護がはじまる。
  言く、「この世は差別社会だ」「教団の矛盾は必要悪だ」「信心と社会の問題は違う」「本当の信心さえあれば自然に差別はなくなる」と。
  そして返す刀で、告発した相手に対して非難をはじめる。「糾弾ということはいけん。話しあいでないと」「私らも悪いが、被差別部落の者もお互い反省しなきゃぁいけん」と。
  一番目のボタンをかけ違えると、後はすべで違ってくる。私たち僧侶にとって、糾弾を受ける私たち僧侶の姿勢こそその一番目のボタンである。

第二節  糾弾をなぜ受けたのか−過去帳差別記載糾弾学習会の中から-

  差別の事実を自己の問題と出来なかった三つの差別事件を元にした、この度の本山の糾弾会・全教区での点検糾弾会の出発は、一九七九年の全日本仏教会理事長の町田宗夫差別発言事件をきっかけに宗教界の差別体質が問題とされ、一九八三年に行われた「差別法名調査」に遡る。その結果全国で、九教区二十一カ寺の過去帳に差別添え書きや、被差別部落だけを別冊にした過去帳などの差別記載があることが判明した。差別記載の存在が報告された備後教区四カ寺、安芸教区七カ寺のうち、備後教区の一カ寺が一九八三年四月、部落解放同盟広島県連合会の地元支部へ差別記載の事実を提起された。

  この提起をうけて、部落解放同盟広島県連より、備後・安芸両教区は、過去帳差別記載の対応と総括を求められたが、しかし、両教区は、本山からの指示を待っているだけで、具体的対応も総括も出来ないまま一年半が過ぎた。そこで広島県連から、「教区は差別記載の問題を自らのこととして取り組めない」と判断され、過去帳差別記載糾弾学習会が行われることとなった。(※3)
 

  第三節  糾弾を受けることによって、差別している自己の姿に気付いた

  一九八五年十月の第一回目を皮切りに七回の糾弾学習会が行われた。そして糾弾会は、現在備後・安芸そして広島県連それぞれ人数を絞っての同朋三者懇話会の形で、二十四回を数え継続されている。
  まさに私たち僧侶にとって糾弾会とは、一言で言えば、「僧侶としての存在そのものが告発された場であり、自分の差別している事実を知らされ、その課題を担う僧侶へ新しく踏み出すことが求められた場」であった。
  備後教区でまとめた『業を担って』の中に、糾弾会において私たち僧侶に投げかけられた告発の声を代表して、次の言葉を記した。

  「あなたたちはわたしたちに申し訳ないといわれるが、親鸞聖人に対しては申し訳ないと思わないのですか」(※4)

  まさに、「過去帳に差別記載がありながら、なぜそれが問題にできないのか」、そして、「過去帳の差別記載を差別と思うなら、なぜ名乗り出ることができないのか」という問いかけは、私たち僧侶が宗祖と仰ぐ親鸞聖人の「教えにいつまで背いたままでいる」のか、「いつ教えに立ち返る」のかということが問われたのであった。
  私たち僧侶は、その問いかけの前に「沈黙」したり、「自己弁護」したり、「建前の答え」を繰り返したりして、次のような自らの正体をさらけだした。(※5)

  これらの一つ一つが、親鸞聖人の教えに背くものであることを、過去帳差別記載という事実と、その問題から明らかになってきたさらなる差別の現実(・免責条項・過去帳閲覧禁止)を突き付けられることによって、私たち僧侶は頷かざるをえなかった。(※6)
  糾弾学習会を通して、私たち僧侶は、過去帳差別記載という差別の事実が、私たち僧侶の「信心」が問われた問題であることにやっと気付いた。
  もし糾弾学習会がなかったら、恥ずかしいことだが、「今も私たち僧侶は、過去帳の差別記載をほったままにしていたのではないか」「私たち自身が今もその上に立ちながら、気づいていない差別の現実を問い返すこともなかったのではないか」「私たちの信心理解は、『差別しても平気な教え』を何の疑問もなく説きつづけていたのではないか」ということを思う。(※7)
  そして、もっとも大きいのは糾弾ということがなかったら、「僧侶として立っている場」そのものを問い、自分の社会的生きる場そのものを変える営みということが始まったであろうかということである。この「僧侶の生きる場」がどう変わるの変わらないのか、「糾弾」から「自己の存在全体を問われた」のか、「自己の一部・心のもちようが問われた」と受け止めたのかの結果が出て来る所である。
 

  第四節  僧侶研修会が始められた中で連続差別事件が起こる

  備後・安芸両教区と広島県連との間で続けてきた同朋三者懇話会から、本山に対して、差別の現実を前にしてもそれを自らの問題としえない理由として、次の三つの視点を提示した。「真俗二諦」「業・宿業」「信心の社会性」である。そして本山ではこの三つの視点をまとめたテキスト『御同朋の社会をめざして』を作成し、全国の全僧侶を対象に僧侶研修会が一期四年の予定で一九九二年より始められた。その僧侶研修会の期間の中で連続差別事件は起こった。一九九三年四月「東海教区住職差別発言事件」。一九九四年一月『本願寺派関係学園理事長協議会』差別発言事件」。一九九四年七月八日、十七日、そして九五年三月に三度に亙って発見された「浄土真宗本願寺派札幌別院『差別落書き』事件」。今まで本願寺が差別事件で糾弾を受けたことは何度もあるが、こうして連続して差別事件が続いたことはかつてない。なぜか?。なぜ差別事件が続いて起こるのかという現象を説明するには、「自らの差別の事実を問い返す」同朋運動への反発ということで、ある程度説明がつく。そして今思えば、教団のこれまでの歴史からすれば僧侶研修会が始まった時点で考えられたことでもある。
  しかし、だから差別事件が起こるのは必然であったと私は言おうとは思わない。「何が全国の僧侶研修会に欠けていたのか?」ということこそ問われるべきことである。そしてそれこそが、三つの課題が一九八三年の全国の差別法名調査の結果、被差別部落の人たちの糾弾の中から私たち僧侶の存在そのものが問われた問いだという、「問いの質」が伝わっていたかということだ。そのきっかけは備後・安芸両教区の僧侶を対象とした過去帳差別記載糾弾学習会であったが、糾弾を受けた中身は、全教区の全僧侶を対象とする質のものだった。(※8)糾弾される中で問われた問いだということが伝わっていく僧侶研修会だったか?、問いに向き合う姿勢こそが、研修会のすべてでもある。
  言葉をかえるなら、三つの課題として問われた具体的課題が、全国の僧侶一人一人の前に提示されていたかということである。言うまでもなく、「真俗二諦」の問題といってもただ「真俗二諦という教学」を議論しようということでないことはいうまでもない。「免責条項」「過去帳閲覧禁止」という真俗二諦の現実をどうするかということが、親鸞聖人の教えに適うことなのかと問われたわけである。「業・宿業」ということも、問われた具体的な課題が私たち僧侶の「業・宿業ではないのか」という課題である。そして「信心の社会性」ということも、問われた問題に答えられないような社会的責任(社会性)を失った信心は、被差別部落を差別してきたものとしか思えないというのが問いの中身である。問いの具体性が伝わることが、糾弾からの問いということを伝えるために欠くことの出来ない最大のポイントだか、それが伝わっていたか?
 

  第五節  本山での糾弾会、各教区での点検糾弾会は、糾弾という形で問われた質を受け止めたか

  今回の各教区に対する糾弾会は、「点検」という形での糾弾会として行われた。それはある意味で、個別の差別事件は事件の起こった教区並びに本山での対応委員会で取り組むこととし、全教区にたいしてはそのような差別事件を生み出した「教団に内在する差別構造(体質)」を明らかにすることが四項目にわたって求められた。(※9)

  各教区においては、それぞれ独自の回答書を書くべく懸命の作成作業がつづけられた。しかし、その熱心さの質は何であったかが、各教区の点検糾弾会の報告を受けて、それに対して出された部落解放同盟中央本部の第五回糾弾要綱には次のようにしるされている。(※10) 部落解放同盟の各県連による報告書の集約がこうした文章として提出されている事実は、点検糾弾会によって教団の私たち僧侶の実態がまさに差別を温存助長するものとして白日の下にさらされたと、受け止めるべきであろう。
  では、そこを出発点とすることができたか?。私たち僧侶一人一人に教区にそして教団に問われている。それはことばを変えれば、新たに課題を明らかにして取り組む状況がどの程度つくられているかということに外ならない。
  私の所属する備後教区を振り返って見るとき、私の教区だけは違いますとはとても言うことができない。一九八五年以来過去帳差別記載糾弾学習会、そして現在にいたる同朋三者懇話会を続けておりながらである。しかし十年を越す取り組みの中で、やっと過去帳に差別添え書きの書かれた歴史的背景が明らかになりつつあり、過去帳差別添え書きはまさに添え書きのある無しにかかわらず、全てのお寺の足元の問題だという糸口まではたどりついたように思う。(※11)
  しかし備後教区の第一回点検糾弾会で、被差別部落の方から次のような問いかけをうけ、それが具体的取り組みになっていないことも痛感させられた。

  「自分の先祖は流浪の民だ。それは明治からこの方お寺を転々とかわってきた。被差別部落ということでどこの寺でも片身の狭い思いをして変わらざるをえなかったというのが本当のところだ。それをあんたら僧侶はどう受け止めているのか」と。(要旨)

  まさに現在にまで伝わり、今も厳然とある差別の現実を突き付けられ、私たち僧侶は沈黙するしかなかったのである。
  本山における糾弾会、そして各教区における点検糾弾会は、与えられた問題は同じでも、問われた問いは各地域の状況や取り組みの進み具合によって相当違っていると思う。しかし、話し合われた内容が違っても、問われた質という点においては全く同じはずである。「あなたは差別構造(体質)の上に胡座をかいて、何の痛みも感じないで平気で仏法を説いている。それでも僧侶ですか」という問いを突き付けられたのが、私たち僧侶が糾弾された中身である。
  今私たち教団で、基幹運動を押しすすめていく上でキーワードとしている「信心の社会性」という言葉は、「社会の問題の領域」と「信心の領域」を分けてきたことへの反省から、私たち僧侶の課題を明らかにしようとして同朋三者懇話会より提起された言葉である。もともと「社会性」を持たない信心など存在するはずがないのに、社会の現実と切り離された宙に浮いたような信心を仮定し、自分が責任を負う必要のない領域・聖域を作って、自らの保身を図ってきたわけだ。今も僧侶の中に、「念仏者の社会性」なら分かるが「阿弥陀さまから頂く信心に社会性というのは納得いかない」という人が多くいるが、これはこの言葉が糾弾の中から紡ぎ出され、わたしたち僧侶が「信心を回復していく道しるべ」として掲げられているということが全く理解されていないからである。ズバリ言えば、「念仏者の社会性ならわかるが」というその言葉が、被差別の立場にある人から、「それはニセ者の信心だ」と告発されているのである。私たち僧侶の信心が「間違っていた」というところからしか始まらない。もし、差別された怒りを突き付ける人の告発を前にして、「私はあなたを差別をしていますが、私の信心は不動です」という人がいるとすれば、その信心は悪魔のごとき心であって、もはや言う言葉はない。

  恥ずかしいことだが、「あなたの信心は違う」といわれるまで、社会と切り離した「信心理解」のままで平気で僧侶をしていたわけだ。「差別に苦しんでいる私たちが解放されるような親鸞聖人の教えを示してほしい」という被差別部落の人たちからの問いかけにより、念仏を口にしながら念仏者たりえていない事実が晒され、そして僧侶の格好をしながら僧侶たりえていない事が示され、本当の念仏者となる、僧侶となる出発点を与えられた。わたしは、自らを呼びさますその告発の声の底に、如来の本願の働きを感じる。

第二章  糾弾の歴史

  第一節水平社による糾弾

  「糾弾」という形を被差別者自身の解放運動として位置付けたのは、一九二二(大正十一)年三月三日に創立された水平社が初めてである。その大会で、「吾々に対し穢多及び特殊部落民等の言行によって侮辱の意志を表示したる時は徹底的糾弾をなす」と決議した。そしてこの水平社創立以後、解放運動というものは糾弾闘争が根底にすえられていくようになった。

  そして一気に翌一九二三年には八百五十四件の糾弾闘争、さらに一九二四年には千五十二件の糾弾闘争を闘い、多くの差別者がその非を認め謝罪していった。(※12)
  しかし同時に、糾弾闘争に対する批判が国家権力の側から起きてくる。一九二五年五月、全国の警察部長会議で小山検事総長は訓示でこう述べている。

  これ(徹底的糾弾)彼らが一般民の同情を得る所以に非ず、ただに彼らの要求を貫徹する障碍となるおそれあるのみならず、これ実に社会の秩序を紊乱するものにして断じて許容すべからざる行為というべし。
  各位はこれらの不法行為を認知したるときは、迅速に之を検挙し、以てその弊害の蔓延を防止せざるべからず
  この発言から、糾弾行為が「一般の人たちの同情を得ない」というだけではなく、「社会の秩序を紊乱するものであり」「断じて許容すべからざるものである」と認識されており、糾弾闘争への弾圧へのはじまりを見ることが出来る。それは逆に言えば、部落差別を許容することが当時における社会秩序であるという認識であろう。
  水平社の設立からすでに七十五年が過ぎるわけだが、「糾弾は一般市民の同情を得ない」「社会秩序の紊乱であり不当行為だ」という考えは、今日でも日本社会の中に抜きがたい感情として存在している。私たちの教団・僧侶の意識の中にも根強くあるのが実際の所である。
  水平社は、その宣言文に「人間を勦るかのごとき運動」が「なんらのありがたい効果をもたらさなかった事実」を否定することから出発したと謳った。これは今まで被差別者の為として行われてきた様々な、「同情融和」を基とした運動によっては解放はなし得ないという告発である。従って「吾々特殊部落民は部落民自身の行動によって絶対の解放を期す」ことより出発した水平社は、部落差別の存在を社会秩序として考える社会を糾弾し、上から下への哀れみの感情(同情)からもたらされる行為を当然拒否したのである。

  第二節  糾弾闘争の深まり

  糾弾闘争は水平社創立当初には個人糾弾というところに視点がおかれ、個人の差別的言動に対しての糾弾が中心であった。しかし、差別者はただひとり個人として社会の中で孤立しているわけではなく、個人の属する社会の意識を具体化したものと考えるようになり、糾弾はしだいにその差別事件を起こした背景に焦点をあてていくようになった。したがって差別者の周辺環境、差別者の所属の団体にも反省を求めるものになっでいった。
  一九二五(昭和十)年、水平社の第十三回大会で、糾弾闘争の意味合いがより正当な教育的意味を発揮しうるような、大衆闘争への方向が打ち出されてきた。(※14)
  さらに戦後の日本国憲法下での解放運動ではいっそう前進し、部落問題の抜本的解決のため、差別を温存してきた国の責任を追及する行政闘争へと展開していった。
その成果は、一九六五年八月に同和対策審議会の答申となった。

  いうまでもなく同和問題は人類普遍の原理である人間の自由と平等に関する問題であり、日本国憲法によって保障された基本的人権にかかわる課題である。その早急な解決こそ国の責務であり、同時に国民的課題である。                (答申前文より)
  また被差別者自身にとっての糾弾の持つ意味も深まってきている。
  第一段階としでは、水平社が創立される以前の同情融和を基とした運動においては、被差別部落の者自身が差別を受けないようにするには、部落民自身を改善することで平等を達成しようという運動で、被差別者の社会的自立とは程遠いものであった。
  第二段階としては、水平社の創立により、「被差別者自身の手による」解放運動がはじまり、糾弾を解放への手段として明確に位置付けた。そして糾弾闘争が展開されていく中で、差別者の人間変革という視点だけではなく、糾弾する被差別部落の大衆教育という意味づけがなされていった。一九三五(昭和十)年の第十三回水平社大会である。
  そして第三段階として、現在の糾弾闘争においては、その糾弾の位置づけは、「差別社会、差別者を変革する主体的力量を高めるために、被差別者自身を深く内省する」という意味あいを持つものとなっている。(※15)
  部落解放同盟広島県連の岡田英治さんは糾弾の意味を明らかにする、「他者を追及する己が問われるもの」という講演の中で次のように述べている。(※16)
  糾弾と言うことの根本は先ず『社会悪とか、社会的不正義を正すこと』です。それから次は「他者に求める厳しさ以上のものを自己に求めているか」という事、「相手の弱さを追及する自分に同質の弱さはないか」という点を自分に問い返すことなんです。企業が差別事件を起こしたら、「そういう差別事件を許しておるような企業の職場の体質はどうか?」と問いかけます。当然のごとく問いかけるわけですけれど、問いかけている自分と自分の運動団体にそのような厳しさを求めているかどうか。それを内に求めずに人を追及することは出来ないという事が言えると思います。
  そのために糾弾闘争が行われるにあたっては、現在では「糾弾要綱」を作成するなど厳密な手順が定められています。そして今糾弾は「差別者の人間変革」と同時に、「被差別者の主体の確立」という教育の場として位置づけられ実践されています。
  しかし岡田さんはここで注意しなくてはならないのは、第一段階の「同情融和的意味での内省・自省」と、第三段階の「社会悪、社会的不正義を追及しながら自己を内省」することを宗教者も他の人たちも混同している場合が多いと、次のように指摘する。(※17)
  よく行政の市町村長とか学校の校長先生など、そして宗教者もそうですけれど、融和的な考え方を持った人は、「我々部落解放運動は、内なる自省・内省で頑張らなければいけないのです」と言うと、その時に一番相槌を打っでニタッとして『そうだ』という顔をされるんですけれど、たいていの場合は「同情融和的」レベルで聞いています。本当に理解してほしいのは「社会悪、社会的不正義を追及しながら自己を内省する」ことなんです。
  一九七二年、部落解放同盟広島県連は被差別者の主体の確立という意味で、「社会的立場の自覚的認識」ということを掲げている。この一言の中に今日までの糾弾闘争の深まりが表現されているわけである。自分が人為的に作られた差別によって不当な扱いをされている立場にめざめ、自分を不当に扱う社会を変革しようと思いたち、そのためには運動の力量を高めるために、「社会意識としての差別観念」に汚染されている自己を問うことが大切だということをこの一言にこめている。

第三節  西光万吉の「徹底的糾弾の妥当性」

水平社運動の時代から現在まで、古くて新しい問題として、糾弾に対する非難があることは第一節で述べた通りである。その非難は、「糾弾は集団暴力であり脅迫だ」というものだ。
  それに対して西光万吉は、「水平新聞』四号に「徹底的糾弾の妥当性」として次のように述べる。(※18)

  世間の人々が、なんでもないようにいうその侮辱的なことばは、実にわれらにとっては最も恐るべき脅迫ではないか。そのことばは、われらをいかに残酷に脅迫するであろう。(中略)まったくわれらは、そのために妻を奪われ、子を失い、町を追われ家を捨て、名を汚され、また自らの死を願うた。これが脅迫ではないのか。今の世に、われらに対する差別的な言辞ほど残酷な、深刻な脅迫が他にあろうか。
  西光万吉が言うように、差別者にとって差別事件は何でもないことのように見えても、差別される人々にとっては生命が奪われるほどの意味を持つのである。言葉一つによって、殺され自殺して行った人、被差別部落の出身ということだけで離婚されたり家庭をこわされた人。
まさに被差別部落の人にとって差別的言辞は、人を殺すという犯罪と同じ重さで襲いかかるということである。
  そして西光万吉の水平社の時代は無論、現在においても差別を取り締まる法律があるわけではない。差別という犯罪行為から自分自身を護る法律の何らない中に被差別者が放り出されているという状況は、現在も変わっていない。確かに今日においては、人権擁護委員会が各市町村に設置されているが、差別事件を起こした者に対して忠告することが出来るだけで、差別者がそれを無視すれば何の手だてもしようがないというのが実状である。
したがって差別された者自身が、差別に対して異議を申し立てる権利は、法律に名文化されているかいないかという以前の当然の権利として認められねばならないことは言うまでもない。差別された人間にとっては、糾弾ということが唯一の自己救済の手段だからである。
  従って一九八一年「矢田教育差別事件の控訴審判決」で、大阪高裁は次のような判断を下している。(※19)
  差別というものに対する法的救済には実際上限界があることにかんがみると、被差別者は、法的手段をとることなく、みずから直接、差別者に対し、その見解の説明と自己批判を求めることが許されよう。それが糾弾と名づけられるか否かは格別、人間として差別に対し堪え難い情念を抱く以上、法的秩序に照らして相当と認められる程度を超えない手段、方法による限り、かなりの厳しさを有することも是認されよう
  水平社が被差別者自身の自己解放の手段として選び取った糾弾という運動論はその方法自身が深まり、差別事件を生み出した現実を深く抉りだすことができるようになった。そして同時に、糾弾そのものがめざす内容が、単に部落差別からの解放にとどまらず、人間性を破壊し否定する一切のものから全人類を解放しようという高い理想を持った運動へと展開してきたということでもある。水平社創立の綱領第三カ条には次のように謁っている。
 吾等は人間性の原理に覚醒し、人類最高の完成に向かって突進する。
  西光万吉は、「徹底的糾弾の妥当性」という文章を書いたが、この場合の「徹底的」とは、単に物理的激しさのみをいったものでないことに注意しなければならない。「糾弾」という方法に込められた「質的徹底」という意味がそこに込められている。
  糾弾の物理的徹底と質的徹底、それこそが、差別者の人間変革をなすと同時に、被差別部落の大衆自身が自ら自覚め、解放のために立ち上がり、共に不合理な社会的差別をなくしていく連帯の闘いの場を作りだすめである。

  第四節  糾弾否定の動きは現在も

  一九八六年八月に政府の側から出された地域改善対策協議会基本問題部会報告は、それまでの部落解放運動が積み重ねてきた成果を根本的に否定するものとして提示されてきた。「糾弾の否定」や、「法律の打ち切り」、そして「差別の法規制の否定」など。
糾弾については具体的に次のように述べ、否定している。(※20)

  確認、糾弾行為は、被害者集団による一種の自力的救済かつ私的裁判的行為であるから、被糾弾者が当然にこれに服すべき義務を有するものではない。
  他人に何らかの義務を課する法的な権利として認められるためには、法律に根拠を有するか、判例上確立されたものでなければならない。しかし、糾弾権の根拠となる法律がないことは言うまでもないが、判例においてもそのような権利は認められていない
  こうした国側の姿勢に対して部落解放同盟をはじめ、これと連帯する団体から猛烈な反対運動が展開された。
私たち浄土真宗本願寺派においてもさっそく一九八七年の三月号の『宗報』で、基幹運動本部より批判の文章を掲載している。
問6、「確認・糾弾」とは一体何でしょうか。「民間運動団体の行き過ぎた言動」などとの主張もあるようですが。

、それは人間の尊厳を傷つける差別を告発し、差別を糺す営みです。一九二二(大正一一)年に結成された全国水平社の行動は「徹底的糾弾」から出発をしました。この糾弾によって、無関心で差別意識を深く広く存在させていた国民が、この問題の重要性を認識することができました。同和行政、同和教育、また私たちの教団の同朋運動もこの糾弾によって差別に目覚め、その営みが出発し、取り組みが展開した歴史と現実があることを認識しなくてはなりません。
  「同和問題について語ることがこわい」というのは、自らが自らの差別意識におびえているのです。
確認・糾弾の激しさは、差別の厳しさの反映であり、また差別行為の悪質さの反映でもありましょう。人間の尊厳を確かめあい、人間尊重の世の中を実現したいとの願いでもあります。長い差別の歴史の中で培われた頑迷な差別意識が確認・糾弾を通して糾され克服されてきた事実は歴史が物語っているところでもあります。


  この「地対協部会報告」とそれに伴う「意見具申」は広範な国民的運動によって葬りさられた。
  しかしそれから十年、一九九七年の地対財特法の期限切れにより、部落解放基本法の制定どころか、「一般対策への円滑な移行」ということで同和行政を打ち切る路線に道が開かれた。一九九六年の「人権擁護施策推進法」は、部落問題の解決が国の責務であることをあいまいにし、「国民相互の理解」という融和主義思想を国の方から啓発していこうとするものである。(※21)それは共産党の主張するものと大差なくなっている。
 

  部落問題を解決していく上で重要なことは同和地区住民の自立意識の向上を図りながら、国民相互の主体的な営みのもとで、あらゆる生活分野で国民融合論を促進させ、旧身分を理由にしたわだかまりを解消していくことである。(※22)
(「人権擁護施策推進法」の審議での共産党の意見)


  一九八六年、「地対協意見具申・部会報告」で政府が落としいれようとした「部落責任論」へ十年たってはまりつつあるのではないか。

第三章「国民相互の理解」への批判

  第一節  『同和はこわい考』  −両側から超える−を批判する

  今日の「地対財特法」期限切れにともなう同和行政打ち切り路線と同時に一気に浮上してきたのは、「部落責任論」に導いていく伏線として、「国民相互の理解」によって部落問題を解決していこうという政府の方針である。(※23)政府とすれば、部落解放運動潰しを狙って打ち出しながら、いったんは葬りさられた一九八六年の「地対協部会報告」「意見具申」を、総保守化の達成されたいまこそ再び復活させ、実現させる好機というわけである。
それも、前回の轍を踏まない巧妙な手段をつかって。
  一九八六年に「地対協部会報告」が出された時、論としては「部会報告」を批判するポーズをとりながら、結果的にはその本を出すことで部落解放運動潰しを狙う政府への味方として機能した、『同和はこわい考』(一九八六年六月刊)という一冊の本がある。そめ論点は、部落解放の達成のためには、「差別者側の変革」を言うだけではなく、「被差別者の自己内省」があって初めて達成できるというものである。一言で言えば、「両側から超える」ということに収まるといえようか。その主張そのものは決して目あたらしいものではないが、部落解放運動を支援する側からこの論が提出されたことが反響をよんだ。
  部落解放同盟中央本部は、さっそく『解放新聞」(一九八七、一二、二一全国版)で以下の三点にわたって批判の文章を掲載している。

  『同和はこわい考』に対してだされた、解放同盟中央本部の見解は、今の時点で考えてみても、出された「時」の問題、そして「解放理論の本質」の問題、その両方からみて間違っていないと思う。「ケンカしている最中なのだ。どうやって差別攻撃を跳ね返すか。このことしか頭にはない。具体的に、勝つために行動することで、精一杯」という江嶋修作氏の言葉(※24)に指摘されるごとく、『同和はこわい考』なる指摘が国と闘っている真っ最中に出されるということは、あまりにも部落解放の運動の現状に対する無理解である。
  問題は、いま政府が「国民相互の理解」という形で部落解放運動潰しを打ち出した、その道案内役を結果的に『こわい考』が果たしてしまったということである。もちろん『こわい考』そのものにそれほど影響力があったというわけでは無論ない。日本全体の総保守化の流れが、解放運動をここまで追い詰めているわけだが、皮肉にも「こわい考」はその先取りをした結果になっている。
  再び政府の側から部落解放運動への総攻撃が掛かっている現在だからこそ、いま全面に打ち出してきた「国民相互の理解」というまやかしを打ち破るためにも、その先駆けとなった「両側から超える」論をキッチリ批判しておく必要がある。

    ◇「両側から超える」論
  藤田氏は『こわい考』(六〇頁)の中で見田宗介氏(東大教授、社会学者)の「関係の客観性」という文章を引用している。(※25)
 

  わたし自身の感覚としては、「民族」というものからできるだけ自由に生きたいという姜やその同じ世代の日本人たちに、まったく共感する。けれどこのことを、日本人であるわたしが、姜や宗にいうことはできないのである。それは資格がないからだ。
  「民族」から自由でありたい、というわたし自身の思想を、もしも、不当に民族性を奪われてきた人たちに向かっていうなら、それは関係の客観性の中で意味を逆転し、日本のもっとも恥ずべき民族主義者の言葉と同じベクトルを持ってしまうのである。
  関係の磁場が言葉の意味を逆転するのだ。


そして、藤田氏は次のように批判する。(※26)
 

  (見田さんは)「そこには『民族』とか『国籍』というものの過剰な意味の重みのようなものから自由に、ひとりの生活する人間として、のびのびと普通に生きたい、という在日の若い世代の、願いと主張がこめられている」と指摘しつつ、にもかかわらず「日本人であるわたし」に、在日韓国人・朝鮮人にそれをいう資格はないという。ほんとうにそうだろうか。「一人の生活する人間として、のびのびと普通に生きたい」との〃ねがい〃を共有するなら、それこそ在日韓国人・朝鮮人とともに「資格」をこえて語りあうことができるのではないか。
  しかし見田さんは関係、資格を固定化することによって、逆に関係、資格総体を批判する視座を放棄している。関係、資格の固定化、あるいは体験、立場、資格の固定化は、当然のことながらそれらの絶対化をうむ。たとえば「部落民でない者になにがわかるか、わかるはずがない」との一面的な主張がそれである。いささか誇張されたこの断定に身をすり寄せたとたんに「部落民」としての体験、立場、資格は「両側」から絶対化されてしまう。


  この批判の中に藤田氏の基本的考えがよく出ている。
いっけん妥当に見えそうなこの論調には、前提となっているテーゼが隠されている。それは部落解放運動について「資格」という概念を基準にして論じていることだ。
部落差別において「差別」と「被差別」という「立場」が存在することはいうまでもない。しかしそれを、「被差別者は批判の資格があるが、差別者には批判の資格がない」というような形で「資格」として運動の上で位置ずけてきた歴史はない。繰り返すがあるのはあくまで「差別・被差別」という立場である。そして、解放運動の中においては「差別」の立場にある者が、常に一方的に糾弾され、告発を受けるという場ばかりではけっしてない。差別者の立場にありながら、被差別者の解放めために、被差別者の姿勢を叱り正すという事は生活レベルにおいては実践されていることである。そこではなぜ、「部落民でないお前になにがわかるか」となって関係が切れてしまわないか?、それはその間にある信頼関係に外ならない。言葉を変えれば同じ地平に立っているということである。それは、批判する事の出来る「資格」というようなものではないのである。だから、藤田氏が言うように「資格」をいうのがおかしいとして、差別・被差別の「立場」まで蹴っ飛ばしては、藤田氏のいう被差別者と差別者の「共感」の世界も、「自立と連帯」の関係も生まれてくるはずはない。
  藤田氏は自身の差別・被差別の「連帯」の世界を作ることに失敗した個人的体験と、自分は常に解放運動の「随伴者」でしかなかったという結果を(※27)一般化して、それは「被差別者が自分の立場、資格の絶対化による自己免責、自己正当化が悪いのである」との論を展開している。こう考えれば氏の個人的「怨念」こそ「両側から超える」論の出発点であり、「部落責任論」への道すじをつけるということは必然であったといえよう。
  藤田氏は、八六年「地対協部会報告」のねらいでもある「糾弾否定」について、『こわい考』の中で全くふれていない。『こわい考』を出された藤田氏の意図がどのへんにあったかは別としても、一応「地対協部会報告批判」をサブタイトルにした『こわい考』であれば、当然部落解放における「糾弾」のもつ意味について語られるべきであった。なぜか?。これは藤田氏の「こわい考』の論理から私が推論するしかないのだが、「糾弾」という「被差別者が差別者に差別の不当性を訴える」という水平社以来の運動方法は、「両側から超える論」からはみ出してしまったのだとしか思われない。ここでも、『こわい考』が十年のちの政府の九六年「地対協部会報告」を先取りした形になっているといえよう。

  第二節  差別・被差別の関係の中で、まず差別者自らの「立場」を問う

  西光万吉は「徹底的糾弾の妥当性」の文章の冒頭に次のような讐えを示している。(※28)

  ある山奥にたくさんのサルが棲んでいた。
ある日彼らは高いところからなにげなく小石を投げて遊んでいた。
すると小川からカニの声がした。
「モシモシ、サルさん、そんなイタズラをするもんじゃないよ。私らははなはだ迷惑だ」
 けれどもサルは平気で、
「何がはなはだ迷惑なんだ。こんなことぐらいなんでもないじやないか」
といった。 するとカニは怒って叫んだ。
「サルとはわが身勝手なことをいう。おまえさんの方ではなんでもないことでも、私の方では生命にかかわる問題だ」。
そこでサルは顔をまっかにして引っ込んだかどうか知らないが……。
  ここに、差別者と被差別者のおかれている立場とその意識がよく示されている。そして西光はこの関係を改めるためには「徹底的糾弾」の必要性を主張している。
  『同和はこわい考』への反響をまとめた『同和はこわい考を読』一の中で師岡氏は藤田氏に賛同しながら、「両側から超える−共感」という項目を設けて幾人かの意見を紹介しているので要点を拾ってみる。(※29)
  両側を超えるための「共感」の内容として津田氏は「こころをいためる」ことをあげ、土方氏は差別の側によりつよく「想像力」を求めている。また牧氏は「差別構造を克服しうるのは、疎外を克服したいと思う主体を確立すること」だという。また中山氏は「誰も人は人の冷たさと共に、人の世の温かさの体験をもっていはずであり、これまでの運動は、『人間の温かさ』『人間の純粋さ』を見ようとする視点にかけるところがあったのではないか。」このように述べて、「両側から超える」ための被差別の側がかかえる問題があるとするのである。
  しかしここに主張される「共感」の内容としての「想像力」や「こころをいためる」ということが、「同情融和」に陥らずにいかにしてなりたつかということについては明確に示されていない。
  そこに欠落しているのは、「差別・被差別の立場」という視点である。この「差別・被差別の立場」め存在という差別の現実から足を離した途端に、差別者と被差別者の掛け橋は単なる観念に落ち入っていく。特に差別する側にある者が自分の置かれた社会的立場を問うことを抜きにして、解放に向けた「想像力」や「こころをいためる」ということが生まれてくるだろうか。もし生まれるというなら、自分を第三者・部外者の立場においた評論家的感想でしかありようがない。それこそ、同情融和の最たるものである。
  従って、「差別する者がいるから差別は生まれてくる」
という明白な真理からすれば、差別解放のためには、まず差別する立場にある者が、自分自身の差別している社会的立場を認識すべきだということは当然となる。しかし、差別のいたみは被差別者の上にあるのであって、先に差別者が差別の不当性に気付くということはほとんどない。人間の存在は関係存在(縁起的存在)に外ならないから、先に差別の不当性に気付いた被差別者の訴え・糾弾によって、差別者自身の差別的意識とその立場が認識されるということになるのが実際である。
  この差別が作られる順序と、差別の不当性に気付いていく順序は逆になっているということから考えてみても、「両側から超える」ということを主張することは、差別する側の傲慢な思いのあらわれだということがわかる。
  ではいかにして、被差別者と差別者の「共感」は成立しうるか。まず差別する側に立つ者が、差別の指摘・告発・糾弾により、自分の差別性とその立場の認識を深めていくことからはじまるといえよう。自分の差別性への驚きと恥じらいの中から、被差別の立場に思いを寄せることも、その「いたみ」を想像することもはじまる。そして差別する側にある者が、社会に構造として位置付けられている差別の実際を変えていく取り組みがはじまっていくわけである。それこそ差別者の人間としての主体の確立への歩みであり、同時に差別社会変革への営みへのはじまりである。その限りにおいてこの営みは同情融和主義ではないといえよう。そして差別する側の自己を問うこの営みは、差別者自身の(差別)社会における、生きる「場」を変えていく。一言で言うなら、「差別・抑圧・搾取を作り続ける立場」に立って生きていた自分自身が、「差別・抑圧・搾取を受ける立場」に立って生きるという場の転換である。確かに言葉では「生きる場の転換」と一言だが、現実には時間を要する場合が多い。なぜなら、「差別・抑圧・搾取」を受けている人たちと共に闘うという営みの中から、自分の生きる場が明らかとなると同時に、差別の構造の中で胡座をかいて生きていた自分自身の場を撃ち続けるという痛みをともなうからである。それはそれまで社会の中で享受していた自らの既得権を放棄するだけでなく、既得権を生み出している構造そのものの差別性を抉り出す作業である。(※30)差別構造の中で今までどおり既得権を貪りたいと思う人間にとって、差別社会変革を願うということは、どう言葉穏やかにいってみても排除すべき存在となってしまう。
しかし、差別者の生きる場の変換を通じた、自己変革の痛みこそが、「差別される痛み」に唯一響きあい、「共感」しうるものであろう。
  同朋三者懇話会で論じた「業・宿業」は、「歴史的社会的な蓄積である共業は、一人一人の肩に不共業としてのしかかる」と結論したが、まさに業の自覚とは「立場」を問うものであるから、それは単なる観念レベルの自覚でとどまるものではない。それは生きる「場」の変換をもたらすことを含んだ内容でなくてはならないといえよう。
  小森龍邦氏は、「社会的立場を同じくする」という視点で、「慈悲論」を展開されている。(※31)まず小森氏は、訓覇信雄氏の「おれは、自己とは何ぞやということがわからないのに、靖国や同和のことにかかわっているひまがない」(※32)という差別発言に触れ、次のように述べている。
  「自己とは何ぞや」と強く内側を見るとき、それは下手をすると現実の社会矛盾に目をつむることになる。いわんや他人に言って聞かせるということになると、現実の社会矛盾に目をつむらせることになる。部落差別の現実から言えば、そのまま融和主義に堕してしまうようなものである。人びとを苦しめる社会矛盾とするどく対時するその「主体」が、きびしく「自己」を問いつめるときにのみ、この「自己とは何ぞや」は大きな力を発揮するものとなる。
  そして、どのようにしたら、融和主義の道に迷い込まない、「自己」を問う生き方が成立するかということについて、次のように述べる。
  一口に言って、それは仏の慈悲心の境地に求める道である。「一切衆生を悉く救済せずんば、われは正覚をとらじ」とされた、あの法蔵菩薩の誓願の原点にかえればよい。すべての衆生と共に苦しみ、共に悩みそして共に喜ぶということが肝要である。
ここまで述べると、反論がでるであろう。それは論としてはなり得ても現実には不可能であると。特に浄土真宗の教えを受けた人の多くは、「凡夫は慈悲心一つもち得ない」とする公式を持ち出すに違いない。(※33)
  そうだ、確かに被差別の立場に置かれた人の苦しみが、「分かる」ということは傲慢に外ならない。しかしだから「私には分かるはずがない」と開き直ったその姿勢は、共に生きるということを最初から放棄した懈怠の姿に外ならない。
  小森氏は指摘する。「被差別者の周辺にあって部落解放運動をするものには、まずかぎりなく被差別者に近づくことが重要なのだ」(※34)と。「共に悩もう」としてこそ、「共になやめない」自己があらわになる、これはいうまでもない。その揺れの中での歩みを否定してしまえば、共感ということに到達しようがない。

  第三節  教団の内にみる融和主義・「両側から超える」を問う

    第一項  教団僧侶の声

  一九九二年、全国で僧侶研修会がはじまり、その期間中に連続する差別事件が起きてきたわけだが、その三つの差別事件だけが突出しているというのではなく、三つの差別事件を頂点とする山の峰を見るかのように、部落問題への取り組みを掲げる同朋運動に対して教団の僧侶の内にくすぶっていた批判的な本音が噴出してきたといえよう。いくつかを取り上げてみる。
  「なぜ糾弾というのか。話し合いとか、協議会というべきだ」
「差別を受ける側が一方的に反省するのでなく、差別を受けている側も反省しなければいけない」
「もっと話しあいには暖かみがなくてはいけない」
「いま教団は同朋運動ばかりになって、門信徒会運動が見えなくなっている」
  これらの意見は、「差別は差別するものがいるがゆえに存在する」という明白な真理を理解したものでないことはいうまでもない。こうした考えは、政府の打ち出してきた方針である「国民相互の理解」(言わば「両側から超える」論)と同じく部落責任論に転落していく。
  しかし、実際のところこうした言葉が僧侶の中から出るのはめずらしくないどころか、こうした意見の僧侶の方が教団の多数を占めているのではないかと思うほどである。なぜか?。
  もちろんこうした意見は一般社会においても多くの人が持っているものでもある。政府は今日にいたるまで一貫して「糾弾」を否定しつづける考えを巧妙に広めつづけてきたし、共産党も差別事件への取り組みは、「当事者間の民主的な話し合いで解決すること」(差別事象方針)という思想を撒き散らしてきた(※35)。従って僧侶ももちろん社会の構成員であるからそうした社会意識を身につけているわけだと言ってしまっても間違いではないと思うが、僧侶の場合は僧侶以外の人が言うのに更に輪を掛けているという気がしてならない。
結論から言おう。それは親鸞聖人の教えを、自分の主張に都合のよいようにネジ曲げて解釈し、自分の意見の裏付にしてしまっているからである。親鸞聖人を看板にして融和主義を主張するのだから元気のいいぶんだけタチが悪い。従って、教団内で主張される「両側から超える」論に対する批判は、当然ながら「教えの理解」の批判とならざるを得ない。

    第二項水平社に対する本願寺教団の融和主義的親鸞理解

  江戸幕藩体制化において、本願寺教団を含め各仏教教団は、「悪しき業論」を布教し、封建身分制の徹底につとめたわけだが、この時代の教えの理解は「差別徹底」の親鸞理解だったといえよう。
  従って、表面的には部落差別の解放への理解の姿勢をとりながら、実際は同情融和主義として展開されていくこととなった教えの理解の出発点はというと、一九二二(大正十一)年に本願寺教団が水平社の決議に呼応して出された『御垂示』、ならびに西本願寺菅長事務取扱であった大谷尊由の『親鸞聖人の正しい見方』であると思われる。
  そして『御垂示』にも『親鸞聖人の正しい見方』にも「水平社運動を社会秩序の破壊」と捕らえる全く同じ見方が展開されるのである。大谷尊由は『親鸞聖人の正しい見方』の中で次のような親鸞理解を示す。(※36)

  「(親鸞思想に対して)現在生活上の行為を目的としたものではない」
「社会改造の基調などに引き付けるには余りにも尊とすぎる」
と、信仰を観念の領域に押し込め、この世の生き方と信仰を切り離す。
  これは今でも僧侶の中に、「信心と社会問題は別である」「法話は阿弥陀さまの言葉だけを語ればよい」などと考える僧侶が多くいることからも、現在も抱えている問題である。その考えはそのまま、大谷尊由が述べたように、世間通途、長いものにまかれて生きるという現状の差別の事実の肯定にならざるを得ない。
  大乗仏教の平等思想は、差別の現在相に平等性の充満せることを認め、差別相に屈執するがいけないと見るのであります。(中略)自然に成り立てる差別は差別として、其の上に人類平等の理想を実現しよう
まさに差別の支配体制を補完する思想に成り下がっていることを暴露している。
  それに対し西光万吉は、「業報に喘ぐもの」を表し、『御垂示』と『親鸞聖人の正しい見方』への批判を展開し、現実の差別社会を変革していくものとして親鸞の教えはあることを示した。
  そして水平社運動の本願寺教団に対する抗議行動や差別性の指摘は、水平社運動への批判やその場限りの対応を許さない状況を生み出し、一九二四(大正十三)年、本願寺派社会課内に「一如会」が設立された。そして一如会は、親鸞聖人の「御同朋御同行」の教旨にもとづいて、融和促進の実動を進め、宗教的信念をもって「差別偏見」の絶滅をはかり、もって「共存共栄」「国民階和」の実を上げることを目的に二つの基本方針を立てた。(※37)
 

1.政府等の積極的な融和政策に同調した融和事業の促進をはかる。
1.宗教的見地から一大俄悔運動を展開する。

  一如会の実際の活動は、教団の外郭団体として、部落解放への具体的方法の定まらない中で、国の融和政策に歩調を合わせての融和運動を進めていった。それは当時の教団の部落差別へのスタンスが、「水平社を社会秩序の破壊」と見る政府と全く同じことからも当然の結果であった。当時の本願寺を代表する教学者・梅原真隆の提唱した大俄悔運動も、「差別社会の変革」は仏法の因果の道理に反するという教団の大前提の前には、単なる観念領域の繊悔にしかなりようがなかったのである。一如会の立てた二つの方針は、まさに『御垂示』『親鸞聖人の正しい見方』と同じ主張のものに外ならなかった。水平社に糾弾されたごとく、教団自身が自らを差別する立場として位置付け、その立つ場を問い返し、差別構造を変えていくことが始まらないかぎりにおいては、差別する者の餓悔は差別解放に結びつかないという典型的な例といえよう。

    第三項  本願寺同朋運動をすすめる上で「一本化」という融和主義

  敗戦による民主化の波の中で、教団においても戦前の一如会の流れを受けた融和運動が再興されるが、各地の教区同朋会の動きの中から、その融和的側面を批判する動きが起こってくる。教区同朋会は、同朋運動を「部落差別からの実際の解放を求め、それを通じて教団の差別体質を問う運動」として自覚したところから出発していた。そしてその教区同朋会の同朋運動への視点が現在の本願寺教団の同朋運動の根底に流れているものであり、同朋運動を教団全体の課題として位置付けてきたのである。戦後教団内に起こってきた差別事件を教団全体の課題とし、それを生み出した教団の差別性を問う、教団における真の解放運動が作られて来たといえよう。それは同時に、水平社の伝統を受け継ぎ、部落差別からの解放を願い活動する運動団体との連帯を同朋運動の精神が可能にしたのである。(※38)
  一九五七(昭和三十二)年には「同朋運動の御消息」が出され、一九七一(昭和四十六)年には、同朋運動本部の設置をなしとげている。それにより全教区に同朋運動推進委員会ができ、組単位で同朋研修が行われる状況を作り出した。
  しかし、同朋運動が教団の中で一定の位置をしめるようになると、その反動のように、教団内における同朋運動潰しが仕掛けられた。「同朋運動」「門信徒会運動」の「一本化」という巧妙なカモフラージュの姿をとることによって。一九八一年の「宗門基幹運動計画」の策定の中においてその方向が打ち出され、その後何が何でも両運動の「一本化」へと教団の運動を進めて行くよう舵が切られていく。(※39)ではその狙いは何か。一本化に対して反対の運動を展開した岩本孝樹氏は、一言でこう断言している。(※40)

  一本化推進者たちの目的は、同朋運動から「同和」問題を排除することにあった。同朋運動の非「同和」問題化こそ一本化推進者の目的である。(中略)懸念すべきことはただ一つ、「教団外の社会教育の立場や運動団体」からの批判だけであった。
では実際どのような意見が一本化を推進しようとしたのだろうか。一本化推進者は同朋運動について次のように述べている。(※41)
  信心を個人のこころの問題として、現実の社会にかかわるものとして運動を考えた面が強かった。また信心のたりない面を補うものとして、運動は位置づけられてきたのではないか。つまり運動が信心そのもののいとなみとして推進されてこなかったところに、念仏者自らの問題にならなかったところがあるのではないかと思われる。
そして、この同朋運動への見方は、同朋運動への反発や広まらない原因を、「信心に基かない社会運動にとどまっている」として、その原因が差別を抱える教団の差別体質にあるにもかかわらず、同朋運動に責任を転換するということが容易に起こってきた。
  そして一本化の推進者は一本化の理屈づけに「求心・遠心論」「タテ糸・ヨコ糸論」などを展開するが、いきつく所、信心に基づく同朋運動として「めざめ論(岩本氏命名)」を展開する。(※42.43)
 
  〈アミダの世界にめざめる時)小さな我の世界に住して、他の人を敵視したり、差別してきた自らのあやまりに気づくのです。すなわち、あいつは敵だ、仇だ、いや、あの人はどこそこの生まれだと他の人を敵視したり、差別してきたあやまりに気づくのです。アミダの世界にめざめた時、敵だ、仇だ、あの人はといっていた人にも生かされている自分の生命に気づくのです。敵も、仇も、あの人はと差別してきた人も、みんな私の生命をささえてくださっている人であったことにめざめるのです。そこには、敵も、仇も、差別される人もいません。
これが差別の解放というには、差別の実態からあまりに遊離したものであり、観念の平等にすぎないことは言を待たない。いくら主観的に「敵も、仇も、差別される人もいません」と言ってみても、目の前に存在する部落差別、女性差別、障害者差別等の実態が消えるわけではない。そして目の前の差別の実態を突き付けられればますます、「だから信心をもった同朋運動でなくてはならない、宗教の運動になっていない」と、「まず信心を得ること」へと退行していくことになる。
  同朋運動は信心を得たものがするというような資格を必要とする運動でないことはいうまでもない。差別の社会構造や教団の差別構造にからめとられている自己が、自分と社会を解放することが課題であるから、誰もがやらねばならないのである。
  この「めざめ論」は、水平社に対して本願寺が主張した『御垂示』や『親鸞聖人の正しい見方』と同じ融和主義を現代風に焼き直したものに外ならない。一如会の主張した抽象的・観念的平等を掲げる融和主義は、現在も教団の中に脈々と生きつづけ、隙あらば教団の差別構造を問い返す同朋運動を押し潰そうとしてくる、それがまさに一本化の動きであったといえよう。
  そして今もこの「一本化」をしようという融和主義の考え方は教団の中で清算されるどころか、圧倒的多数をしめているといってもいい。
  今後教団が同朋運動を進める上で、「差別の現実からの出発」というテーゼとともに、「被差別者は二度殺される、一度は差別者に、もう一度は差別解放をいう「似非」解放主義者(融和主義者)に」(※44)という言葉を念頭に置くことが大切である。

おわりに

  私は僧侶になってちょうど二十年になる。先代の不慮の事故という状況の中で僧侶となり、今日まで小さな寺の住職をしてきた私の中に一貫して問いつづけている問いがある。
「僧侶である私のすくいはどこで証すことができるのか」。
僧侶である私の〃すくい〃を求めるために、僧侶としての自分を常に晒して生きようと、常に僧侶の格好で生活することをはじめて数年になる。僧侶であらんとする自分が何処まで現代社会の中を僧侶の理念で生きることができるのか、そんな思いの中で、部落差別を問う大衆運動、靖国問題を問う市民運動、そして政治運動にも足を突っ込むこととなった。思えば二十年という歳月は決して短い年月ではない、しかしアッという間にすぎたというのが実感である。
  多くの人との出会い、もっと詰めて言えば多くの人からの問い、それが私を導いてくれたといえる。そして振り返れば私と共に生き、考え、闘う人がそこにいた、それ以外に僧侶の私のすくいの証しは今ない。
  「蟹は自分の甲羅に似せて穴を掘る」という言葉がある。私たち僧侶がお聖教を読む時、この範晴でしか読んでいないということを今さらのように思う。
  「お聖教を読んでいるだけで、本願が聞こえてきますか?」と、「信心獲得こそがまず第一で差別問題などはその後」という文章を書いた人に聞いたことがある。
  自己を問い返すモメント(動機)は何か?、それも自分を崩壊させてしまうかも知れないような、自分の立っている場を問い返させるものは?。それは、自分に向けられた有形・無形の告発の声以外にはありえない。いや、声を突き付けられても、耳を塞ぎ、自己肯定の理屈を展開してしまうのが、まさに人間の悲しい姿である。
まさに尺蠖の循環するがごとく、蠶繭の自縛するがごとしとはわが教団・僧侶の姿である。
  その私たち僧侶に、「お前はそれでも僧侶か」と問い詰める声があがった。この時をのがしていつ循環・自縛から出られるといえようか。その声に向き合って、一歩踏み出してみれば、そこには金欄の衣を着せてしまった宗祖とは全く異なった姿がはじめて見えてくる。
  「問いかけ」を導きとし、生きる「場」が変わっていくとき、ほんのおほろげながらも、八百年を通じて本願寺のガランに閉じ込められることなく、いくら押しつぶそうとしても押しつぶされることのなかった親鸞さまに触れたように思う。民衆の中で、差別され抑圧された人々の中で生きつづけてきた、「生きている宗祖」を見ることが出来たように思う。その輪郭が明確になるのか、再びぼや,けてしまうのか。私がこれから誰と出合いつづけ、共に生きるのか、そこで何を相手に闘うのかによってきまることだけは確かである。
  先代住職が亡くなった歳まで後五年である。もう「霞にたなびくがごとき」自己肯定のための親鸞理解に貴重な時間を費やしている暇などない。早くこいと私を待って下さっている親鸞さまに生きているうちにおあいしたい。

(補足)
  第四章  悪人の「立場」とは
  第一節「悪人とは?」水平社いらいの問い
  第二節水平杜の親鸞像
  第三節  告発された仏教者・親鸞
  第四節  「われら」の社会階層
この第四章として書いたものは、頁数の制約のため、同和教育振興会の
「一九九四・九五・九六年度  研究員・研究生研究報告集」へ掲載した。
合わせてお読み頂ければ幸いである。



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