第四章「信心の社会性」が明らかになる場とは

−糾弾会で問われた「悪人」

(「わたしはどこに立っているのか?

−糾弾により問われた僧侶の「立場」−」

第四章/『同和教育論究』第一八号  所収)

 

小武正教

はじめに

(宗祖の「悪人」が糾弾会で問われた)

  一九九六年八月一日、本山で開催された、教団内に起こった連続差別事件に対して行われた糾弾会の最後のまとめともいうべき第五回糾弾会において、教学的内容としては唯一「親鸞聖人は『悪人』ということをどのように受けとめておられたのか?」という問いが投げかけられた。本山を代表して教学研究所所長が答弁していることをまとめてみると、次のようなものである。
@「悪人とは、経論の一般的な解釈の場合は、お経に書いてある十悪とか五逆罪を作ったものとか、正法を誹誇するもの」というように、社会的な意味ではなく限定して使われている。
A親鸞聖人の場合、それをふまえながらも、社会的に下層とみなされていた「屠沽の下類」と呼ぱれる人たちに対して具体的な悪人という視点をもっておられたと。つまり社会的な意味を含んで悪人という言葉が使われている。
  これは、従来の本山の「真俗二諦」の枠に閉じ込められた「安心論題」からすれば、確かに一歩踏み出した見解であるには違いない。
しかし、この回答には致命的な欠点がある。それは糾弾を受けている私たち僧侶の立場がないということである。この回答では従来の「こころの内面」に閉じ込めた悪人もはっきりと総括されることもなく、それはいわゆる「仏法へ対する悪人−@の見解」として闇に許容しながら、解放同盟から求められた「社会的要素としての悪人−A」も認めるという「うまく擦り合わせ」した妥協の産物となっている。本山の現状という立場への配慮からの教団護持的なせいいっぱいの発言ではあるが、それは「対策」にはなっても、「悪人とは何か?」ということを、自己の立っている立場が問われたということにはなり得ていない。もっと詰めていえば、「社会的立場の悪人ということを親鸞聖人が『救いの目当て』だとおっしゃるなら、あなたたち僧侶の救いはどのようにして明らかにされるのか?」という展望が示されなくては糾弾会の回答にはならない。
  親鸞の説いた「悪人正因」への理解があいまいだということは、自らの「救い」のあいまいさにほかならない。そして言葉を変えれば、それが「信心の社会性」が失われている姿なのである。

 

(悪人の「立場」とは)

第一節  「悪人」とは?水平社以来の問い

  「親鸞聖人のおっしゃった『悪人」とは、どういう人を指すのですか?」と一九九六年八月一日の第五回中央糾弾会で私たち僧侶は問われている。
  なぜ糾弾会の席上で、親鸞聖人のいわれる「悪人」の理解が問われたのか、本当に私たち僧侶は理解しえたであろうか。「はじめに」のところで述べたように、教学研究所所長の答弁には、どのような思いの中からこの問いかけが成されているのかという問いの重さを受けとめた答えとはなっていない。なぜなら、問われた僧侶にとって、「では悪人としての自己とは」という立場が見えない回答だからである。単なる「学問」の世界の問いかけならばそれで済むかもしれないが、この問いは本願寺を糾弾せずにはおれない思いと同じ重みをもっている問いである。
  すでに被差別の立場に置かれた者が、差別解放を願う中で、「親鸞聖人の善人・悪人とは」を問い、ひとつの確信をもった人たちがいる。それこそが「親鸞精神によって水平社を起こした」ひとたちであった。その一人西光万吉は『業報に喘ぐ』の中で「悪人正因」について次のようにのべる。
  喘ぎ進まねばならぬ業報の鉄鎖を見せられた時、吾等を支配
するものは単なる悲観的想像ではない、それはもはや厭離穢土
から欣求浄土への思想ではない、欣求浄土から厭離穢土への還
相廻向であり所謂必然の王国より自由の王国への躍進である。
水平運動を見る人よ、業報に喘ぎつつ白道を進む人間の姿を見
よ、「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」の世界に於
てのみ吾等は抱き合ふことが出来るであらう        (註1)
  大谷尊由の『親鸞聖人の正しい見かた』への反論として書かれたこの「業報に喘ぐ」は、『正しい見かた』を『霞にたなぴくようなもの」とその観念的平等性を批判し実際の差別から解放を主張したのだが、「善人・悪人」についても具体的立場を示している。すなわち、本願寺教団でいうなら、差別する側にあり、その差別の上に胡座をかくものこそが善人であり、被差別の立場に置かれたものこそが「悪人」であるとしている。この被差別者の中に脈々と伝わってきた「本願の正因」としての悪人理解、それが七十五年の時を経て被差別部落の門徒側から教団・僧侶に突きつけられたといえよう。そしてこの間の教団僧侶に、水平社の問いかけにいかに答えてきたのかこなかったのか、教団僧侶がいかなる立場に立って親鸞聖人の教えを説いてきたのかを、「悪人とは」と問うことで問うたのである。そしてその答えはあまりにも無残であった。

第二節  水平社の親鸞像

  水平杜創立の時点において、被差別者と共に歩む親鸞像は明快に見定められていた。一九二二年四月十日、本願寺に通告した募財拒否の意味を被差別部落の門徒に説明する「募材拒否の趣意書」には次のように述べている。
  我々は今日まで穢多だとか特殊だとか言ふ忌はしい呼声を以て一般世間の人から軽蔑され同じ開山上人の御門徒仲間からさへ人間らしい付合がして貰へませんでした。向後も此儘にして置きましたち、幾十年或は幾百年経つても同じことだと思ひます。そこで吾々は今回水平社なる結団を起して此の忌まわしい差別を除かうと言う運動を起しました。(中略)
誰れも彼れもが同じ仏の御慈悲の子である事の有難さがいただけたなれば、御同行御同朋の間には何の不合理な差別もなければ忌はしいわだかまりもある可き筈ではありませんがしかも御開山御在世の時から七百年にも近い今日依然としてこれがあると云ふ事は御同行御同朋と称する人たちが心から黒衣や俗衣で石を枕に血と涙で御苦労下さつた御開山の御同行ではなくて色衣や金襴の袈裟を着飾つて念仏称名を売買する人たちの同行ではないでしようか。
  迂つかり称へたなれば首が飛ぶ様なおそろしいなかを真に此世も未来の世も地獄を一定の住家ときめて命がけでお伝へ下さつた程の御念仏を小唄気分でお唱できる気やすさを思へば思う程一方ではあだやおろそかには出来ない事も思はせていただかねばならぬ筈です。そこで私共はよくよく吟味して私共の御同行のほんとうの御すがたを拝まねばなりません。
墨染の衣さへ剥取られて罪人としてなつかしい京を追放されてでも罪免るされて戻り帰つた京の町でのたれ死にするまでもなほ念仏称名のうちに賎しいもの穢れたものと蔑まれていた沓造も非人も何の差別もなく御同行御同朋と抱き合つて下さつた、そしてまだ御自分を無慚無愧とあやまつて下さるこの御慈悲のまへにこそ私共は身も心も投げださずにはおられません、この御開山が私共の御同行です、私共はこの御開山の御同朋です。       (註2)

  ここには七百年の時間を超えて、親鸞聖人の精神に触れたまさに「門徒」がいる。そして、親鸞聖人のこころに生きる御同朋をもとめるが故に、「善人」として被差別部落の門徒衆の上に君臨し、差別を温存助長する教団を告発糾弾せざるをえかなった思いが溢れているのである。
  そして、今この中に述べられてある、「そしてまだ御自分を無慚無愧とあやまってくださる」という一文に注目するのである。「無慚無愧」という言葉の中に、「宗祖が被差別者に詫ぴる」という受け止め方をした教団僧侶の解釈がこれまであったであろうか。宗祖が自己を深く堀り下げた慚愧の言葉、独白だとは受け取っても、その言葉が誰に対して語られたのか思いめぐらすことはなかった。無慚無愧の一言を「宗祖が被差別者に詫ぴる」と受けとらせたのは、被差別部落の門徒が差別のただ中を生きている事実以外にはない。その差別体験における直感で選ぴとちれた親鸞像こそ本当の宗祖の姿を言い当てたものであったことが、糾弾会を通じてしらされたことであった。もう大方九年になる同朋三者懇話会の中で、「宗祖のいわれる悪人とは被差別者のことである」とは、部落解放同盟広島県連の共通認識であることを僧侶である私自身知らされて驚いたことを思いだす。
  本山の糾弾会での「悪人」解釈は、大学や本山でお聖教を研究し、親鸞聖人の書かれた「悪人」の意図は「社会的立場を超えた普遍的意味での悪人としか読めない」と言ってきたことが、被差別部落の門徒を前にしては全く通用しない。ただいかにも客観性があるように装っただけのものであるかが暴露されたのである。その解釈は、差別社会の「秩序の維持」、本山の「体制護持」の解釈でしかなかったこといえるのではないか(註3)
  その後の宗会において、糾弾会での「社会的立場の悪人」という回答に対し、さっそく疑問が出され、「それは教学研究所の所長の一解釈」として答えたと業界紙に報道された(註4)。「はじめに」で述べたように、所長の回答は慎重に、社会的立場の悪人」が宗祖の悪人ということであったとは言っていない。「社会的立場の悪人」ということも、言い得るといったにすぎない。それさえも、認めることを拒否しようとする意識の裏に、非常な脆さと脅えを感じてならない。しかし水平社が明快に見抜き、自らの親鸞像として提示した、「社会的立場としての悪人」という突き付けられた解釈に、もう頬被りをしては通れない。
 

第三節  告発された仏教者・親鸞

  元大谷大学学長の広瀬杲氏は、一九八八年三月号の『真宗』に「告発される仏教者として」の親鸞像の輪郭を示している。
  大乗仏教の至極性の解明を誇る比叡山にあって親鸞聖人は、
塗炭の苦しみのなかから叫ぱれ続けている仏教への呪詛の声を
はっきりと聞きとったのだと思います。もちろんそれは声なき
声とでもいうべきものでしょう。(中略)親鸞聖人が告発されつ
づける仏教者として、自分自身を発見したということでしょう
(註5)
  そして、その告発の声を受け止める中で山を降りた親鸞の出合ったものとは、大乗仏教の具体性であったと広瀬氏はいう。
  決定の具体性は何なのかと申しますと、それは、山の仏教と決定的に異なる事実である。観念や教理としての相違ではなく、事実としての違いである。
  それはまさに、水平社の創立のとき、大谷尊由と西光万吉の間にかわされた、『親鸞聖人の正しい見方』と『業報に喘ぐもの』を思い起こさせる。「霞にたなびくがこどき観念の平等」を説いて、この世の差別を肯定していった本願寺と、現実の差別からの解放を願い結集した水平社の姿は、当時の比叡山と吉水の専修念仏教団とオーバーラップさせるのはあながち飛躍のしすぎではないだろう。ポイントは「すくい」の具体性なのだ。そして現実の救済・解放を証す「場」に宗祖は生きる場を求めていかれたということである。それは生きて行く「場」を「支配・抑圧・搾取して行く立場」から「支配され、抑圧され、搾取される民衆の立場」へと変えていくことであった。
そしてその民衆の中にあって、無言のうちに告発しつづける民衆の前に立ちつづけることを求道の原点とされ、告発を受けた仏教者の責任として仏教を問い続けられたといえよう。
  宗祖に上っては「自己への告発の声」を聞き続けることが求道の原点であり歩みであった。そこから、告発する側の中に身を置いて、「われらなり」と生きる中で、具体的に「こがねとかえなす」という「すくい」を明らかにされたのである。宗祖八十五才の『唯信抄文意』には次のように述べている。
  「能令瓦礫変成金」といふは、「能」はよくといふ、「令」はせしむといふ、「瓦」はかはらといふ、「礫」はつぶてといふ。「変成金」は、「変成」はかへなすといふ、「金」はこがねといふ。かはら・つぶてをこがねにかへなさしめんがごとしとたとへたまへるなり。(註6)
  そして、「いしかはらつぶてなるわれらなり」と名乗る中でなお宗祖の次の言葉が八十八才にして語られてくるのである。
よしあしの文字をもしらぬひとはみな
まことのこころなりけるを
善悪の字しりがほは
おほそらごとのかたちなり

是非しらず邪正もわかぬ
このみなり
小慈小悲もなけれども
名利に人師をこのむなり
(註7)

  これは、自己の内観の深さとしてだけとらえてはならない。この言葉の前に、「いなかのひとぴと」の顔があり、その人たちからの無言の声を聞き続ける立場に身を置き続けた宗祖の姿勢こそ見て取らねぱならないものに違いない。
  この「正像末和讃」の最後に置かれた二首と、『募財拒否の趣意書』に書かれた、「それでもなお宗祖はなお無慚無愧とあやまってくださった」という言葉に深く響きあっているいのちを感じるのであるで。
 

第四節    「われら」の社会階層

  親鸞が「われらなり」と名乗って共に生きた人々が被差別民衆であったことを史学的にあきらかにしたのは河田光夫氏である(註8)
氏は『親鸞と被差別民衆』の中で、「悪人」という言葉が、当時の被差別者を指すことぱとして社会的にはたらいていたことを指摘する。
そして逆に、善人という言葉も実際の社会階層に対して使われていたことも明らかにしている。そうした社会階層を示す言葉として「善人・悪人」を捉えるとき、「歎異抄」の第三条の内容は今までとは大きく読み変えねばならないものとなってくる。
  社会的立場における「善人・悪人」として『歎異抄』の言葉を読むとき、「自力作善のひとは (善人)は、ひとへに他力をたのむこころかけたるあいだ弥陀の本願にあらず」「(善人は)本願他力の意趣にそむけり」という言葉は、当時の支配階層に対する痛烈な批判とならざるをえない。そして悪人として被差別の立場に生きる者が、支配者の都合によつて定められた「自力作善」を持たないために、そこにこそ「弥陀の本願」が受け止められるのであるという。すでに悪人として生きることの中には、水平社宣言にいう、「そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何であるかをよく知っている吾々は、心から人生の熱と光を願求礼讃するものである」という思いが今にも吹き出んとしているとでもいおうか。そう第三条を読むとき「善人なおもて往生をとぐ、いかにいわんや悪人をや」ということぱの中に大変な緊張感がただよっていることにきづくのである。
  そしてさらに親鸞は『教行信証』化身土巻に道綽の『安樂集』の文を引用して、「善人」として生きている人間の虚偽性を暴く。
    「『大集経』にのたまはく、〈わが末法の時のなかの億億の衆生、行を起し道を修せんに、いまだ一人も得るものあらじ〉と。当今は末法にしてこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみありて通入すべき路なり」と。しかれば穢悪・濁世の群生、末代の旨際を知らず、僧尼の威儀を毀る。今の時の道俗、おのれが分を思量せよ。 (註9)
川尻文昭氏は、
この引用を次のように指摘している。
  親鸞の悪人正因を社会化、普遍化するそうした意回をみることができる。つまり特殊化され、実体化され、階層化され、社会意識化された差別観念としての悪人の解放、解体を指ししめす。仏滅後の未来の衆生は、ことごとく悪人たらざるを得ない
存在であると」して、悪人を普遍化する。(註10)

  氏の指摘する普遍化は、いわゆる階層を無いことにしてしまう観念化ではない。階層を作る意識の虚偽性を暴き、その構造の差別性を明らかにし、善人を任じて生きる者が、実体としては悪人でしかあり得ないことを「思量せよ」というのである。もし「思量」した者がいるならば、宗祖は比叡山を降りたごとく、「善人」の立場にとどまっておれない、そういう解体を伴う普遍化をいう。階層が解体される方向にあって初めて「すくい」がなりたっのであり、いかなる思想・芸術などをもつてきても、階層を肯定したまま飛び超えるとした途端、観念化の罠に落ち、仏教も善人(支配者)の道具となり、融和思想へと転落していくのである。
 

おわりに

  明治の初年に「親鸞非実在説」なるものが出されたことがあった。
鎌倉時代の初期の文献に親鸞なる僧侶が登場しないということがその一つの理由とされた。そして、文献的に親鸞の実在を証明する研究が進められ、今では親鸞は実在の人物であることを疑う人はいない。しかし、はたしてそれですんだのか?。これは設問の問いかたが違っているのではないのか。鎌倉初期の文献に親鸞が登場しないのは、親鸞の生きた場が当時の歴史の文献に残るような、権力者の近くで生きることのなかった証しだと考えるべきではなかろうか。
  その親鸞を宗祖して約八百年、時の権力に取り込まれながら教団は現在にいたる。
  親鸞の教えを少しでも求めたものならば、鎌倉時代のそのままの親鸞が今本願寺にいると思っている人はまずいまい。権力に取り入る中で、中身の変わった親鸞をそこに安置していることに頬被りをして、僧侶は本願寺教団を維持してきた。そうするしか教団を維持することはできなかったのだとほとんどの人はいう。しかし、それはまた同時に、「本当の親鸞」を生きる人たちを踏み付けてきた歴史ではなかったのか。水平社を生み出した親鸞への信仰と、それを弾圧するかのごとき本願寺の対応は、その典型的な姿である。しかし、その教団の弾圧にもめげることなく、生き続け、語り続けられる親鸞が確かにある。
  私の地元広島においても、広島の水平社創立にかかわった広島妙蓮寺の僧侶・照山正己、そして水平運動に係わりながら、政治の世界で社会主義運動に身を挺した、備後の南光坊の高津正道、そして今その二人を師として今親鸞を語りながら部落解放運動を展開する小森龍邦がいる。いずれもその語る親鸞像は、本願寺の語る親鸞とは似てもにつかない。しかし限りなく「鎌倉時代の親鸞」に近いのではないかと思う。なぜか、一言でいおう。「いし、かわら、つぶてのごとくなるわれら」の救い(解放)を具体的に証しているからである。
  寺の住職の長男に生を受け今住職をしている私は、いずれの親鸞に出会い生きようとしているのか。それは私が誰と出会い、誰と共に生き、何に対して闘うのかによって決まってくる。
  「すでにこの道あり、かならず度すべし」と親鸞は念仏の道ありということを語るが、私の前にもたしかに「この道」ありと一本の道が開かれている。後はどこまで私が歩むかどうかである。そして、それが、「呪われた宗門の子」である私の唯一の救いの道であることを思う。
  マルクスは、「存在が意識を決定する」と言ったが、それは、自分の生きる場に応じて、出会う親鸞像が違うということである。
  さて、私はどんな親鸞さまに出会うことができるか、こころ躍らせてこの道をいこう。
 

(註)

(註1)『西光万吉著作集  第一巻」四二頁。
(註2)『同朋運動資料一』三四八〜三五〇頁。
(註3)社会的立場の悪人とされた中で、人間の正体を悪人と暴露していくこととして伝わってきた、いわば生きる根拠としてつたわってきた悪人理解と、本山の体制護持のために、個人においては教団内での階段を駆け上がるために描いた悪人理解が正面からぶつかったら最初から勝負は目に見えている。したがって、被差別者の中に伝承されてきた悪人理解と向き合うことをさけ、無視していくことしか今までの教団の悪人理解は通用しないものだったことが糾弾によって分かったわけである。
  しかし、第五回の糾弾会の後も、親鸞聖人の語句だけならべ、最初から「社会的立場の悪人理解など宗祖には存在しない」というような論文が龍谷大学の『真宗学』(九五号)から出されている。一言だけ言っておこう、真宗をコップの中で議論するのはもうよそう。問いを問うた人の前にたって、これから論じようではないか。
(註4)『中外日報』三月四日号
(註5)「部落解放と浄土真宗」(広瀬  果    「真宗」一九八八年三月)の中に「告発される仏教者として」という一節を設けて論じている」
(註6)『浄土真宗聖典』七〇八頁。
(註7)『同』六二二頁。
(註8)『親鸞と被差別民衆』(河田光夫著  真宗大谷派教学研究所編)で氏は、当時「悪人」という言葉が、その時代の被差別者をあらわすものとして社会的にはたらいていたことを実証的にあきらかにしている。氏によれぱ、その当時「悪人」とされたのは、「屠者、癩者、商人、非人、犬神人、狩人、漁民、武士、女性、山伏」と言及されている。
明法房弁円の帰依も、差別されていた山伏と、肉食妻帯を行い悪僧と呼ばれながら「悪人正因」を説く親鸞との出会いととらえると、その帰依の意味が今までと違ってみえてくる。
(註9)「浄土真宗聖典」四一七頁。
(註10)「解放真宗論」(川尻文昭『解放研究しが』第六号)は、親鸞の悪人正因思想を「社会的立場」の上で論じたものでありつつ、さらに被差別者の上で「悪人」を普遍化させていく論として優れたものである。それからすれば、宗祖のものにどれだけ社会的立場の「悪人」についてふれた文章があったかが問題ではない。宗祖が「われら」と共に生き、差別を受けたひとたちの中で、「悪人」こそ救われて行くめあてと証していく中で、善人の偽善性を暴露する言葉として、悪人の救いの普遍性が語られているわけである。当時の社会の中で、悪人と実際によばれた人の中に生きた宗祖の言葉から、社会的立場を抜いて考えようとする事が、とんでもない誤解だと気づかない人は、自分が気づきようのない立場に立ってかってに親鸞聖人を思い描いているとしかいいようがない。


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