札幌別院「差別落書き」事件の中で、

 「解放の主体となる『業』理解」を問う

 「部落解放同盟」、「全国部落解放運動連合会」の運動論と本願寺の同朋運動の視座

同和教育論究・第20号(1999年9月)
 

小武正教
はじめに
解放の主体となる「業」理解の要点
札幌別院「差別落書き」事件に見る
 ・事件の概要
 ・背景はどこまで明らかになったのか
 ・雑誌『部落問題』九八年四月号T氏の論文、「沈黙の体制」『札幌別院差別落書き事件』 からみえてきたもの」の問題点
 ・T氏の「こころを開いて語り合おう」について
 ・「札幌別院差別落書き事件」に対するT氏の姿勢
「差別落書き」について、部落解放同盟、全国部落放連合会の考え方と本願寺の同朋運動の視座
「部落解放同盟」と「全国部落解放運動連合会」の基本的運動論
  ・運動団体の成立の経過と解放理論
政府の解放運動への攻撃
 ・人種差別撤廃条約」について
 ・「九六『地対協意見具申』並びに、『人権擁護施 策推進法』」について
 ・「融和主義・国民融合論」を「真宗の『業』理解」は打ち破る主体を生み出せるか
今、「寝た子を起こすな」という考えは
おわりに
※赤字の数字は註の番号です。

はじめに

  一九八八年四月二一日、「安芸・備後過去帳差別記載第六回糾弾学習会」の席上で、被差別部落の人たちから私たち僧侶はこう問われた。

  『寝た子を起こすな』ということが、部落差別を語るときに言われることがあるが、業論に照らしてみるとどうなるのか
  部落解放運動の団体はいくつかあるが、業論の上からみて、どれが本願の教えに近いのか
  私自身伝統教学の問い直しを学生の頃から課題としてきた。しかし言葉では「真俗二諦」等の問題を問いながら、では自分の生活が仏法の原理で貫かれているかどうかまさしく試された場面であった。
  しかし信心の問題と社会の問題を分離することを長い間生活の上で当然としてきた私たち僧侶は、その問いに答える言葉を持たず沈黙せざるをえなかった。そしてこの問いがその後私たち同朋三者懇話会(備後教区・安芸教区・解放同盟広島県連)から本山に提起した三つの課題、「真俗二諦」「業・宿業」「信心の社会性」が出てきた一つの背景でもある。
  「あなたたち(僧侶)の信心理解の必然性を明らかにして行動がなされているのか?」との問いが、その場では「『業論』においてどうなのか?」と問われたわけである。もちろんそれは「業論」でなくても、「慈悲論」でも「往生論」でも「本願論」でもなりたつ問いであることはいうまでもない。ただし、教団が「悪しき業論」により部落差別を温存助長してきた経緯から、まず『業論』においてはどうなのか?」と問われた必然性が札幌別院「差別落書き」事件の中で、「解放の主体となる「業」理解」を問うあるわけだ。
  肝心なことは、私たちの信心理解が、問われた具体的問題に答えることが出来るだけの内実を持っているかどうかということであった。
  しかし、親鸞さまの言葉を引いて、「親鸞聖人がこうおっしゃっているから答えはこうだ」ということで答えが簡単にでるわけではない。なぜなら親鸞さまと私たちの状況は大きく違い、目の前の課題も全く同じではない。
  教団では「後生の一大事」の部分と「社会性」の部分を真俗二諦として器用に使い分けてきたが、その考え方でいうなら、基本的にどの団体とでも無責任に「連帯」(?)しうる。部落差別においても、寝た子は起きようが、起きまいがどっちでもいいということになる。それはつまり、その時その時の力の強い方にいかにうまく合わせるかだけだということにならざるをえないのである。
  しかし今は、「親鸞さまがおられたら、『寝た子を起こすな』という考えにどうおっしゃるだろうか、『いろんな解放団体があるが、何を基準にどこと連帯されるだろうか?』」という問いへ答える道筋を示すものが本当の教学ではないかと思う。
  「問い」は常に「具体的」である、導き出される答えも常に「具体的」でなければならない、そして「問い」から「答え」に至る道筋は明確な論理の下に示されなければならない。
 今の教団の現状は、その道筋が理解されずに、上から与えられた指示に付き従っていくという没主体的意識が引き起こしているとも,いえよう。真宗者としての主体的指針がないなら、判断の基準は、その時その時の都合でいかようにもかわってしまうのである。
  今私たちの本願寺教団は同朋運動を推進していく上で、解放運動団体である部落解放同盟と連帯しながら進んでいる。部落解放基本法制定の要求しかり、八六年に国から出された地対協意見具申への批判しかりで、本願寺教団は「同和問題に取り組む宗教者連帯会議」のメンバーとして中心的役割をになっている。
  そして私自身も住職として係ってきた本願寺教団内のことにおいても、八三年の差別法名等の調査、その後の広島県連との糾弾学習会、そして現在も継続している同朋三者懇話会、さらに本願寺教団連続差別事件の点検糾弾会、そしてこの度の過去帳再調査と常に解放同盟との連携の中で進んできた。
  しかしこうした中で、教団内の僧侶の中に「解放団体はいくつかあるのに、なぜ教団は部落解放同盟とのみ連携をするのか?」という声が燻りつづけているのは事実である。
  そして近年起きた本願寺連続差別事件においては、その差別事件を起こした当人が、それまで本人も研修を積んできた同朋運動とは全く逆の主張を掲げる運動団体の方へ行ってしまうということが起きている。
  また教団内の僧侶有志によって、「全国部落解放運動連合会(略称全解連)」の宗教担当のイデオローグ的役割をしておられるK氏を中心にした真宗フリーネットワークが、一九九七年六月30日に結成されている。その様子は、「参加者の中には、差別事件の被害者や差別発言で糾弾された人、また差別発言を〃デッチ上げられた"という僧侶も」(「仏教タイムス』九七年五月八・一五合併号)と報道される状況でもある。
  さらは全解連は、九七年七月、東西本願寺に懇談を申し入れ、九月には窓口設置の要望、本願寺はそれを拒否、その後も全解連の新聞『解放への道』に東西本願寺への批判が掲載されたり、本願寺への質問が寄せられるという状況も続いている。
  「今なぜ私たち本願寺教団は部落解放同盟と連帯して全解連とは連帯しないのか?」、私自身、この問いの前にもう一度私の僧侶としての必然性を整理してみることが大切であるように思う。それは自らが「教え」によって自立しつつ、共に差別・被差別からの解放の道を歩むパートナーであるために最低限の必要なこととなっているということであろう。そして、もしも万が一パートナーである相手側が解放運動の進め方で間違った方向に行くようなことがあれば、それを糺すのが本当の連帯である。パートナーの行く方向に無批判について行くだけでは、真のパートナーとはいえないであろう。

解放の主体となる「業」理解の要点

  九七年に発刊された『教学研究所紀要』第五号に、「解放の主体となる『業』理解とは」という拙論を載せていただいた。現時点においても具体的運動論として展開しうる「業」理解はこれ以外にないという点は基本的に変わっていない。それを一言で言えば、「自らの歴史的・社会的業を明らかにして、それを担って歩むところに救い(解放)の具体的証しがある」ということである。
  つまり、どこまで「氷山の一角」にみえる出来事を、歴史的に掘り下げ、同,時に現在の構造の中で明らかにし、それを改めていく営みを続けるかということ以外には「救い」も「解放」もないということである。
  この度の論文では、信心理解(ここでは「業」一理解)によってどう具体的問題を判断し、その必然性を明らかにしていくかということが中心課題となる。具体的な問題では、「浄土真宗本願寺派札幌別院『差別落書き』事件」(以下、札幌別院『差別落書き』事件)」を通しながら、そこから「運動団体との連帯の問題」、さらには運動方針に係る「寝た子を起こすな」という考えをどう見てゆくのかを明らかにしていきたい。
  私は「解放の主体となる『業』一理解とは」という拙論で次の五つの視点が大切であることを述べた。以下、「札幌別院『差別落書き』事件」に添って述べてみる。

@具体的問題から出発する。

  「業」とは突きつけられた具体的問いから明らかになる、この一点をはずしたとたんに、アリ地獄に落ちたような教学論議に転落する。ここで取り上げる「札幌別院『差別落書き』事件」を問題とすることによって、どう教団・僧侶の業を明らかにしようとしてきたのか、それが、本山そして自らの「業」理解め具体的証しであろう。

A問題の背景になっている、教団・寺院の現実を問う。

  「業を担う」ということは、問われた問題の課題を明らかにすることである。そして課題を明らかにするとは、問題を生み出した背景をどこまで深く明らかにして現在の問題に位置ずけるかということである。それが十分に行われれば行われるほど、一つの問いはより多くの人間の主体的な課題(共業)となる。
  「札幌別院『差別落書き』事件」ではその落書きを生み出した教団・僧侶の背景(「業」)がどう抉り出されたのか、そしてその「業」を抉りだして課題としていく同朋運動の運動の方向性は、それぞれの運動団体の運動理論とどのように「重なるのか」「異なるのか」、より明確になってくるであろう。

B問いを投げかけた人と共に、問題を共有する場をもつ。

  「すくい」や「解放」の言葉が、個人の心の持ちようにならないためのポイントは、差別を受けた者と差別した者が出会うということであろう。出会いといっても、それは多くは被差別者の告発からはじまる。しかし出会いが出来るかどうかは、告発された者が、告発されたという事実を背負ってその場に立てるかどうかということに収まる。それが「業」を担う具体的証しである。
  しかし、「札幌別院『差別落書き』事件」では差別落書きの行為者が特定されないという現状がある。従って当面の問題の共有は、差別落書きで名指しされた人と、問題を共に考え、差別落書きを書くような背景を抉りだせるかということが問われてくる。どこまでそれが出来ているか?、そこでもどこまで「業」を担っているかが具体的に問われている。

C教団・僧侶が、それぞれ自らの責任を問う。

  「差別落書き」が書かれた背景を明らかにすることによって、教団・教区・組・僧侶の具体的責任、そして今後のそれぞれの課題がどれだけあきらかになったか、それこそが「業を担う」というときの「担い」の具体性である。もしそれが明らかにならない取り組みだったとしたら、「差別事件が起きて問題にはなったけれども何もかわらなかった」という結果となり、差別事件によって傷つけられた者が、問題とすることにより、より一層深く傷つけられるだけということにもなりかねない。その意味では、,差別事件を問題にすることは、問題にしていく人間自身もその全存在が問われる。その取り組みの中札幌別院「差別落書き」事件の中で、「解放の主体となる『業』理解」を問うから私たちが「業を担う」という形で取り組もうとする同朋運動と、それぞれの運動団体の解放理論の合意点や相違点も明らかになってくるであろう。

Dあるべき姿にむかって具体的一歩を。

  教団・教区・組・僧侶一人ひとりのところで明らかになった課題も、課題のままであったら絵に画いた餅である。具体的に変えていくための長期の展望と目の前の個々の問題提起が必要となる。変革のための戦略と戦術である。それはすべてを一人でとてもなしうるものではない。そこにこそ、「業を担う」連帯が、同時に変革への連帯となっていくかどうか、連帯の中身が問われる時でもある。
  問われた問いによって課題を明らかにすることで連帯を確かなものとし、「業を担う」という親鸞さまの「教え」を「領解」することによって、それぞれが「すくい」「解放」の道筋を確かめて自らの責任において行動する、私にそれが作れているか?  その自分の歩みを抜きにしては、どんな解放団体との連携も、解放理論の比較も、主体的なものでないことはいうまでもない。

札幌別院「差別落書き」事件に見る

・事件の概要

  一九九四年七月八日、本願寺派主催の第一ブロック(北海道教区)布教使研修会の閉会直後、研修会場であった札幌別院一階の入り口に「エッタは殺せ  エタの○○○○(漢字二文字の姓)」と書かれてあることが発見される。
  続いて、九四年七月一七日、第一次差別落書きの事実確認会の前日、札幌別院一階ホール正面右手のマイク設備室の壁面に、「ヤツーハ  アカイエッタヤ  エッタハ、エッタダケデムレテイレ」と書かれ、しかも「ヤツハ」に矢印を小さく「○○○○(カタカナ4文字で第一次差別落書きと同じ姓)」と書かれてあるのが発見される。
  三回目の差別落書きは九五年三月三一日、札幌別院後ろ堂(裏手左)昇降階段の二階から三階の踊り場壁面に毛筆で、「ザマァミヤガレ  エッタノ○○○○(第二次落書きと同じ)」「エッタハ  アイヌイカノ  カスヤ」と書かれてあるのが発見される。しかし後の調査で、この落書きは少なくとも、九四年の一〇月初旬以前に書かれたものと推測されている。
  そして、その後結成された対応委員会では、落書きの場所・時間、同じ姓をあげてその人を陥れようとしていることなどから、「この行為者は、極めて確信的な本願寺派の僧侶である可能性が高いと考えられます」とされている。しかし最初の差別落書きが書かれてからすでに四年がゆうにすぎるが行為者の特定にはいたっていない。
  また、名指しされた人についても、対応委員会としては、同じ姓を持つ人の中で最初の落書き発見時の布教使研修会に参加していた二人から「名指しをされたのは私ではないかと思う」と提起をうけ、対応終結にいたっても特定できないとしている。

本山の取り組み

  本願寺教団としては七月二二日の基幹運動本部会議において、今後の「対応委員会」の取り組みについて意見を集約、それを受け七月二八日、本山は札幌別院において、基幹運動本部長を委員長に本山と北海道教区の関係者によって「浄土真宗本願寺派札幌別院『差別落書き』事件対応委員会」が正式に発足している。以来、一九九七年一〇月三〇日の最終の対応委員会まで、都合八回の「対応委員会」、九回の「対応小委員会」が開催されている。

・「背景」はどこまで明らかになったのか

  譬えてみれば、「差別事件」を山の頂上とするなら、それを生み出す背景というのは、頂上の下に広がる裾野である。その裾野をいかに明らかにするか、「差別事件」の取り組みの真価が問われる部分である。「差別落書き」という行為には、その行為をなす差別意識が背後に存在するように、その裾野となる部分にも具体的事象として表れている行為の部分と、その背後にある意識の部分が当然あるわけである。ここでいう「背景」とは当然その両面をさし、それが「差別落書き」を生んだ「業」だといえよう。それではその背景はいかにしてあきらかとなるのか?  ここにおいても同朋運動が、「差別の現実」から出発したように、また私自身が、「解放の主体となる『業』理解」で、「まず、具体的事実から出発する」と述べたように、背景も具体的事象を明らかにすることからしかはじまらない。もし、そこを飛ばしてしまうと、人間の体で譬えるなら、体の輪郭の見えないまま、骸骨(考え方の部分)の部分だけ見てその全体像を探るに等しいとも言えるのではないか。どれだけ具体的事象を頂上から麓までT寧に押さえながら、それを生み出した考え方(差別意識)をあきらかにするかという作業がなされたか、つまり「業」を明らかにしたか、私たちに今問われている

☆『対応概要と課題』(浄土真宗本願寺派札幌別院差別落書き事件対応委員)には直接的背景として次の短い言葉が述べられている。

「3」集約

    北海道教区内の基幹運動推進をめぐっての見解と路線の相違と対立が、この事件の背景にあると思われる。対応委員会では、現在まで北海道教区の基幹運動推進の経過を明らかにする努力を続けてきたが、一定のまとめになるまでには至っていない。事件の背景については、もう少し時間をかけたい。」
    そして、さらに「差別落書き」を生み出した具体的問題として次の六点があげられている。

「4」浮上した問題点

    北海道教区内の基幹運動の推移を追求するなかで明らかになってきたことを集約すると、次のようになろう。

@北海道におけるアイヌ民族問題などに関心をもたなかった人びとは、また部落差別の実態をも直視しなかった。
A北海道は本州以南よりの移住者が大多数なので、移住直後には部落差別が存在したことが確認されている。現在見られる「寝た子を起こすな」「すべて過去のこと」として隠蔽しようとする意識は、過去の移住と差別に無関係ではないと考えられる。
BA氏が「さわぎを起こすために」自ら落書きを起こしたのではないかという自作自演説が北海道教区内に流布されている。名指しをされたA氏の人権救済よりも事実無根の噂に関心を示すような、人権意識の極めて低い土壌がある。
C北海道教区には、行為者ばかりに関心が行って落書きによって被差別部落民全体を侮辱し、差別したという重い事実を見落しやすい傾向がある。
D本願寺直属寺院へ仏法を否定するような落書きをした人物を生み出したことに現れているように、北海道教区の教化活動は不十分であった。
E北海道の行政において、「同和問題」「同和教育」への取り組みがほとんどなされていないことにも、北海道全体の意識の低さがみられる。


  言うまでもないことだが、「差別落書き」事件という極めて具体的な事実の背景には、そこにいたるまでの、やはり具体的事象が当然存在する。特に札幌別院「差別落書き」事件のように、特定の個人を三回も、それも殺意まで示して踏みつけるには、それにいたる背景があってのことであると考えるのが当然であろう。
  そこでまず明らかにされなくてはならないのは、差別落書きに至ると考えられるあらゆる出来事が、その可能性と考えられるものはすべて取り上げて問題とされるべきであるということである。『対応の概要と課題』にある、

北海道教区内の基幹運動推進をめぐっての見解と路線の相違と対立が、この事件の背景にあると思われる。
という内容が具体的に明らかにされてはじめて、どういう信心理解の対立があったのか、その意見の違いが具体的にどういう結果になっていったのか、それこそが事件の具体的な背景であろう。
  対応が終結した現在、その点については、『浄土真宗本願寺派連続差別事件糾弾会回答書』に記載された短い文章があるのみである。
落書きの被害者と思われる人物の一人が、基幹運動推進委員会の構成をめぐって、教務所長の代わりに会長に就任していた経緯があり、事件の背景としては、『基幹運動の推進』に関する教区内の路線め対立も考えられ、
  確かに「差別落書き」の実行者が特定されていないから、現時点で行為者から背景を明らかにすることはできない。しかしだからこそ「差別落書き」により名指しされた人の立場・視点からその背景を明らかにすることがいっそう大事になることはいうまでもない。たとえ名指しされたと名乗る人が二人いても、だからわからないというのではなく、背景と思われる出来事を出来る限り尊重していくのが筋道であろう。
  少し長くなるが、私の所属・備後教区が点検糾弾会を受けるにあたり、差別落書きの事実と背景を訪ねて、北海道教区と名指しされたのは自分であると最初に名乗られたU氏、さらにアイヌ差別に取り組む「ヤイ・ユーカラの森」を北海道に訪ねて点検糾弾会の回答書に記載した文章を引用する。
A具体的課題を担おうとしてきた基幹運動への反発
一九八六年に本山で、同朋運動・門信徒会運動が基幹運動として一本化されて以来、北海道教区では、基幹運動推進委員会を中心に、ともすれば焦点のぼやけがちな基幹運動について、教区が目指すべき運動の方向と具体的課題として〈十二の課題〉−中略−の『基幹運動テキスト(T〜V)』を発行されています。
  しかし、このテキストが発行されてから、従来からあったこれらの課題に取り組むことに対しての、消極的あるいは否定的な声が、いっそう強硬に出されるようになったということです。けれどもその実、その消極的意見というのは、表向きは「まず初めにご信心を」といいますが、実際は基幹運動をやりたくないための口実になっているというのが本当だという意見でした。
B「教区・基幹運動を語るつどい」の開催と、その中での差別発言

  一九九一年七月二六日、当時の基幹運動推進委員会の会長だった教務所長が、現状の打開を願って「教区・基幹運動を語るつどい」が教区内僧侶と門信徒を対象に開催されています。その様子はテープ起こしをされていますが、それを読めば基幹運動を推進するU氏ら3人のパネラーと反対派と思われる三人のパネラーとの間で激しいやりとりがかわされています。
  そして、その中で次のような差別発言がM氏よりなされています。
  「私に対する問題指摘の中でありましたのは、一つにはイデオロギー評価に、十二の課題は特に社会問題としてとらえられることが非常に強いと。従って、これはイデオロギーでもって左が強ければ右の立場から、あるいは、ある団体からという形で評価の定まらないまんまに、それは間違っている、こっちは正しいと言わんばかりの状況の問題というのは、例えば靖国神社問題その通りですし、同和問題その通りです。ある問題は圧力団体がありますよね。これは変なことをいったら殺されるくらいひどいめにあわなきゃならんような社会問題としては実体があります。」
  この発言に対してN氏より質問がなされていますが、M氏よりは納得のいく説明がないままに終わっています。
  それ以降、臨時教区会や基幹運動推進常任委員会で、「差別につながる発言」ではと問題提起されたようです。その過程では、「差別につながる発言である」とする意見と、「そうではない」とする意見が大変激しくぶつかりあい、北海道の基幹運動が全くストップする異常事態にまでいたっています。その結果は、対応委員会も作られず、M氏の公的な謝罪もないまま現在にいたっているということでした。
  この出来事は、基幹運動の進め方を巡って催された会の中で起きたことに表されるように、それ以降もこの問題の取り扱いが一つの火種となり、さらにいっそう「基幹運動を推進する人」と「反対する人」の対立は激しくなった中で、U氏に対する差別落書き事件が起こってきています。そしてこの基幹運動をめぐる問題は、今も未解決のままだということです。U氏は「あきらかにこの差別落書きは、基幹運動をめぐる中から、私に対して書かれたもんだと思います。しかし、私は今もう一度この落書きの事実から出発しなくてはならないと思います」と語られました。U氏を訪ねた備後教区の私たちは、U氏の今までの本当に頭の下がるような基幹運動推進の歩みに学び、繋がりながら、決して事実を闇に葬ることなく、差別落書きを生み出した背景をより深く問い返していかねばならないと決意しました。そして差別落書きの具体的背景が全国の教区で課題となっていくことを願ってやみません。

この備後教区の書いた文章が「差別落書き」にいたる背景を十分に明らかにしているわけではけっしてない。
その現場にいなかったものにとって、これだけの文章ではなぜ「差別落書き」に至るのか、わからないという限界がやはりある。

  九五年三月三〇日、備後教区の第二回点検糾弾会の席上で、部落解放同盟広島県連合会の側から、九一年札幌別院において開かれた「基幹運動を語るつどい」の中でM氏の発言をめぐって、その後の北海道教区教務所長・0氏(備後教区在住の住職)の所長在任中の発言について「差別発言ではないか」と提起を受け、備後教区で対応を約束するという状況が、何よりその不十分さをものがたっている。
  また「差別落書き」で名指しされたのは自分だと最初に名乗り出られたU氏は、九六年一一月三日・四日、部落解放県政樹立第二十七回広島県民研究集会で、名指しされた当事者としての視点から考えられる、「差別落書き」に至ると思われる背景を詳細に文章にして、私たちに提示して下さっている10。その点からしても、備後教区の回答書も全く不十分であると知らされたのである。

  ・雑誌『部落問題』九八年,四月号  T氏め論文、「沈黙の体制−『札幌別院差別落書き事件』からみえてきたもの−」の問題点

  雑誌『部落問題』は全国部落解運動連合会(略称全解連)の系列からなる部落問題研究所から発行されている雑誌である。その九八年四月号に九頁にわたって「札幌別院差別落書き事件」について文章が掲載されている。11

  私自身、後に引用するT氏の文章に対して疑問を持ち、反論を公開(これも後で引用)したことがある。この『部落問題』に記載された「沈黙の体制−『札幌別院差別落書き事件』からみえてきたもの」という文章を読むにつけ、果たしてT氏が、この「差別落書き事件」から、「差別落書き」を生み出した私たち僧侶の「業」を明らかにしょうとされているのか、大いに疑問と言わざるを得ない。以下いくつかの点について、疑問点をのべてみたい。

  @T氏の書かれた文章の中で、まず疑問となるのが「対応委員会」のあり方として書かれた次の文章である。

  「事件」への対応は、一つは、「落書き」の無責任さと愚かさに対して、無視、というのが可能な態度であっただろう。大仰に「事件」化することで、かえって犯人の意図に乗ってしまったというのが感想である。
  そして、第一の被害者であるU師への人権回復の方策を何ら考えることなく、「部落差別」事件として取り扱った対応委員会は、「落書き」故に犯人の特定もままならないうちに「事件」は思わぬ展開を示すことになってしまった。
  U氏の人権回復が未だになされていないだけでなく、その後ますます人権侵害の状況が起こっていることは、その後U氏の自身に対して書かれた『中外日報』に投稿されたH布教使の文章を見ただけでもあきらかである。文章にまでならない声はどれほどのものであったろうか。
  T氏は「差別落書き」を事件として取り上げ、その背景を明らかにしていくということは間違いで、「無視」すべきであったといわれる。私は「差別落書き」を「無視」というようなことで、名指しされたU氏の人権回復はとても果たせるものではないといわざるをえない。T氏は「大仰に『事件化』することで犯人の意図に乗ってしまった」と言われる。確かに事件化することで、H布教使にみられる、「差別文書」が登場したのかもしれない。12しかし、逆に事件化しなかったらH布教使のような考え方は間違いだと問われないままに北海道教区においても、教団全体においても今以上に何ら疑問めないこととして大手を振ってまかり通っているに違いない。それはますますU氏自身の本当の人権回復からは遠い状況がそのままに放置されたままといわざるをえない。
  言うまでもないことだが、U氏の人権回復とは、U氏を「賎称語」で踏みにじったことの不当性を言うだけでは全く十分ではないはずである。U氏とその家族の人が「差別落書き」によって傷つけられた思いというのは、計りしれないものであり、たとえ「差別落書き」の行為者が名乗り出て謝罪したとしてもすむものではないだろう。
  ではどこで私たちはU氏の人権回復が出来るのか。まず一つには、U氏自身が、「差別落書き」にいたる状況で、また「差別落書き」のその後で奪われたものを回復することができるかがまず問われよう。背景に「基幹運動の推進をめぐる対立があった」とされるわけであるから、まず最初に基幹運動推進の公的立場の中にU氏が今どのように位置ずけられでいるかを確かめ、その立場を保障すること、それがまず具体的に人権が回復されたのかということである。
  二つには、「差別落書き」の後、それを切っ掛けとして明らかになったH布教使に見られる文章がいかに人権を侵害しているかということが、教団の僧侶間に徹底しているかということに象徴されよう。言葉をかえれば、私たち教団の僧侶のどれ程が、「差別落書き」を生み出した背景を抉って改めようとすることに己れを掛けるようになったか、そしてそのことがU氏自身と本当に連帯していけるかどうかを一人ひとりに決めてくる。もしU氏と繋がる視点が明らかにならないならば、U氏の人権回復は他人ごとになってしまうに違いない。
  「札幌別院『差別落書き』事件」に無関係な僧侶は一人もいないはずである。それぞれの関わりのなかでどうつながっていることを明らかしていくか。そこから、札幌別院「差別落書き」事件を通して、一人ひとりのその事件を生み出した「業」に具体的に向きあうことになる。

  AT氏は、「沈黙の体制」の中の「事件の発生」という項目の中で、「差別落書き」に至る北海道教区における、「基幹運動をめぐる問題」に触れておられる。T氏自身もテキスト作成に参加され、一九九一年の「基幹運動を語るつどい」のパネラーであったとも聞く。また御自身が書いておられるように、「全員が任期ぎれと共に基推委の中枢から排除された」一人であると。
  ならば、なぜその間の状況がT氏の責任において問題として明らかになっていないのか疑問に思わざるをえない。
  それでもここに取り上げられている程であるから、T氏自身がまるで問題とされなかったとは私が思っているわけではないことも付け加えておきたい。要は問題を見る視点である。一言でいえば、「差別行為をしたものの視点」から見ようとしているのか、「それを投げかけられた被差別者の視点から見ているのか」ということである。

  BT氏の「札幌別院『差別落書き』事件」に対する姿勢は、九四年九月一日に『中外日報』へ投稿されたH布教使の記事についての見解を述べるにあたっていっそう顕著になっている。
  基幹運動本部では、H布教使の投稿文書の問題点を三つに絞って「差別意識」として現れている点を整理し、「差別落書き」を生み出すした私たち僧侶の具体的差別意識として課題としている。13
  その中でも、ここではH氏の文章の次の一点に絞って問題にしてみたいと思う。

  もう一度北海道の人間として書かせてもらうが、短絡的差別の表現の言葉は、日常北海道では使用されていない。これは、断言してはばからない。ある一、二の方が言うように、『さわぎ』をおこすための落書きである可能性も否定しきれない点がある。
今までお聞きした意見の多くはその点に言及されていた。
  問題提起が目的なら宗報に予定記事をさしかえてまで載ったことで第一目標は達せられたことになる。差別とはとおのれに問うことは、そのまま、自らへの問題提起の縁になってゆく。14
  H氏が「差別落書き」で名指しされたU氏の自作自演説について述べた部分である。この文章をU氏がどんな思いで目にされるか、H氏には少しも思いがおよばなかったとしか思えない文章である。
  U氏自身が後に書いた文章の中で、「落書きと同じくらいに、あるいはそれ以上に衝撃を受けたのは、私の周辺の人びとの反応によってでした」として、このH氏の投稿のこの個所をまっさきに引用していることは心に止める必要がある。15
  T氏は、このU氏の言葉を前にしてもなお、H氏の投稿の、「この文章は、部落問題やアイヌ問題について、不十分な認識で書かれた文章だとは思うが、『差別文章』と認識することはできない16」と言い続けられるのだろうか。

 ・T氏の「こころを開いて語りあう」について
  T氏が「札幌別院差別落書き事件」について文章を書かれたのは、九八年の先の雑誌『部落問題』に掲載されたものがはじめてではない。九六年三月に出された、北海道教区仏婦連盟機関紙『北の慈母』には、「差別文書」に対するT氏の基本的姿勢が述べられている。後にこの文章は熊本教区のミニコミ紙に転載され17、私はT氏の内容に疑問を投げかける文章をT氏の次の号に、そのミニコミ紙に掲載してもらったことがある18。そこには、私とT氏の、「差別文書」にとどまらず、「部落差別」に対する基本的視点の違いがかなり明確になっている。かなり長い引用となるが、違いを明確化するために名前のみT氏としてここにミニコミに掲載された全文を転載する。

 
こころをひらいて語り会う
T氏

  「差別発言」ということ

  「札幌別院差別落書き事件」以来、「差別発言」「差別文書」といったことが問題にされています。
「文書」というのも「文書」による「発言」ですから「差別発言」とひとくくりにして良いでしょう。
発言(文章)が部落問題にかかわった時、特に「差別」として取り上げられているのがひとつの特徴だと思いますが、発言(文書)もいくつかに分類することができると思います。

一、差別することを意図して、差別的といわれる言  辞は意識的に使用した発言(文章)

二、差別的といわれる言辞(差別用語といわれる文言)をふくんだ発言(文書)

三、部落問題に言及しながら、部落問題への理解が必ずしも十分ではないと思われる発言。(文書)

  一に属する発言は札幌別院における落書き事件などでしょう。この落書きは犯罪行為に属するものであり、落書きの内容を肯定する者が教区内にいたりするものではないでしょう。
  問題は二や三に属する発言(文書)です。
  二に属する発言をひかえなければならないという雰囲気が以前からあったと思います。マスコミが内部資料として作成した「いいかえ集」の如きものが巷間にいきわたり、「部落」という表現すら使ってはならないと思い込まれてきた風潮があるように思います。
  北海道のある町では「部落」という表現をすべて「自治会」に表現し直したそうです。
  この自己規制の風潮は部落問題を私たちの問題として考える上で障害になってきたと思われます。
  又、札幌別院の事件以来、三に属する発言も時には一方的に否定的に扱われてきたように思えてなりません。

  多様な発言こそが解決への道

  部落問題についての認識は、歴史的変遷を経てきたと思います。
  近世と近代、戦前と戦後にもそれぞれ大きな画期があります。
  又、解放運動の前進の中で行政の対応も前進し、問題の解決への展望はひろがってきたと思います。
  今、「意識」や「発言」が問題とされることは、解放への前進の中での出来ごとととらえても良いでしょう。
  今、私たちが部落問題でテーマとすべきことは、問題の所在をめぐって、いかに積極的に発言し、多様な角度から問題への認識を深めていくかということでしょう。
  その為には、自由にお互いの発言を認め合いつつ、論じ合う環境を育てていくことが肝要です。
  「間違い」を含んだ発言だと思われても、その発言を保障し、それに対して私の意見を述べるという姿勢が必要です。
  私の発言にも「間違い」が含まれているかもしれないからであり、部落問題の解決が、単一の方向によってのみ成立するとは言い難いからです。
  むしろ、今ほど多様な発言と相互批判が求められている時はないといってもいいでしょう。

  共感の地平を

  部落問題にしろ、アイヌ民族の課題にしろ、在日外国人の人権の問題にしろ、それぞれが固有のテーマであり、固有の歴史と現実があります。
  それぞれのテーマに対して理解を深めることは大切です。しかし、知識が増え、理解が深まったからといって、問題の解決を荷なえるというものではありません。
  問題はむしろ、課題を荷なって、共に共感しつつ共同の地平にたつことができるかということだと思います。
  浄土真宗の仏法は、歴史の中で差別を受け、なお生きてきた人々と共にある仏法であり、支配の文化に抵抗してきた人々によって荷なわれてきた仏法であるという自覚が大切ではないでしょうか。
  浄土真宗の歴史と現実も多様です。差別を肯定してきた歴史を見逃すことは出来ません。にもかかわらず、庶民の中で庶民の信仰として庶民の生死を支え続けてきた浄土真宗を私の中で自覚することの大切さを思います。その自覚に立った時、課題への共感を私の中に育てることが出来ていくはずです。
  そして、教区の中で、折々心を開いて語り合える場をつくっていけたらと願っております。

  改めてT氏の文章を読みながら、T氏がどこまで意図されているかは別として、この「こころをひらいて語り合う」の文章は、H布教使にも、また(U氏でなく)H布教使に同情を寄せる人にも、何とも「やさしい」言葉に聞こえたに違いない。「それはあなたの認識不足で、たいした問題ではないんですよ、大げさに問題にする方がまちがっているんです、何でも自由に言うことこそが大切なんです」などと言われたら、たとえ厳しい問いかけこそが「自らの差別意識を明らかにする縁だ」と思う人にも「甘美な誘惑」にならないとも限らない。
  T氏の文章は、まるで差別意識もさほどない、善意の人間の集まりを想定でもしているとしか思えない。「差別落書き」の後におきた、「それ以上に衝撃を受けたのは、私の周辺の人々の反応によってでした」とU氏のいう、極めて教団の差別的状況は目に映っていないとしか思えない。
  T氏の文章は、差別する意識には極めて心地よく響くが、差別された者にとっては、再び傷に塩を塗り込まれるほどのものだといわざるをえないだろう。
  ともかく、ミニコミに掲載してもらった私の反論を転載する。
 
私はどこに立とうとしているのか
小武正教

  拝啓  梅雨の季節になりました。いつもご当地での地道な取り組みの姿を、ミニコミ紙を通してお送り頂きありがとうございます。
  さて、今回お送り頂いた四月一日号の一面、T氏の部落差別に関して書かれた「こころをひらいて語り合う」という文章を掲載され、編集後記で「今日の基幹運動とは『心をひらいた各人の多様な発言こそ解決の道である』という趣旨には深く頷かされるものがあります。」と述べられていることについていささかの異論がありますのでお手紙させて頂きます。

  何から私の差別性に気付くのか

私はこの文章を読んだとき、西光万吉の書いた譬を思い浮かべました。
『ある山奥にたくさんのサルが棲んでいた。
  ある日彼らは高いところから何げなく小石を投げて遊んでいた。すると、小川からカニの声がした。
  「モシモシ、サルさん、そんなイタズラをするもんじゃないよ。私らははなはだ迷惑だ。」
けれどもサルは平気な顔で、
  「何がはなはだ迷惑なんだ。こんなことぐらいなんでもないじゃないか」
といった。するとカニは怒って叫んだ。
  「サルとはわが身勝手なことをいう。おまえさんの方でなんでもないことでも、私の方では生命にかかわる問題だ」。
  そこでサルは顔をまっかにして引っ込んだかどうかは知らないが19。』
  私は初めてこの譬えを目にしたとき、十二年前の糾弾学習会の私の姿を思いおこしました。
  「人の足を踏んでおいて、踏まれた者が痛いというているのにそれもわからなくて、それでもあなたは僧侶ですか、人問ですか」と言われた言葉です。
  でも鈍感な私にはそう言われるまで分かりませんでした。そして今もその本質は変わっていません。
意図しない一言がいかに深く相手を傷つけているかということは、言われてみないとわからないのが私の実際です。そのことをまた改めて問われたのが今回の点検糾弾会であったと私は思っています。

  どこに立とうとしているのか

  紙面でT氏が述べられている点は大掴みにまとめると二点だと思います。

一、「差別発言」について、差別することを意図せずして発言し、文章にしたものは(差別発言ではない)
二、(差別者と被差別者が)自由にお互いの発言を認めつつ、論じあう環境を育てていくことが何より大切。
  ※丸カッコの部分は、私が読みとったものです。
  結論から書きます。私はこのT氏の意見は、一見もっともらしく聞こえるかもしれませんが、教団・僧侶が部落解放運動に主体的に取り組み、差別体質を克服していくには大きなマイナスの働きをするものであると考えます。なぜか?、僧侶としての自分がどこに立って解放に向かおうとしているのか立っている場が不明確だからです。
  改めていうまでもありませんが、「差別は差別する者(差別社会の中にいながら差別していても気付かないものも含め)がいるから差別されるものが生まれてくる」ことは疑うべくもない事実です。だから、差別をしている者がまず踏んでいる足を退けるのが当然にもかかわらず、踏んでいる人間は痛くないので、痛いというまで気付きません。痛いと言われても、西光の譬のように「そのぐらいのことで」と言ってすませてしまいかねないのが私自身の姿ではないかと思います。だからこそ被差別者からの「痛い」という叫びに学ぶことを除いて自分の差別性を知ることは出来ないと思うのです。
  私の備後教区では過去帳差別記載の問題性を明らかに出来ず八五年に糾弾学習会になったわけですし、今まで行われてきた本山での糾弾会、各教区での点検糾弾会も、水平社以来の指摘にもかかわらず連続差別事件を生み出した僧侶の差別体質が問われたわけです。

氏の言葉を、現在の政府の解放運動債しの状況の中で読むと

  日本全体の総保守化は、部落問題においても例外ではなく、「差別される側にも差別される責任がある」とする部落責任論への道筋をつけ、一般対策への移行によって、行政から部落問題を消しさろうとする方向を政府は着々と進めています。
  T氏の「多様な発言こそ解決への道」という発言は一見もっとものように聞こえますが、私たちの目の前にある問題は一般論ではなく、いかに部落差別をなくしていくかという具体的現実です。それは政府の九六年の地対協意見具申に見られるように、「自由な意見交換の出来る環境づくりを」という言い方で、被差別者の視点に立った解放行政の否定、さらには被差別者の自力救済手段である糾弾否定が正面きって打ち出されている状況です。それは、九六年の「人権擁護施策推進法」の中にも、「国民相互の理解」こそ大切だと巧みに織り込んできています。
  また共産党も政府のその方針と足並みをそろえる形で解放運動批判を行い、人々の差別意識に取り入り、選挙の票集めをしているのが実際です。こういう状況の中で語られる、T氏の言葉がいかなる位置をもつかは明白でしょう。
  これはまさに融和主義以外の何ものでもありません。もし氏が状況を知らずに語られたとしたら、あまりに解放運動に無理解ですし、知って語られたとしたら、衣の下に鎧で、多くの人を惑わすことを承知という意味では罪が深いと言わざるをえません。
  私たちは「多様な意見の発言」という前に、足を踏んでいる者が、踏まれて痛いと声をあげている声と正面から向き合っているか、それこそがまず大切なことと思います。差別する者とされる者が二階と一階にいては、本当の「相互批判」にはなりようがないではありませんか。
  もちろん糾弾の場で、自由な発言の場がないと思われるのは大きな誤解です。自分の差別性を学ぶという姿勢さえあれば、言いたいことが言えないなどということはないはずです。「自由な発言の場がない」といわせているのは、自分の中の「構え」であり、もう一歩言えば自分の差別性を無意識の中に隠そうとする心ではないでしょうか。
  北海道の差別落書き事件とそれを巡る出来事から私たちが問われているのは、その事件を機会に誰と出会ったのか、誰の声を聞いたのか、そして誰と共に歩みはじめたのかということであろうと思います。
  差別された人の視点に私が立って、「こころをひらいて語り合う」場を開いてきたかどうか、そこに証しが出て来るのではないでしょうか。

・「札幌別院『差別落書き』事件」に対するT氏の姿勢

  T氏の雑誌『部落問題』に掲載された「沈黙の体制」(仮にA論文)と、北海道教区仏婦連盟機関誌『北の慈母』の「こころを開いて語り合う」(仮にB論文)を併せて読むと、一層T氏の「札幌別院1『差別落書き」事件」への姿勢が明確になっている。
  まず、A論文によって、「札幌別院差別落書き事件」を「『部落差別』事件としてとりあつかった」ために、かえって「『事件』は思わぬ展開を示すことになってしまった」と「差別事件」として取り組んだことを間違いとする姿勢が確認できる。
  そしてB論文によっては、T氏の「差別文章」に対する姿勢が前に引用した三点にわたって確認され、そこから『中外日報』投稿のH布教使の文章は、差別文章にはあたらないとされるわけである。
  T氏の結論からすると、「差別落書き」そのものも、それをきっかけ・縁として起きた「差別発言」も、「わたしたちの教団・僧侶の差別体質や差別意識の表れ」として掘り下げ抉り出していく作業は必要でない、いやすべきでないという結論だということがわかる。そんな取り組みをするからこそ、「『事件』はおもわぬ展開を示すことになってしまった」とA論文で言い切られるように、「差別」事件として取り組んだがゆえに、H布教使のような発言も起こるのだということであろう。
  実はT氏のこの文章はまさに因果関係が全く逆になっている。「北海道に部落差別の意識が希薄なのではなくて、部落差別への取り組み意識が希薄であるのが事実であった」ということが、この度の「差別落書き事件」とそれを切っ掛けにして起きたH布教使の投稿に現れた差別意識である。それが同朋運動を推進するU氏へめ反感から「差別落書き」につながったと、短いながらも『対応の概要と課題』並びに本山の点検糾弾会『回答書』にもあるとおりである。実際には「差別の現実を問い返さない、問いかえすまい」という僧侶意識を根本の原因として、同朋運動を推進するU氏などへの反感を縁として、「差別落書き」という結果が生まれてきたといえよう。
  繰り返しになるが「差別事件の取り組み」の要は、どこまでその背景を、一つには具体的に、そしてもう一つは差別意識を生み出す土壌として掘り下げていけるか、これがポイントであり、それが同時に「差別落書き」を生み出した教団・僧侶の「業」を明らかにしていく筋道である。
  差別事件をT氏の言われるような「人権意識」に一般化してしまったら、具体的な個々の差別意識が抉り出される道は閉ざされてしまう。そして結局「差別事件の背景を明らかにするな」という考えでは、差別意識はそのまま放置される結果とならざるをえない。

「差別落青き」にういて、部落解放同盟、全国部落解放運動連合会の考え方と本願寺の同朋運動の視座

  『部落問題辞典』には「差別落書き」の項目を次のように解説している20

  被差別部落に対する蔑称を用いて、差別を煽動する落書きが一九七〇年代中期からとくに大学、職場内などの人目につかない所で発見されはじめ、八○年前後には、大書きで蔑称だけでなく、被差別部落民の抹殺を呼びかける落書きが、人家、公共施設の壁、橋の欄干など地域社会でも発見されるようになった。八〇年以降には部落解放運動への敵対を呼びかけ、〈ねたみ差別〉をあおり、さらには、部落差別だけではなく、在日韓国・朝鮮人や(障害者)、女性に対する差別煽動をも内容とするいっそう悪質なものとなっている。差別落書きは、部落解放運動や反差別運動の発展への反動としての差別の陰湿化、同和対策事業に対する〈ねたみ差別〉の反映の一つである。現在各地で差別落書きを許さない運動が進められている。
  札幌別院の中に書かれた三度の「差別落書き」は、その書かれ方、そして同朋運動への反感からという理由を考える時、まさに日本全体の「差別落書き」の状況とみごとに附合する。
  部落解放同盟は「差別落書き」め発生の理由を次のように述べ、「差別落書き」への姿勢を示している21

(差別落書きのおきる)その理由は、

@部落差別の社会意識は依然として根強いこと、
A福祉や教育の削減、人権抑圧の反動化する今日の政治状況が、このような差別事件を多発させていること、
Bさらに、日共=全解連による差別キャンペーンが否定的な影響を与えている等が考えられる。(中略)
    このような悪質な差別落書きや差別投書、さらには、いやがらせの電話を野放しにしておくことは断じて許されるものではない。(中略)、これらの悪質な事件に対しては、大々的な世論による批判を組織する
一方で、全国部落解放運動連合会の考えは、部落問題研究所より出された『「差別落書き」を考える』というブックレットに見ることが出来る。「まとめ」として述べられた結論のところを引用する22
  結婚や就職における『差別』などとは異なり、目的意識的にねつ造することすら可能なものであるから、行為者・意図も不明の「落書き」については、せめて分析は行わないというくらいの慎重な対応が求められるのである。
  ではどうしたらよいのか。「落書き」は「消去もしくは施設や対象を以前の状態に復元することで基本的に解決するもの」(全解連「差別辞事象にたいする全解連の方針」)であるから消したらよい。
  善意で「落書き」をなくしたいと思っているであろう人の中からも一つの反論が予測される。それは「落書き」で心を傷める人がいるかもしれない。だから現状回復だけでなく、何らかの取り組みが必要なのではないかという意見である。(中略)
  たしかに、傷つく人がいるかもしれない。同時に、「落書き」があっても少しも傷つかない人もいるかもしれない。
  こういった「傷つく人がいるかもしれない」「人権侵害につながる恐れがある」という論について言えば、およそ「落書き」も含めて表現というもの自体、「だれ一人として不快感を持たない表現なんてこの世に存在するんでしょうか。」という意見がある。
  「差別落書き」という事象にたいして二つの解放運動団体は全く違う見方をしていることがこれだけの文章を通してもわかる。
  では私たち本願寺教団はどう考えるのか、念仏者の立場が問われるところである。
  基幹運動本部から九七年に出された『差別事件・糾明のための方途』にもその点を次のように記してある23
  「明治」期以降、教団は差別事件に対しては、教団内の「不心得者」が行ったことであるなどと、差別の責任は、差別を行った個人の責任であるという立場を長く取ってきました。しかし、解放運動の発展や同朋運動推進の取り組みの中から、差別事件は単に差別者個人に責任・問題があるだけではなく、むしろ、教団内の差別構造や、差別体質の具体的な現われとして理解されるようになりました。
  差別事件に取り組むということは、その過程で、何が差別なのかを糾明していくことです。そして、何が差別状況を作り出し、差別を温存させているのか、差別構造を明らかにしていかなければなりません。
  現象としての差別事件のみを問われているのでなく、事件につながる教団の差別構造や差別体質、さらに、差別意識をかもしだす制度や慣習も問われています。
  このことに応えることなくして、「信心の社会性」はありえません。
  「札幌別院『差別落書き』事件」を、もし全解連の取り組み方針から見るならば、「差別事件」として取り上げ、分析し、それを生み出した背景となる差別意識を明らかにするなどということは大きな間違いということになる。そしてこの視点で「札幌別院『差別落書き』事件」を見たとき、はからずも雑誌『部落問題』に掲載されたT氏の意見とみごとに一致するのである。
  そこには私たち本願寺教団の僧侶の「業」を明らかにする視点は存在しないといえよう。
  ではそこから問われてくるのは、部落解放同盟との連帯の中で、私たち本願寺派の僧侶が、部落解放同盟から受けた糾弾会・点検糾弾会を通じて、この「差別落書き事件」からどこまで私たち僧侶の業を明らかにしたかということにもどってくる。私たち僧侶の「根強い差別意識」を生み出しているものをどこまで抉りだせたか、それを除いては実質として教団内に、「大々的に世論の批判を組織する」ということにはなりえない。
  基幹運動本部の示した『差別事件  糾明のための方途』も、どこまで差別意識にからめとられた私たち僧侶の業を明らかにして担うかという指針を示したもので、後はどこまで一つ一つの差別事件においてその解明の歩みがなされるか、すべての方針・方途の正しさの証しはひとえにここにかかっている。
 

「部落解放同盟(解放同盟)」と
「全国部落解放運動連合会(全解連)」の
基本的運動理論

  まず最初に、解放同盟と全解連の結成、ならびに部落差別への行政措置に関する法律等を年表的に記す。
  (経過)
*一九七一年(明治四)「解放令」
・一九二二年三月三日全国水平社設立
☆一九四六年戦前解消していた全国水平社を継承して
              「部落解放全国委員会」が発足。
☆一九五五年部落解放委員会は、結成十周年にあたる
              第十回全国大会で、名称を「部落解放同盟」に変更。
*一九六五年 一〇月「同和対策審議会答申」が出される
部落解放同盟第二十回大会において、中央本部は同対審答申を長い運動の成果として評価。
*一九六九年「同和対策事業特別措置法」が制定(十年の時限立法)
◇一九七〇年「部落解放同盟正常化全国連絡会」が結成。
◇一九七五年「国民融合をめざす全国会議」が発足。
◇一九七六年「全国部落解放運動連合会」(全解連)が発足
*一九七八年「特別措置法」三年延長
*一九八二年「地域改善対策特別措置法」五年
*一九八七年「地対財特法」五年
*一九九二年「地対財特法」を五年延長
*一九九六年「人権擁護施策推進法」が成立
*一九九七年「地対財特法」の法的措置が切れ、「一般行政への円滑な移行のため五年間の法的措置」

  次にそれぞれの運動団体の解放理論を要点を記す24

(解放同盟)
  『部落解放理論としての3つの命題』

@「部落差別の本質−部落民に市民的権利が行政的に不完全にしか保障されていないため、主要な生産関係から除外されている点にある」
A「部落差別の社会的存在意義−今日独占資本主義の段階では、独占資本の超過利潤追求の手段として部落民を主要な生産関係から除外し、相対的過剰人口のなかで停滞的、慢性的失業者の地位に落とし込むことで、部落民に労働市場の底辺をささえて一般労働者の低賃金、低生活のしずめとしての役割を果たさせ、政治的には部落差別を温存助長して部落民を一般労働者と対立させ分割支配する道具として利用している。」
B「社会意識としての差別観念−社会意識としての差別観念は、その差別の本質に照応して、日常化した習慣と伝統の力、多様な形で与えられる教育の作用によって、自己の意識するとしないとにかかわらず、客観的には空気を吸うように一般大衆の意識の中に入りこんでいく。」
〈全解連〉25
『国民融合論』
  「封建遺制の残滓としての部落差別は特に戦後は近代民主主義の社会になり、基本的に部落差別は解消している。現代では被差別部落と一般との接触・交渉が頻繁になっているのでこのままでもうすぐ差別はなくなる。したがって、被差別部落固有の問題があるかのように言うのは差別解消に逆行することになるので、そのようなことはなされるべきではない。残されている問題を解決するのは一般的施策で対処すべきである。」
  「現在も部落差別は社会構造の矛盾の中で利用され再生産されている」とする解放同盟の認識と、「現在の差別事象は封建時代の残り津の部分で、まもなくなくなる」という部落差別の実態に対する認識の違いは、当然のことながら全く異なる解放理論に結びついてゆく。
  被差別者の糾弾権をめぐっては、「現在の法的不備の状況においては、糾弾は被差別者救済の方法としてもちいる」とする解放同盟と、「糾弾は暴力であり、自由な意見交換こそ大切」だとする全解連の主張となる。
  また、法の制定をめぐつては、「時限立法でなく、宣言、啓発、事業、規制を盛り込んだ部落解放基本法の制定」を求めて運動する解放同盟と、「法の制定は解放の流れに逆行する、一般行政で対応すべき」とする全解連というように、頭の先から爪先に至るまでというほど差別の現状認識から解放理論・方針が異なっている。

  「差別の現実はもうなくなっているのか?」、いやそうではないということをまざまざと知らされたのが、教団におこった「札幌別院『差別落書き』事件」であったということをここで思いおこさねばならない。そして、それを切っ掛けとしておこったH布教使に代表される「差別発言」と「差別意識」、それは普段はみえなくても何かきっかけがあれば如実に表面化してくることも知らされたのである。名指しされたU氏の人権回復が困難をきわめることが、私たちの教団も差別構造・差別意識にいかに深く絡め取られた「差別状況」にあるかということを証明しているといえよう。「もう差別は解消しつつありますよ」と言っていたのでは、何重にも差別の重しを背負わされた人をそのままにするだけではなく、そんな状況を作りだしている一人ひとりがいつまでたっても、差別構造や差別意識から解放されないままで終わってしまうに違いない。
  自らの「差別意識」に心地よく響く言葉には、よほど気をつけていなければならない。それが自らの弱さを自覚するということであろう。逆に「差別の現実からの問いかけ」には、自らの全力をあげて向き合うよう努めねばならない。
  そこを出発点にしないかぎりは、自らの業を担うことも、差別者と被差別者が連帯するということもないのだから。問いかけが「自らの業を明らかにせよ」と自らに届いたとき、その問い掛けこそ、私たちひとり一人にとって、本願から呼び返される声であるといえよう。その縁を自分の側から閉ざしてはならない。

政府の解放運動への攻撃

  戦前はいうまでもなく、戦後も政府は一貫して、部落解放運動を政府のコントロール下におしこめ、融和主義政策をもって国家の責任を糊塗し、部落差別を温存助長してきている。解放運動の高まりの中で一九六五年に「同対審答申」が出され、国の行政的責任を認めさせ、今日まで法的措置がとられてきたのは、解放運動のたゆまぬ努力のたまものである。
  しかし、それが近年、国の側の巻き返しにより、部落解放の為の「法の打ち切り」があきらかにされ、解放運動は危機的状況を迎えている。
  政府の解放運動へのまず大きな攻撃は、八六年の政府の出した「地域改善対策協議会  基本問題部会報告」であった26

  @糾弾の否定、A部落責任論の展開、B法の打ち切りと一般行政への円滑な移行、C行政の主体性という名で、行政責任の放棄、D「えせ同和」の批判というキャンペーンによる解放運動つぶし、が政府によって展開された。
  政府の打ち出した解放運動潰しの政策は、同時に全解連の主張とみごとに重なるものであり、全解連にとって「敵(解放同盟)の敵(政府)は味方」という状況であった。
  しかし、部落解放同盟と、それと連帯する「同和問題に取り組む宗教者連帯会議」、また政党など、一丸となって反撃する中で、政府の「地対協」の政策は葬りさられ、「地対財特法」が勝ち取られた27
  しかし、それから十年、総保守化の波は解放運動を直撃した。政府の側はここぞとばかり、被差別者の主体的な解放運動を封じ込め、差別の実態を糊塗し、解放運動を権力主導の下に屈服させて、一日も早い終結宣言を出すよう着々と手を打ちつつある。
  一々の例を挙げれば枚挙にいとまがない程の政府の側の攻撃はかかっているが、ここでは二点、「人種差別撤廃条約」の批准と、九六年「地対協意見具申」ならびに「人権擁護施策推進法」についてふれる。

・「人種差別撤廃条約」について

  九五年国会で、「人種差別撤廃条約」が採択され九六年に発行された。国連で採択されたのが六五年であるから、それから遅れること三十年である。日本政府もそして部落解放同盟中央本部も、この条約批准を高く評価している28

  我が国は、国際社会の一員として、国際人権規約をはじめとする人権に関する多くの条約に加入している。懸側案となっていた「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」(人種差別撤廃条約)にも加入し、「人権教育のための国連十年」への本格的な取り組みも開始された。
  また私たちの『浄土真宗本願寺派連続差別事件』の回答書にも、松村総長の談話、そして宗会決議のなかで、「これによって、わが国も人権面においでも、ようやく国際的潮流に乗ることができた」と高い評価をしている29

  しかしはたしてそうなのか。今のこの時期に政府が部落問題を真に解決する方向で、この条約を批准したのかどうか、疑ってかかるのが本当ではなかろうか。
  『96年「意見具申」批判草稿』の中で、小森龍邦氏の指別摘にはこうある30

  「人種差別撤廃条約」の適用対象から、わざわざ部落差別を外すために、「門地」と訳すべきディセントなる英語を、日本語としては慣用されていない「世系」なる言葉を充てて、ごまかしているということだ。
  「門地」と訳せば、憲法第十四条の「すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において差別されない」という条文にも見られるように、部落差別を包含しなければならないからである。
  「門地」という言葉が憲法に入ったのは、私たち本願寺教団の同朋運動のはじまりを担ってくださった田中松月氏が、部落差別を含めるためGHQにかけあって挿入されたという本願寺にとっても極めて大切な言葉であることは、今こそ改めて思い起こす必要がある。
  さらに、日本で批准された『人種差別撤廃条約』からは、「規制法」の部分、つまり罰則規定が削除されているのである。これは、政府の「部落解放基本法」が「規制法」的面を持つことを目指すことに楔を打ち込むものである31

・「九六『地対協意見具申』並びに、『人権擁護施策推進法』」について

  政府は、日本全体の総保守化の流れに乗じて、九七年の「地対財特法」の期限切れを前に、解放運動にとどめを刺すべく九六年「地対協意見具申」を押し出してきた32
  八六年の失敗に懲りたのか、言葉は美辞麗句を並べながらも、結論としては、@同和行政の一般行政への円滑な移行、そして打ち切り、A「国民相互の理解」という言い方で、糾弾の否定、B「行政の主体性」という行政責任の放棄、C「部落責任論」のむしかえし、D「えせ同和」に名を借りた解放運動潰し、と実質は八六年の「地対協意見具申」と何ら変わるところはない。では、解放運動あげての反撃となったかと言えば、事態は逆で、解放同盟中央本部からは、九六年「地対協意見具申」は「第二の同対審答申」だと評価する状況となった33
  労働組合も政党も政策転換してしまった中で、人権における最後の砦、解放運動の本隊もその例外であることはできなかった。
  「地対協意見具申」を下にして作られた「人権擁護施策推進法34」では、それをさらに具体化し「同和行政の一般対策への円滑な移行」が盛り込まれる。そして、「国民相互の理解35」という融和主義の考えが堂々とまかりとおることになった。「国民相互の理解」とは言葉をやさしく言えばこうなろう。「国にもう責任はない」、「差別する立場の者はもう少しやさしい思いやりの気持ちを持て」「差別される立場の者も自分を振り返って、あまり糾弾だというようなことを言うな」と。

・「融和主義・国民融合論」を「真宗の『業』理解」は打ち破る主体を生み出せるか−再び「悪しき業論」

    「悪平等論」を繰り返してはならない
  全解連の「国民融合論」は、行政の責任を問わないもともと政府にとっては都合のよいものであった。しかし、解放運動の団体としては、被差別部落の組織率が部落解放同盟とは全く比べものにならないほど低い。したがって政府としては、部落解放同盟の運動を「融和主義」に引き摺り込む方策を練りつづけ、それが「人種差別撤廃条約」や「人権擁護施策推進法」にみられる解放運動潰しとなって表れたわけである。
  しかし、今も就職・結婚ということで差別事件は後を断たない、いや不況が厳しくなるに従って、「上みてくらすな、下みてくらせ」という差別状況は陰湿に巧妙になり差別事件は起こり続けている。
  毎年、被差別部落の市民的権利がいかに侵害されているかという実態は全国でほんとうに沢山報告されているが36、そのことは、けっして部落差別が「一般対策に移行」して、福祉事業等で行われても十分なくなってゆくと言えるようなものでないことを如実に物語っている。
  言うまでもないが、差別が存在するにはそれなりの根拠がある。つまり、差別を利用し、労働者や市民に分裂の罠をかけ利益を得る者が今もいるということである。
経済状況が厳しくなるにづれて差別事件が頻発しておこるということは、部落差別の現状を示すものであると同時に、それを利用する状況もあるということである37
  戦前の日本において、日本が侵略戦争にのめり込む中で、すべての運動が「国家のために」という国家総動員法の下で潰されていった。そして、水平社の運動とて例外ではなかったという苦い歴史を私たちは持っている。
  その時真宗教団は、差別社会の構造を隠蔽する「悪平等論」を展開した。その時教団で展開した「一如会」の運動も「政府の積極的な融和政策に同調」した運動で、差別社会の構造を問わないものであった38
  今再び、「国民相互の理解」等という口当たりのよい言葉で「差別意識」を糊塗し、「差別の現実」を明らかにする道筋を失ったら、差別が無くなるのではなく、差別が問えなくなる道を突き進むのではないか。
  それは、私たち一人ひとりの、差別の現実、言葉を変えれば、私たちの業を担う歩みを生みだすのではなく、担うべき現実から目をそらすことになってしまうに違いない。
  わたしたちの教団は、一再び同じ過ちを繰り返してはならない。部落差別の問題を単なる「心の問題」とか「思いやり」「感性」に矯小化することに加担する過ちを犯してはならない。
  私たちが基幹運動として掲げる課題、「信心の社会性」は、教団・僧侶が社会性を発揮させて世の中の役に立つ位置をしめようなどというものではけっしてないはずだ。教団が本当に「信心の社会性」を回復しようとするなら、今にも解放運動が「心の問題」に押し込められ、真の「社会性」を奪われようとしているとき、何を発言し行動するか、そこに「信心の社会性」を掲げる真骨頂があるはずである。

今、「寝た子を起こすな」という考えは

  「寝た子を起こすな」という言葉には、被差別部落の人が差別の厳しさゆえに、「寝た子を起こしてくれるな」という意味で語る場合と、被差別部落でない者が、部落差別の実体を見ずに「部落差別のことを知らない者に敢えてしらせるようなことはするな」という意味で語る二通りがある39
  そして、「札幌別院『差別落書き』事件」で私たちが改めて知らされたことは、後者の意味での「寝た子を起こすな」という考えが、いかに教団に漫延しており、しかし差別意識はいつでも起きあがるということであった。さらに、その後起きたH布教使の文章にみられるように、「寝た子とは、何も知らないのでなく、間違った知識を持っている者のこと」であり、それが何重もの差別事件を起こすことも経験した。
  「差別の痛みのために、そっとしておいてほしい」という人と真に連帯する道は、私たち一人ひとりが、差別の現実をどこまで問いかえし、それを作り出している意識や社会の仕組みに、どこまで本気で取り組んでいるかということのみであろう。
  しかし今、「寝た子を起こすな」論は、決して「部落問題を深く考えたことのない部落外の人々の間で素朴・単純に支持されてきた」というわけにいかない問題となっている。
  全解連の国民融合論は、差別の現実を明らかにすることではなく、「外に出て部落出身者であることを隠せ」という部落分散論などで部落解放を図るという点では、つづまるところは「寝た子を起こすな」ということである40。そして政府の、「糾弾の否定」や「国民相互の理解」等にみられる、水平社以来の被差別者自らの解放運動の否定は、どれほど美辞麗句で飾ってても、極めて同情・融和の運動へ一直線である。「もう実態としての差別はないのだから、社会啓発のみをせよ」という政府の「人権擁護施策推進法」の方向が、もう一歩すすめば、もう社会意識としての差別観念も大してなくなってきたから、かえって部落差別のことは言わない方がいい」=「寝た子を起こすな」という所に行きつくのは火を見るよりあきらかである。

おわりに

  本願寺の対応委員会の出した「札幌別院『差別落書き』事件」の総括を取り上げてみて、結論とすれば「業は明らかになっていない」と言わざるをえない。その意味で「札幌別院『差別落書き』事件」は、真に課題が明らかになるというスタートに立てていない。その一つの証しが、「解放の主体となる『業』理解」の三番目に、「問いを投げかけた人と共に、問題を共有する場を持つ」と提起したことがなされてきたかと言うことである。十分な背景が明らかになるということと、名指しされたU氏と問題を共有するということは同時に進められる事柄であるはずである。そして、そのことは三回目の差別落書きに書かれたアイヌの人においてはどうであったかも問われねばならない。
  私は、「自らの業を担う」ところに「すくい」「解放」への道があることを、親鸞さまと、水平社を生みだし、その精神を受けついできた人々にまず学んだ。そして今なお差別の現実が再生産されているということを、「札幌別院『差別落書き』事件」などの様々の差別事件から突きつけられた。
  「今あなたの行動の必然性は何か」と問われたら、厳しい差別の中でその壁をうち破りつづける主体を生みだした「教え=信心理解」と、自分に突きつけられた差別の現実にいかに向き合う努力をするかというところに結論づけられよう。
  従って、「解放同盟」だから連帯するのでもないし、「全解連」だから連携しないのでもない。どんな立場にいようとも、被差別の側からの訴えの声を無視してはならないことはいうまでもない。しかし、かといってどんな考え方とでも連帯しうるというわけではけっしてない。差別の現実をいかに見、そこからの解放をどのように方向づけるか、方向性を同じくしないと連帯とは名ばかり、実際は単なる「野合」にすぎないことになる。取り組みが真に「連帯」であるためには、具体的取り組みの徹底と、自らの取り組みの必然性の明確化が同時に求められる。
  私たちは同朋運動のスローガンとして、「差別・被差別からの解放を」と掲げているが、私はこの言葉を、「被差別者が真に解放されるとき、差別者もまた解放される」と受け止めている。差別・被差別の状況から自らを解放するために誰と歩みを同じくするのか、批判し批判される関係を誰と築いていこうとするのか、現実的選択をせまられる。
  と同時に、差別の現実を糊塗し、差別・被差別からの解放へ大きな壁となる動きには当然明確な批判をしていかなければならない。
  誰とでも手をつなぎ、誰にもいい顔をしながら誰とも闘わずに行う解放運動は、多数者の視点から同情・融和の運動、もっと言えば国の側から恩恵的な運動でしかないことを今一度こころに刻んでおきたい。
  「札幌別院『差別落書き』事件」は、今、「あなたは誰の声をききましたか」、「あなたは何を問い返しましたか」「あなたはどのように闘いましたか」と問うてくる。そこには「私自身の『業』」をどこまで「解放の主体」として担っているか、ごまかしようのない証しが出てくる。


  1. 「業を担って−備後・安芸教区過去帳差別記載糾弾学習会・同朋3者懇話会より」118頁。
  2. 3つの課題、「真俗2諦」「業・宿業」「信心の杜会性」の直接の切っ掛けは、過去再調査における「免責条項」「過去帳閲覧禁止」に対しての、私たち僧侶の行動の1貫性・必然性が問われた問題である。それが、糾弾学習会の中では、「寝た子を起こすな」にどう向きあうかという、つまり「解放理論」に対する視点も問われたわけである。
  3. 「『点検糾弾会』回答書」基幹運動事務局。241頁。備後教区の回答書より。
  4. 「『点検糾弾会』回答書」基幹運動事務局。241頁。備後教区の回答書より。
  5. 「浄土真宗本願寺派札幌別院『差別落書き』事件対応概要と課題」浄土真宗本願寺派札幌別院差別落書き事件対応委員会事務局。18頁。
  6. 同「対応概要と課題」18頁。
  7. 『サットヴ』1996・8・10号「浄土真宗本願寺派連続差別事件糾弾会回答書」7頁。
  8. 「『点検糾弾会』回答書」基幹運動事務局。244頁。備後教区回答書より。
  9. 1996年4月9日『中国新聞』洗心欄には、「このほか、連続差別落書きが起こった北海道教区で住職による5年前の差別発言と、それを追認する行動を続けている同教区教務所長(当時)の問題が、解放同盟から差別事件として新たに問題提起され、教団としての態度が問われた。本山と教区側は「しかるべき対応をする」との意向を示した。」

  10. 又、同じ4月9日の「中外日報』にも、いっそう詳しく提起された問題を報じている。
    備後教区で作られた確認委員会によって確認作業が続けられ、その確認書にもとづいて「対応要項」が作成され、99年7月19日に第1回対応委員会が開催されている。
  11. 「討議資料,部落解放県政樹立第27回広島県民研究集会』1996年11月3日・4日、98〜108頁。
  12. 「沈黙の体制−『札幌別院差別落書き事件』からみえてきたもの」、雑誌『部落問題』1998年4月号、44〜52頁。
  13. 『中外日報』1994年9月1日号掲載、「晩夏立秋妄言に思う 北海道教区で差別落書き」
  14. 『サットヴァ』第1号、995・7・15、「3回も!『札幌別院差別落書き』事件7月15日現在」という記事の中で、「8、「差別落書き」への揶揄と基幹運動への中傷」という中で。18〜19頁。
  15. 前掲『中外日報』1994年9月1日号掲載。
  16. 『部落解放ひろしま』1996年第24号、47〜48頁。
  17. 前掲論文『部落問題』1998年4月号「沈黙の体制」48頁。
  18. 『こだま』第47号、1997年4月1日。
  19. 『こだま』第48号、1997年7月1日。
  20. 『西光万吉集』「徹底的糺弾の妥当性」54頁。
  21. 『部落問題辞典』「差別落書き」302頁。
  22. 『全国のあいつぐ差別事件』1988年版。27頁。
  23. 「『差別落書き』を考える−『部落差別深刻』論批判」奥山峰夫著、部落問題研究所発行。60〜65頁。
  24. 『差別事件・糾明のための方途』浄土真宗本願寺派基幹運動本部、1997年12月27日。
  25. 『3つの命題』広島・3次部落解放研究所発行の中より抜粋。
  26. 『部落問題辞典』の「国民融合論」等を参考にして私なりにまとめた。
  27. 部落解放同盟中央本部「『地対協』基本問題検討部会報告に対する抗議声明とわが同盟の見解」を参照。1986年9月20日。
  28. 1986年の「地域改善対策協議会基本問題部会報告」にたいしては、私たち本願寺教団も、1987年3月号の「宗報』において、部落差別解放にいかに逆行するかを1々にわたって批判する文章を掲載している。
  29. 「芸備人権新報」1995年11月17日(第580号)参照。
  30. 『サットヴァ」第4号、11996年8月10日。

  31. 「浄土真宗本願寺派連続差別事件糾弾会回答書」18〜19頁。
  32. 「96、『意見具申』批判草稿」(部落解放同盟広島県連合会刊)小森龍邦著。14頁。
  33. 「芸備人権新報」1995年11月17日(第580号)参照。
  34. 「96、『意見具申』批判草稿」小森龍邦著、参照。
  35. 同著、98頁。
  36. 同著、97頁。
  37. 「芸備人権新報」第651号、1997年3月28日。
  38. 「1997年版全国のあいつぐ差別事件」(部落解放基本法制定要求国民運動中央実行委員会編)に詳しい。
  39. 雑誌『部落解放』1998年9月号には、興信所による大規模な「就職差別事件」が報道されている。
  40. 「一如会」の運動を総括したものに、「差別・被差別からの解放−西本願寺教団と部落差別−」(同和教育振興会編)が詳しい。そして、現代の融和主義ともいうべき「国民相互の理解」についての批判は、拙論「わたしはどこに立っているのか?-糾弾より問われた僧侶の『立場』(『同和 教育論究』第18号)の80頁より展開しているので併せて参照頂きたい。
  41. 『部落問題事典』「寝た子を起こすな」の項、674頁参照。
  42. 『部落問題事典」「部落分散論」の項を参照、732頁。



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