日本文化の因習を考える(6)

「神道・文化・習俗論」を問う射程〈1〉

戦後、国が神道を文化・習俗として位置ずけようとしてきた戦略は、今

小武正教

◇ついに、「神道」が正体をあらわした

  森喜郎首相は5月15 日夜、神道政治連盟議員懇談会の会合であいさつをし、「日本は天皇を中心とした神の国である」と発言したと新聞は報じている。また「神社を大事にしているから当選させてもらえる」「命というものは端的に言えば、神様からいただいた」「鎮守の社やお宮さんを中心とした教育改革を進める」「神社中心に地域社会を栄えさせる」とも強調したと。(5月16日毎日新聞)
  森首相は神道議員連盟発足以来30年のメンバーだそうだが、「天皇を中心とした神の国」ということを伝えるために活動をしてきたと述べている。この発言自体は失言癖のある森総理の口が滑ったということであろうが、なぜ森総理がそういう失言をするかということは、見逃すことの出来ない状況である。一言で言えば、「神道」が国の側の政治課題として前面に出てくるところまで状況はすでに来ている来ていると考えねばならない。
  備後・靖国問題を考える念仏者の会では、5月17日、森総理大臣に抗議文を送ると同時に、本願寺に抗議声明を発表するよう要請文を提出した。(資料1)さすがに腰の重い本願寺もこの森発言に対しては、抗議文を5月17日に発表している。

  このことは昨年8月、庄原市人権センターにおい「広島県の公教育」を考えるということで行われた広島県議会の文教委員長・石橋良三県議の発言とも一貫するものである。
  石橋曰く、「私は教育の指針をこれから神道に求めていこうと思う」「多くの宗教がある中で、まとめることができるのは神道である」「神道を日本人の指針にしなければならない」というものであった。
  浄土真宗本願寺派の備後教区と安芸教区は石橋県議本人と、県議会議長、そして県知事に10月申し入れをし回答を求め催促もしているが、本人及び議会からの返事はいまだにない。
  そして今年4月27日、再び石橋県議は庄原市田園文化センターで開かれた庄原市教育会議第6回設立準備会での講演でこういう意味の内容を述べている。
  「前回、庄原で話した内容が本になり、今あちこちで出回っています。しかし、この内容が一部の浄土真宗の方、県会議員、教育委員などから『石橋の発言を撤回せよ』との要望がありました。」わたしは40年間、広島県の公教育の崩壊を見てきました。マイナスをプラマイ0までもっていこうと頑張ってまいりました。しかし、プラスにするための公教育の指針ができていません。
  文部省は子どもに生きる力をつけることを大きなテーマとしています。しかし、これだけではダメです。『神ながらの道』の教育が必要です。しかし、わたくしがこれを言いましたら、これが神、神道教育ととられました。
  日本人として、何千年もの間、一つの道をもって日本民族はあゆんできました。世界に数ある中の天地自然の中にその敬虔な思いを見い出し、生かされているという天地自然を受け入れる思いをもっているのは日本民族だけです。それを言葉にすれば、『神ながらの道』というのであります。」
  この発言は、『神ながらの道』としての神道を説明すればこうなるということで何ら目新しいものではなく、ただそれをもう一度公的なものに位置ずけようとするための発言であることは言うまでもない。ズバリ言えば身も蓋もないので、少し「自然を大切にする」等というオブラートにくるんでいるが、実質は「神道は宗教以上の日本人の国民道徳(この場合の道徳は宗教以上の位置ずけ)である」としてきた戦前の「国家神道」そのままの内容であることはいうまでもない。
  今回の森総理の「日本は神の国」という発言は、その先駆けを広島県において、石橋県議が先頭に立って露払いの役をやっているということが、こん回の発言によっていよいよ明確なったというべきであろう。
  政府は、「神道」の宗教性を隠蔽し、「日本人のこころ」「宗教はこころの文化」というようにオブラートにくるみながらもついに打ち出す時がきた考えているということが、森総理の発言の背景にある。失言癖のある現総理の時代錯誤的アナクロニズムなどとこの発言を扱うと、状況を見誤ってしまう。

◇靖国神社の特殊法人化発言

  昨年(1999)年8月6日、野中広務内閣官房長官は、突如として「靖国神社の特殊法人化」の発言を行った。この発言は、今回の森発言とは違って、緻密に計算された観測気球としての発言である。
  曰く、「首相や閣僚の公式参拝、また各国首脳も献花などが出来るようにするため」ということで、次の2点を実行しようというのである。
@靖国神社に祀られているA級戦犯を別の場所に分祀する。
A靖国神社は宗教法人閣をはずし特殊法人として国家が管理する。
  「衣の下に鎧」という言うのはまさにこのことである。一方では神道を「日本人のこころ」と持ち上げるかと思えば、もう一方では政府の都合で、靖国神社を神社でなくして利用しようというのである。何という政治の傲慢であろうか。「宗教を文化」として扱うとは、「政府の都合でその宗教の中に土足で踏み込んで、都合のいいようにいかようにでも変える」ということだということが、この野中発言に端的に顕われている。
  本願寺教団をはじめ多くの宗教団体は今日まで靖国神社の国営化と、国営化への道筋をつけるための総理大臣の公式参拝に反対してきた。ただしその反対は、国家が戦争をするための施設として靖国神社を再び利用することへの反対なのであり、一宗教法人として靖国神社が存在することに反対するものでないことはいうまでもない。
  すでに1960年の後半から70年にかけて靖国神社国家護持法案が国会に提出されたとき、実は「靖国神社特殊法人化」は盛り込まれていた。しかし、特殊法人化するということは、「神道的儀礼」を行うことは出来なくなることであり、その時政府は結局法案成立を断念したという経緯をもっている。
  また考えてみればもっともなことだが、靖国神社の宮司自身が靖国神社の特殊法人化に強く反対しているということは意外に知られていない事実なのである。いくら国営化されるといっても、神社が公民館と同じ位置づけとなり、「祝詞(のりと)」一つあげられないことを推進する宗教者はどこにもいない。
  政府にとって、靖国神社もひいては神道も、利用できるだけ利用する「道具」であり「都合よく利用するイデオロギー」にすぎないことを、野中発言はいみじくも暴露している。
  今回の森総理は、「神様であれ、仏様であれ、天照大神であれ、神武天皇、親鸞聖人さん、日蓮さんであれ、宗教は自分の心に宿る文化だ。それを大事にしようと、もっと教育の現場ではなぜ言えないのだろうか。神も仏も大事にしようと学校でも社会でも家庭でも言うことが、日本国の精神論から言えば一番大事なことではないか」と述べたとも伝えられている。(朝日新聞5月17日)
  まさに宗教を一括りにして『文化』と位置ずける、「宗教文化論」ともいうべき正体の背後にある意図を見抜かなくてはならない。  「部落差別の原因を穢れ意識」としていく手法と同じものが「宗教は文化」「神道は日本人のこころ」という論調に隠されているのである。
 

◇教育基本法の改悪として「日本の伝統と文  化の尊重」の強調の背後にあるもの。

  現憲法と一体である「教育基本法」の改悪の動きもついに政治日程にのぼってきたた。政府からすれば、国旗・国歌法を成立させた次のターゲットは教育基本法ということがはっきりしている。まさに森総理の発言がそうであるように、今日の青少年犯罪の原因を「歴史・伝統・愛国心・道徳教育などの欠如」とすり替えて、改悪を押しすすめようというものである。
  すでに全国教育問題協議会で発表している教育基本法を「改正」しようという彼らの「教育基本法改正案」を見ればて、何を削って何を取り込もうとしているのが知られてくる。
「改正案」には前文に、「国を愛し、国を守る国民の育成」を挿入。第一条の教育の目的には、「日本の伝統及び文化を尊重」と「感謝の念と奉仕の心を持ち」を入れる。そして、第九条の「宗教教育」には、「宗教心の涵養、宗教に関する知識、寛容の態度の形成及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを重視しなければならない」に変えるとしている。ここでいう「宗教心」とは「公」を重んじる中で「奉仕・感謝・謙虚・反省」などが強調されるものである。そして、その「宗教心」をどこから持ってこようとしているのか、その中心が神道ということだ。
  新しい教科書を作る会の高橋史郎副会長が、97年3月、「神道は仏教とともに、わが国の伝統に根ざした宗教です。にもかかわらずいつまでも『神道指令』(敗戦後、連合国軍総司令部が、日本軍国主義の中心的なイデオロギーだった国家神道を国家から分離して公的財政援助などの支援を禁じるために出した指令)に呪縛され、神道のみをことさら国家から分離することは、国民生活を混乱に陥れることになる」と産経新聞に書いていることともピタッと符合してくるのである。
  しかし、この教育基本法の改悪も、今になって急に言い出されてきたものでないことこそ問題の根の深さなのである。すでに一九六O年代の「国家公委員会」の資料に次のようなものがある。
「現代の病とは何か、それは人間みずからの内側に潜む真実の声に耳を傾けず、真実の自己を失っているからである。これは広く宗教的な畏敬の念を持って育つていくような人間を育てていかなくてはならない。聖なる精神にすなおに従順に従っていくような精神を涵養していかなくてはならない。そのためには、自分の肉親や古里・祖国・同朋を愛する心を育成していき、天皇家に伝承されてきたような神事・礼儀・文化行事を民族の独自の文化の神髄とみとめていくようなこころを育てなくてはならない」(『世界の中のアジアと日本』佐々木龍次)
  それ以降、学習指導要領の中に、こうした観点をいかに盛り込んでいくかが、文部省を中心になされてきたわけである。
  例えば一例をあげれば、近年、小学校の社会科・生活科の授業として、「地域の文化・伝統を大切にする」として「祭り」「神楽」が取り上げられるようになってきたのも、政府の側の長年の戦略の一貫である。

  政府の側は、「靖国神社国家護持・公式参拝」、または靖国違憲訴訟というようなハードな面だけで、「神道」を公的に位置ずけ、利用しようとしてきたのではない。むしろ、それよりはるかに恐ろしいのは、私たち一人ひとりに、学校教育の中で、地域社会の中で、そういう政府の意図があることをも知らず、神道を、それも神道という宗教として意識するのではなく、地域の文化として、受け入れてしまう土壌がそうとう出来てしまっていることである。つまり、神道が宗教と認識されないほど、文化・習俗として私たちに意識されるようになることが、政府のねらいとしてきたものである。
  曰く、「公式参拝などは問題があるかもしれないが、地域の祭りという文化まで目くじらをたてなくてもいいではないか」。「まして奉仕とか感謝ということは今欠けている大切な心ではないか」という思いをまず社会意識として定着させようとしてきたわけである。そしてその意識を相当広めた中で、満を持して「教育基本法改正」と打ち出してきたのである。
  4月29日の「憲法改悪を許さない広島県民会議」での「憲法改悪をすすめるのは右翼的発言をしている連中ではない、『そうはいっても現状ではしかたがない』という民主党、これが改憲の中心を担う」という小田実さんの言葉は傾聴しなければならない。それは教育基本法改悪にもあてはまるのである。つまり、声高に復古主義を叫ぶ人間が改悪をすすめるのではなく、「文化や伝統ということでなら神道的なものも公的に許容せざるをえない」という者が多数となったとき、それが実質、改悪を押し進める中心を担ってしまうという実態である。
 

◇政府は政教分離を巡る「目的・効果基準」に照準をさだめて。

  憲法改悪の中心は第九条とされているが、第九条と同じくターゲットにされているのが第二十条「信教の自由」と第八十九条の「政教分離原則」である。
  政教分離をめぐって一九六六年の津地鎮祭訴訟から、自衛官合祀訴訟、箕面忠魂碑違憲訴訟、岩手靖国訴訟、愛媛玉串料訴訟、中曽根首相公式参拝違憲訴訟、「即位の礼・大祭」違憲訴訟、その他にも地方で様々な政教分離訴訟が闘われてきたし、今も闘われている。
  現在、すべての政教分離訴訟の判決はアメリカで判例理論とされている「目的効果基準」を用いて出されている。「目的」とは、その行為が「特定の宗教を広めるという意識をもつて行ったかどうか」ということを問題とするものであり、「効果」とは、その行為によって、「特定宗教を援助・助長・促進し、他の宗教に圧迫・干渉を加える」という結果をもたらしたかどうかという点で判断するというわけである。
  愛媛玉串料訴訟や岩手靖国訴訟のように「目的・効果基準」を厳しく判断することで、原告勝訴の判決もあるが、多くは「社会通念」に照らしあわせて、特に最高裁では、原告の敗訴の判決が出されたきた。「目的・効果基準」の適用の仕方が裁判官によって違うということもあるが、最もここでポイントとなるのは「社会通念」なる言葉である。裁判官は「社会通念に照らしあわせて、支出は社会儀礼の範囲を超えている」(愛媛玉串料訴訟)とか、「社会通念に照らしあわせて、宗教というよりも社会的慣習とみなす」(津地鎮祭違憲訴訟)というように、「社会通念」を基準に合憲・違憲の判断をしているのである。  これは逆に言えば、社会意識として、神道を限りなく宗教ではなく、文化として、習俗・社会儀礼として位置ずけていけば、「社会通念」もかぎりなく、神道を文化・習俗として受け止めることになるということである。社会通念という基準の線を移していきさえすれば、文化・伝統・習俗として、公的なものに神道とその内容を取り込むことが出来るということでもある。
 

◇おわりに

  政府は日本の敗戦以来、いかに社会意識として「神道は文化である」と位置づけるかということに大変な精力をついやしてきたといっても過言ではない。そして一方では、いかに靖国神社特殊法人化のように、一人ひとりの生命を国家に差し出させるかということにも精力を注いできている。
  今、までバラバラに見えていたその動きが、教育基本法改悪、さらには憲法改悪に焦点を当てて一つになって姿をあらわそうとしている。
  それを迎え撃つには、法律として現れたハード面を問うだけではなく、その土壌として政府が、宗教、とりわけ神道を「文化・歴史・習俗」として社会に位置ずけてきた、私たちの「内なる意識」を問うことが重要であるといわざるをえない。社会通念を政府の思うままに操られないためには。


(資料)

抗   議   文


内閣総理大臣  森喜郎様

2000年5月17日
浄土真宗本願寺派
備後・靖国問題を考える念仏者の会
代表  川上三郎

  5月16日の新聞報道(「毎日新聞」)によれば、森総理大臣は、15日夜東京都内のホテルで開かれた神道政治連盟議員懇談会の会合で挨拶し、「日本は天皇中心の神の国である」と述べたと報道されています。
  また、「神社を大事にしているから、ちゃんと当選させてもらえる「命というものは端的に言えば、神様からいただいた」「鎮守の杜やお宮さんを中心とした教育改革を進める」と強調したとも報道されています。

  「天皇中心の」というこの発言は、明らかに国民主権という憲法の原則を大きく踏みにじるものであることはいうまでもありません。
   そして続く「神の国」であるという発言は、同じく憲法の「信教の自由」「政教分離」の原則を侵すものであり、断じて放置できるものではありません。
   「天皇中心の神の国」という発言は、大日本帝国憲法下で、「天皇を現人神(あらひとがみ)」とし、「日本は神の国であり、神道は宗教以上の国民道徳である」として、国民一人ひとりに神道を強制した、「国家神道体制」の時代の発言そのままであります。
また森総理は、「鎮守の杜やお宮さんを中心とした教育改革をすすめる」とも述べたとされまますが、「鎮守の杜やお宮さん」は紛れもない神道という宗教であるということも深く認識して戴くことを求めます。また森総理が神道の「情操面」のみ都合よく強調して、教育へ取り込もうとすることは、「神道は宗教以上の国民道徳」と位置づけたことと何ら代わりがないことを指摘させていただきます。

  私たち宗教者にとって、一人ひとりの信仰が何ものにも侵されることがないという、「信教の自由」 とそれを保障する「政教分離」の憲法の条文が守られることは、自らの信仰を守ることと同じ意味を持ちます。この二つを踏みにじることは、まさに総理がよく使われる「いのちの尊厳」を踏みにじることであります。

  すみやかに、公の場で、発言を撤回し謝罪されることを求めます。

備後・靖国問題を考える会  事務局
広島県三次市東河内町237  西善寺内


首相官邸

要望、抗議文はこちらから、 http://www.iijnet.or.jp/sorifu/kantei/jp/question.html


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