「部落解放ひろしま・2000年3月」

日本文化の因習を考える(4)
「穢れ意識」を問う射程<2>
「死に対する穢れ意識」と社会秩序

広島部落解放研究所・宗教部会事務局長
小武正教
◇はじめに

  昨年も年末に多くの「喪中につき年賀欠礼」の葉書を頂いた。その中には私の仕事の付き合いである住職・僧侶仲間からのものもあれば、市民運動など様々な中で出会った人からのものもある。僧侶になって二十三年になるが、最初の頃は僧侶から年賀欠礼の葉書が来るということはなかった。何年かたって僧侶仲間から年賀欠礼の葉書をもらって、「僧侶が年賀欠礼をだすようになって」と驚いた記憶を今も鮮明に憶えている。僧侶が年賀欠礼を当然出さなかった時代から、出しても何とも思わなくなってしまった現代、社会の流れに流された徴がここにもある。
  年賀欠礼の源をただせば、服忌令(ぶつきれい)に行き着く、そしてこの場合の思想的裏付けは神道の穢れ意識である。十二月三十一日の「大祓(おおはらい)」で清め、注連縄(しめなわ)で結界を作って、新たな穢れが入るのを防ぎ、門松を立てて、自分に福をもたらす神を迎えるという新年の儀礼である。平たく言えば、新年にあたって自分の家に神を迎えるために、一時神社とするわけで、そうした「神聖」とする場所に、「死の穢れ」を保つ人間が訪ねて行かないというきまりが始まりである。
  昔は今のように年賀状のやりとりで新年の挨拶をするというのではなく、直接家を訪ねて年始の挨拶をしていたわけであろう。神道の「穢れ」の約束事からすると、時代によって日数は変わるが、自分の家の者が亡くなって五十日は「忌中」といって家に閉じこもる期間としている。これは、「死の穢れ」を他の人にひろめないためということとされていた。さらに一年間は、神道でいう「神聖」とされる場所、例えば神社とかには近付かないということを決まりとしていたことからくるわけである。
  十年ほど前に、「今年は自分の家の者が亡くなったので、神社の初詣にはいけない」「今年はお寺だけにいこう」などという会話を聞くことがあった。しかし、今はお寺も神社化したのであろうか、「今年は家の者が亡くなっているので、神社にも寺にもいけない」という声を聞いたことがある。しかしそれは、穢れ意識を実感してそうしたというものではないように思う。むしろ「家の人が亡くなってまだそんなにたってないのに、こんな晴れがましい所に出てきて」という「世間の眼」に縛られているという方が実際なのであろう。
  しかし、そこに穢れ意識の実態がある。穢れを意識するから、その決まりに従うのではなく、決められた規範のようなものが先にあって、後から理屈がついてくるということである。そのような方法で今も加速度的に変化していく社会意識とそこから出来てくる社会規範で穢れ意識は再生産されているといえよう。年賀欠礼に見られるように、確かに穢れという認識は大変薄いけれど、まず社会常識という形でそれが全体化していれば、それへの理屈をつけることなどいかようにでも出来るのである。
  神道の「死の穢れ」に関わる儀式を今でも一番厳格に守るのは、間違いなく皇室であろう。一九八九年一月七日に昭和天皇「裕仁」が死去したが、翌月二月二十四日に行われた「大喪の礼」まで、テレビの画面からもお笑い番組がカットされたように、自粛・自粛のオンパレードであった。
時代は丁度バブルの絶頂期であったが。丸一年たって「喪」が明けた、つまり「死の穢れ」がなくなったとする一九九〇年の秋に「即位の礼・大嘗祭」が行われたことは記憶に新しい。
  この経験を振り返ってみて明らかなことは、「天皇の死」を日本人の中で「穢れ意識」として考える人はほとんどいないということである。しかしことの本質は、私たち「国民」一人ひとりが「喪」ということをどう考えたかということではなく、天皇の死をきっかけに、権力者が天皇制というものを社会規範として「国民」に認識させその秩序に従わせ、実行する最高の場面とされたということである。
  結論を言えば、いざという非常時に、国の方針に右向け右となればよいわけで、逆に日常は少々無秩序にみえても権力の側が社会秩序の枠さえしっかり握っておれば問題はないとして、後は自分たちの経済さえ繁栄すれば文句はない−まさにそういう裏表が見えた時でもあった。だから天皇の死去にあたって「喪」に服すということの基となった神道の思想は、言ってみればそのための理屈にすぎない。
  もちろん「喪」やその中に込められた「死の穢れ」が持ち出されるには、それこそ支配の側にとって都合のよい、長い長い歴史と伝統があるからなのだが、それを今、「日本の麗しき伝統」などと前面に打ち出す状況を、国の側は戦後一貫して虎視眈々と狙って、着々と準備をすすめてきたのであり、「日の丸・君が代」の国旗・国歌法制化にまで進んだわけである。「君が代」の君を「象徴天皇」として権力の側が平然と表明する、そこにはマスコミを使った用意周到な世論操作が行われ、タイミングを見極めて行ったわけである。意図的なムードが先行し、理屈は後から都合よくつけられるのである。
  すでに国会に憲法調査会が作られ、憲法「改正」が権力側には政治日程の上で考えられる最終段階を迎えている。
それは同時に、支配思想のイデオロギーとして再び利用していく神道を巡る政教分離の問題も、すでに神道を限りなく習俗として扱い、民衆の中に再復活させることに成功しつつある国の側は、憲法「改正」と同時に、もう一歩信教の自由を侵す形で、神道イデオロギーを押し出してくるに違いない。そして、その中で支配秩序の手段としての「穢れ意識」の利用が有効とみれば、今度は一人ひとりがどれだけ信じているかどうかまで踏み込んだものとなるに違いない。
  今までは、秩序を乱すものを「変わりもの」として揶揄し排除し、自分がそうされないために自己規制する社会意識と構造を作る段階であったとすると、これからは、一人ひとりがどう考えているか、心の内面までも強制出来るものに法的に最終しあげをする段階に、国家の側は踏み込む意図を明確に打ち出してきたのである。まさにそれを迎え撃つ私たちの内面の確かさが問われている時ともいえよう。

 ◇服忌にみる「死を巡る意識の管理」
  服忌というのは、自分の家の家族が亡くなった場合、どのようにふるまうかということを決めた社会規範である。
「服」の方は、「服喪=喪に服す」ということで、喪中につき哀しみを表す時の事をいい、一方の「忌」は、死穢の期間として慎みの中にあるべきことを言うものであった。
  その法令がほぼ出来上がるのが、平安末期の『延喜式』で、まず「何を穢れとするか」について次のように規定している。
  「凡そ、穢悪しき事に触れ、忌に応るは、人の死は三十日を限り、産は七日、六畜の死は五日、六畜の産は三日、鶏の忌の限りに非ず、宍を喰らうは三日云々」
  さらに、同じ『延喜式』には「甲乙丙丁の穢の条」を定め、「穢れ」がどのように伝染するかを規定している。
  「甲に積れがある時、乙が甲の処へ入れば、乙のみ  ならず乙の処の者全てが穢れとなる。丙が乙の処へ入ると、丙一身のみ穢となるだけである。しかし乙が丙の処へ入ると、こんどは丙の処全てが穢れとなってしまう。そして丁が丙の処へ行けば、丁の場合穢れは伝染しない」
  さらには『喪葬令』に「服忌の制」を定めて、服喪する期間を非常に細かくを定めている。
  「およそ服忌は、君・父母及び夫・本主のために一年、祖父母、養父母・五月、曾祖父母,伯叔父姑、妻、兄弟、姉妹、夫の父母、嫡子・三月。高祖父母、舅、嫡母、継母、継父、同居異母兄弟、衆子、嫡孫・一月。衆孫、従父兄弟姉妹、兄弟子  七日。」
  しかし、ここでまず注目すべきことは、こうした規定は貴族社会に適用された社会規範であったということであり、一般民衆において、忌服が広まっていくのは鎌倉時代から室町時代であったということである。つまり、服忌は、貴族社会の社会規範が民衆への適用という形の中で広まっていったということであった。
  次に、「何を穢れとするか」ということも、「どのように穢れが伝染するか」ということも、「服忌として何日喪に服するか」ということも、すべて決めるのは支配者である貴族の側であったということである。
  「(意識産業は)はどんな種類のものであろうと現に存在する支配関係を永遠のものにするという課題である。意識産業は意識を搾取するために、ひたすら意識を誘導しなければならないのだ」と述べるドイツのエンツェンスベルガーの言葉がある。
  まさに支配者の側で作りあげられた「『穢れ』の権力者
による社会規範化」は、支配イデオロギーのためであるということはいうまでもない。社会秩序・身分を「聖」と「賎」というイデオロギーで裏付けていくためには「穢れ」を権力者が管理するということは極めて重要なこととされたことは容易に頷くことができる。
  このことはそれぞれの時代の権力者に受け継がれているが、近世封建体制を作り上げていった徳川幕藩体制下においては、朝廷が発布していた「服忌」を独自に定め、この点においても社会秩序を保つ支配イデオロギーとして利用していることがわかる。僧侶に対する服忌を独自にさだめ、この点でも宗教を管理下においたのである。
  明治以降の絶対天皇制国家の時代になると、一八七三(明治六)年に「自今混穢の制廃せられ候」と「触穢の制」が廃止される。しかしこのことにより、「穢れ思想」の利用を権力者(国家)が放棄したわけではない。それまでの「穫れ」に関する「服忌」「触穢」の規定では社会の近代化に則さないため、従来のものを廃棄し、「新たな『穢れ意識』による支配イデオロギーの再構築」がなされたというのが実際である。天皇を「神聖」とするために、それまでにはなかった近代的な衛生思想まで取り込んで、新しい協力な禁忌が打ち出され  国家神道の下で、よりいっそう「死の穢れ」が社会秩序として組み込まれていったのが実際である。皇室には「皇室服喪令」が作られ、国民にも「服喪」が決められていた。
  戦後、皇室を除いては制度としての「服忌」「服喪」はない。現在家族の者がなくなったとき「忌引き」として休暇をとることは、労働者の権利としてあるもので、それ以前の「服喪」とは明らかに違っている。ただ「忌引き」という言葉には、依然の制度の意識を引きずった言葉であり問題がある。例えば「葬儀休暇」とかいう言葉として改めることも必要であろう。
  現在「服喪」の制度はないわけだが、わたしたち民衆の側にいつ再び制度化されてもおかしくないような社会意識が、再生産されつつあるのではないか。大喪の礼のみならず、日常の死に関わる葬儀に関する「穢れ意識」、火葬場建設などに見られる住民意識、「喪のビジネス」といわれるほど葬祭産業が衛生的でおしゃれな感じで営まれれば営まれるほど、死の実際の姿は遠くなり、死への「穢れ観」が増幅されている。再び「穢れ意識」を新たな形で支配イデオロギーとして利用する状態は十分に出来つつある。

 ◇  日本人の「イム」という感情とそれを利用した制度化
  一つ述べておかなくてはならないことは、もともと私たちが人間としてもっている自然への畏れ、恵みへの感謝などの感情とのつながりである。
  例えばもともと「イム」という言葉には「斎」と「忌」の字があてられる。
  しかし、「斎む」は「けがれを避けて身を清め慎む」という意味で使われ、「忌む」の方は「嫌い避ける、はばかる、憎む」という意味で使われるようになる。それは奈良時代末期ぐらいではないかとされ、それも民衆の間で使い分けが広まってきたのは中世であろうといわれる。このことは、未分化であった「イム」という心が、しだいに「斎」と「忌」に自覚化され、分化していったことをしめす。沖浦和光氏は最近著された著書『ケガレー差別思想の深層』において、その点を「神話的世界の穢れ」として(聖・俗.機)がまだはっきりと分けられていない混沌の時代では(聖なるもの)も(ケガレ)も、神々の威力のある一面を表している」とし、アニミズムの時代と表現されている。
  アニミズムと表現される大自然の驚異の前に、そこに「神」が宿ると感じ、畏れと敬いの感情は今日の私たちにおいてももっとも基層部分にある。がしかし、それが生のままで私たちの上に現れてくるわけではないことは注意しなくてはならない。今日まで積み重ねられてきた「文化」というフィルターをすべて一度通さないものはない。その中にアニミズム的未分化の感情が残存しているというのが正確であろう。
  たとえば、原初の感情がもっとも出てくる人の死・葬儀の時にまつわる様々な迷信・俗信とされるものを考えてみればいい。死を恐怖としておそれる感情が、「屏風や羽織を逆さにしたり」「守り刀を遺体の上に置いたり」「火葬場に行く道と帰る道順を変えたり」「喪主が裸足で葬儀をすることになっていたり」「棺が家を出る時に茶碗をわったり」等々数えん上げればきりがない。そしてそれぞれに、神道的な影響からのもの、仏教的影響からのものと、またそれ以外の儒教的影響からのものというように、特に宗教が人間の原初的感情を文化的にすくい取って、変容してきたわけである。私たちの目の前にあるものは、いかにアニミズム的に見えようともその積み重ねの結果である。したがって、原初的アニミズム的心情が、宗教的心情としてすくい取られ、それをさらに、民衆支配のイデオロギーとしての権力者・国家がすくいとるという、いわば「穢れの三重構造」になっているわけである。

 ◇おわりに
沖浦和光さんと宮田登さんの対談という形で昨年十二月に出された『ケガレ−差別思想の深層』は「穢れ」について「アニミズムのレベル」を「神話的世界に見られるケガレ」として、「支配秩序を保つためのイデオロギー」を「文化人類学的アプローチ」として「安定している秩序を撹乱するかもしれない新しい要素や、バランスのとれたシステムの中に入ってきた異分子を、危険な要素として、それをケガレとみなして排除していく」こととあらわしている。そして、神道などのような宗教として形づくられたものを沖浦さんは、「ケガレを不浄としてみて(清湿)を維持するためにそれを隔離し排除していく思想」としてまとめている。ほぼ、私が以上述べてきた「臓れの三重構造」と同じものである。
「死をどう受け止めるか」ということにおける国家管理、それを打ち返し、「死を受け止める心」を自己に取り戻すには、死について現在までの積み上げられてきたイデオロギー操作の事実を問い返していかなくてはならないし、マスコミをつかった現在ただいまの用意周到な情報操作も見抜いていかなければならない。
  『納棺夫日記』という本を書いた青木新門という作家の本がベストセラーになり単行本になっている。昨年のインタビューの中で、「十年程前は『死』という字が書店に並ぶだけでもう敬遠されていた。もう少し前なら全く売れなかったでしょうね」と語っている。今では「死」に纏わる本が氾濫している、ブームの裏に何があるか、誰がブームをどのように誘導しているか、国家の側から「死生観」などが御用学者を使ってバンバンうちだされている。国家の搦め手は私たちの考え方の中にしっかりしのびこんで、脳死法制化の次の投階をも虎視眈々とねらっている。

(おだけしょうきょう)
※参考文献
・「『忌』を問い直す」(広島部落解放研究所、研究紀要1号  小武正敦)
・「ケガレ」沖浦和光・宮田登対談(解放出版社)
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