「部落解放ひろしま・1999年10月
日本文化の因習を考える(2)
「六曜」を問う射程
広島部落解放研究所・宗教部会事務局長
小武正教
◇はじめに

  「江戸時代の本願寺教団の過ちをもう一度繰り返してはならない」、現在の部落解放運動の動向を知るにつけ、教団に身を置く者として痛切にこのことを思わないわけにはいかない。「観念(ケガレ観・家意識)こそが部落差別の本質」という主張が解放同盟中央本部の考え方として提起されるにおよんで、ついに日本の最後の砦であった部落解放運動の危機を思う。

  しかし、だからこそかつて本願寺教団などの宗教界が、特に江戸幕藩体制以来、国家権力の支配の手先となる中で、ケガレ観をどう位置づけてきたのか、今こそその痛恨の歴史をふりかえる時であろう。
  それを顕者にしめすものが、江戸時代中期の儒学者・太宰春台の『聖学問答』に示した真宗門徒の姿である。
  「一向宗(浄土真宗)の門徒は、弥陀一仏を信ずること専らにして他の仏神を信ぜず、いかなることありても祈祷などすることなく、病苦ありても呪術・お守りをもちいず。みなこれ親鸞氏の力なり」
  いわゆる「門徒もの知らず」「門徒もの忌みせず」の生活が江戸幕藩体制下においてなりたっていたことを示す文章である。これは日常生活が「六曜」などの迷信にまるでとらわれない生活がなされていたということでもある。
「門徒もの知らず」とは今でこそ失われているが、戦前ぐらいまでは真宗地帯といわれる地域では受け継がれてきた習慣でもあった。
  しかしながら、「門徒もの知らず」という生活において「士農工商エタ非人」という封建身分制度は破られていたのか、相対化されていたのかを問うてみると、その生活の内実があきらかとなる。「門徒もの知らず」ということは社会体制とは無関係な生活レベルの範囲内のことであり、封建身分制度は真宗門徒においてもがっちりと守られていたのである。
  一八四二(天保十三)年に表された『妙好人伝』(誓鎧編)には、真宗門徒の生活として「物忌之事」という項目をあげている。
  「物忌のことは當流に嫌い捨ててかつて沙汰なし、しかるに在家の者その道理を知る人も少なし。よって今その惑ふ人を導かん為に聊か記しはんべりぬ」と、物忌みしない道理を説いてその趣旨の徹底をはかっていることが知られる。
  そしてその同じ『妙好人伝』には「国恩」という項目も見える。
「其仏法王法は一双の法なりよって上代と云い、今時と云い、国を治むる名君賢主は皆佛法を崇め給う故に諸宗の寺院何れも仏道を行ずる僧徒忝けなくも天下安穏の起請を致し奉る。これ全く佛法護持の洪恩の謝せんが為なり。ひそかにおもんみれば、洪恩一ならず。
今五種をあげて其相を示す。

一つには治世安穏の恩。
二つには善悪賞罰の恩。
三つには邪法退治の恩。
四つには仏法外護の恩。
五つには生涯撫育の恩」。
  ここには、「天下安穏の起請を致し」「治世安穏の恩」として、みごとなまでに、社会体制を擁護することを説く本願寺教団の姿がある。みごとな「真俗二諦」といわざるを得ない生活がとかれている。「物忌しない」という「真諦」と、「治世安穏」という封建身分制度の遵守という「俗諦」である。
  江戸幕藩体制の側から云えば、幕藩体制に背かざる範囲において、真宗門徒の社会生活、「門徒物忌みせず」を許容したともいえようが、本願寺教団においては、真諦を幕藩体制の枠の中に限定し、積極的に幕藩体制を維持する役割を果たして権力者に認められようとしていったともいえる。
  近年、全国的に部落解放の学習会の場で、「六曜」を取り上げていく傾向が顕著に増えているように思う。なぜか。
  一つには、従来行われてきた、差別の実態とそこからの訴えが受け入れられにくい社会情勢や社会意識になったので、受け入れられやすい課題として六曜がとりあげられた。
  二つには、行政の側も、環境改善につながるような内容よりも、意識啓発の、その中でも、当たりさわりのないものを選択するとして六曜となった。
  そんなところではなかろうかと推測するが、国民の側も行政の側も明らかに後退した姿だといえるだろう。

(六曜の流布)
  「『六曜』が最も流布しているのはいつの時代だと思いますか?」と問いかけると、たいていの人は江戸時代か近代でも明治から敗戦に至る時だろうと思われていることがわかる。どこまで深く、「友引」「大安」に本人がこだわって、いるかということを別にして、行動が結果的に六曜に左右されているということでいえば、「現在」の比率が極めて高いということは言えるだろう。僧侶となり葬儀にかかわるようになって二十数年、「院号廃止」や「色衣を着用しない」など葬儀にかかわるいろいろな変革をしてきたが、今も徹底するのに最も力が必要なのは「友引」の問題である。一見、「友引に葬儀をしたら、親しい者が早く亡くなる」などというものは本気で誰も信じるわけはないと思われるが、根っこはそこにあるのではなく、「理屈はどうあれ、みんなの言うことに、昔から言うことに逆らえない」
という心理的抑圧にこそ元凶がある。「人が悪いということはしない方がいい」という集団主義への埋没こそが「友引」の正体である。
  特に葬式という、地域社会と親戚、場合によっては会社もひっくるめた共同体の寄せ集めの中で、「無難な選択」をするとき、よほど啓発が徹底しているか、「門徒もの知らず」の伝統が残っているか、遺族の中の誰かが強い意志を示さない限り結論は概ね見えている。

(六曜とは)
  「現代暦読み解き辞典』には「六曜」についてこう記してある。
  「(六曜)は中国で発生したものには違いなく、日本へは十四世紀頃、鎌倉末期から室町時代にかけて伝わったと考えられる。中国では六壬時課とか小六壬と呼ばれ時刻の吉凶占いに用いられていた。これらを記した『事林広記』や『万宝全書』は、江戸時代に和刻出版されており、中国式の時刻占いとして六壬は天保年間一一八三〇-四四)までおこなわれていたようである。その一方で貞亨年間(一六八四-八八)頃から、日本式の日の占いへの変化も見せ始めており、名称・順序・解釈も日本独自のものへと進展していった。(中略)亨和から文化(十九世紀初頭)にかけて今の形(先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口)に落ち着いたと考えられる。」
  つまり、中国から伝来したものは、先勝は午前中が吉・牛後は凶、先負は午前中が凶・午後が吉というような時刻の占いである。それが日本式の占いに変化していった、それも伝来当初の六曜の読みが変化しながら伝承されている。「友引」の元々は「留連(りゅうれん)」、そしてそれが「流連(りゅうれん)」となり、そして「友引(ゆういん)」となる。音読みの伝承の中での変化と思われる。
  また、六曜の陰暦の一月・七月は先勝で始まる。
二月・八月は友引ではじまると決まっている。したがって太陽暦に直すと、途中で飛んで不思議にみえるが、理屈を知ってみれば何ということはないわけである。

(六曜へのとらわれと部落問題への意識調査)
  色々な所で、六曜へのとらわれと部落問題への意識調査が行われている。結論から言えば、結婚において、本人の意見より回りの意見を重視すると答えた人ほど、六曜などの迷信にとらわれたりするという傾向は明らかである。
  福山市の調査においても、下記の数字で明かである。
  ちょうど誓えてみれば、部落差別の問題を山の頂上とすると、「六曜」の問題は山のすそ野とでもいえるだろう。問題の重さがまるで違うために手のひらを返したように裏表ということにはならない。その地域の部落差別への啓発の状況もあるだろう。
  しかし、部落問題も六曜の問題も自己の主体性を問われるということにおいては、山の頂上とすそ野の違いはあっても、通じる面があるということも事実であろう。「みんながいう」1という集団主義をどう克服していくかという点において。
 
結婚に関する意識
「迷信」について
身元調査について
気にする 気にしない 当然だ なくすべき
本人同士の合意があればよいと答えた人 27.5% 56.9 22.2 54.4
まわりの人の意見を重視すると答えた人 62.8 20.0 67.8 9.4

(時間を自らの手に取り戻す営みを)
  「六曜」の問題がただ「六曜」だけのところにとどまっていたのでは、主体的力量を高めることにも、部落差別への視点を持つことにもならない。「六曜」を課題にしながら、どこまでの射程を持てるかということが、「六曜」を課題にするときの鍵となる。
  結論から言えば、どこまで、自らが生きている時間を自ら拠り所とする価値観のところに取り戻していくかということになろうかと思う。
  元来、暦を作るというのは、支配者が時間を支配するということの一つと考えられてきた。それをどこまで自らのところに取り戻すか。
  例えば今年を平成十一年と言うか、一九九九年と言うか、そのこと一つで、-その人の考え方の一端は知られる。
  言うまでもなく、平成は天皇の即位に由来するものだし、西暦はキリストの誕生からの年月日である。西暦は世界的にもっとも多く使われている国際暦として元号を相対化する意味で私も使うが、あくまで元号に対してのもので、それ以上の意味があるわけではない。
  今、世紀末という風に言って騒いでいる者がいるが、西暦でいう世紀末であって他の暦では何も関係ない。
  例えば私が仏教徒としてこだわっている「仏暦」、今二五四三年だが、これはお釈迦さまが誕生してからの計算である。したがって正月も五月の第一満月の日ということになる。またイスラム暦でいうと今年は1337年、マホメットの誕生からかぞえたもの。また最近の自由主義史観の中から、皇紀などというアナクロニズムな暦が持ち出されてきたが、何でも今年は二六三九年。これは神武天皇の即位から数えるそうで、計算すると紀元前六六〇年になり、日本はまだ縄文時代、荒唐無稽な話でもある。
  ともかく、自分が何の暦をもって自分の一生を区切るのかそのことが問われているわけである。私の先輩に世界人権宣言何年といって年賀状を送ってくれる人がいるがこれも大切なこだわりの一つであろう。
  また一年間の暦についても同様である。一年にある祝日のうち、「一月一日一元旦、旧四方拝)、二月十一日(建国記念の日、旧紀元節)、三月二十一日(春分の日、旧春季皇霊祭)、四月二十九日(緑の日、昭和天皇誕生日)、七月二十日(海の日、明治天皇が横浜港に帰港した日)、九月二十三日(秋分の日、旧秋季皇霊祭)、十一月三日(文化の日、旧明治節)、十一月二十三日(勤労感謝の日、旧新嘗祭)、十二月二十三日(現天皇誕生日)」と十四のうち九つまでが天皇制につながるものである。
  国民の祝日は、「一月十五日(成人の日)、五月三日(憲法記念日)、五月五日(子どもの日)、九月十五日(敬老の日)、十月十日(体育の日)」と、わずか五つにすぎない。
  例えば真宗門徒の正月は、「報恩講」(宗祖親鸞聖人の年に一度の法事)だと言われてきた。そこで一年を区切ってきたのである。
  春秋の彼岸、お釈迦さまの誕生を祝う花祭り、そしてお盆など、一年の区切りを自らの価値観で生活の中に位置づけ、共有していけるか、そこにかかっている。

(元号、日の丸・君が代)
  「元号」と「日の丸」と「君が代」は天皇制を象徴する三点セットといっていいだろう。今、その強制をどう打ち破っていくか、内的根拠を確立し、そして運動としての広がりをもっていくところまで、「六曜」の問題が昇華されたとき、取り組んでいく意義が大きく開かれてくる。
  元号が「昭和」から「平成」にかわって新しい時代と言われても、問題は何も解決していないし、逆に同じ「昭和」と言われても敗戦前と敗戦後では、いうまでもなく日本の国家体制は全く違うのである。それを天皇史観=元号でごまかす虚偽を打ち破っていかねばならな。

  (おだけしょうきょう)

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