「呪われた宗門の子」からの解放
小武正教
目次
◇はじめに−「呪われた宗門の子」
◇私の中の先祖の「業」
§西善寺という寺
§祖父・祖母の「業」
§父母の「業」
§私の引き継いだ「業」
§私の夢、長男大地の夢
◇解放運動・同朋運動との出会い
§私の原体験−忘れられない眼差し
§過去帳差別記載・糾弾学習会に学んで
§15年目の再出発
§もう一体の阿弥陀さまとの出会い
◇おわりに
◇はじめに−「呪われた宗門の子」
「呪われた宗門の子」、私がこの言葉を初めて聞いたのは、大学の一年生、18歳の時であったと思います。山陰の本願寺派の寺に生まれ、寺を捨てて歴史学者の道を歩んだ服部之聡の言葉です。彼は、「寺の中にも教団の中にも親鸞はいない」と若き日に寺を捨てたのでした。そして、服部六十四才、服部の父の十三回会に、父親への報告として書き上げられたのか、『親鸞ノート』でありました。服部が自分の捨てた親鸞に再びめぐりあうのに約50年の歳月をついやしています。そこには本願寺の伽藍という重い歴史を、親鸞からの血統という厚いベールを剥ぎとった、服部之聡の親鸞がそこにしるされていました。私は歴史家・服部之聡をよく知るものでは全くありません。ただ、彼の遺した「呪われた宗門の子」という一言に捉えられ、50年かけて自らの親鸞に出会った歩みに、深い憧憬の思いを今も抱くのです。
 
◇私にいたる祖父からの「業」

§西善寺という寺
 
浄土真宗本願寺派西善寺、現代も生きる教団のピラミッド構造の底辺に底辺に位置ずけられた寺であります。今も日常生活では表向き影をひそめていますが、結婚や親戚ずきあい、葬儀や住職披露などの儀式など随所に顔を出してきます。江戸時代がそのまま生きている、一皮めくればまさにそうです。
西善寺の下寺はありません。その師匠寺はOO坊。OO坊の上寺が□□寺。□□寺の上寺が▽▽寺、▽▽寺の上寺がさらに◎◎坊、◎◎坊に上寺が☆☆寺、そして☆☆寺の上がやっと本願寺ということなのです。
私の父は師匠寺との間盾でずいぶんと不合理な目にあっていたようです。報恩講にお互い布教に行って、お礼はなしと約束したのに、父は行って布教をしても相手方はこず、別の布教使をお願いしなければいけなかつたというのはまだ序の口で、本山に納めるお金を出したにもかかわらず、選挙権がないので確かめると、上寺が納めたことになっていたりということもあったようで、日常的な嫌みはたくさんあったようです。私の父の葬儀には、その師匠寺の住職が導となって葬儀がとりおこなわれました。父の思いはいかばかりであったかと後で後悔をしました。私はその過ちを繰り返すまい、そう心にきめた私は、5年後の住職披露に、慣例なら師匠寺の住職が導師をするところ、自分で導師をしました。
これが、お寺の中のことを変えていく私の一歩になりました。お寺の社会では今も江戸時代がそのまま残っている、そんな思いが致します。いわゆる由緒のある格の高いと自負するお寺では、一番吟味するのは親戚ずきあでしょう。子どもが誰と遊ぶか、そんなことまで寺の格で決められれば、子どもの人格が歪むのは当然です。
三次の一番末端に位置する西善寺でさえ、さまざまなプレッシャーがかかるのに、格などが高い寺ではどんなだろうか。格の頂点にある門主には同情の思いがないわけではありません。
 
§祖父・祖母の「業」
 
私がこの世に生を受けたのは、1957年11月24日です。父は広島県三次市東河内町にある浄土真宗本願寺派の末寺・西善寺の第15代住職、母は小学校の教員でした。西善寺は歴史こそ350年をこすお寺ではありますが、門徒さんの数は少なく、お寺だけで生活できる寺院ではありません。父は※布教師といって、他のお寺で親鸞聖人の教えを説いて回る仕事をもち、なおかつ母は小学校に勤めることでやっと生活できるという状況でした。もちろんそんな家の中のことがわかってきたのは、中学校ぐらいになってからのことです。西善寺は第15代の住職と坊守(住職の妻のこと)、つまり私から云えば祖父と祖母にあたりますが、取り婿・取り嫁で、その前の代からは血がつながっていません。祖父が西善寺に養子に入ったのが1920年(大正9年)、本来なら西善寺の15代を次ぐべき長男家族が、西善寺を捨てて、当時日本が侵略し領土としていた朝鮮半島に行ってしまったのです。その当時のことを話してくれる人はないので推測でしかありませんが、「こんな貧乏寺やっておられるか」と一旗あげに朝鮮に出かけていったということなのか、それとも教団・寺院のあり方に見切りをつけたのか、たぶんその両方ではないかと私は思っています。出てしまうとき、※あ寺のすぐ前のお鉢田(阿弥陀さまのにお仏飯といって毎日ご飯を阿弥陀さまに供えるのための田圃)も山も、お寺の中の売れそうなものは一切合切売ってしまい、祖母が20才で嫁いだときにも、まだ阿弥陀さまとお勤めの時の鐘しかなかったと、よく祖母がかたっていました。
祖父は作木の大山のお百姓さんのうちから来ています。離縁となって帰ってきていた祖父の母が再婚するため、祖父を小武家に養子に出したようです。祖父は聖徳太子の四幅の絵伝とともに西善寺にきたのでした。聖徳太子にどんな思いを祖父の母が込めたのだろうかと、年に一度7月の御法座に四幅の軸を本堂に掛けながら思います。聖徳太子も親鸞聖人も、そして第8代の蓮如さんも実の母とは大変疎遠です。間違いなくそのことを知っていたであろう祖父の母の人となり、そして四幅の御絵伝に込められた思いを想像してみるのです。
どんな祖父であったのだろうと今も思います。「おじいちゃんのようになりなさい」、それは私の母の口癖でもありました。祖母も祖父を大変尊敬していたようで、りっぱな住職といえば、文句なしに祖父をあげるという風でした。また80才になっても、90才になっても祖父が一番好きだと素直にいっておりました。祖父にはいろんな才能があったようです。学校は今も広島別院にあります広島学寮といういわば教団の塾のような所しか出ていませんが、大変優秀だったのだろうと思います。祖母が「三次のお寺さんで三羽鴉といわれていた」と、誇らしそうに語っていました。ご門徒さんの記憶の中にも強く残っており、「お寺で芝居をしましたよのお〜」「剣道が強かったですけえ」「報恩講には家にとまって紙芝居やら幻灯やらしてもらいよりましたよ」「日曜学校に行っては、ようしからりょうりました」と亡くなって40年が過ぎても、なつかしそうに語る人は沢山あるのです。
とりわけ戦前・戦後を住職として生きた祖父は、戦前には「模範的な住職」とも思われていたようです。私が直接知ることが出来たのは、祖父の遺した法話ノートです。そこには村の若者が戦死したときに語った法話がつづられています。そこには「お国のための御奉公」という言葉が繰り返されています。ただしけっして上から押しつけるというタイプではなかっただろうと思います。言葉は丁寧に、情に訴えかけるように話していたことが遺した文章からは想像されるのです。
しかし祖父がどこまで本気でそう思っていたのだろうかと私は考えいます。将来住職となるべく9才で西善寺に一人養子にきた祖父に、模範的住職になる道しか、生きる道はなかったに違いありません。しかし、その心の底にはどうだったのか。それを知る手がかりとなる文章を最近みつけました。結核を再発して、御門徒の前に出れなくなった祖父は『れい真』という寺報を発行しはじめています。1952年7月号、に創刊にあたっての思いを次のように書いています。
「“自分一人がたかあがりして人々を見下す高慢の毒気を世間へ吐き散らしてしかめ顔をされるのが落だ、やめとけ”という心の声聞こえる。“善いと思ったことにちゅうちょすることがあるか、ちゅうちょするということは善いこと、信じていないからだ、大いにやれ”という心の叫びも聞こえる。“人の世話どころか自己の問題がようやくではないか、自己を見よ”との別な声もする。胸三寸に余る心の闘いが続けられた。
結局、私は一個の求道者であると同時に伝道の責任を与えられている住職である。道を求めるとともに、たとえ百人が百人に顔をそむけられても、『親鸞聖人はこうおすすめ下さる』ことを「おとりつぎ」させていただくことに吝かであってはならない。世の中は縁次第だ。千人に一人の共鳴者があっても本望だと、落ち着かん心を落ちつけて発刊した。
祖父の心の底に息づいていたもの、死を前にし病床に伏せる中だからこそ、逆に言い得たことかもしれないと思うのです。
また、20才で農家から嫁いだ祖母にとっても、たしかに姑が血のつながりのある叔母ではありましたが、坊守の役目は大変だったに違いありません。姑だけでなく、周りの御門徒の顔色を窺いながら、立派な坊守を演じるしか祖母の生きる道はなかったのだと思います。「どこそこの誰々はよくこういうちゃった」ということを、まだ元気なときにポツリ・ポツリと話していました。御門徒の大姑・小姑に囲まれなから、立派に振る舞う坊守としての役割、その祖母の心の底に持つ畏れ、自分自身の力のなさへのコンプレックスであり、それが御門徒に見透かされることでりました。そして究極の所は、御門徒の機嫌を損ねると自分たち家族が西善寺におれなくなるということであったと思います。そしてそれは模範的な住職であった祖父の心の底の思いでもなかったかとも考えてみるのです。
今の西善寺はその祖父から始まったと私は今も思っています。もちろん寺はずっと以前から続いているわけですが、その意味で正確に言えば、西善寺を今の私に繋がる小武の者が住職をするようになったのは、祖父からであり、私で三代目だというこだわりを私の中に持ちつづけています。それは、いつの間にか身につけた思いであり、祖父・祖母そして父・母と知らず知らずに受け継いできたものなんだと思います。
 
§父・母の業
 
その祖父の長男として父は生まれました、1929年のことです。時代は坂道を転げおちていくように日中戦争へそして太平洋戦争へと突入していきます。父は祖父が1944年春に赤紙が来て兵隊に取られたため、父には長男として寺を護る重荷がズシッとかかったに違いありません。そして翌1945年の春、祖父が結核にかかって寺に送り返されてくると、父の役割は決定的に重かったと思います。龍谷大学の専門部、今でいう短期大学を出たころは祖父は結核を再発し寝付いてしまい、住職としてのお参りも御法話もできなくなっています。その分余計に祖父は父に期待をかけていたに違いありません。しかし父の性格も力も祖父と同じでものではありませんでした。
私の母が嫁ぐまで、いや嫁いでからも一家の中心は祖母でした。「孝正(私の父)は私に一度も反抗したことがなかった」と祖母は何度か私に言ったことがあります。元々気の小さいという性格もあったでしょう。「論文を書く夢をみた」と私に何度か話してくれたことがありますが、本格的に真宗を学んでいないという負い目もあったでしょう。戦後の貧しい中で、寝たきりの祖父を看病しながら寺を支える祖母を助けねばならないという使命感は大変大きかったことでしょう。20才そこそこで実質住職をしなくてはならないというプレッシャーもあったでしょう。こうしたことがすべて覆い被さってくる中で、父の選択の余地もほとんどなかったに違いありません。母はよく父のことを、「人から文句を言われても、言い返せない性格」といっていましたが、子どもから見てもまさにそうだったと思います。私が父の後を継いで、ご門徒の仏壇に私がお参りするようになった時、お守りやらお札やら、位牌やらが仏壇の中に置かれっぱなしになっていたことからも想像できます。私がお守り等のことをご門徒さんにお話しすると、「前の院家さんはそんなことはいうちゃあなかった」とよく言われたものです。今になってみると父が地元の同年代の僧侶有志の活動の会・白告会に参加しなかった理由もわかるような気がします。多くのものを背負った父には、バリバリと新しいアイデアで取り組む同年輩の僧侶仲間にはいっていくことは、きっと苦しかったのだと思います。
しかしそうした父に結核で寝たきりの祖父は何とか生きていく術を伝えようと思ったのでしょう。父は祖父の枕元で祖父の書いた法話を演じる練習をしたそうです。1955年、祖父が亡くなるとき、「まあこのぐらいやればいいだろうろ」と祖父が父にいったということを、祖母が教えてくれました。以来、父は46才で交通事故で急死するまで、一方で住職をしながら、もう一方では、声のかかったお寺で布教をするという布教使として生きたわけです。私は父の布教を一度だけ聞いた記憶があります。西善寺の本堂に立って、演題の前に出て語りかけている父の姿です。「あなただけに内緒でおしえてあげる」というので注意を引きつけるのが、父の癖でした。父が布教に行きずまって話しが出来なくなったのは43才の時でした、私が高校二年生の時でした。何日間か続けて『正信※偈げ』を講義してほしいといわれ、それが自分には出来ないという思いと、若い布教しはじめたばかりの僧侶から、「布教が古い」といわれたことがきっかけとなったようです。しかし、それは言わば縁であって、本当の原因は、父が胸に抱きつづけていたコンプレツクスだったのだと思います。
そんな父に母の抱く思いは複雑だったと思います。ただ経済の問題というよりも、お寺の司令塔は祖母の手に握られているがゆえに、自分の生きる場所を学校の教員という場に見いだしたのだと思います。今のような労働条件のない中、仕事を家にもって帰り、自分の部屋とてあるわけもなく、台所で答案をつけていた母の姿が目に焼き付いています。当時は、「どうしてお寺に嫁いだのだろう」という思いも母の中にあっただろうと思います。「学校の相談一つ出来なかった」と父がなくなってから愚痴を聞いたことが何度かあります。母の実父は仲々のハイカラで、時代を先どりする感性もあり、母の実父への思いは大変強いと私は感じていました。「おじいちゃんのようになりなさい」母のその言葉には、直接は西善寺の15代の住職・憲正をさしていましたが、意識の底には実の父親への思いが投影されていたのだと思います。なぜなら、母が結婚したのは憲正が死んでから後なのですから。当時はそんな言葉はありませんが、今流に言えばファザーコンプレックスというのでしょう。
 
§私の引き継いだ「業」
 
私はその父と母のもとに長男として1957年に生まれました。そして寺の跡取りとして、周りからも「ぼっちゃん、ぼっちゃん」と言われてかわいがられました。ところが「ぼっちゃん」といわれるのが私は大変きらいでした。私は「ぼっちゃん」と呼ばれると、「ぼかあぼっちゃんじゃあないよ」と言い返していたようです。私の記憶の中にはないのですが、私に「ぼっちゃん」と呼んだおばあさんに対して箒をもって「ばあさん、痛いか、痛いか」と言って叩いたとか、たぶん5才か6才くらいのことだと思います。ご門徒のおばあさんが私が住職になってから教えて下さいました。
実は私は父や母から、ああしろ・こうしろと言われた記憶はほとんどありません。親のメッセージは言われなくても身で感じとる、口で言われなくても、親の希望を先取りし、親の期待に添ってゆく、とりわけ私はそういう子どもでした。その中で私は、親の口で語るメッセージや体の雰囲気、仕草で伝えることだけではなく、もっと親が秘めているコンプレックスも、愚痴も、恨み、そして親自身の意識にも登っていないもものまでも私の中に蓄積していきました。仏教ではそれを「業」といいます。御門徒さんからも、無言のうちに、「ええ院家さんになってくださいよ」というメッセージを受け続けるわけです。それだけでなく、寺に生まれただけで偉そうに、特別扱いされてという逆のメッセージも当然あります。その中でも「ぼっちゃん、ええ院家さんになってもらって、わしをええ所に送ってもらわにゃあいけませんけえのお」と私に直接語られたおじいさんの言葉は忘れることができません。まだその方はご健在でありますが。
「親に気に入られるいいこ」ということから、一歩「自分とは何か」と考えだすのが、小学校高学年から中学生ぐらいでしょう。私も親を斜めにみることを憶え、お寺の長男ということの窮屈さをはっきり意識しました。私の親は、「寺の長男だから魚つりをしてはいけない」というようなことはいいませんでした。いつも釣り竿や魚を捕る網を抱えて走りまわつており、川や堤が私の遊び場でした。しかし、「勉強が出来る優等生でありなさい」、これは私が親や門徒さんから発せられた無言のメッセージでした。寺の長男ということに対する、まず第一段階の要求です。
小学校高学年から中学生になって、親からの自立が反抗というような形がはじまるのですが、私の場合は、ストレートに親に反抗しメッセージを返すというものではなく、斜めに親を見て親との衝突をかわすというものでした。「親の願いは叶えるから文句はないでしょ」という思いを胸に、「いい子」を演ずるというような子どもでした。ただし両親も私にすぐに僧侶となって寺をやってほしいという思いはサラサラなかったようです。父がいれば十分で、食べていくことができません。私も寺からの自立という思いもあり、別の道をと考えても、すぐ思いあたるものとてないまま、とりあえずは進学体制の波に乗っかるということで受験勉強に突入しました。中学生になって、少し世の中が見えてきたころです。本気で行くということでなく、中学校の総決算という気持ちで試験をうけたら、まぐれのような形で広島の受験校である某高校に進学しました。父の期待、母の思い、それぞれが自分の人生の中で抱えてきた思いを込めた眼差しに送られて広島に行きました。
しかし、自分の能力においてしか、とった得点においてしか認められないということの厳しさ辛さを、高校三年間でとことん知らされました。私の高校入学は1973年、時代はちょうど70年安保の後で、まだいくらかの余派が残っていました。下駄をはいていっても、ちゃんちゃんこを着ていってもかまわないという自由な雰囲気でしたが、学校へ来の存在目的は、有名大学への進学で、模擬試験の結果が1番から350番までつくというものでした。「やっぱりできるやつはいるもんだなあ〜」と感じました。少々の頑張りでは、とてもじゃないがいい番数にはなりません。まして1年間は二人部屋の寮におりましたので、どれだけ自分が勉強に時間を費やしているか外の者にわかります。決して私は、効率よく物事が進む方ではありませんので、人より多くの時間を費やしてやっと何とかというのが本当の所です。しかし寮ですのでそうは行きません。完全に勉強の調子も崩し、月に一度三次に帰省し、山の上にあった寮に帰る坂道を上がる時の心がどんなに重たかったか、今でも忘れることができません。両親の期待と焦る気持ちの中で、2年生からは祖母の弟の市内の家に下宿することになりました。
しかし、事態は改善しませんでした。3年生になると、仮病で学校を休むこともあり、そのことがまた焦りに拍車を掛けるという悪循環で三年間は終わりました。点数でしか人を評価しない中で生きることの苦しさをトコトン味わいました。私は面と向かって人と話しをすることが出来ない人間になっていました。
 
大学は西本願寺の宗門立の龍谷大学に入学しました。明確なものではありませんが、どこかで立身出世でない人生を捜す方向転換が自分の心の底にあったように思います。そして頑なに閉ざされた私の心を揉みほぐしてくれたのが、「伝道部」というクラブでした。9割が寺院後継者でしたが、若い自分が仏教の教えを法話として語り、口角泡を飛ばして議論する、いわば青春という言葉そのままの時代を4年間送りました。現在の私の活動の半分はここから始まったといえます。2回生の時だったと思います。「小武は人の眼を見て話しをせんなあ〜」と某先輩からズバリ言われた言葉から、初めて人の眼を見て話しをするようになったということがありました。外にも大学時代には靖国問題とへの取り組みと同朋運動(本願寺における解放運動)への縁をつけてもらったことが、今日の私の進む方向を決めたように思います。失っていた、人間としての感情の回復といってもオーバーでない、そんな出発点でもあります。
「信心とは人を得ることである」とは大学時代、最初に心に響いた言葉ですが、「師」を得、共に歩む友を得るということが、宗教的に言えば最大の御利益です。「靖国問題なんかに首を突っ込むと、結婚なんか出来なくなるぞ」と親切な先輩住職がアドバイスをくれました。「布教をして食べていこうと思えば程々にしとけえや」と忠告してくれる先輩布教使もありました。
私は靖国問題を取り組むことで得た最大の御利益は、何といっても妻と結婚出来たことだと思っています。女性との付き合いの下手な私に、「ぜひに」といって仲を取り持って下さったのは、靖国問題の取り組みで知り合い、共に1985年に「備後・靖国問題を考える念仏者」を立ち上げた一人の御門徒さんでした。今の妻が私を選んでくれたのも、私の仏法へのこだわりの姿勢であったのだと、これは私が勝手に思っています。
自分の心奥深くにある、何ごとかを求め続ける声に正直に歩めば、出会いが生まれ、多くの学びを得ることができる。「人は求め続け、歩みつづける限り、会いたい人には必ず出会うものだ」というのが今の正直な思いでもあります。
 
§私の夢、長男大地の夢
 
しかし大学でそれまでの頑なさが解きほぐされたぐらいで、私が祖父や祖母、父や母から、そして寺に生きる中で受け継いだ「業」は簡単には無くなるはずのものではありません。私の思いとは別に、お寺という存在は御門徒との中で、地域社会との関係の中で連続しているわけですから。また自分の身においても、「お寺のぼっちゃん」で身に染みついたものは、それこそ底しれないものがあるとしらされるということのはじまりだったというのが本当の所でありました。
もう5年も前になりますが、毎朝の本堂のお勤めの後、当時一年生になった長男・大地と掃除をしていました。その時大地が話してくれた昨晩見た夢のことです。
ぽかぽとあたたかい春のある日、ぼく(大地)が保育所の広場で遊んでいると、山のような大男がのっしのっしと現れた。その大男は僕を捜し回っていた。僕は建物の陰に隠れたけど見つかってしまった。大男が僕を捕まえようとした時、母さんがやってきて、大男にナンマンダブツ光線を発射した。ナンマンダブツ光線を浴びた大男はみるみる小さくなって、ついには蟻んこになってしまったよ。母さんはエイッとその蟻んこを踏みつけたけど、蟻んこは今度はモグラになって土の中を逃げていく。逃げるモグラを追いかけてモグラが顔を出した時、母さんがモグラの鼻を捻つたんだ。するとモグラは次に蛇になって逃げていった。僕と母さんは追いかけた。そしてナイフで蛇をトントントンと輪切りにしたよ。
この大地の夢は今まで何度か文字にもしてきましたし、話しの題材にもしてきました。しかし、正直今までこの大男は父親である私自身だと思ったことはありませんでした。
寺の長男に生まれたがゆえに、自分の上に覆い被さる重荷が、息子の上にも同じようにのしかかっていると考えていたのです。のかかる中に、父親である私が抜けているのですから呑気な話しです。
その頃、大地に「大きくなったら何になる?」と聞いたことがあります。保育所の時は、「お父ちゃんみたいなお坊さんになる」といっていたのが、「消防士さんになる」「トラックの運転手さんになる」、となり、「僕は普通の人になる」という言葉を聞いて私はビックリしたことを憶えています。「普通の人ってどんな人」と聞くと、大地が「お勤めをしなくっていい人、お坊さんでない人」と答えた一言は忘れられません。7才ですから、はっきりと意識できているわけではないでしょうが、「お坊さんは何か普通でない」、それは子どもの本能が感じとったのだろうと思います。
実は私自身も小さい頃から、いろんなものに追いかけられる夢をよく見ていました。私がちょうど、大地ぐらいの年の頃、お寺の前の田圃で一人で遊んでいると、川の向こうの山陰から、山のような大きな怪獣が出てきました。まるで私を捜すようにデッカイ眼をギョロつかせながら、ズシンズシンとやってきます。私は怖くて怖くてたまりません。一生懸命に走って家に帰り、お寺の本堂の中からソオーと除きながら、早く通りすぎてくれと祈っていたのです。怪獣は私を見つけることが出来ずに通り過ぎていくのでした。
年を経るにつれ、怪獣は鬼に変わっていったということを除いては、繰り返し見る夢の内容が逃げることに変わりはありませんでした。
二十歳を過ぎても、同じ質の夢をみていました。
私が誰かを殺して田圃に埋めたところからいつも夢ははじまります。夢の中でも私は西善寺の住職で、いつものようにお参りをし、ご法話をしています。でも内心はビクビクで、みんなが私の秘密を嗅ぎつけはしないかと畏れおののいているのです。秘密がバレたらここにおれなくなるというもので、眼がさめても汗ビッショリというものでした。
妻と結婚してこうした夢はみなくなったと思っていると、数年前にこんな夢をみたのです。
デパートの地下に奥深く階段があるのです。地下の二階くらいには、便所とトイレがいつしよになつたような場所があり、汚水があふれています。さらに地下へ階段を下りていくと、顔を真っ黒に焼かれた黒いベールをクルクルまきにした女性が牢獄の中に閉じこめられており、私に向かって何かを叫んでいます。さらに地下から
死霊のような人間がゾロゾロと地上に這い出してくるのです。
田圃に殺して埋めたのが自分だということは、早くからわかつていました。そして、地下に閉じこめられ、顔を焼かれた女性が母であることも。そして、地下深くから出てきた人たち、それは今まで私が否定し押しつぶしてきた、祖父であり父、西善寺に繋がる人々であると今思っています。いままで私が否定してきた人をどう受け止め直していくのか、そろそろその時期にきたと夢が示しているのだろうと思います。私の思考する意識より、夢の方がはるかに深く自分の今おかれている状況を言い当て、進むべき方向を暗示しているものだと思います。
私は斜めに構えるだけで、明確な反抗期がなかった分、二十歳を過ぎてから、自分を形成してきたものへの問い返しがはじまりました。問い返しといえば聞こえはいいですが、感覚的には反抗、否定です。それは、中学生などの時代に迎えた人の自立と質は同じでも、私の場合は、靖国問題や部落問題を手がかりとして、それに取り組んでいくこととまさに一つでありました。以来20年以上、未だにその途上にあります。遅くから始まったお寺や親からの自立は、それだけ時間がかかるようです。
 
◇解放運動・同朋運動との出会い
 
§私の原体験−忘れられない眼差し
 
私が部落差別ということを知ったのは中学校に入ってからのことでした。「あんたも同じか!」。三十一年前、私が中学校一年生の時、友だちから私に投げかけられた一言が今も胸にあります。一年生の一学期、四月の日曜日、初めて一緒になった同じクラスの友だちの家に小学校時代の同級生を誘って遊びにいきました。1969年のことです。彼の家は被差別部落の中にあり、当時は同対審答申は出されていたとはいえ、まだまだ地域の環境改善はなされていませんでした。私は小学校で歴史事実を踏まえた同和教育を受けておらず、なぜひどいな環境なんだろうと不信に思いながらも、当時はやりの野球ゲームに魚釣りにと一日遊んで家に帰ったのです。そしてその翌週事件は起こりました。一緒に行った友だちが、遊びにいった彼と同じ被差別部落の同級生に、けんかの中で、賤称語を投げつけたのです。それは差別発言として問題となり、学校や解放同盟の人を交えて取り組むことになりました。私は何が起こったのかわからず、身を小さく縮めて
嵐の過ぎるのをジット待とうとしました。それは、遊びにいった先の彼とも、一緒に行った友だちとも自然、距離を置きました。事件が起きてどれくらいたったでしょうか。遊びに行った彼を避ける私に、彼が言ったのが「あんたも同じか!」という一言でした。その時の彼の顔は今も私の眼に焼き付いています。
中学校を卒業し、私は広島の市内に出たため、彼とひさしぶりにあったのは三次市役所での選挙の投票に行ったときでした。彼は私に「今自分はOOの宗教に入っとる、お前も聞いてみいやあ」という言葉に、「まあ俺は僧侶だから、また今度」というような挨拶をして分かれた記憶があります。それから十年、私の上にも過去帳差別記載糾弾学習会が起こり、教区の一員としてそれに参加し、僧侶としての自分を問い返し、学ぶ機会がはじまりました。活動の大部分、それにかかりっきりといってもいい状態での生活が続きました。
そんなある時、久しぶりに偶然出会った彼が私にこういいました。「お前このごろ解放運動をしょうるんか、頑張ってくれえよ」と。突然の彼の言葉に私は驚き、「ああわかった」というのが精一杯でした。思えば彼がどんな思いでその一言をいったのか、今となっては尋ねようがありません。彼はすでに96年の春病気でなくなりました。亡くなる半年ほど前に何度か私に電話がかかってきましたが、まさか病気とは知らず、二十五年ぶりに家を訪ねたときには姿はありませんでした。仏間に通して下さったお父さんが、「息子は『(私の住んでいる)東河内には友だちがおるんじゃ』とよう言うておりました」と言われた言葉には胸が痛みました。彼が私に遺した、「あんたも同じか!」「頑張ってくれえよ!」という二つの言葉に、今も私は問われ、励まされています。
 
§過去帳差別記載・糾弾学習会、同朋三者懇話会に学んで
 
私は19才の時に父が交通事故で急死したため、好きも嫌いもなく、もう一寸考えてという余裕もなしで、その年から実質住職をすることとなりました。住職としての抱負やビジョンも後から考えるという本末転倒で、何より僧侶とはいったい何かということもさあ自分がこれから考えようかという先に住職になってしまったわけです。しかし、だから仏教とは何か、真宗とは何か、僧侶とは何か、住職とは何かを現実に迫られて考えざるを得なかったのも事実であります。それは、僧侶仲間だけで、世間の慣習で通用している仏教ということではなく、「いつでも、どこでも、だれにでも」真実として了解できるものを捜すことにもなってきました。
そんな中で、過去帳差別記載糾弾学習会との出会いがありました。1979年の全日本仏教界の会長であった曹洞宗の宗務総長町田宗夫氏の差別発言により全日本仏教界所属の既成仏教教団で、過去帳に差別法名・戒名、差別添え書きなどが書かれていないかということを調べる調査に取り組むこととなりました。私たち本願寺教団ても、1983年に本山による全国の寺院の過去帳の調査を行い、備後教区から4か寺、安芸教区から7か寺、別冊過去帳や差別記載の添え書きがあることが報告されました。そして、なぜ僧侶は仏教の教えを口にしながら、差別についての意識が稀薄なのかということが、自分の寺の過去帳に差別添え書きがあってもなぜ名乗りでれないのかという問題を軸にして、「業」などの教えの理解の仕方にまで踏み込んで、問題点の問い直しを備後教区・安芸教区・部落解放同盟広島県連で進めていきました。私は糾弾会がはじまったとき、「ここに道あり」という思いであったと思います。寺院と教団の状況に悶々としていた私に、問い返すことの出来るのはここかしかいという思いで、糾弾学習会に参加していきました。第六回からは総括書の作成に直接かかわることとなり、部落差別を基点にした私自身の本当の学びのスタートともなりました。まさに、千載一遇のチャンスに遭遇したのだと思っています。糾弾学習会での学びは、同朋三者懇話会へと展開し、今日もつづいています。その間、私はその学びをまとめていくような役割を今日まで続けてきまた。『業を担って』(備後教区基幹運動推進委員会発行)をはじめとして、西光万吉から小森龍邦さんに繋がる、業についてまとめた「解放の主体となる『業』理解」、糾弾と浄土真宗についてまとめた、「わたしはどこに立っているのか?−糾弾により問われた僧侶の『立場』」等々、一年に一本近く論文を書き続けてきました。
私は正直いって文章を書くのは苦手です。論文をいくつか書いていますので、文章があいつは書けると思われている人もあるようですが大いなる誤解です。私が文章が書けるのは、常に問題を問い返す真ん中に身を置いているから、書くべき事柄が次から次へと、いくらでも出てくる以外の何ものでもないのです。自分に書く力のないことは分かっていますので、どこに身を置いていけばいいのか、そこで自分の役割りは何をするのかといつも考えます。すると答えは自ず明らかに出てきます。小森龍邦さんに声を掛けてもらって、新社会党の教宣の手伝いをさせてもらうことも、求めてきたことからすれば、私の必然であったと思います。もちろん、そのためにクリアーしなければならない御門徒を抱える一ヵ寺の住職ということが一方にはあるわけですが。
 
§15年目の再出発

しかし、その問い方が如何に底の浅いものであるかということを知らされたのが、
1997年の第二回目の過去帳再調査でした。備後教区・安芸教区の差別添え書き寺院の寺院名の自己告発の問題や、教団内に差別事件が連続して起きたり、私はそのことへの備後教区としての対応にかかっていました。教区レベルでは一連の問題追求を行う先頭に立つ一人でした

私のお寺の過去帳に明治の初年からかなりの期間死因記載がされていることは確認していました。しかし、その中に賤称語があるかもしれないという意識をしっかりもって私の眼に過去帳が入っていなかつたのだと思います。「無いことを確かめるために過去帳をみる」のと、「どこかにあるはずた、あって当然のことだ」と過去帳を見るのとでは、目に入ってくる文字をは同じように読めていません。すでに意識の深い所で選択をしていたように思います。「差別添え書きはない」ということを。それは、自己の参加している同朋三者懇話会で学ぶことと、意識の底でのことが一致していなかったということでありました。いや「差別の事実から逃げたい」という意識が、私の意識の底にデンとよこたわっていることに向き合うまで、問いを深めるにはいたっていなかったということでもあります。
 
1997年の1月20日、教区の最終会議で、提出された一つ一つの差別添え書きの確認をする中で、私のお寺の過去帳のコピーの中に「新民」の記載があることの指摘を受けました。死因記載が明治6年から19年の途中までズッとつけてありますので、13年分の過去帳の移しを提出していたのです。そのはじめ、1986年(明治6)年に「明治六年八月二十七日当村OOOO娘OOO事」という名前の左箇所に略字で「新民」とついていることを教えられました。呆然としている私に、隣りの季平恵海さんが、「みつかってよかったじゃない」といわれたことばに救われて、教区の基幹運動推進委員会に提起しました。
それから一ヶ月は、次に記す夢の様な思いが私を襲いつづけました。二日後の1月22日の夜、恐ろしい夢をみたのです。
「高い山の崖の上から下を眺めていたら、突然上から岩が落ちてきて、私は懸命に岩をさけました。しかし、さらに避難した私の上にも岩が落ちてくる場面で、私と真澄さん(過去帳の添え書きを地元の支部に提出した住職)は、川の対岸に身が移っており、岩が落ちる向こう岸を見ていました。次々と落ちてくる岩は、金剛とゴンゴーという人間の十倍も二十倍もあるような二人の巨人と、黒い影の小さな人間との上に容赦なく襲いかかっています。まず金剛の上に落ちた巨大な岩が頭を打ち砕き、次にゴンゴーが岩で体を押しつぶされ、巨人は血わ流し、体を身もだえて倒れていったのでした。私はこちらの岸から、巨人の打ち付けられる姿をやりきれない思いで、オーイ、オーイと叫んでいました。
二人の巨人は、私が教区に関わり、同朋運動の中で身につけた姿であったと思います。学ぶという名の下に、肥大化していく虚栄心と驕慢心。自分で破ることのできないその心を、「新民」の一字によって木っ端微塵にうち砕かれました。「新民」の一字はその意味で私を問い詰める一字です。私にとっての、誤魔化すことのできないものを一ついただいたと思います。そしてすでに道を歩む人あり、その人の歩んだ後をお前も行けと夢は教えてくれていました。
「じゃけえよけい頑張らにゃあ」、三次市協へ「新民」記載の報告にいったとき、事務局長さんからそう声をかけられ、本当に新たなスタートをきることができました。今からすれば、よく間に合ったというのが正直な思いです。この時みつからなかったらと思うと逆にゾッとします。親鸞聖人が「遠く宿縁を慶べ」と『教行信証』のはじめにかかれていることを思います。ただし、「宿縁」を「慶ぶものと出来るかどうか」、今後の私の歩みにかかっていることはいうまでもありません、が、新たな原点だけははっきりしたわけです。
 
その年の10月17日に、差別添え書きの親戚をやっと捜しあて家を訪れました。台風の近づいた雨の強い夕方でした。私はやはり相当緊張していたと思います。まず仏間に通してもらいました。すると、この仏壇にはこの家の御本尊とは別に、ひときわ大きな阿弥陀さまが一体横においてあります。お経をあげるた後訪ねてみると、家がなくなったので御本尊をこちらであずかっているとのことでした。やっとたどりついたという思いを抱き、あらためて阿弥陀さまに手わあわせました。1960年頃まで一人で住んでおられたおばあさんは、大水が出たとき、「わしはこの阿弥陀さんと一緒に死ぬんだ」と家わ離れることを頑固に拒んだという逸話を後で聞きました。この阿弥陀さまは、お寺が差別添え書きをしようが、差別的扱いをしようが、差別の中共に生き抜いた阿弥陀さまであることは間違いないと思いました。
私は袋の中からコピーにとった過去帳の写しを出して、おばあさんに説明し、両手をついてお詫びをしました。そして過去帳を書き換えさせてほしいと申し出をしたところ、「どうぞかきかえてもらっていいですよ」と住職の私にお任せ下さったことです。
 
§もう一体の阿弥陀様との出会い
 
過去帳の差別記載の背景には、明治の初年に比婆郡口和町にあった、西蓮寺の廃寺があることは、1985年の第一回の糾弾学習会の備後教区の総括書にすでに一文がのせてあります。1665年に藩の政策によって、広島県北一帯(恵蘇郡・三上郡・三次郡・双美郡・三渓郡)の被差別部落を門徒とすることがきめられています。以来明治初年まで、約200年にわたって被差別部落の門徒の檀那寺であったわけです。そのことを知って15年、関西大学の先生が書かれた西蓮寺に関する論文をよんで学んだりはしましたが、そこまででした。私の寺の過去帳にあった「新民」の一文字が、私の足を西蓮寺のご遺族の所に運ばせました。西蓮寺跡に建てかえられた家に住まれる直系の遺族の方をお訪ねしたのは、今年2000年の2月20日のことでした。玄関を入り仏間にとおされるとそこにはひときわ大きな本堂に安置するような阿弥陀様がおかれてありました。一目で、西蓮寺のご本尊であったことがわかります。お経をあげさせていただきながら、今にいたって初めてお参りすることのお詫びを申しながら、この阿弥陀さまのお姿に、言葉によようのない重たい歴史を感じました。
御遺族の人は、今三次組で進めている調査に、心よく協力下さることをお話しいただき、貴重な資料もお借りして家を後にしました。
 
 
◇おわりに
 
私は以前、お寺に住む者の「本堂の顔」と「庫裏(お寺の者が生活する場)の顔」という文章を書いたことがあります。本堂と庫裏の乖離、まさにそれこそ何百年という間、それが真宗なのだ、それでも真宗なのだ、と言い続けてきた事実は、もはや寺に住む者肉体の一部と血肉化してしまい、剥ぎ取ることのなど出来ないどころか、問い返そうと思いもしないものになっています。口で言うことと、身が行うことの矛盾、それも絶望的なほどの深い溝、寺の中に生を受けた者は誰しも成長の過程の中でそのことを目にして育ちます。寺に生を受けたものは、よほど疑問をもたないように育てられない限り、寺をまず好きになりません。寺そのものを否定したくなる、それが正常な感覚だと今も私は思います。
服部之聡のように寺を出る者もいます。寺の矛盾に目をつぶり、それは「しかたがない」と開き直る者がほとんどです。しかれば、私はどうするのか?。本願寺教団の中に身を置きながら、京都西六条の本願寺に親鸞はいないということを言い続けることが私の唯一の教団に身を置くことの理由であります。現実の差別・支配を肯定してきた今日までの寺院には親鸞はいなかったということを明らかにすることが私の僧侶としての使命だと思います。しかれば、親鸞はどこにいたのか、教団やお寺の論理ににもみくちゃにされながらも、被差別の人とともに親鸞がいた、このことを伝えていくのが私の今日までの教団の歴史に対して責任をとることだと思うのです。私は今日までの同朋三者懇話会の中で、「部落の信(被差別部落の中で受け止められてきた親鸞の教え)」ということを学んできました。すでに『業を担って』に書いたものですが、差別の現実を「しかたがないとあきらめること」を教える布教が僧侶によってなされながら、それを聞く被差別部落の門徒の信は、僧侶の意図を超えて、はるかに、自由・平等を渇仰する思いに溢れていたというのです。ちとえそれが来世往生という形をとりながらもです。そしてそのことが水平社宣言を生み出す背景であることは間違いありません。しかし、その事実を歴史に残るものとして知ることが出来るのはほんの僅かな部分でしかないかもしれませんが、親鸞から、いや本当は親鸞以前からも、綿々と地下水が流れるごとくに今日まで続いていることを思うのです。それを何が真宗なのか、誰が真宗を伝えてきたのか、それを明らかにすることは私の使命に違いありません。そう本当に知らされた時、自分が誰とともに生きようとするのか、「思いたつ」決断のときでもありました。それは同時に、伏魔殿のごとき教団・寺院の中で生き、心の奥底で真実を求めながら、十分に問い返す機縁の熟さなかった祖父・祖母・父。その営みは、先祖からの思いを受けて、その業ともいうべきものをこの身に一身に受けて今生きている私自身の業を解きほぐし、担っていくことにほかなりません。
同朋運動をわが歩む道と定め、私の出会った我が身を照らす揺るぎない眼差しを道しるべとしながら歩んでいきたいと思っています。そしてそのかなたに、服部之聡とはまた違った、しかし、私自身の親鸞その人への出会いがあることを信じています。「本山に一太刀あびせなければ、私は死ねない」、こころの底には、正直いってその思いがなくなっているわけではありません。しかし、それだけでは、「敵討ち」にしかなりません。今は「私の親鸞に出会うまでは死ねない」とより強く思っています。それは同時に、「本願寺の本堂から、金襴の衣と権力に着飾った親鸞を降ろしていく」ことへも繋がっています。
「呪われた宗門の子」の呪いを解く道、それが解放運動・同朋運動との出会いでありました。



補足
文章の中に、過去帳差別記載の歴史的事実を記するために「新民」という賤称語を使っています。この明治になって新たに作られた賤称語は、再び被差別部落の人を深く傷つ、命を奪っていった言葉だということをしっかりと受け止めたいと思います。
 


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