親鸞「上人」と親鸞「聖人」
「御消息」誤記から見えてくるもの
 
 
小武正教
本願寺派僧侶
 
(御消息に「親鸞上人」と誤記)

本願寺が門主の「消息」を印刷するのに、「親鸞上人」と誤記したことが本願寺の定宗で問題とされたという事を仏教タイムスの記事で読んだ。そして「昔なら切腹もの」と言った住職もあるということを知ってアナクロニズムと一旦は笑ってしまったが、はたしてそれで済ましていいのかという思いに囚われた。
記事のリードの「通告質問で総局の責任追及」とか、「定宗では異例なほど時間を費やした」という状況はいったいどこからくるのか。
このことが大きな問題となる一番の理由は、教団の中における「御消息」が「宗祖の聖教に順ずる」位置ずけがなされているということであろう。
しかし、それも単なる字句の間違いであるならばこうまでも問題は大きくならなかったに違いない。一言でいえば「親鸞聖人」を「親鸞上人」と記すことは、教団の根幹に係わることだからである。親鸞以降、親鸞「上人」が親鸞「聖人」となるために本願寺教団は全てを注いだといっても過言ではない歴史を見落としてはならない。そしてさらに、親鸞を「聖人」とし、法主・門主は「上人」とすることでまさに今日まで教団の秩序を維持してきたのである。
(親鸞を何とよぶか−古くて新しい問題)またこの記事は、私に二つの記憶を蘇らせた。一つは龍大の学生時代、まず最初に買った『眞宗聖教全書二巻』の『教行信証』の後序の部分、「主上臣下法に背き」の「主上」が戦時中に削除され抜けたまま今も印刷されたものであったことである。もう一つは20年ほど前の私の学生時代に、たとえ論文であれ「親鸞」と呼びすてにするのはげしからんという論争があったということである。その時には、信楽先生から別に「聖人」をつける必要はない、親鸞だけでいいと聞いた記憶がある。あれから二十年、最初の聖典削除の問題は、戦後50年の真宗ネットワークなどの教団への働きかけで、御影堂で勤められた全戦没者追悼法要の中で、聞こえるか聞こえないかの声で、「聖典の削除、不拝読」は「教団の侵した過ちであつた」という発言を引き出した。私はその報告として『敗戦50年西本願寺の光と闇
」という冊子を編集して、自分の中では一応の区切りをつけた。しかしもう一方の、親鸞を何と呼ぶか。「親鸞聖人」「親鸞さま」「親鸞」「宗祖」等々、そのことについてはケリを未だつけないままであった。しかし、そのためにはそれらの呼称にどのような本願寺教団の歴史があるのか明らかにすることからでないとはじまらないことはいうまでもない。(親鸞の使用する「聖人」)
親鸞が著作の中で、「聖人」という言葉をどのように記載しているかを見ると、まず師法然に対して使っているものが圧倒的であることがわかる。和語聖典だけなら七割にもなる。親鸞は法然を「権化の仁」として受け止めており、「聖人」という言葉にその意味が込められたとまず考えるのが妥当ではなかろうか。「聖人」の意味は「仏・菩薩又は権化の人を云う」と龍谷大辞彙にも記されている「他の「聖人」用例は「大(乗)小(乗)聖人」というような経典等と同じ一般化した使い方である。しかし、索引を一目して解るが「上人」という表現が著作には一言もない。このことには一つの意図があると考えるべきであろう。
「上人」号はもと「もと律令仏教の中の「法橋上人」の略称で、勅許に基づいたものである。逆に、「聖人」は律令には規定されない呼称である。
新聞で知った武蔵野大学の山崎龍明さんの御消息の誤記に触れ田コメントはこうである。「もともと、聖人の聖は念仏聖(ひじり)の聖であって、在野の念仏者のことです。いってみれば、下級の民間布教者です。上人は朝廷などから認知された徳の高い坊さんのことで、逆に「聖人」にはつねに「民衆」とともにあるという『野の聖』という自負があります」と。ただし平安時代の中頃から、遊行僧や勧進僧を「上人」とも「聖人」「聖」とも呼ぶようになり、厳密な区別はなくなっており、「徳のある僧の尊称」というような意味で使われているといのが実際ではなかったか。
そうした中で親鸞は自らの信心を表現する自覚的言葉として「聖人」を選んだといえるのではないだろうか。

(親鸞が「上人」から「聖人」へ)
 
親鸞なき後、しばらくは「親鸞上人」と記される時代がある。いくつかその例をあげる。・1277年(建治3)「尼覚信寄進状」に「しんらん上人」・1280年(弘安3)「信海・顕智・光信連署状」に「故上人」・1296年(永仁4)「大谷南地古券案」に「善信上人」「親鸞聖人」と書き記すことは「本願寺の聖人親鸞」と『善信聖人絵内題(親鸞伝絵)』をあらわした三代覚如を待たねはならない。それは1295年である。そして「親鸞上人」とのみ記す時代があったことは、親鸞の記した「聖人」と覚如が記した「聖人」が同質でないことを予測させるものである。「親鸞上人」と記した、それは単なる尊称というだけでなく、親鸞からの乖離の始まりであり、その延長線に覚如の「聖人」があるのではないかと推測せざるをえない。
なぜなら覚如から親鸞を「聖人」とするだけでなく二代・如信を「上人」とし、覚如自らを含む代々の宗主のみを「上人」とすることが始まっている。「上人」は「聖人」とは一段下であるが、しかし、親鸞の正当性を受け継ぐものとして位置付けたわけである。「聖人」「上人」という言葉が教団内ヒエラルキーを表すものになったということだ。
ただし、覚如においては『改邪抄』『口伝抄』などに「親鸞聖人」「親鸞上人」の併記が見られるが、`必ず「法然聖人」に対しては「親鸞上人」と記していることは注目される。それは多分に浄土異流への配慮と考えられる。単独では親鸞を「聖人」とまさに初めて呼んだ覚如が、本願寺教団の寺院化、社会的地立場の確立を願った苦心の跡といえるのではないか。だんだんと本願寺教団の社会的立場が大きくなるにつれて「親鸞聖人」に統一される過程を経ている。
蓮如では「法然聖人」「親鸞聖人」というように、法然にも親鸞にも「聖人」が使われている。実は、『歎異抄』の中では、法然も親鸞も共に「聖人」と全て記してあることに気ずく。このことから逆に、蓮如のところで『歎異抄』の表記を書き換えたのではないかと推測する。『歎異抄』は親鸞の死後約30年の後に書かれており、ほぼ覚如が『御絵伝』を描いた時代と重なっている。法然に「聖人」と書いてあったことはまずまちがいないにしても、親鸞にたいしてはいかに記していたか。親鸞単独の時は「上人」かまたは「聖人」か。『歎異抄』の持つ思想性、置かれた社会性からすると親鸞単独の場合も「上人」と記されていたのではなかったか私は推測する。もちろん法然に対しては「上人」であったであろうから、私の推測があたっていれば、『歎異抄』が元々は親鸞を「上人」とのみ称する最後の位置にあるのではないか。ちなみに法然に対して「上人」と一段下げた称号としたのは江戸期である。江戸期になると本願寺教団ではすべて「法然上人」と記されるように変わっている。
親鸞の記した「聖人」。そして本願寺教団が大きくなり社会体制に組み込まれていく中で、親鸞の使った意味とは全く異なった意味で使われた「聖人」と「上人」。
「聖人」と「上人」。二つの「しょうにん」は八百年の本願寺教団の教団内秩序と、社会での位置付けが凝縮された言葉である。
「聖人」と「上人」の言葉に込められた歴史とどう向き合うか。時代はすでにその「親鸞聖人」の言葉を削除する時代も過ぎている。それでも書き間遠えると「切腹もの」と反応するか、教団を問い返すきっかけとするか。めんめんのおんはからいである。



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