「袈裟と僧階制度」

−「僧侶の水平運動」・黒衣同盟に学んで−

備後教区  小武正教

◇はじめに

§同朋運動に出会って

  本山の同朋センターの研究員になったのは1984年、教団では基幹運動の一本化をめぐって大きく揺れうごいており、私の所属の備後教区では、1983年の過去帳再調査の結果、1985年からの過去帳差別記載糾弾学習会がはじまっていく前年であった。1979年に先代住職が急死し、曲がりなりにも一カ寺の住職を勤めていた私だが、同朋運動はそのときまで私の主体的課題とはほど遠いいものであった。以来15年、走ったり、立ち止まったり、しゃがみこんだりしながらも、突きつけられた過去帳差別記載という事実を巡って問いつづけてきた、いや何とか振り落とされずにくらいついてきたというのが実際である。そして、やっとわが寺の「過去帳差別添え書き」を課題とすることになった。15年たっての新たなはじまりである。
  同朋運動、部落解放運動との出会いは、それまで寺院の中で身に付けた「常識」、さらには龍谷大学で学んだ真宗学がいかに鸞聖人の教えに背いたものであるのか、とことん突きつけらるというものであった。教学も儀礼も教団・寺院の制度も何もかも。その中に私が僧侶として生き切ることの出来る道があるとすれば、唯一同朋運動を展開していくことしかないと思って、多くの先輩に教えられ、仲間にはげまされ遅々たる歩みをしてきた。
「部落問題は自分の立っているところで問い直しなさい」とは、過去帳差別記載糾弾学習会の中で教えられた、忘れることの出来ない一言である。そこにはもちろん色んな課題が含まれている。教団・寺院が今も差別を温存・助長する説教をしているのでないかという問い直しもある。教団・寺院の制度や慣習がすでに差別構造そのものではないかという問題もある。また「『寝た子を起こすな』の中にいる被差別部落のご門徒が解放運動に立ち上がるために、お寺は何をするのか、解放運動と競争だよ」と言われた、宿題になったままの問題もある。
  それはどれから取り組むかというような悠長な問題ではない。全部に取り組んで、やっと「僧侶として生きる」ということが見えてくるという問題ばかりである。さりとて、どれ一つとっても一朝一席に解決するものではないことはいうまでもない。またどこまでいったら解決となるのかも今私には今解らない。ただ、「差別を作っている、助長している」と気ずいた「考え(教えの理解)」、制度・慣習を、それは差別ではないかと指摘してくれた被差別部落の人たちと問い直し、近隣の住職と意見を戦わし、御門徒さんの様々な意見に晒されながら、「親鸞さまならばいかにされるか?」と自らに問い返し、変革の試行錯誤をして、それを表明してきた。今後もその歩みを続けたいと思う。

§わたしの立っているところから問い直す −「院号の廃止」「色衣を脱ぐ」「外陣勤行」


  私は今年で住職になって実質23年になる。住職として初めて感じた実際の矛盾は、「院号」についてであった。「本山や寺に貢献した人に付けられる」といくらいっても、御門徒の意識は、「長い法名は位が高い」というものが厳然としてあるわけで、僧侶の理屈はすべて弁解にしかなっていないことを知らされた。しかしそう気ずいてもその時自分一人で止める勇気は私になかった。そんな悶々とした思いの中で、同朋運動・部落解放運動にであったのである。「今の寺院に仏法なし!」と言われるまでは、「そうはいっても今のままで平穏無事に何とかやっていけないだろうか」という思いは中々断ち切り難い。「いったいあなたは何を守ろうとしているのか?、自分の寺(利益・既得権)なのか、親鸞さまの教えなのか」と皆の面前で問われて、初めてご門徒に「院号廃止宣言」の一歩が踏み出せたのが1990年である。
  以来、一切色衣を着ることを止め(1994年)、内陣でのお勤めを止め(1994年)るという試みをしてきた。教団内身分を表すもの、類聚制を自らの立っている場で問い直そうという試みである。「西善寺の門徒・僧侶は、一切の人に院院はつかない」、当初あった反響もいまはなく、黒衣・外陣でのお勤めも定着してきた。しかしそうした中で儀式について私にとって最後のハードルが「七条袈裟」の問題であった。「黒衣に七条」という衣体で悶々としながら、四年がすぎていた。
 

§蓮如上人五百年法要に出会った証し−「七条を脱ぐ」

  1998年は蓮如上人五百年法要の年、私はこの法要に会って何を証しするのかそう自問自答した。私は今まで、本願寺御門主交替の伝統報告法要にお参りしても、本願寺寺基移転四百年法要にお参りしても、大きなイベントに参加しただけで、私の宗教的営みに何も生み出す主体的な出会いをしてこなかった。このたびの蓮如上人五百年法要にあった証し、それが私にとっては、「七条袈裟を脱ぐ」ことであった。葬式においても、黒衣・五条袈裟で勤めることとすると。
  1999年、住職である私の思いを、無量寿法座(永代経)の案内に寄せて、御門徒の皆さんに次のように表明した。
  今年は本願寺の第八代蓮如上人が還浄されてちょうど五百年になります。蓮如上人は親鸞聖人によって明らかにされた浄土真宗の御教えを、日本全国の三分の一が真宗門徒といわれるまでに広められました。それは講を作り、平座で寄り合い談義をするということで出来たものです。
私は昨年蓮如上人の五百年法要にお遇いする中で、一つの言葉と、一つの促しをいただきました。
  一つの言葉とは、「バラバラでいっしょの世界をめざして−差異を認める世界の発見−」という浄土真宗のみ教えを簡潔にいいあらわした言葉であります。「みんな同じであれ」というのが真宗ではない、自分と相手との違いを認めあうことの出来る心を持つことは今一番大切になっていることです。
  そして一つの促しとは、親鸞聖人、蓮如上人のお姿に一歩でも近ずくために、僧侶が黒衣・五条袈裟に還るということです。親鸞聖人も蓮如上人も一度も色のついた衣も七条袈裟もかけられませんでした。当時、色衣や七条袈裟がなかったわけではありません。それらのものが僧侶であるにもかかわらず僧侶に身分を作るもの(紫色・朱色は身分が高い、七条袈裟は高い身分しかつけられない)であるとし、拒否されたのでした。
  私も僧侶になってすでに二十年がゆうに過ぎます。遅まきながら、蓮如上人五百年の法要を機に、葬儀などのすべての法要を親鸞さまや蓮如さまと同じお姿で勤めさせていただきたいと思った次第です。
  長い間、お二人のお育てにあいながら、その教えに背いた姿でおりましたこと、まことに申しわけなく思います。
  この私の試みに対しても、今まで御門徒の人たちから、また近隣の住職さんより多くのご批判をいただいた。意見を集約すればただ一つ、変革の善悪を言うのでない、「なぜ住職さんが唯一人で行うのか」ということにつきる。「外の住職を説得して組としてまとまってはじめたらどうか」とアドバイスしてくれる若手住職もあるが、しかしその人間も私と一緒に説得して回ろうとはいわない。説得するのはあくまで私一人であることにはかわりがない。もし「組でまとまって」という話しを出せば、「せめて教区がまとまらなければ」という、さらには教区では、「まず本山が変わらなければ」となり、結局は上からの指示をまつだけで、一向に話しが現実になったためしがない。じゃあ万が一本山より、「院号・色衣・七条」廃止の指示が出たらどうその人は言うか、「本山は何を考えているのか。ついてはいけん」との言葉が出るのは火を見るよりも明らかである。
  「本山で出来ないことは、教区で、教区で出来ないことは組で、組で出来ないことは、自坊ではじめる」、そして自坊ではじめた実践をもって、組へ教区へ本山へと広げていくことで、一緒に課題を担っていくことでしか変わりようはない。地方の寺の住職の営みが、本山と同じ土俵に立って課題を問うにはこの方法しかないと今思う。まさに上から順番にという漸次進む「縦出」ではなく、自らの決断によって虚偽と真実が明らかになる、これが横ざまにスパッと切る、「横超」の歩み方ではないかと私は思う。

§妻からの宿題

  私は結婚して13年になる。結婚当初、「在家」から嫁いで、得度した妻を法務員として連れ、一緒に葬儀にでかけていた。あるとき、私が講演で都合がつかなかったとき、妻に導師をたのんだことがある。葬儀を終えて帰ってきた妻は私を見るなりこういった。
  「私は今日ある人からこう言われた。『俗屋からきて、よくそんな立派な衣装がきれますねぇ』って」
と、よほど悔しかったのだろう。しかし続けて妻はこういった。
  「でも、どんな衣装をきても衣装で立派になるわけではありませんから」
と言い返したのだと。そして妻は、「自分の人間としてのプライドと、自分の実家の名誉を守るためそう言わざるをえなかった」とその時私に語ったのである。
  『俗屋云々』と言った女性の一言には、いわゆる「在家」への、そして「女性」への蔑視が込められた一言であることは言うまでもない。そして、その女性はその蔑視の意識の対極に、「権威あるべき存在」としての「寺」(この場合は住職)の象徴を、導師=「七条」を見ているからこうした言葉が出でくるのである。第一義の問題は、この女性個人の発言云々より、この女性の意識をがどのようにして作られてきたかということである。
  妻には、そんな状況に置いたことを詫び、「よく言った」とフォローしたが、妻は私に「私は二度と『七条』は着ない」ことを宣言した。以来、「七条」は私にとっての宿題となったのである。

◇黒衣同盟を受け継いだ、同朋運動を展開するために。

§僧侶の水平運動・「黒衣同盟」

1922年(大正11)3月3日、名告りを上げた水平社は、翌3月4日、東西本願寺へ水平運動に対する協力を要請、4月10日には東西本願寺に「募戝拒絶の決議通告」を突き付けた。1922年は教団は時あたかも立教開宗七00年を翌年に控え、募財を募っていた。水平社の通告文の中には「募財拒否」をするにあたって次のような教団・僧侶へ向けた怒りの言葉が書かれている。(注1)
  「御同行御同朋と称する人達が心から黒衣や俗衣で石を枕に血と涙で御苦労下さった御開山の御同行ではなくて色衣や金襴の袈裟を着飾って念仏称名を売買する人達の同行ではないでしょうか。」
  「地獄へまでもこの御同朋と共にある時私は力強い、私共は白刄の下へも突き進む、金襴の袈裟にも誑されはしない、私共のまえにすべての人は皆んな仏の御慈悲の子です」
  この、水平社の東西本願寺への通告を受け、本願寺教団の中には水平社と呼応する運動、「黒衣同盟」が誕生した。
  その「黒衣同盟」の運動は、水平社を創立した西光万吉・米田富、そして黒衣同盟推進の先頭に立った広岡智教等によって、明確に「僧侶の水平運動」として位置ずけられていた。1922年11月28日の『水平』には「黒衣同盟生る」として次のような文章が掲載されている。(注2)
  「曩に吾人が、尨大なる偶像本願寺に送った募財拒絶の通告は傲慢なるその旗持共によつて『無視』されていた。けれども水平運動は耳を塞いだ鈴盗人共の『無視』している間にも旺に行われつつおった。そして今、偶像の旗持共が開宗七百年紀念興行を企画せる時、吾が水平社の黒衣同盟が生まれた。黒衣同盟はやがて単なる復古運動に止まらずして、かならず実現すべき俗衣同盟の第一歩であって、つねに『われはこれ賀古の教信沙弥の定なり』の親鸞の同行が彼の開宗七百年を紀念して断行すべき御恩報謝の願行でなければならぬ。
『赦罪の紅十字はキリストの十字架と均しき力を有つている』と云ひ『金の音が箱の中でチリンと鳴るや否や霊魂は煉獄を飛び出す」と云つたテツツエルの同行である「親鸞の弟子」共よ信は荘厳より入るものであり、凡人の生活における宗教情感の要求ではどうしても形像を慕ふものとてもその荘厳と形像は現在のままで無くてはならぬものであろうか、現代の社会感情はすでに現在のそれを荘厳とし、慕ふべき形像としてうけ入れていないではないか。自覚ある僧侶の水平運動、黒衣同盟は生れた。
同盟本部奈良県宇智郡五条町大島明西寺内」
  この文章には、「信は荘厳よりおこる」といったん押さえながら、その上で水平運動の視点から荘厳の在り方を問うたのが黒衣同盟であるという宗教的視座がある。このことは現在において、黒衣同盟を起こした先達と同じ課題を担うためには、「同朋運動としての儀礼論」(注3)を論理と実践を兼ねて展開していくという課題がわたしたちの同朋運動に課せられているといえよう。

§「黒衣同盟」とは

では、黒衣同盟とは何なのか、その宣言文の要約が1922年11月23日付、大阪時事新報に掲載されている。(注4)
  「水平社の主張は我等同族の檀徒が水平運動より発する痛酷な叫である、吾人はこれと呼応して黒衣同盟を起こして反省を促す両本願寺が堂班の売りつけに腐心する何たる非宗教的な行為か我等檀徒は本願寺の圧迫から解放される時が来た、色衣をすて、黒衣にうつる時が来たそして我々は親鸞に帰る時が来たのだ、我等同族が募財を拒絶することは解放の最初である、我等は白衣と金襴の袈裟や堂班的階級を捨てて非僧の愚禿親鸞になるのだ、嗚我が尊い親鸞聖人に果たして階級的差別があったか、諸師よ、親鸞聖人は黒衣のまま、田夫野臾の姿で同族の手を握って熱い泪を瀝がれたのである、我等は同族の募財拒絶と共に同族寺院の黒衣同盟を慫慂するのだ、そして親鸞を冒涜する反逆者たる本願寺の当局と戦うのだ、最後に云う、我々は断然黒衣同盟の連合力を培養し、以て水平運動の急先鋒たるのである、而もこれは単なる水平運動の共鳴にあらずして、やがて親鸞の真心に帰るのである、起て同族寺院の住職諸師!吾人の目的とこの宣言とが本願寺の意向と相違しても我等は断々乎として自由に且つ積極的に我等の趣旨を貫徹実現する亊に努力せねばならぬ黒衣こそ我等同族が聖親鸞に帰った象徴であらねばならぬ」
  この宣言文から「黒衣同盟」の主張を読み取ることができる。
  1. 色衣・金襴の袈裟を廃止して黒衣を着用−親鸞に帰った象徴
  2. 堂班制の廃止
  3. 募財の拒否
  そして、宣言文に「これは単なる水平運動の共鳴にあらずして、やがて親鸞の真心に帰るのである」と述べるように、「親鸞の教えに生きることを回復していく」、宗教的営みとして位置ずけられているということである。したがって黒衣同盟は、寺格・堂班を作り出し、それを儀礼・荘厳の中に細かく位置ずけ、なおその矛盾は「信心」とは無関係であるとしてきた、教団内の「儀礼」における真俗二諦の構造を打ち破るものであった。堂班制を打ち破る最も具体的実践として選びとった方法が、差別的堂班制をもつとも表象するものが儀礼、その最も目に見える表象である「色衣」「金欄の袈裟」を脱ぎ、その不当性を訴えることであった。であるなら、堂班制の打破に、黒衣を選びとるということは、宗祖の選択からしても至極当然のことであったといえよう。そして「宗教心のあらわれが儀礼・荘厳である」という押さえからして、それは信心の内実において、二義的な課題でなく、極めて第一義的な課題として当然位置ずけられたのである。
本願寺当局においても、黒衣同盟の誕生は、水平社の募財拒否の通告以上に大きな出来事として受け止められていた。1922年11月23日付の「大阪毎日新聞」がその点をズバリ指摘している。(注5)
  「本派本願寺管内僧侶の間に起こった『黒衣同盟』運動は、水平社の募財拒絶以上に、本願寺を脅かす事件である。水平社の主張は、本願寺に多額の資材を取られては、部落改善に支障を来すからと云うだけであるが、『黒衣運動』者は金欄五色の袈裟衣に身を包むは、宗祖の精神に反する、黒衣一枚に帰らうと云ふ一切宗規の段階組織を廃して、半俗半僧の愚禿親鸞に帰ろうと云ふので築き上げた本願寺の教会組織を根本から否定する主張である。而して、それが『紙衣の九十年』という信徒の有難い信仰になって居る宗祖の生涯に実例を採るだけ論拠が確実である。本願寺の学者も「異安心」を決定するに、一寸困る出あろうし、水平社運動と結合すれば有力な実際運動になるし親鸞七百五十回降誕会を前に控えて、頭痛の種であろう。」

§黒衣同盟を巡っての展開

このように水平社に呼応して名告りを上げた「黒衣同盟」の衝撃がいかに大きかったか、『同朋運動資料史1』の1922年・23年頃を見ればよくわかる。特に黒衣同盟の主張を支援した『中外日報』はいうにおよばず、『大阪時事新報』などの一般紙にも度々その主張や動向がのせられている。『同朋運動資料史1』より『黒衣同盟』に関わるタイトルだけ拾いあげてみても、その衝撃の大きさがわかるのである。年表的に拾いあげると次のようになる。
(1922年)
・10月19日  奈良県西本願寺派住職広岡智教、水平社の主張に賛同。「黒衣同盟」を同志と盟約すると共に堂班を返還。(「中外日報」)
・10月22日中外日報、興正派に於ける色衣廃止に敬意。
・10月24日中外日報、黒衣同盟の運動から本願寺教団の革新を期待
・11月23日  大阪毎日新聞「硯滴」欄で黒衣同盟と本願寺に関し論評
・11月23日大阪時事新報、「黒衣同盟」宣言の要約を掲載
・11月24日  大阪朝日新聞、東西本願寺の立教開宗七OO年記念財団の募財が至難であるのは不景気と黒衣同盟が祟ると報道
・11月28日  『水平』「黒衣同盟生る」を掲載
・12月1日  三重県伊賀水平社、常例会議を開き色衣を廃し黒衣実行を可決。(「大阪時事新報」)
・12月20日  中外日報、「水平運動の前に横はる障害物」を掲載。寺院住職に黒衣同盟を徹底せしめよと主張。
・12月23日  中外日報、「歳晩の水平運動」と題して黒衣同盟の発展とその活動計画に期待。
(1923年)
・1月11日,13日,14日  大阪毎日新聞、「仏門改革の火の手」(上)(中)(下)を掲載
・1月13日  中外日報、「黒衣同盟の跳躍」と題し西本願寺御堂内の衣体着用について論評
・1月18日  中外日報、黒衣同盟、奈良県高田町に於いて大会を開催
・1月31日〜2月2日付大阪時事新報、「水平運動と提携して起こった黒衣同盟」を連載
・2月2日〜3日中外日報、「色衣全廃論に就いて」(上)(下)(弓波瑞明)を連載
・3月3日  第二回全国水平社大会参加者、東西本願寺に示威運動
・3月9日  中外日報  高田派が大法要以外すべて黒衣を採用することを決定と報道
・3月10日中外日報、「黒衣同盟の批議者に」(参)を掲載
・3月21日  中外日報、「六条法要準備彙報」欄で真宗各派の立教開宗記念法要の衣体について論評
・4月1日  真宗各派、色衣の倹約を実施、木辺派・高田派は黒衣、開宗記念に西本願寺派は白素絹、東本願寺派は朝座に黒衣と決定。
・4月6日,7日  中外日報、開宗記念法要に際して一言を親鸞門兎に寄す(一)松本文三郎
・4月11日  中外日報、松本文三郎の黒衣論に対し、「黒衣同盟の意味」と題する論説を掲載
・4月13日  中外日報 、下間空教、「時代逆行説」と題し色衣廃止・黒衣同盟及び水平運動を批判。
・4月14日  中外日報「松本博士に寄す」(三浦参玄洞)を掲載
・4月18日中外日報「黒衣同盟に就いて参玄洞氏に答ふ」(松本文三郎)を掲載。
・4月21日中外日報「偽善者の仮面−参玄洞君に与ふ」を掲載。
・4月18日〜20日、興正寺、協議員会を開催し色衣廃止及び制度改革について協議。
・4月24日〜29日  中外日報、「記念法要解剖」(1)〜(6)を連載
・4月25日中外日報 「下間氏に申す−『色衣廃止黒衣同盟に反対す』を読みて−」(尾山純秀)を掲載
・4月「本派本願寺有志革新団」、宣誓書・綱領・盟結書
・5月13日  中外日報、黒衣同盟に関し親鸞の非僧非俗の意義を強調
・5月13日〜6月1日中外日報、「黒衣同盟」(名越直)を5回にわたって連載。
・5月15日  留岡幸助、『人道』に「水平運動」を£発表。黒衣同盟と募財拒否について言及。
・6月23日  中外日報、本派本願寺有志革新団の運動目標を掲載
・7月4日中外日報、「緋紫衣の同盟を余輩は寧ろ絶叫す」(伊藤大忍)を掲載。
・7月21日  中外日報本派本願寺有志革新団の運動にも官憲の干渉があると報道
・7月27日中外日報、「緋紫衣同盟を絶叫せる伊藤大忍氏に」(堀善明)を掲載。
・8月11日  北葛明正、中外日報に「殻中の墨守」と題し黒衣同盟賛成論を展開。
・8月15日花田衆甫、「殻中の墨守」(北葛明正)に反論。
・8月25日  中外日報、本派本願寺有志革新団の総会を予告すると共に、革新団内部に政治派と思想派の対立があると報道。
  1922年に誕生した黒衣同盟は、翌1923年4月に営まれた、「立教開宗七00年記念法要」に際して、教団が被差別部落寺院僧侶にほとんど配役を与えられないことに端を発して、「本派本願寺有志革新団」を5月に結成している。6月には兵庫・大阪等の寺院100カ寺が結集している。この団は黒衣同盟の主張を継承した4つの綱領を掲げた。(注6)
  1. 近代的合理の教団の樹立
  2. 僧俗不二の教団樹立のため黒衣同盟の完成
  3. 合理的寺壇制度の確立
  4. 水平運動への協力

§黒衣同盟の終息

  しかし、「黒衣同盟」についても、「本派本願寺有志革新団」についても多くの記事はない。1926年3月26日の『水平新聞』に「黒衣同盟募財拒絶の徹底を期する件」が掲載されてそれ以降に『同朋運動史資料』に伝える記事はない。なぜ運動が終息していったのか「黒衣同盟」の思想と実践を同朋運動が継承していくためにもキチンと捉え直す必要がある。いまは、いくつかの要素のみ上げ、今後の課題としたい。
(1)「本派本願寺有志革新団」というものを作り出していった「黒衣同盟」の運動が、教団内改革・改良運動として捉える者と、水平社に呼応した徹底した本願寺解体へ進もうとする者の分裂。(注7)
(2)水平社の運動に官憲が警戒をしていたのと同様に、地方の警察官などが「本派本願寺有志革新団」についても警戒を加え、逐一各寺院について調査したりという干渉をくわえている。(注8)
  以上の2点は資料の上からすぐに運動終息の内的要因、外的要因得として見ることが出来る。しかし、運動終息にいたった原因は他にもあると推測する。それは以下の2点である。
(3)水平社対策、黒衣同盟・本派本願寺有志革新団への対策として一如会が結成され、融和運動を展開した。
(4)教団が徹底して、黒衣同盟・「本派本願寺有志革新団」を教団内で排除していった。
  後の2点については概ね私の推測である。しかし、「本派本願寺有志革新団」の内部分裂が、本願寺の水平社対策として作られた「一如会」へ取り込まれたということは当然ありえたことであろう。それはいつの時代でも権力側が反対運動側を分裂させ一方を取り込み運動を崩壊させるという常套手段である。
  さらに、「本派本願寺有志革新団」の中核を担っていた黒衣同盟に対する徹底した排除があったのではないかと推測する。文献的に確かめるのは今後の課題であるが、現在の状況が何よりも雄弁に物語っている。黒衣同盟の運動は何であったまかその究明を続けている大阪の研究者が何人もの黒衣同盟を展開した僧侶の遺族を訪ねたときの言葉を教えてもらった。「黒衣同盟のことは絶対口外するなといわれている」、「話すことは何もない」等々。その研究者はこうまとめた。(注9)
  「黒衣同盟の歴史的意義を闇に葬ってきたのは、ほかならぬ浄土真宗各派(仏教界共通)の差別構造と僧侶の差別体質と、その思想背景としての教学であったといっても過言ではない。『あった』というような過去のものではないといわざるをえない、と今も思っている。いわば、『悪しき業論』や差別戒名の存在を放置してきたものと同根のものである」

§黒衣同盟への批判

1922年、黒衣同盟が名告りをあげ、堂班制の撤回等の具体的要求を掲げて運動を展開していく中で、黒衣同盟に対する反論は次々と展開される。その代表的な論旨をここに整理しておく。なぜなら、それはいかなる理屈で教団の差別構造が隠蔽されていくかを見事に示すからである。そして今、類聚制を問う同朋運動に対する批判ともキッチリ重なっているからである。
@「堂班制度は悪弊ではあるが、突然堂班を全廃することになったら、教団の秩序は茲に破壊せられて、或は堂班以上の弊害を出すかも分らないので、堂班全廃といふまでには余程研究の余地が存する」という慎重論を持ってする反対論。(注10)(龍谷大学学長・弓波瑞明)

A「インド以来の僧服の歴史からすると、法衣の色には様々あり黒衣は非法衣である。」という歴史論からの反対論(注11)(文学博士・松本文三郎)

B「親鸞聖人が黒衣にすべしといっていない」という宗祖の言葉がないという反対論。(注12)(文学博士・松本文三郎)

C「元来宗教というものも芸術の極致であるので、僧侶の色衣・金襴衣も決して排斥すべきではない」とする芸術論からの反対論。(注13)(文学博士・松本文三郎)

D「『仏祖崇敬』の荘厳式であるので、自己の身を飾るのではなく、仏祖に対する崇敬の意を表す」という「仏祖荘厳」説による反対論。(注14)(下間空教)

E「今日の『凡僧』は内に智徳なきがゆえにせめて色章班坐を飾り立つるに依り凡俗に対して僧宝の価値を幾分にても重からしむ、非徳の僧が柄にもなく破衣竹杖せば却って益価値を減少せしむるのみ。」と僧侶の権威ずけからの反対論。(注15)(下間空教)

F「宗教家に非ず、宗教的職業家なる、今日一般の僧侶に取り、美麗なる色衣を被着するは、営業収入上何割かの『利得』あり」「一方に本山の収入となり他方には一般檀信徒の希望に適す」という収入の面からの反対論。(注16)(下間空教)

G黒衣同盟を水平社に阿るものとして揶揄し、黒衣同盟そのものを「偽善者」、「偽侠者」の集まりとしてともかく罵倒していく反対論。(注17)(野江要一)

H法主のみが身につけていた、「緋と紫」を一般に解放する「緋紫同盟」を作る。その上で将来、「緋紫黒」の三色に帰着すれば、これまで末寺に許可した衣体の既得権は侵害しないですむし、そうした上で黒衣を奨励すればよいとする反対論。(注18)(伊藤大忍)

I「黒衣を着て、金色燦爛たる内陣の真中で登高挫をやるとなれば、何のことはない仏壇の中へ鼠が入り込んで御供へ餅をかじっている体裁だ、少しも調和がとれていない」とする荘厳論からの反対論(注19)(伊藤大忍)

  まさに屁理屈でも何でも反対ならばいいという形で、黒衣同盟を叩くのである。しかし、教団当局が表に出て批判を展開するのではなく、学者や僧侶が(依頼を受けてのことなのだろうが)批判の急先鋒に立っていることも注目したい。そこれらの一々に黒衣同盟は反論をなしている。しかし今その一々は触れない。その批判の原点を押さえれば十分であろう。
a,黒衣同盟がなぜに起きたか、教団の差別構造・「堂班制の打破」をして、親鸞に回帰していくという願い。
b,金欄の袈裟・色衣を纏ってどの位の罪悪が教団内に行われてきたかということへの怒り。
  黒衣同盟が名告りをあげたとき、教団に属する者すべてか自らが「親鸞の弟子たりえるか」の選択を迫られたのである。そしてある者は、「黒衣同盟」、そして「本派本願寺有志革新団」に身を投じ、圧倒的多数の者は、ここにあげた反対論にみられるように、妥協論を展開したり、居直り論を展開していったことが伺われる。
  これは現在の同朋運動においても同じである。同朋運動を、その選択をする者をどれだけ生み出していか、そこに運動の質が問われている。基本的には私たち僧侶は黒衣同盟と同じ課題から一人ひとりが、今選択を迫られていることには変わりがない。

§黒衣同盟への教団の対応−現在残された姿

さて、『同朋運動資料史』の中より黒衣同盟が影響と思われる、それも今日に繋がるものをいくつか拾ってみる。
1923年に勤められた、立教開宗七百年の法要の衣体は、
  「大きくなればなる程本山としては色衣で区別する堂斑を売っている関係上黒衣で纏める事が出来ず、色衣を撤廃するのは本山として与えた権利を奪うことにもなり既得権の侵害となるからやる訳には行かぬという尤もさうな理論も出来上がり、ついに西本願寺は記念法要の参列者には白の素絹を揃いで着せるということに決定し」(注20)(1923,3,21「中外日報」)
とあるように、「堂班衣体」と「黒衣」との妥協妥案のような「記念衣体」なるものを作っている。それは今日の法要でも継承されていると思われる。
  また当時、「色衣を嫌って黒衣で通していた」(「中外日報1923,1,13」)官長代理の大谷尊由氏に対し、広岡智教師は、尊由師の黒衣も不徹底です。黒衣をつけるならば宜しく平僧と同様下座に着くべきです」と喝破している。(注21)
  それは、1995年4月15日、戦後50年の「全戦没者総追悼法要」。衣体を黒衣・五条としながらも、しかし内陣出勤はそのままであった様子を想起させる。
  都合よく類聚制度につながる「色衣・袈裟」と「黒衣」との使い分け、それが黒衣同盟からその矛盾を突きつけられて以来教団ではつづいているのである。唯一敗戦後の民主化の中で、堂班が廃止され、衣が黒衣に統一されほんのわずがの期間をのぞいては。

◇七条袈裟を脱ぐ

§袈裟の歴史

(1)インドにおいて

  袈裟は日本に於いては法衣の上に着用するものとなっているが、インドにおいては法衣は袈裟であった。つまり釈尊はすべての比丘・比丘尼に九条から奇数条ごと、二十五条までをの袈裟を大衣、七条袈裟を中衣、そして五条を小衣としてをゆるされた。大衣を「僧伽梨」、中衣を「欝多羅僧」、小衣を「安陀会」と呼んだ。大衣は最も丁重な服装として、王宮や村落に入る時に用い、中衣は平常の礼拝や読誦そして斎食などの平時に用い、小衣は僧院の中の佐務の時、臥床の時に着用した。
  もともと、釈尊在世時、一般には白あるいは色文様をまとっていたのに対し、出家の僧はこれを汚して着ることが要件となり、袈裟と呼ばれるにいたったものである。また袈裟は「糞掃衣」とも言われるが、廃棄せられた破布をもって縫い合わせたという意味で、世間的な欲望を起こさぬという意味で、修行する比丘・比丘尼の精神を表したものであった。したがって袈裟の布質も戒律にて、麻と木綿に制定し、絹布などは許されなかった。
  しかし、この三衣以外にも実際には、体を隠す「助身衣」「僧祇支」なども法衣といった。(注22)
  この法衣・袈裟は、仏教が中国・日本と気候や風土、そして仏教のその国での受容のされ方にしたがって大きく変化し、法衣と称されるものは大きくひろがっていった。

(2)中国において

  中国に仏教が伝わったのは諸説あるが、インドと大きく異なるのは、国家と結び付いて教団が成立したという点である。教団の統制のため、国家の僧官が置かれ、国家によって経済的な待遇と社会的位置が与えられた。そこでは、皇帝みずからが僧の立場を兼ねた、祭政一致が行われ、僧侶の法衣・袈裟が著しく美化されるということがおこったのである。
  インドの法衣が中国に伝わり、中国の風俗と融合して「直綴」などの法衣を作りだし、その上に袈裟を着用するようになったのである。黒色が法衣に用いられるようになったのも、儒教などの影響をうけた中国からである。(注23)

(3)日本に仏教が伝えられて

  仏教は国家仏教として日本に受け入れられたたため、国家により僧官が設けられた。そして、法衣の色によって位を分けたのである。それも、朝廷においての禁色の権限が天皇に属していたように、法衣における禁色も権限は天皇に属していたのである。(注24)
  僧正・僧都・律師に対してはそれぞれ、紫、緋、緑、縹を用い、無位無官の僧は黒または黄をもちいるということができあがっていった。『養老の衣服令』には、「一・二・三位を紫とし、四・五位を緋とし、六・七位を緑、八位・初位が縹、無位を黄色、最も下を黒とす」とし各色に深浅の別を設けたのである(注25)。この色による位置ずけは今日にいたっても続いている。
  平安時代になると、末法思想とともに阿弥陀信仰が盛んとなり、僧侶それ自身を西方極楽浄土の住人のように眺め、法会がそのありさまを顕現することを目的とし、建造物にも美麗をつくし、荘厳は金銀をもって飾り、袈裟・衣をも金・銀によって飾り立てるということが行われるようになった。
  また法衣も、袍裳には七条、鈍色には五条というように衣と袈裟との関係もできあがっていく。また、空袍という、無位・無官の人の着る袍が作られている。しかし空袍は、「養老の衣服令」においても墨は最も下の色であり、壊色の一つとして僧尼令に示す色として法に適ったものであった。
  また平安時代に、簡略な五条袈裟として現在用いている横五条が生まれている。僧侶が法会以外の斎に、身分を示すために用いられたと考えられている。

(4)親鸞聖人の法衣

  親鸞聖人が比叡山の時代にいかなる法衣であったのかわからない。もし吉川英治の小説のごとく、僧都の位であったならすでに色衣・金襤の袈裟をかけておられたであろうし、恵信尼文書にあるごとく堂僧であるならば、墨染の衣であったと思われる。
  間違いなく知ることが出来るのは、「鏡の御影」「安城の御影」「熊皮の御影」に描かれた親鸞聖人である。親鸞聖人は、裳の付いた墨染めの衣に、五条の墨袈裟をかけておられることがわかる。当時の僧侶のもっとも低い位を表す法衣を身につけた親鸞聖人の姿がある。
  国家仏教と決別した親鸞聖人の非僧非俗の宣言がこの法衣に表現されている。

(5)覚如上人とその後

  覚如上人の法衣は宗祖とほぼ変わるところはない。しかし、覚如上人は、当時庶民層に深く根を降ろし、遊行する時宗の僧服に対して批判をくわえている。「遁世のかたちをこととし、異形をこのみ、裳無衣を箸し、黒袈裟をもちいる、しかべからざること(注26)」と。当時、時宗の遊形僧は、法衣ともいいにくいような裳なしの網衣を着ており、それは庶民の平常衣ともいうものであった。
  親鸞聖人であれば、時宗の遊行僧の法衣についてかくは語られなかったのでなかろうか。
  『存覚一期記』には「八月時正中日、(中略)山科興正寺(中略)予供養致し了る、装束鈍色甲袈裟也」とあり、すでにこの当時、鈍色・七条が用いられていたと考えられる。(注27)
  そして、宗祖の墨衣・墨袈裟の宗風は漸時すたれていったようで、第6代善如上人、第7代綽如上人の時には、黄袈裟、黄衣が着用されていたことが、『実悟記』より知られる。(注28)

(6)蓮如上人

  蓮如上人は、法衣を墨衣・墨袈裟に統一された。しかし、一門・一家衆にだけは、宗門外の者に出会うのに、黒衣の着用を許したとされている。しかしたまたま黒衣を着用して蓮如上人の前にでると大変肝気に触れたとある。
  書き残されたものからすると、蓮如上人は生涯七条袈裟を身に着けられなかったと思われる。しかし、その蓮如上人の葬儀にあたって、「棺の上に七条の袈裟を被ひ、輿かきの法師は直綴、入道は道服衣を箸し、一家衆・御堂衆等、裳付衣・絹袈裟なり」とあるように、墨袈裟・墨衣がすでに崩れだしていることが伺われる。(注29)

(7)実如上人以降

  朝廷より、1516年に香袈裟、1518年に紫袈裟、1521年に紅衣の着用を許されている。特に第11代顕如上人の時、門跡に列せられると法衣の上にも国家仏教体制における僧階がそのまま宗門内に取り入れられるようになる。この門跡になると同時に、紫衣・緋衣・裘代が許され着用がはじまり、以後代々の宗主が着用することとなる。そして、宗主・院家衆・堂衆等に、色衣・絹袈裟・織物袈裟が着用されたことがしるされている。
  1561年、宗祖の三百回忌法要は本願寺の法衣が大きく変わっていく時であった。この時初めて、宗主・院家衆が、七条・袍服の着用がはじまったのである。

(8)江戸時代

   1611年、宗祖三百五十回忌法要では、惣御一家衆まで、七条袈裟の着用がゆるされていたものが、1636年、御影堂の落慶法会が催されたとき、総坊主衆までが七条袈裟の着用が許されるようになっている。
  江戸時代には、寺格による教団内の僧階制度におうじて何度か衣体が改定され、1793年にほぼ本願寺の法衣式がさだまっていった。
  法服の質、裳付きであるか、五条の色と紋、指貫の色、衣の色等々、ことこまかく僧階によって分けているが、ここでは袈裟のところだけ取り出してみる。(注30)
 
筋目院家・七条金襴
准院家・七条金襴 
内陣・七条金襴
餘間・七条金襴 
三之間・七条金襴
飛擔・七条金襴
初中後・七条金襴
国絹袈裟・願い出によって七条金襴
 
平僧・願い出によって鈍子袈裟

  七条袈裟が、僧階の下位まで許可されるようになったが、国絹袈裟は願い出によって金襴の七条が許可され、平僧は七条袈裟は許可されなかった。まさに七条袈裟は、教団内の僧階をそのまま反映したものであることがわかる。
  では、この僧階の外と位置ずけられた「穢寺」「穢僧」にはどうであったのか、やはり七条袈裟は許可がなされなかったのである。

(9)明治時代以降

  江戸時代の寺格が改められ、堂班制度となったが、すぐに堂班の階級は増々ふえ、法衣・袈裟の色だけでなく模様を事細かく規定して差別化を図り、大変複雑なものになっていった。七条袈裟もすべての僧侶が衣体として着用するようになったが、そのかわり七条の内容に事細かな差別化がなされ、堂班に応じた七条が規定されていった。一例として1908年(明治44)の堂班衣体の七条袈裟の所だけをひろいあげてみる。たしかに、平僧にまで着用許可がおりるまでにはいたったが、僧侶間には、「本山で得度だけしかしてないものは七条を着れない」という意識が濃厚にあり、衆徒は七条袈裟をきることはなかった。(注31)
 
別格寺 一代金襴並撚金綿地但シ金地、銀地、浮織、綴綿、縫紋並四天襖像又ハ其裂ノ四天及ヒ糸伏仕立ヲ許サズ。甲袈裟仕立ハ緑地ヲ四天ニ用フルモ差支ナシ。修多羅ハ金糸、銀糸、蛍打、五色以上組交及房紅白ヲ許サズ。
上座一等 同上
上座二等 同上
本座一等 一代金襴並金入綿地但シ金地、銀地、浮織、綴綿、縫問、撚金並四天王像又ハ裂ノ四天及ヒ糸状仕立ヲ許サス。甲袈裟仕立ハ緑地ヲ四天ニ用フルモ差支ヘナシ。修多羅ハ、金絃、銀糸、蛍打、五色以上組交及ヒ房無紅白ヲ許サス
本座二等 同上
内陣列座 同上
餘之間 一代小模様金襴並金入綿地  但シ金地、銀地、浮織、綴綿、縫紋、撚金、大模様金襴、並四天王像又ハ其列ノ四天及ヒ糸状仕立ヲ許サス。甲袈裟仕立ハ緑地ヲ四天ニ用フルモ差支ヘナシ。修多羅ハ金糸、銀糸、蛍打、三色以上組交及ヒ房無紅白ヲ許サス。
脇之間 一代金入竹屋町裂地並無金綿地  但シ金地、銀地、浮織、綴綿、縫紋、撚金、金襴金入綿並之天押像又ハ其裂ノ之天及ヒ糸状仕立、甲袈裟仕立ヲ許サス。修多羅ハ金糸、銀糸、蛍打、三色以上組交、紫、紅、紅白ヲ許サス。
外陣列座 一代無金唐草小模様綿地ニ限ル但シ四天王像又ハ其裂ノ四天及ヒ糸状仕立、甲袈裟仕立ヲ許サス。
修多羅ハ金糸、銀糸、蛍打、三色以上組交、紫、紅、紅白ヲ許サス。
平僧 一代無金緞子地唐草小模様ニ限ル
但シ引懸(横被ヲ用ヒス)修多羅ハ白糸ニ限ル

また女性に対しては、「女子僧侶服装並に法式に関する規定」(1931年7月)が定められている。(注32)
 

第一条 女子にして度式を受けたる者は別記の服装を用いて仏祖に奉待し法務に従事す。
第二条 女子僧侶には堂班を許さず、本堂法式にありては外陣に着席すへし。席次は法臈順による。

  また別記には、七条袈裟も色目文様を規定し、自由な色彩文様を禁じ、かつ横被を用いさせず、寸法も男子用より小形とした。また、修多羅も紫白入交の一種とし、五条袈裟も水色の一色に限り、輪袈裟は桔梗色平金欄、衣は黒色無紋、布袍も同様、切袴は古代紫平絹にかぎった。衣の裳の丈を総丈の十分の四とし、脇ひだも七つに限っている。
  しかし、この衣体を着た女性僧侶がどれ程いたであろう。それはいうまでもなく、この女性僧侶の服装規定に現れた女性への差別意識、服装規定そのものさえ実行することから遠ざけたということがいえよう。

(10)戦後の民主化

  1949年(昭和24)、本願寺教団の「堂班制」が廃止された。そこでは、住職、住職であった僧侶、副住職、前三号以外の僧侶という4段階の法要席次規定改正がなされた。そしてその衣体条例には、五条袈裟・小五条袈裟の規定は示してあるが、七条袈裟についての規定はない。この度の民主化の中で七条における規定はなくなったのである(注33)。つまり法規上では僧侶であれば誰でもどんな七条袈裟でもつけられることになった。しかし、ここでも江戸時代からの意識は色濃く残っており、実際に衆徒や女性か七条袈裟をつけ、導師を勤めることには、現在においても大きな偏見がある。
  徹底した民主化のように見えながら、七条袈裟の着用そのものを残したことは、院号を自由化したことと並んで現在に大きな禍根を残したといわざるをえない。また総長等の職務に関する衣体や、門主代理・僧綱等の衣体についても改革がおこなわれなかった事実もある。

(11)類聚制の復活の中で

  戦後の民主化も僅か6年で挫折する。教団の財政逼迫を理由として、「堂班制」に変わる「類聚制」が導入されたのである。「類聚制」は教団への財政的功労の差異によって全寺院と僧侶に寺班・僧班をつけるもので法要の席次と衣体を定めたものである。
  発足当初は、「親座、直座、特座、正座、本座、列座」の七座をそれぞれ七席に分けた四九席だったが、その後さらに一番上に「顕座」を増やし、現在では合計八座七席の五六席に別れる規定となっている。
  いくら懇志によるといっても、僧侶に身分を作ることに変わりなく、お釈迦さまの教えからも、親鸞聖人の教えからも全く背いているとしかいいようがない。
  類聚による色衣と五条袈裟、小五条袈裟、切袴の事細かい差別化は、職務衣体にも反映し、さらには輪袈裟も同じ差別化がなされている。そしてそれは門徒式章にも、門徒式章条例としてそっくり反映され、門徒の懇志の進納の多少と本願寺での役職によっての差別化がなされている(注34)。
  しかし、おもしろいことに袈裟の最高位に位置ずけられてきた七条袈裟だけは、復活したが、一切が自由とされ、そこには教団民主化の影響が残ったというべきであろうか。五条袈裟の着用が衣体条例でがんじがらめであるのとは違い、現場の実際はどうであれ、法的には七条袈裟は得度したものであればどれでも着れるという状況になっているのである。
 

◇平等幻想をもたらす「七条袈裟」の役割り。

  本願寺教団において袈裟の最高位とされてきた七条袈裟が何の規制もなく着ることができる、実はこのことがも教団の差別構造を問う私たち僧侶・門徒の眼を奪ってしまっているものではないだろうか。
  かつては封建的教団構造の中で僧階制度が、そして近代では堂反制度がこのこのを許さなかった。確かに現在は懇志の多寡によるが、権威の源泉である門主にはなれるわけではない。また堂反制度が類聚制度と変わっても、差別化の中にあることは一歩も変わっていないのである。
  教団・門主が堂班制度に現れた権威の一部を他の僧侶に譲ったからといって、類聚制度になってもその本質は何も変わったわけではない。それまで権威としてきた寺院・僧侶にとって困ったということはあっても門主制自身が問われるものはないからである。権威というものは最高権威の部分が守られさえすれば、裾野の部分がどのように変わろうとも、いかようにも再生し得るからである(注35)。
  かえって譲った分があるだけ、教団が民主化しているうな錯覚におちいり、性が悪いといわざるをえない。いわば七条袈裟の自由化は類聚制度の矛盾のガス抜きになっていると言えばいくらかわかりやすかろうか。
  したがってそこでは、教団が寺格という僧階制度で作ってきた罪業も、堂班制度の下で作ってきた罪業も問うことがない。ましてや七条袈裟自身が差別構造の中で果たした役割は考えられることもなく身につけるということがおこってくる。しかし教団内でいかに七条袈裟を自由化しようとも、社会においては、落ちたりといえどもやはり権威の象徴として見られている。

◇おわりに

  七条袈裟そのものは、インドまで逆上れば何ら問題はない。しかし、その袈裟はもちろん「金襴の袈裟」ではなく「糞掃衣」である。今ある七条袈裟は、現代にいたるまで日本の国家仏教の展開の中で、そして私たち本願寺教団内身分構造において積み重ねてきた罪業の歴史が染み込んでいる。一度私たちの教団が根本的に洗い直しでもしないかぎり使える代物ではない。一度脱がない限り、着ているままでは洗うことはできないのが道理である。
  1922年、教団の差別構造を我が身を持って問いかえすべく、色衣と金襴の袈裟を脱ぎ黒衣に身を包んだ、「黒衣同盟」は起こった。そして教団を震え上がらせたが、わずか数年でその活動は絶えた。
  戦後再び、同朋会運動が起こり、現在の同朋運動へと運動が広がって来た。だからこそ今この同朋運動が「僧侶の水平運動」と言われた、黒衣同盟を受け継ぐべく、一人ひとりが自らの運動の質を確かめる時期にきているのではないかと思う。私たちが、同朋運動を自らの「救い」を明らかにする、自立した運動として、展開するために。
  同朋運動に学んで15年、やっと目の前に私の課題として「黒衣同盟」が見えてきた。先人の熱き思いとその足跡を、自らの歩みを通してたどりたいと思う。
 

沼に生きる

1982年4月、私は浄土真宗本願寺派西善寺、第17代住職の継職法要を勤修した
  新しく寄付された金襴の七条袈裟を着る私を見守るご門徒の眼差しはあたたかかった、  教団の僧階制度の末端に置かれ、「うちの住職さんにも立派な七条を着てもらいたい」、そんな先祖からの思いが適った笑顔でもあった。
  それからほぼ20年、住職が七条を脱ぐという。
  これまでも、院号廃止を宣言し、色衣を黒衣にし、外陣でしかお勤めをしないとの住職の言葉に、当惑し、ハラハラ見守ってきた御門徒たち。
  この上、私たちの寄付した七条まで脱ぐとは。
当惑は、怒りへ、そして悲しみに。
住職、何と因習に搦め捕られた職であろうか。親鸞さまの「無碍の一道」は、はるか雲の彼方。
江戸時代が今もそのままに生きていると知らされる、教団のヒエラルキー。
にこやかでしかし冷たい笑顔と言葉とが、すべてを吸い込んでいく。
沼。流れのない、行き先のない、そこに呼吸する者として生きつづけるには、泳ぎ続けるしかない沼である。
しかし、泳ぎを止め、水中に生きるものとなれば、水中の世界があるのだろうか。
先代の父は、先々代の祖父は、この沼を泳ぎつづけたのだろうか、泳ぎ疲れて沈んでしまったのだろうか。
私は、息する者として生きたい。
父や祖父、先祖の祈りを果たして生きたい。
大きな空を青いで生きたい行き交うものと言葉も交わして生きたい
そのためにはこの沼を泳ぎ続けねならぬ、。
  今、御門徒の眼差しを背に、先人の苦闘をを訪ね思う。
いつか、いつか、沼にとうとうと水の流れる時が来るのか?
しかしその時、もはや沼は、沼であろうか?
沼の水が海へとそそぐその日を思い
私は今、沼に生きる。
 


(註)

(注1)『同朋運動資料1」頁348〜
(注2)『同朋運動資料1』頁394
(注3)「同朋運動としての儀礼論」の必要性は、拙論「東西本願寺の『蓮如上人五百回遠忌法要』を蓮如の視座で問う」でその方向性を論じた。特に本願寺が2011年の親鸞聖人  750年法要にむけて、現状を丸ごと肯定する、言葉を変えれば差別を温存・助長する  儀礼論を展開しようとしていることから、それを打ち破る実践的「同朋運動としての儀礼論」が必要といえよう。
(注4)『同朋運動資料1』頁392
(注5)『同朋運動資料2』頁392
(注6)『差別・被差別からの解放』(同和教育振興会)頁35
(注7)「本願寺教団改革運動史素描」(『真宗教団論』信楽峻麿)頁122~125
(注8) 同
(注9)解放真宗研究会通信第10号  「『僧侶の水平運動』黒衣同盟」松根鷹
(注10)『同朋運動資料1』頁403
(注11)『同朋運動資料1』頁792〜
(注12)同
(注13)同
(注14)『同朋運動資料1』頁432
(注15)同
(注16)同
(注17)『同朋運動資料1』頁797
(注18)『同朋運動資料1』頁453
(注19)同
(注20)『同朋運動資料1』頁423
(注21)『同朋運動資料1』頁401
(注22)『法衣史』(井筒雅風著)頁3〜
(注23)同  頁35〜
(注24)同  頁7
(注25)同  頁290〜
(注26)『浄土真宗聖典』頁920
(注27)『本願寺史1』頁613
(注28)同  頁614
(注29)同  頁618「蓮如尊師行状記」(『真宗史資料集成第二巻頁九O三頁)
  ただし、蓮如の葬儀の時に、「棺に七条をかけた」という記述は『蓮如上人御往生之奇瑞条々』には見ることができない。「(遺体を)曲禄にのせ」る記述は他の文献にも見ることができるが七条の記述はない。推測できることは『真宗時資料集成』の「蓮如尊師行状記」の「解説」(頁九O)に、稲葉昌丸氏の言葉として「本福寺の先代が『蓮如上人御一代記』と題する通俗本を底本として、寺に伝来する旧記をもって訂正を施したもので、吉崎御下向までの記事はよいが、その後の部分は甚だ杜撰で、真偽相半すべきである」としている。そしてその成立年代も、江戸中期・享保以降とされるのである。
これらを総合して考えると、「棺に七条をかけた」というのは史実というより、蓮如讃仰の高まりと、教団の社会的地位の向上と教団内身分階層化の中で、「七条袈裟の使用の始まりは蓮如にあり」としたいとする教団事状から生み出された伝記だといえよう。
(注30)『法衣史』頁249〜
(注31)『本派法規類簒』1933年(昭和8年)10月7日 頁257〜
(注32)『法衣史』頁341
(注33)『法衣史』頁339
(注34)「衣体条例」(『宗門法規』)頁390〜
(注35)一般的にはあまり知られていないことだが、門主が法要をする時、後ろを歩く侍僧の持つ箱には、五条と七条と九条の三種類の袈裟が入っているという。それは釈尊の時代で  言えば、大衣・中衣・小衣であろうが、教団において九条の袈裟を持つのは門主しかな  いとなれば全く話しは別である。ここにも教団内身分と袈裟の繋がりがあると言わざる  をえないであろう。門主だけは別という権威の保持がある。


「真宗研究紀要・32号」


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