同朋運動としての「還浄」問題 小武正教
目次

はじめに

§「逝去」と「崩御」
§8年前の組における「忌中」論争にはじまって
§「還浄」問題をどういう土俵にのせるか


「忌中」を外す運動の射程

§「忌中」の紙の背後をどこまで課題とするか。


「還浄」を問う射程

§「還浄」で何を問おうとするのか。


本願寺教団における死の表記

§『本願寺通記』に見る死の表現
§「遷化」という表現
§「遷化」を選び捨て、「還浄」を選び取る
現在の「還淨」論争にみる問題点。
§季刊『せいてん』深川宣暢さんの意見、『中外日報』信楽先生の意見の問題点。教学研究所長−石田慶和さんの問題点
親鸞の「還浄」という言葉を、自らの宗教心の表現として取り戻す

なぜ「還浄」を貼るのか

おわりに

§「還浄」の紙から問われる、「麓」から「頂上」へ


はじめに

§「逝去」と「崩御」
 

1989年1月7日、「天皇陛下崩御」の言葉がテレビを駆けめぐり、新聞の号外で書き立てられた。前年の秋から容態が悪くなり、いつ天皇が死を迎えるかということが眼前にせまってきた段階で、私は新聞記者が如何に天皇の死を表現するか、記者の良心と新聞社・国家権力との板挟みの声を数多く聞いた。「崩御」それは歴史的に、天皇・皇后・太皇太后・皇太后に特別に限って使ってきた言葉である。※1つまり、天皇が「現人神」であった時代からの言葉であり、単なる尊敬語ではないからだ。「崩御」という言葉を使うことが、「人間天皇」の死というよりも「現人神天皇」の死を指すということである。ちょっと考えれば解ることだが、いくら総理大臣でも、偉人・賢人と認められる人であっても、決してその死を崩御とはいわないのである。逆に昭和天皇はいうにおよばす、現在の天皇がいくら庶民的に演出されてみても、大嘗祭を行って神となってきたことに、天皇の位置づけはあきらかであり、死においてもそれは反映するといえよう。
  普通葬儀には、「ご逝去を悼み」というように、「逝去」という言葉が用いられるのが一般的である。『広辞苑』によれば、「逝去」とは、「他人の死の尊敬語」とある。天皇の死を「天皇逝去」と書いたマスメディアはほとんどなかったと記憶する。私は「逝去」という言葉をつかって本山に仲間とともに要望書を提出した。しかし、一九八九年『宗報』新年号に本願寺派総長・渡辺静派の名で「このたび、ご病状が急変して、崩御の報に接しましたことは、まことに悲しみに耐えないところであります」と談話を発表している。ちなみに、死に対する尊敬の部分を抜いた普通の表現は「死去」である。


§8年前の組における「忌中」論争にはじまって
 

1991年12月に、三次組内の住職と葬儀店が集まって初めての研修会を行った。そしてそれにいたるまで一年間をかけて、組内住職の葬儀に対するアンケートそして研修会を積みねた。「忌中」を止めるということが一つの目玉であった。研修前の、「忌中」についての組内住職の意見は次のようなものであった。

回収できたアンケート用紙35ヶ寺中22ヶ寺。その中で「忌中」の張り紙について、おかしい10ヶ寺、とくに悪いとは思わない6ヶ寺、やむをえない1ヶ寺、「還浄」 などの別案を考えるべき1ヶ寺であった。しかし数回の僧侶研修をすることで、「忌中」が仏教思想ではなく、神道思想に深く結びついていることが住職に理解され、「忌中」の張り紙をとることはすんなりいくかと思われた。しかし、一人の強硬な反対で、事態は思わぬ展開となった。「忌中」を問題にすると、「年回のOO回忌」の「忌」も問題になり大変なことになるという意見が出てきた。ズバリその通りである。そう指摘した住職は「忌中」の問題が「忌中」に留まるものでないことを感じとったのである。それは直截に言えば、「忌中」の紙一枚のことなら、張ろうが張るまいが、他のものに変えようが大したことではない。ところが、「OO回忌」が問題となると、自分の「飯」の問題に直結するということであろう。「忌中」を問題とし改めることを提起した私に「忌中」の問題が「忌中 」にとどまるものでないという感覚はなかったわけでない。しかし、どういう問題に発展しようと、目の前に「おかしい」ということがあれば、「まず止めることからしかはじまらない」という思いから、研修会を進め、葬儀店との話し合いにこぎつけた。今日でも、その方向に間違いはなかったと思う。この問題は、ここまで問われる問題だから止めておこう、この問題はこの程度だからやりましょうということなら、何をやってもはじめから出来ることはたかが知れているのである。
  その「忌中」論争は、そのことが部落差別の「穢れ意識」につながる問題であるとする私の考えと、つなげて考えるべきではないとする考えとでまた激論を闘わすことになり、相手側より日夜の電話攻撃が組長のところにかかり、組長が倒れるという事態が発生した。それにともない、私も彼も組活動を離れ、約8年間組活動はストップした。※2私は主張の場を教区に移し、その中から1996年10月に、地元中国新聞の宗教欄に「『忌中』やめ『還浄』に」というタイトルで大きく報道され、一気に「還浄」への流れはできあがっていった。それからわずか3年、「還浄」への広がりは、まさにまたたくまであったといってもいい。
   「忌中」を止めるということにいたっては、私は一度1994年3月1日付の本願寺新報紙に掲載された「忌中」を「つつしむ」の意味に解釈した、田中郁郎中央相談員の文章に異論を提出し、論議をし、私の文章が『大乗』誌に掲載されるという過程がある。本願寺の出版物に「還浄」の文字が登場したのは、1994年11月の大乗誌の「『忌中』−『穢れ意識』を問い直す」という『大乗』に掲載された私の文章であろう。それはもっぱら「忌中」の問題点をあげたものではあった。また私はそのことがきっかけで、「忌中」の問題の論理づけを、1994年の広島部落解放研究所・研究紀要1号に「『忌』を問い直す−現在の『忌中』『年忌』の背後にどのような歴史が積み重ねられてきたのか」というテーマで発表するということにもなった。「忌中」についてはそれ以降は大きな論争にまでなることはなかった。ただし、その後そしてその後1998年に本願寺の出版部から出してもらった、私の著書『真宗と葬儀』の中ではもうちょっと踏み込んで、「忌中」から「還浄」へという内容の文章を書き、「還浄」の張り紙のカットを掲載したが、そこには何のチェックもなかった。あえてカットにというのは、この冊子発行に至るには個人名の出版であっても本願寺から出すには、文章はいうに及ばず、 葬儀の様子の袈裟の紋のカットにまで書き直しのチェックが入るということを経験したからである。
そしてこの度の、教学研究所の『季刊せいてん』の深川さんの「還浄」を使うことへの異安心という疑義、そして『中外日報』などで知ることとなった、尺一さん、信楽先生からの『還浄』への疑義をきっかけとした論争が起こるにつけ、「還浄」が教団レベルで論争対象になることにまず感慨を禁じえない。いわば私にとって、「還浄」論争は、本山との論戦の第二ラウンドの開始であった。ただ、様相が大分違うのは、一ラウンドの「忌中」の論戦は私一人が「忌中」反対論のプレーヤーであったのに対して、今回は双方の側が複数となり、議論の土俵が大きくなっていることである。インターネットのホームページにまでコーナーをもうけてもらっている。しかし、今は感慨にふけっている場合ではなく、今まではっきりと提起してこなかった、「還浄」提起の持つ意味を、今のこの還浄論争に元火をつけた者として提起する責任があるであろう。もちろん使い始めた当初から、今回提起する意味が明確に自覚されていたわけではないことも正直に告白しておかねばならない。
 

§「還浄」論争 をどういう土俵に載せるのか

  1998年秋の『季刊せいてん』での深川宣暢さんからの「還淨」への疑義、そしてそれに対しての沖和史さんの反論、さらには今年2000年1月18日 づけ中外日報での信楽先生からの疑義、すべてが真宗学だけの土俵、とりわけ文献解釈の上での問題として論じられていることに不満を持つ。
  『季刊せいてん』への反論は、実は沖さんと役割りを分担し、同朋運動の実践的課題として「忌中」を「還浄」に改めていくという視点から私自身も3回の公開質問状を出した。ただし2回分しか返事はこなかった。※3その2回分とてとても納得できるものでないと教学研究所申し出たが、その後の『季刊せいてん』の「還浄」への読者の声で何故だか私の質問だけは取り上げられることはなかった。昨年7月に3回にわたって中外日報に出された沖さんの投稿論文に、いくつか私の論点は取り上げていただいたが、やはり議論の土俵は、「教義論」のみになろうとしているようだ。

  すでに4年になるが、1996年に教学研究所から『業問題特集号』の紀要が出された。水平社以来の解放同盟からの提起に教団が答えるという中で編集されたものであり、私も一本論文を書かせていただいた。※4ポイントはただ一つ、「『悪しき業論』をまちがっていたということではなく、『悪しき業論』によって積み重ねてきた差別の実態・差別意識を実践的に変革していく『業』理解 とは何か」ということだと今も私は思っている。いわゆる「教学論争」になれば、どれほど本人が主観的には真剣でも、議論は必ず「学者の飯の種」「僧侶のお遊び」に転落していく。たとえばその代表格である梶山雄一氏の業論がある。氏の業論はどれほど緻密に見えても、その質においては、1957年の『日本の民主化と佛教の業思想』と全く同じレベルである。一言で云うなら、被差別者がそれによってどう立ち上がれるか、差別者が自己解放が出来るかまったく眼中にもない、「差別・被差別の現実とは全く関係なく、ただ滔々と業論は進む」の感がある。そしてかの業論が某教区においては、学の権威の下で徘徊するという体たらくぶりである。なぜ、教義論争のみ盛んとなるのか、理由は明白である。教義解釈は教団の現実を反映したものだが、教学の眼目は論じる問題意識にある。そこを明確に提起せずに行う議論は、現実を保管し、自己の既得権を侵すものを排除するためにしかならず、何の変革にも結びつかないということを心得ているから、教義論は与えられた権威の保護のもとに、いかにもそれが本質であるかの演出をしながらも、実は「のんき」な話しに終わってしまうのである。業論で言えば、問うた当事者の前に立たずに、象牙の塔での中で、寺院という隔離された空間の中で滔々としゃべってことたれりとすることになる。それを許さない声の前ではじめて、飯の種に転落することのない土俵が確保されることは今も変わらぬ教団の実態である。
   業論については、そうはいっても、問われる差別の現実があるかぎり、単なる教義論に陥りにくくなった。よく「同朋運動かぜあるから話をしにくくなった」と云う布教使・僧侶の声を聞くが、実はそのことがまだ議論する上でとんでもない話にならないという保証でもある。
   しかしこのままでいくと「還浄」論争は、教義論争というあり地獄に陥ることは火を見るよりあきらかである。なぜなら、業論ほど切実に自己の存在のかかったこととしてこの問題を問う声があるわけではない。自らの問題意識の土俵をどう業論を問われている同じ視点で持ち続けることが出来るか、気楽に論じることが出来る分だけ、より難しい応用問題であると心得るべきであろう。
 

「忌中」を外す運動の射程。

§「忌中」 の紙の背後をどこまで課題とするか。

「忌中」から「還浄」へという流れが一応出来つつある広島県の状況を見るにつけ、単に紙を貼り替えることから始める状況は終わったと考える。次には、社会意識として取り込まれている「死の穢れ」に眼を向けるべきであろうし、一歩踏み込んだ教団内の課題を明らかにするときであろう。ただそれは枝葉の問題にとどまるものであってはならない。今教団が同朋運動の視点から課題としている「葬儀の清め塩」や「年賀欠礼」を取り上げることがまるで無駄だとは思わない。がしかし、そのやりやすい問題に取り組むことが単なる僧侶の自己の正当化にならないためには、私たちの立っている場、本山・寺院という場で、「穢れ意識」を取り入れ利用してきた実態への具体的な問い直しの視点と実践が準備されていなければならない。例えば僧侶の主観的意図はどうあれ、「葬儀」「法事」を執り行う門徒の意識の中に位置づけられてきた「先祖供養」という意識と「穢れ」を払ってご先祖様になるという神道意識を実践的に克服していく手順を提示しなければならないだろう。
   すでに、何とか歴史的筋道だけ手探りをしたというものだが、1994年の「『忌』を問い直す−現在の『忌中』『年忌』の背後にどのような歴史が積み重ねられてきたのか」という広島部落解放研究所の紀要に私の論文として発表したものがある。そこでは、日本社会における「穢れ意識」とそれを反映した「忌」と表現されてきた問題を、「国家の習俗管理という視点」という視点で跡づけていった。そして真宗教団の中に「穢れ意識」がどのように取り入れられていったのか、「忌」という言葉の使用を睨みながら論じた。ここで詳細に立ち入ることはしないが、中心の骨組みは、社会秩序の維持、教団秩序の維持に『穢れ』思想というイデオロギーが利用されてきたということである。
   最近部落解放・人権研究所から出版された『ケガレ−沖浦和光・宮田登対談』では、「穢れ意識」を※1アニミズム的段階の穢れ意識、※2宗教的背景からの穢れ意識、※3社会秩序維持として利用される穢れ意識、という三段階に分けている。しかし、その中では三者の関係は必ずしも明確に位置づけられていない。が、私は今日までの日本社会においては、※1のアニミズム的段階を、※2の宗教が吸い上げ、さらにその※2の宗教的意識を※3の「社会秩序維持として利用する意識」が吸い上げていくという三重構造となっていると考えている。では、その構造をどこから破れるか、それを宗教的課題とし実践したのが法然教団、親鸞教団であったと私は位置づけている。
   ではその「穢れ意識」を真宗教団の秩序維持にどのように利用してきたか、「門主制」を頂点とする教団内身分の権威ということに関わる問題が一つの根幹である。また「法事」「葬式」の中に取り込んで自己肯定してきた「穢れ意識」の問題、経済と直結する問題がもう一方の根幹である。「権威とお金のことを問い返さない運動は、ポーズとはなりえても真の同朋運動とはなりえない」と私は思う。権威とお金が差別を作る根本であることは間違いない。今、基幹運動を推進していくために中心に据えなくてはならない視点であると思う。
   門主制と経済性を運動の射程に入れて考えるとき、実践ということになれば、「発心」は即座でも実行は一足飛びにゆくわけではない。山の裾野から頂上までを見据えたものが必要となる。
   「忌中」を止めるということを現在の一応の到達点と見据えて、もう少し課題を広げてまずは神道的穢れ意識をもととした習俗を克服することに取り組みを進めていく必要がある。それは一方では「喪のビジネス」を課題とし、一方では天皇を神聖なるものに位置づけようとし、その対極に部落差別を温存・助長していくことを課題とするという、頂上の問題まで視野にいれなくてはいけない。
   さらに、土俵を教団内という所にもってくるなら、「忌中」問題をもう一歩ステップアップして、「OO回忌」ということの中に込めてきた問題性を問わねばならない。法事と家制度とのつながりを封建制度との繋がりで明らかにすることも今日までしてこなかった。そうした、問い直しをすることを「OO回会」と表現することで課題化していこうということを提起したい。それは「OO回忌」として勤められる法事そのものと「穢れ意識」との、歴史的・社会的な問い直しと、実践という意味でもある。そのことは当然、葬儀そのものと「穢れ意識」の問い直しを、単に「清め塩」という枝葉の問題にとどまらず、もっとつっこむことになるのはいうまでもない。葬儀そのものの問い直しということについては、すでに『真宗と葬儀』で現時点での私の視点と実践について若干触れている。
ただ僅かな実践の試みからではあるが、間違いないと思うことは、時間と労力を掛けることが最低限の条件であるということである。効率的に印刷したものを配って「穢れ意識」を克服しようという発想そのものが、基本的に間違っている。なぜなら、効率を考えることは、目の前の課題を終えることが目標となり、より本質的課題への手だてを探ることとは、異質であるからだ。同朋運動さえポーズにしてしまうものが、効率性を求める中にある。
 
 

「還浄」を問う射程

§「還浄」 で何を問おうとするのか

   先日人権講演会に呼ばれ、お世話して下さった担当者の女性が、10年以上前に、「私は母の葬儀の時に、『忌中』ではなく『悲中』と張ったんですよ」と教えてくださった。彼女は「忌中」に対して以前より疑問をもっていたようで、それは止めたいという思いを母親の葬儀に実現したのだと。ただしすんなりといったわけでなく、彼女が「悲中」の紙を貼っていたら、それを誰かがとって「忌中」にする、また彼女が「悲中」を貼るということだったということも併せて教えてもらった。
「なぜ小武さん『還浄』にしたんですか」と問われたことが何度もある。直接この言葉を選んだ動機は、私たちが親鸞に対して使っていた言葉ということである。しかし、私が育ってきた宗教的感覚の中では、この言葉は親鸞にしか使ってはならない言葉などと感じたとは一度もなかった。「かえる」という漢字が「帰」であるか「還」であるかなどと問う必要もなく、「浄土にかえる」ということは生活の中で身についた言葉であった。
「親のふるさとに還る」と小さいときからどれほど聞いたことであろうか。いろんな例を持ち出すまでもなく、「還る」ということは自らの信仰内容として使われ続けてきた言葉である。『季刊せいてん』で深川さんがいうように、最近いいだしたかのように頓珍漢を言う人も中にはあるが、自らの宗教体験として、本山ではいざしらず、民衆レべルでは使ってきた。「先立つ我が子は善知識なり」とか「みほとけ様が私の親になってこの世に出て導いてくださった」等々の言葉は、いわば常套句であった。そのことを私が季刊「せいてん」の深川氏に質問すると、深川さんは「法悦の表現は自由でありましょう」と答えられ、「法悦の表現」と「人の命終への表現」は使いわけねばならないと、「会通」の論法(私に言わせれば、辻褄合わせの理屈)を使われている。この宗教体験を使い分けるという一つで、いかに深川さんの論法がいいかげんなものか分かってしまった。いわゆる信仰表現における使い分け、「真俗二諦」になっているのである。
  権威主義者には権威をということで、1997年の全国門徒総追悼法要でのご門主の法話(本願寺新報10月20日号)に、「この一年間に亡くなられたご門徒の方々、お浄土に還られたご門徒の方々を偲び、」という言葉が語られていることを質問状で指摘すると、「小生は御門主の御法話を批評する立場にも、御門主の表現を許すとか許されない等と申しあげる立場にはありません。(中略)御門主において『浄土に還られた』とされるご門徒がおいでになったのであろうと思うだけです」というように、御門主の言葉がまるで特定の知り合いの人に向けてだけ語られたかのような辻褄のあわない回答がかえってきている。ここで深川さんの論は一気に行き詰まってしまった。私の三回目の公開質問状にはついに回答がかえってこなかった。※5

   正直私は、「深川さんは何を護ろうとしているのだろうか」と思わざるをえない。彼の「還浄」を否定しようとする文章に、学者としての誠実さを感じることはできない。なぜなら学の一貫性よりも、門主の言葉に触れまいとする、穿つて言えば狼狽える彼の言葉は、ズバリ言えば、教えを護ろうとするのではなく、現在の教団という秩序維持に奉仕することが、我が身の利益になるという様子がひしひしと伝わってくる。深川さんからの返事に、かえって「還浄」という言葉が教団の秩序維持に深く関わる言葉であることを感じとることが出来たということが私の最大の収穫であった。
  それに対して信楽先生の「浄土から顕れて導いてくださったというような表現は、法然や親鸞に対してのみ言えるんで、他の人に使うのはおかしい」と言う、「還浄」を二祖以外につかってはならないという疑義の文章は、先生の今日までの生き方からしても、「教団の秩序を護る」というより「真宗の教えを護る」という思いであろうと推測する。しかし、主観的にはどうあれ、この疑義は客観的には教団秩序を護り、真宗の教えを矮小化することに輪をかけるといわざるをえないと思う。信楽先生の疑義への教義理解の問題は次の項で取り上げることとする。
 

本願寺教団における死の表記

§『本願寺通記』にみる表現※6

   もう12年で宗祖750回「忌」を迎える私たち本頑寺教団において、「還浄」という言葉はそんなに使われてきたことばではない。確かに特定の人に対してしか使ってこなかった、もっと正確に言えば使うことを許さなかった言葉である。しかしいみじくも『中外日報』で信楽先生の文章に、「法然、親鸞両師は『還浄』もともと浄土におられた身」とリードがつけられているような形で、二祖に限って使われてきたということでは全くなかった。
  まず、真宗教団における死の表記がみごとにランクづけされた、江戸の後期・文化元年(1804)年に編集された『本願寺通記』から拾いあげてみることとする。

父有範卿・御逝去 源空上人・入滅 親鸞聖人・入滅
法名範意・逝去 小黒の女房・往生 信蓮房・往生
善鸞死の記述なはし 覚信尼・往生 覚如上人・遷化 以後も歴代法主はすべて「遷化」
覚如上人二男従覚・寂 存覚・寂 蓮如上人嫡男順如・寂
裏方歴代すべて「遷化」または「遷」
興正寺歴代すべて「往生」
ここには死の表記として※1「入滅」、※2「遷化または遷」、※3「寂 」、※4「往生」、 ※5「逝去」という五通りの言葉をもって死を語っているが、そこには一定の秩序づけがみえる。
 まず、「入滅」というお釈迦様の「死」と同じ表現は、法然と親鸞に限る。次に、歴代の法主に対しては「遷化」を使う。さらに、法主にはなつていないが、教団発展に功績が大とされるという意味と推測するが、「従覚」「存覚」「順如」には寂。興正寺の門主にはすべて「往生」、ならびに親鸞の子どもは「往生」。親鸞の父有範、並びに親鸞の妻玉日法名範意「逝去」とする。
ここには、死をどう表現するかということを宗教的自覚によって使い分けているというよりも、教団内の身分秩序・位置ずけ、教団相互間の位置ずけによって使い分けているということがあきらかであろう。法然、親鸞をお釈迦様と同等のところに引き上げ、あとは序列化していったということである。親鸞の妻である恵信尼の位置づけが低いのは、江戸時代と、恵信尼文書が発見されて以降の恵信尼の位置づけの違いなのか、この点は不明である。

 

§「遷化」という表現
 

「遷化」という表現は、宋の道誠の表した『釈氏要覧』(一O一九)にも登場し、一般的に他宗では現代も使われている言葉である。『龍谷大辞彙』によれば「遷化」は次の様に記してある。
高徳の僧侶の死するを云う。遷移化滅の意とするときは、出家のみならず在家にも通ずべし。或いは義を設けて、尊宿出世の能事既におわり、化度の事を他方世界に移すこととせり。佛の此土における化縁つきて他土に向かうがこどとき、唐の慧持、臨終に際し吾他方に往くきて教化せんと云える如き是なりとせり。禅林象器箋には、前漢書・文選・華厳伝記の三書を引きて、在家にもまた遷化の語をもちいたる例わ示し、釈氏要覧巻下に、遷化を釈氏の死なりとせるはいはく世の偏称に従えるなりと断ぜり。

 私が知る中では、真宗教団において、「遷化」という言葉が登場するのは、三代目の覚如の『改邪抄』の奥書に、「曾祖聖人(源空)遷化の聖日に当たれり。」※7という言葉を見ることができる。
  では親鸞に対してはどうか。『報恩講式』では、親鸞の死に対して、「入滅」という言葉で語っていることが注目される。「祖師聖人(親鸞)は直人にましまさず、すなわちこれ権化の再誕なり。すでに弥陀如来の応現と称し、また曇鸞和尚の後身とも号す」※8とあるように、遷化という言葉こそ用いていないが、法然聖人と同じ位置に置かれていることがわかる。
   しかし真宗教団においていつごろから、親鸞の死に際して「遷化」という言葉が使われるようになったのかは、まだ確かめることは出来ていない。しかし古文書をみれば、歴代法主の中で第十二代准如の「葬礼記」には遷化と記してある。※9 それからしても、覚如よりそれほど遠くない時代に、親鸞に対しても遷化という言葉が使われるようになったのではないかと想像する。

「前大僧正准如光昭遷化葬礼記准如上人
寛永七年十一月晦日
前大僧正光昭五十四歳遷化
同十二月十四日辰刻葬」
もうひとり、第十四代寂如上人の葬礼記を記す。※10
享保乙巳年六月二十八日より
同八月二十九日至
信解院殿
寂如上人 御葬送之記
全部一冊
七月八日
今未刻時御養生御叶不被遊
御往生被成候
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大御門主御違例御養生不被為叶今申刻
御遷化被成候為御留以使者被仰入候者也
  次に江戸の享保期に書きしるされたとする『親鸞聖人正明伝』※11の表現をみることとする。
  「二十八日午のなかばに至りて、頭北面西右脇に臥して、念仏の息とともに遷化したまいぬ」
また同じ享保期の『親鸞聖人正統伝』※12には、次のようにしるしてある。
「二十八日の午の半に至りて、頭北面西右脇に臥し、念仏の息と共に御遷化なり」
では次の問題として、「遷化」をいつの時代から歴代の法主に対して使いはじめたかということである。覚如の生涯を記した『慕帰繪詞』はその臨終の姿は描かれているが、『御伝抄』にしるされた親鸞の臨終とは異なり、「さても不思議を現ぜしは発病の日より終焉の時に至るまで、始終中三が日ほど蒼天を望に紫雲を拝するよし所々に告しめす」※13 とあるように、既に阿弥陀の「化身」として受け止める傾向があらわれているといつてもよいであろう。しかれば、第八代の蓮如はどうであったか。蓮如自身の言葉としても「遷化」という言葉はみることはできない。しかし、その蓮如の言行を記したものには、「蓮如上人権化の再誕ということその証是多し、(中略)弥陀の化身としられ候こと歴然なり」※14 と『実悟旧記』にあるよう、親鸞と同じ位置づけがなされていることがわかる。
   それがさらに、第12代の准如から明確に法主の「遷化」とあることは、それ以前の第11代顕如が門跡となったことと繋がりがあると想定される。それ以降は、『本願寺通記』で見たごとく、親鸞は別格、法主は全て「遷化」、それ以外の者は法主との遠近関係で、死の表記が使いわけられている。

  最後に、明治三十六年一月二十五日発行の『教海一潤』に掲載された、明如の葬儀の記録を窺うこととする。※15

「(略)月の中旬第八日此土の化縁尽させ給ひ、こうあいを遺弟所化に遺しつつ欣慕を安養華臺に期しつつ、念報慈恩の裡に終に往生の素懐を遂げ給う」
「御遷化
(中略)徳望高く宇内に輝き給へる人天の大導師は淨土に還帰し給へり(後略)」
   この明如の遷化の記述は、明確に、親鸞と同じく、「浄土に還る」という言葉を使っていることに注目しなければならない。それは同時に、それまで使っていた「遷化」という事の意味をも指ししめしている。つまり単なる高僧の死に対して使うというよりも、他宗でそうであるように、「この世での教化の仕事を終えて、教化の場を別世界に遷す」という意味そのままであったことが推察できる。ただし、この『教海一潤』の「浄土に還る」ということは、法主に対し教団内身分の反映として、実体化して使われているということからして、親鸞が使われた信仰の自覚としての「浄土に還る」という言葉とは異質なものになっていることも指摘しなければならない。
今年は覚如の650 回「忌」にあたるということが、『宗報』でも「本願寺新報」でも報じられている。ちなみに今年新年の『宗報』には、豊原総長の巻頭あいさつとして、こんな言葉が書かれている。
    「ところで今年は、観応二年(一三五一)に御遷化になつた本願寺第三代覚如宗主の六百五十回忌の年に当たります。」
   遷化は本願寺教団においては過去の言葉ではなく、現在も生きている言葉だと知らされたのである。
   ここまで、遷化という言葉を柱として、本願寺教団における死の表記をみてきたが、何といっても親鸞自身が遷化という言葉を使っていないということを、親鸞の言葉への厳密さからいって注目しなくてはならない。なぜか、「遷化」という言葉に表される信仰内容を拒否したと推測するのである。つまり、如来の働きを実体化するということが、「遷化」という言葉と結びついている状況があったということと考えられるのである。当時の律令仏教体制の中でどう「遷化」が使われていたか明らかにする課題は残るが、真宗教団が親鸞以降に再び律令仏教体制にもどっていく過程の中での「遷化」の言葉の使い方を見るとまず間違いないであろう。
  実体化された「化身」信仰、それに陥ることを克服せんとしたのが、親鸞の仏教的課題の一つであったに違いない。
  「遷化」という言葉そのものもいうに及ばず、言葉を使ってきた教団構造も全く変わっていない。ではいずれはくるであろう前門主、そして当門主の「逝去」をどう表現していくのか、私たち一人ひとりの信心の課題である。
 

§「遷化」を選び捨て、「還浄」を選び取る

「遷化」という言葉が、真宗教団の教団内身分を維持する言葉として使われていたことからして、おおよそ次のような推測を立てることができる。
「遷化 」という言葉は、信仰の自覚内容を表現する言葉というよりも、特定の人(親鸞と血縁のある者)を個人の信仰体験とは関係なく、阿弥陀の化身=「生き仏」と位置づけていくための言葉の一つであったといえよう。
  そして「生き仏信仰」とは、阿弥陀様の教えを伝える師としての役割、「善知識」を個人の信仰の自覚とは関係ないところで決めていくということであるとも云えよう。阿弥陀様の働きは本来人間の側で決められない。だから、誰を善知識とするかは人間の恣意で決めようがないはずである。しかし、教団という組織となると、宗主を善知識とすることが教団の歴史過程の中で必要とされ、だんだんと形づくられてきたことがわかる。そして「代々善知識は御開山の御名代にて御座候」※16と述べるように、宗主のみを善知識とすることが第八代の蓮如の時期には成立したわけである。そしてそのことは現在も生きている。得度習礼のとき、「領解文」の解釈として、「次第相承の善知識とは門主一人である」という講義があった。このことの解釈が変えられたということはまだ聞いたことがなく、現在の本願寺教団の公式解釈であろう。そして、このこと一つが個人個人の主観的思いとは別に、本願寺教団全体の僧侶・門徒の共通した宗教的了解事項として存在しているといっても間違いはない。そして、組織も教義もすべてのものがその信心を護るために総動員されているのである。したがって教団の維持のために、「生き仏信仰」があるというよりも、現在ではすでに「生き仏信仰」を護ることと「教団を護ること」が一体となっている状況といったほうがよいであろう。つまり、組織を護ることと、生き仏信仰が一体となる中で門主に限定して使われてきた「遷化」という言葉は、宗教的自覚の言葉ではなく、世俗の秩序維持の言葉であといえようったといえよう。
  遷化という言葉が親鸞の時代に、すでにそうした内容として使われていたということはこれから実証しなくてはならないが、実体的化身信仰を語る言葉として用いられたということは間違いないのではなかろうか。
  そしてその「遷化」という言葉を使わなかった。さらに「還帰」という言葉を親鸞は選んだ。その事実からして、まさに実体的化身信仰をどう見るかということに視点を注いで「還浄」という言葉も考えられねばならない。つまり、親鸞自身が使う言葉はつねに、信仰の自覚の言葉であると同様に、「還浄」を意味した「還帰」という言葉もどこまでも信仰の自覚として使った言葉の内容として受けとめねばならないことは当然である。
 

現在の「還淨」論争の中で、否定論者、妥協論者の自明とする問題点

§『季刊せいてん』深川宣暢さんの意見※17、『中外日報』信楽先生の問題点※18

 『季刊せいてん』で「還浄」を否定された深川さんと、『中外日報』での信楽先生の「還浄」否定の問題意識の出所は、それぞれの主観的意図でいえば同じでないように思う。言葉を換えれば、深川さんのタブーとするところと、信楽先生でいえば自明とする所は同じではない。深川さんにとって、「御門主」の言葉はタブーであることは、私の公開質問状への返事からして明らかである。しかしまた、信楽先生においても、親鸞が法然を、「もともと浄土にいた身」として語られるあり方には、あまりにも法然・親鸞を讃仰するあまり、二祖のみを特別に「淨土から現れた方」ということを自明のこととするために、実体化という陥穽に陥っているのではないかと思う。人間の普遍的な信仰構造の中で、「浄土から現れた方」ということを語る意味を押さえていかないと、私たちは法然・親鸞の権威にただぶら下がっていくことになりかねない。たとえ私自身が本願教団に所属していようと、本願寺はいうにおよばす、たとえ法然・親鸞であれ最終的な権威となったとたんに語っていることの普遍性が失われ、そこから実体化がはじまる。最終権威の存在をたててしまうと、主観的には、世俗を世俗として明らかしているつもりでも、だんだんと、教団・寺院という内側を自己と同一化し、ついには絶対化し外を否定することに陥る。そして客観的にも教団存在の意味も親鸞の教えの解釈も世俗そのものに転落してしまうという、教団の歴史が私自身の目の前にある。
 この点に関しては、深川さんにも一回目の公開質問状で提起したところである。その主旨をのべるが、事柄は単純である。
 「深川さんの論法によれば、『人間にはその行為によって、浄土から生まれてきた人間と、迷いの世界から生まれてきた人間の二通りが存在することになる』が、その理解は間違いではないですか」というものである。深川さん自身の言葉を借りればこうなる。
 高僧和讃と浄土和讃をひかれ、「宗祖において法然上人は確かに『お浄土』から現れた人と受け止められているようですから、やはり宗祖において法然上人は特別の人であったとされていると思います」と書いてある。
 親鸞が語られた言葉の普遍性を問うこともなく、言葉のみを権威とするから、法然は「特別な人」という言い方が成立しているのである。したがって、「浄土から生まれてくる人間と、迷いの世界から誕生する人間の二通りがある」などという、まるで魂かなにかがあって、浄土から生まれるものと、迷界から生まれてくるものの二種類の人間がいるかの如き考えになっていくのである。
 言うまでもないことだが、「このお方は浄土から誕生した」という言葉も、「無始よりこのかた迷いを続けてきた」という表現も、自己の信心・「自覚」から出てきた表現で、固定化してはならない。こうした言葉を固定化するところに、魂の実体化が生まれ、人間の上に差別を作るイデオロギーが生まれてきたのである。宗教はどんな教えといえども、常に実体化・固定化に転落する危険を持つし、転落した教えを外道と言ってきたのではなかったか。「法然上人や親鸞聖人ならいざしらず、『凡夫』である私たちに『還淨』という言葉を使えば、私たちは元々浄土にいたことになるではないか」という一見素朴な言葉の背景には、この実体化に陥った理解が拭いがたくこびりついていることを指摘したい。

 今、広島の同朋三者懇話会で、「実体的死後往生という考えを、現実逃避のためのイデオロギーとして利用してきた」ことを問い直しているが、実体的死後往生を信じ込ませるというマインドコントロールの必要条件の一つが、特定個人の絶対化であることは言をまたない。
眼を現代に移せば、「統一協会」から「オウム真理教」、「幸福の科学」から最近の「法の華三法行」にいたるまで、すべて「お釈迦さまやキリストさまの生まれ変わり」のオンパレードである。こう言えば、「何を教えの内容とするかが問題だ」という反論があることを想像するが、佛・法・僧(サンガ)の三法の成就をもって佛法成就とするとしてきたこと一つ考えてみても、佛を実体化・絶対化したとたんに僧(サンガ)が形成されなくなり、法の内容が違ってくることは、真宗教団の今日まで十分経験済みのことである。親鸞が使われている「還浄」という意味の言葉は決して実体的な内容ではない。実体化におちいり、本質が現象したかのごときに受け止める「化身」信仰を批判された、それが如来を「自然のようをしらせんりよう」として「ひかり」として示された本典であると考える。また、実体化の批判という事で言えば、現在議論が展開されている、本覚思想批判にも通じていることもつけ加えておきたい。

 教学研究所の所長の石田慶和さんの尺一さんへの返事をホームページで読んだ。

※19「もし『還浄』と申します場合には、親鸞聖人が『唯信抄文意』でおっしゃっているように、如来さまが『率いてかへらしむ』、『つれてかえってくださる』という意味に理解しなければなりません。それが他力の法門の本義であります。その意味で『乗彼願力・還浄」と申すことが聖人の教えに即した言い方でありましょう。」
 この石田さんの「つれてかえってくださる」という言葉の受け止め方にも、如来と衆生の実体化の姿が見てとれる。これではまるで、「牛にひかれて善光寺参り」のイメージである。「つれてかえってくださる」ということは、自らが「導かれる」という自覚の内容として語られた言葉だと受け止めねばならない。
 まったく穿った見方をすれば、門主の「お浄土に還られたご門徒の方々を偲び」という言葉と、従来の法然と親鸞にのみ使ってきた(実際にはそうではなく、法主・門主にも使ってきたことはこれまでみた通りである)と思われてきた「還帰」という言葉との妥協点が、「乗彼願力・還浄」となったと考えてしまうのである。門主の言葉は、単なる美辞麗句ではなく、門主の素直な、つまり宗教心からの言葉であると私は受け止めた。しかし、「還淨」についてのこれまでの教団理解は、門主自身にさえ、自らの素直な宗教体験の言葉を許さないということも暗に教えていると思う。教団という組織からすれば先の門主の言葉は、イレギュラーということになるのであろう。
 

宗祖の「還浄」という言葉を、自らの宗教心の表現として取り戻す。

 私が龍谷大学に入学したとき、某先輩が私に語ってくれた言葉がある。「あなたが大学に来た意味は、人生の師をみつければそれで十分目的は達成される」と。その言葉を胸に師を求めて遍歴し、自らが生きる上で、「自らの身をかけて教えを説く」師と、娑婆の現実の中であたかも法蔵菩薩の願いのごとく自己と社会の解放を願い活動を続ける師を得ることができた。しかし出会いは、当然その人への執着を生み出す。いわゆる古来から「人執」といわれてきた内容である。が逆に、「人執」も生み出さないような出会いは宗教にもならず、いわんや宗教体験とは云えない。ただし、出会いがいかなる内容をもつのか、単なるファン意識なのか、自己肯定に利用しているだけなのか、自らの存在を問い返すものなのか、その証しは自分が立てる以外にないのである。
 この人は私の「善知識だ」、または「御同朋」だといっても、あくまでそれは私がそう受け取っているという話で、まさに自らの上に頂く「ひそかにおもんみれば」という内容のものである。「教え」と「生きている現実」から私は問われることによって、初めて歴史と社会を捨象した観念としての罪悪深重の自己ではなく、歴史的存在、社会的存在としての罪悪深重の自己の具体的姿と、そこに開かれる願いということがあきらかとなる。私の言葉でいえば、どう私の存在が問われているのか、問いの視点を明確にする機縁となるのが「善知識」であろう。「生死いずべきみち」の問いの方向性こそが肝心なのだから。ではその問いの方向を指し示すのは八百年前の親鸞ひとりであるはずはない。宗教を「思想」としてのみ受け止めるならそれも成り立つかもしれない。しかし、それでは事実私をはじめとする、とても間に合わない圧倒的多数の人間が置き去りにされてしまう。そして、仮にもし一人親鸞のみ真実なりとすると、いかに世俗的に教団を維持しようとたち振る舞っても、信仰は保ちうるはずはないのである。大胆を畏れずにいうなら、法然と親鸞の出会いの質が、まさに形は十人十色であろうが、その出会いが一人ひとりに成立するところに教えの普遍性があり、大経に説かれる、世自在王仏と法蔵菩薩の真実性が証明されると考える。法蔵菩薩の説話の真実性を証明するものは、自己の宗教体験をのぞいてはあり得ない。つまり、善知識は他者や教団によって強制されるものではなく、みずからの信心の自覚の表現である。そして、仏説阿弥陀経にもあるように、その阿弥陀の御教えを自らに勧める諸仏も、空中にイメージされた来迎仏のような仏ではなく、娑婆のただ中を生きる生身の諸仏と私は受け止める。ただし生身の人間を諸仏と実体視するのでなく、その人の姿・言葉の背後に如来の働きを見るということであることはいうまでもない。
 私はつい最近、「私のことを還相回向の菩薩と思うのは、みなさんの勝手ですが」と講義の中で問いかけられたことがある。私が師と頂く人たちは、自らが人生の課題として与えられた仕事に最後の力を振り絞って格闘しており、まさに日々自分の生命との競争である。そしてその人たちは、自分を絶対の立場に置いて、「われは師なり」とした途端に、教えを私有化し、如来に背くことであることを問い続けてこられたことが私に伝わってくる。だから私にとっての師なのである。まさにそれは私の先を往く「往相回向」の姿であり、それがそのまま私にとっては私を導く「還相回向」の姿として受け止めるのである。まさに娑婆のど真ん中に突入するが如く格闘し、自己を問いつづけ、自己と社会の解放を願う姿が、浄土への道と私に教えるのである。※20
 仏法に生きる人間を生み出す集まり、サンガは、「善知識」「諸仏」「往還の二回向」ということが、宗教体験として具体的にうなずけてこそ成立する。
 そして教団がどれほど言葉を制限しても、宗教体験そのものは決して遮ることは出来ないことはすでにのべた。しかし、一人一人の阿弥陀さまとの出会いという宗教体験を、願いとして昇華し、行動となっていくのではなく、教団維持という目的のために枠にはめ、歪めてゆくことは人為のなしうることであり、それを積み上げてきた罪は限りなく重いといわざるをえない。教団の歴史は、教団維持・拡大を自己目的とする「はからい」と、それにとどまらない宗教体験の格闘の歴史という見方もできよう。
 親鸞がなくなってもうすぐ七百五十年。教団に奪いとられ、僧侶として奪いとってきた言葉を、一人ひとり、自分の責任で語れる言葉として、取りもどすときがきている。
 

なぜ「還浄」を貼るのか

 葬儀の時、わざわざ玄関に「還淨」という紙をはる必要はないという意見は当然あるであろう。そのこと対して答えねばならないだろう。それは、儀式ということをどう捉え、どう作っていくかという問題である。
 儀式は形を以て宗教心をあらわす、形が宗教心を象徴するといってもよい。そして儀式を仏式でおこなう場合、そして真宗の形で行うときは、その表現のあり方で、いかに参加者の宗教心を開き育てる縁となっていくかということである。
 「お経」がそうであるように、儀式は自らの自覚を促す手がかりであり、譬えてみれば、どのように儀式を作り上げてみても浄土という家に対しては入り口の門である。しかし門が閉ざされていれば入る道は閉ざされてしまうし、門が歪でいれば、中の浄土も同じく歪むということであろう。宗教心が儀式を作りあけ、作りあげられた儀式が宗教心を開いていくきっかけとなる、そうするには、どう葬儀という儀式をつくっていくのか。しかしそのためにはきまりきったものの押しつけではなく、住職と遺族の日常の営みの結果として試行錯誤・葛藤の中からこそ宗教心が表現され、次々と創造的な形も生まれてくると考える。つまり何を削るべきなのか、議論する、それも宗教心のあらわれである。奪われてきた何を取り戻すのか、それを表現するのも宗教心である。そして、その営みこそが、宗教心を歪めずに表現していくための歩みであると思う。

 わたしは、広島の三次という田舎の小さな寺の一住職である。ただし、その私の上にもまぎれもなく教団の積み重ねてきた歴史は事実として生きている。私は自分の寺の問題を担うことは、教団の歴史を担うことだとも思っている、と同時にそれは京都の本山への私の責任の表明である。葬儀における「還浄」の張り紙は、そんな中から生まれてきた。だから私は、何もいらないという人にまで「還浄」という紙を貼ることを押しつけようとは思わない。ただ、共に、今日までの教団・寺院の営みを問い返す営みを行い、そこから新たな儀式を創っていきたいと切にねがっているだけである。
 

おわりに

§「還浄」の紙から問われる、「麓」から「頂上」へ

 「化身」ということの実体化を批判し、一人ひとりのところに率直な宗教心を表現する言葉をとりもどすということを意図して文章をすすめてきたが、儀式とは形にすることという意味では、形式化・実体化に転落しやすいものだということを私自身も思う。釈尊や親鸞が儀式に関わらなかったということからいえば、本来実体化を批判していくのに、儀式をもってすることの矛盾があるということはそのとおりである。「還浄」の張り紙が、新たな習俗に陥るという危惧は妥当なものである。しかし、娑婆を除いては阿弥陀さまの働きが表現されることがないことを考えると、葬儀そのものが神聖で侵すべからざる、変えることの出来ないものというより、間違いだらけの娑婆の行いの一つであると位置づけ、試行錯誤の中から生み出した一つの形、それが「還淨」の張り紙である。ただし、「葬儀の時に『還浄』という紙をはれば、誰もが『仏』になったことになって、聞法ということがおろそかになるのではないか」という意見があることを聞いた。正直笑ってしまった。現場がそんな柔なものでないことは住職ならだれでも知っているはずである。それなら「往生」という紙をはろうが変わらない。それは「還浄」を否定のための理屈であろう。いうまでもないことだが、江戸時代の檀家制度の下での葬儀の役割が、「国法に背かずに生きたかどうか」の検死と、葬儀とが結びついたのが、「死ねば仏」の一つの大きな原因である。幕藩体制の補完作用を果たしてきたことが、どこまで深く浸透しているのか。人間に上下をつけていくことを正統化するイデオロギーとして展開された制度・教学、そして儀式にどのように眼を向けず、問いかえてこなかったか。とりわけ儀式においては全く稀薄ではなかったか。「還淨」の紙は譬えてみれば「蟻の一穴」、私に云わせれば、形に間で表現した問い返しの意志表明である。
亡くなった人が法名を生前もらっていないとき、本山の宗制では、「住職が門主の替わりに法名をつける」となっているが、これは政治的には、先に述べた検死の証明であり、宗教的には往生の「印可を与える」と受け止められていた。私が四歳のころ「ぼっちゃん、わしらをええところにおくってくれる、ええぼうさんになってくださいよ」といわれた言葉を今思いおこす。それから約四十年、私は今、「亡くなった人を仏さまと頂けるのかどうか、みなさんの信心の問題です」と語ってきた。しかしそれは言葉でかたっても葬儀の形はどうであるのかの疑問から様々な試みがはじまった。法名は、例えば、OO幸子さんなら、「釈幸子」か、お経からとった漢字二字の「釈OO」にするか、それは本人・遺族の選択にしている。一見宗則に触れそうだが、「本人が法名をもらっていない時は住職が代理をする」ということをうまく使っているわけである。そのこととも一連のこととして、玄関の「還浄」が一人ひとりの亡くなった人をどう受け止めていくかという自覚の言葉だと私は葬儀の時に遺族・親戚・関係者の人たちに語ってきた。
紙をはってことたれりとする一般化への転落をどう防ぎながら儀式を営んでいくか、「還淨」の紙はそのスタートであった。

 「還浄」の一枚の紙が、教団組織の維持と秩序づのために歪めてきた一人一人の宗教体験・宗教心の表現を解放していくスタートである考えると、その頂上ははるか遠くである。また「忌中」をとることにより、「忌中」に表される「穢れ意識」を社会秩序の維持にどのように反映してきたことへの克服の取組から言えば、その頂上もはるかかなたである。
 しかし、千里の道も一歩からというが、この一歩の上に、浄土への往相回向と淨土からの還相回向の利益を獲ることの確かさがあることもまた間違いないことと実感するがゆえに、歩むことができるのである。



(註)
※1 「崩御」を使う対象は『広辞苑』の「崩御」の説明による。
※2三次組と葬儀店との交流研修会の報告は、1992年春の号の「組報みよし」に報告している。しかし、「忌中」については、葬儀店との研修会では、外すことを確認したが、その後の組内の状況を考え記載していない。
※3季刊「せいてん」 の深川さんへの質問は「公開質問状」として三回提出した。「還淨」への取組は、大きなうねりとなりつつあり、個人の質問にとどまらないという意味である。したがつて深川さんの回答を含めて、論文の最後に資料として提示したいと思ったがスペースの関係で別の所で公開することとする。※4『業問題特集号』1996年紀要5号は、点検糾弾会の中で、水平社以来問われている「業」についての教団の見解を問われることに応答するものとして、専門委員会が編 成されて編集された。しかし、内容は一人ひとりの業論を述べたにとどまり、中間報告という形となった。「解放の主体となる『業理解』」というテーマで私の論文も掲載された。
※5※3に同じ
※6ここに引用した『本願寺通記』は、千葉乗隆先生が『真宗教団の組織と制度』に付録として掲載されたものである。
※7『浄土真宗聖典』946頁
※8 同 1072
※9 「葬礼記」は活字化されていないので、本願寺資料研究所において、古文書を写した。※10 同
※11『真宗全書』第67巻324頁
※12同 305頁
※13 『真宗聖教全書』3巻814頁
※14 『真宗資料集成』第2巻467頁
※15 明如上人の葬儀については、明治36年1月25日発行の『教海一潤』だけではなく、風俗画報増刷「西本願寺葬式図会」というようなものが書店よりだされている。それにも「遷化」の様子として詳細に報じられている。
※16 『真宗資料集成』第2巻467頁
※17 『季刊せいてん』1998年秋の号NO44
※18『中外日報』2000年1月18日号
※19 「坊さんの小箱」http://www3.justnet.ne.jp/
※20往相回向、還相回向、諸仏、善知識を考える上で、円日成道著『観無量寿経購読』の1巻から11巻のシリーズ、並びに藤場俊基著『親鸞の教行信証を読み解くT』を参考にした。
 
 
親鸞は「聖人」という言葉を師法然に対して、また教典の言葉として使われますが、一度も「上人」という言葉を使用しておられません。それは「聖人」は非律令仏教の言葉であったのに対して、「上人」は律令仏教の中で使われる言葉であったからです。親鸞以降、「聖人」も「上人」も教団内身分を表したものであります。教団内身分のランクずけとして親鸞を「聖人」とし、歴代法主のみを「上人」としています。覚如の書いたものなどをみますと、法然に対して「聖人」、そして法然に対する形での親鸞は必ず「上人」が使ってあります。また、当初法然が「聖人」と本願寺教団の中で記載されていたものが、江戸時代までに「上人」へと変わっていく過程も教団相互関の力関係との繋がり考えられます。つまり、今教団で使用している「聖人」「上人」の使用の仕方は、親鸞の意図とは全く違ったものであるということです。 

このことは、今回「同朋運動としての『還浄』問題」として論究した、本願寺教団における「死」の記載の仕方と一連のものであります。
つまり、私の自覚として、親鸞「聖人」とはいえても、法然を「上人」と、また歴代法主を「上人」と呼ぶのは適切でないと考え、差し替えをお願いした次第です。 

※小武氏から、訂正原稿が届きました。親鸞聖人→親鸞・法然上人→法然の書き換えの意図が解らなくてその理由も送って頂きました。

(3月3日)


小武正教氏から、「還浄」問題の論争が、教義論のみが先行し、不毛の論議にならないためにと 本願寺同和教育センターの2月の月例研究会で発表したものを送って頂きました。文中に出てきます深川師とのやり取りもいただけるようです。
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