いのちを巡る諸問題(脳死)


 
1.脳死と臓器移植の概略
南アフリカで1967年にバナードが初めて心臓移植を実施した翌年、アメリカのハーバード大学医学部から不可逆的昏睡の判定基準が出された。それが脳死に関する最初の判定法である。
※68年(昭和43)の和田心臓移植

世界最初の脳死判定基準である1968年のハーバード大学の基準は、脳死を人の死とする必要が起こった理由を2つあげている。
1つは、回復不能の脳損傷を受けた患者を機械で生かし続けるのは家族や病院にとって重い負担であること。
もう1つは、前の年に世界第1例が行われた心臓移植をその後も行うためには、旧来の心臓死の概念を変える必要があることである。
わが国では、日本脳波学会脳死委員会の判定基準を検討するために、厚生省に脳死に関する研究班が編成され、その報告書が「竹内基準」とよばれるようになる脳死判定基準を定めた報告書を、1985年12月に出した。

〔1〕深昏睡
〔2〕自発呼吸の消失
〔3〕瞳孔の固定と散大
〔4〕脳幹反射の消失
〔5〕平坦脳波
〔6〕時間経過
すなわち〔1〕〜〔5〕の条件が満たされたのち6時間経過をみて変化のないこと、二次性脳障害、6時間以上の観察期間が必要であること
 
各国の考え

※妊娠中絶・安楽死・慈悲殺を含め討議されている。
(慈悲殺・mercy killing)〔生命倫理用語〕
尊厳死や安楽死と往々にして混同され誤解されやすいものに慈悲殺がある。慈悲殺は、医師でない家族や第三者が、苦しみ悶えている人に同情したり、重症な新生児などに対する憐憫の情から、早く楽にしてあげようと殺害することで、殺人行為である。(現代用語の基礎知識)
 
脳死による臓器移植を認める国
米国・ヨーロッパ各国・他

脳死による臓器移植を認め無い国
中国・ネパール・デンマーク・イスラム圏
 
法的基準

脳死を死と立法化していない。
イギリス以外のヨーロッパ・南アフリカ・タイ・韓国・ニュージーランド

脳死を死と規定している
イギリス(法的拘束力は無い)
各国とも死を定義する法律は無い。
ここに我が国の法的問題点があると思える、いのちの国家管理ではないか?
 
臓器摘出の方法

医師の判断にゆだねる(コンストラクト・アウト)
フランス・スペイン

提供の意志を示す人に限る(コンストラクト・イン)
アメリカ・等
※アメリカでは1981年に脳死患者を実験台にして人工心臓の実験が行われた。(家族にはインホームド・コンセントは行われたが本人には無かった)
 
2.佛教及び宗教界

ほとんどの宗教が沈黙しているのが実状

カトリック教会も始めは肯定的だったが、最近は慎重に成っている。
※輸血拒否で有名な「エホバの証人」は認めているが、輸血が出来ないので実質上移植は不可能。

【大本教】「脳死は臓器移植のための作られた便宜的な死。すべての人が納得している死とは言い難い」と、教団をあげて臓器移植に反対し、「ノン・ドナーカード」配布を行っている。
※人造臓器の完成を臨む。

真宗大谷派
 「医療そのものが必要以上に美化されるべきではない」と前置きして、「いのちの尊厳を見失わせる危険性を孕んでいる」と指摘した。
 そして、仏教の生死観に基づき、「『自我の思いを超えたいのちのはたらき』(無量寿)に生かされていることに気づき、生も死も与えられたものとして引き受けられるとき、かけがえのない今この時の『いのち』の意味に目覚められる」と呼びかけている。(部分)(1999年3月)

本願寺派
 共にあゆむ42号・FAXサービス(075−341−2475)
本願寺ホームページhttp://www.hongwanji.or.jp/ に特集がある。
否定的である、公式見解ではない。

※「仏教から見る脳死」http://www.think-life.gr.jp/

3.佛教の生命観度

輪廻的生命観
無始無終(いのちの共有)
一切の有情はみなもつて世世生生の父母・兄弟なり。(歎異抄・註釈版834頁)

縁起的生命観・無我・五薀仮和合(ごうんけわごう)
生命という実体があるのでは無く、さまざまな条件が重なりあって形成される。
「今飲んだ水はどこから私なんだろう?」

4.仏教学者の多様な意見

肯定論
平川彰(印哲・東大名誉教授)梶原雄一(中観・京大名誉教授)大峯顕(宗教哲学・阪大名誉教授・本願寺派)伊東道哉(東北大・印哲)他
※公立大学(医学部の有る)の教授方が賛成派が多いのは考えすぎだろうか?)
捨身(しゃしん)
仏に供養し、また他者を救うために我が身を捨てて布施すること。
尸毘(しび)王ジャータカ・鷹に追われたハトのために自分の肉を割いて鷹に与え、ハトを救った。
法隆寺の玉虫厨子・捨身飼虎(しゃしんしこ)
 餓死しかけた7匹の子虎と母虎とを救うために、薩(土+垂)王子(さったおうじ)がわが身を投げ出してその肉をくらわせた。金光明最勝王経(捨身品)
他多数あり。
「某[親鸞]閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたふべし」(改邪鈔)註釈版P937
私はこの文の意味を臓器提供の根拠とするのは間違いと思う、この一文はいのちは同根であると意味と、追善供養の否定の意味と受け取っている。
 
※1990年の日本印度学佛教学会
布施行は認めつつも三輪清浄(さんりんしょうじょう)を条件とする。

1.布施をする人
2.布施を受ける人
3.布施をするもの
が清浄で無ければならない。
 
一方的働きかけや金銭的授受のためになされてはならない。
他人の臓器・自らの肉体への執着を離れるべきである。
布施の精神で自己の生命を他者に投げ出すのは宗教的崇高な行為である。
 
菩薩行
個体レベルの生命にとらわれるのではなく、それを破って生命共同体の道を歩もう。(大峯顕)
 
 
否定論

老少不定
命の長短をそのまま受け入れる。
前田恵学(印度佛教)小川一乗(印度佛教・大派)
 
命根(みょうこん)=煖(だん)(倶舎論(くしゃろん))
冷たくなる。
加藤宏道(倶舎・本派)梅原猛・信楽峻麿(真宗・本派)
 
真心一如(正法眼蔵)・五薀仮和合(ごうんけわごう)
前田恵学(印度佛教)小川一乗(印度佛教・大派)梅原猛・信楽峻麿(真宗・本派)他
 
※脳にだけ人格を認めるのは人権の侵害にならないのか。
 
全体を見渡して、否定論者は「脳死」を死ととらえていない。
肯定論者は、脳死論より臓器提供に重きを置いている気がする。
例外として、梅原猛氏は脳死は死では無いと言うが、臓器移植には肯定している。肯定の論拠は、菩薩行。
 
日本人独特の生命観
海外のボランティアで直面する問題として、3つの事象に出逢った時の対処、1.救いの手を差し伸べても助からない者
2.救いの手を差し伸べると助かる者
3.救いの手を必要としない者。
日本人はどうしても1の人にも手を出してしまう。
国際的に見ると必ずしもほめられたことでは無いようであるが、ここに日本人が脳死に抵抗を感じる要因が含まれていると思える。
 
結論めいたもの
 最近のアンケートでは、自分が脳死状態になったとき臓器提供しても良いと考えている人が多いという統計が出ているが、これはそれそこ「いのち」の私物化では無いだろうか?自分が使ってもう要らないから、後は好きに使ってと言うのでは、いのちの尊厳とは言えないのでは無いだろうか?
このように同じ行為でもその人の思いによって、いのちの見方は変わってくると思われる。良く本願寺では公式見解をなぜ出さないのかという声が聞こえるが、私は絶対に本願寺は公式見解を出してはいけないと考える、そこまでの教条主義は危険であり、教義による「いのち」の呪縛は許されるべきではない。


上記の一文は、某組の同朋講座で話した脳死についてのレジメです、B4袋とじ2枚分ぐらいの分量になるかと思います。約二時間の話ですので前半の部分は省略して話しました、稚拙なレジメですが脳死についての宗教界等の動向を比較的簡素にまとめたつもりですのでアップします。このレジメは龍谷大学助教授鍋島直樹師が随分前に語られたものを叩き台にして作成しました。
また、ここでは話してないですが、脳死についての問題点はカニバリズムや環境問題を代表とする科学と人間との文明論に派生して行くものです、これついては後日アップするつもりです。


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