「宗門檀那請合之掟」を読む

……過去帳の意味することの点検のために……

西脇修

はじめに


  周知のごとく、現在の仏教界の成立基盤は寺院と門信徒・檀家との結びつきである寺檀関係の上にある。それゆえ、必然的に寺檀関係を強固にすれば寺院の基盤は強固になる。しかし、寺檀関係を成立させている要素によって、その内実は、換言すれば、強固さは砂上の楼閣になりかねない、いや、砂上の楼閣であろう。
  かつて、戦後の東本願寺が経済的に疲弊のどん底にあった時、七十四才の暁烏敏は宗務総長に推挙され、一年弱の就任中に経済復興を成し遂げた。その因は、在山中の朝の晨朝法話とご法義地への法話行脚(北陸・福井・名古屋・岐阜・富山・山形等)であった。それは「道心の中に衣食あり」の実践であった。
  またかつて、現況の宗門の有り様を表象する話として、寺院の裏手にある境内地の墓地を見つめながら、「これがあるから、これからも寺院が安泰だ」「これがこれからの寺院衰退のシンボルだ」というような対立的な見解のやりとりの話があったことを思い起こす。
  いずれにしても、近世における寺檀制度の成立が、寺檀関係とその内実であるご法義相続と、その形骸化に大きな影響を与えた。この寺檀制度を具体的に制度として成立させていたのが「宗門人別帳」である。この「宗門人別帳」こそ当時の社会の「現在帳」であり、その「現在帳」からの削除(縁付・奉公・死亡・逃散・欠落等)の内、死亡について記載・記録しているのがいわゆる「過去帳」である。まさに「過去帳」は「人別帳」と表裏一体のものであった。そこには、「人別帳」の記載をそのまま「過去帳」に転記したであろう事は想像に難くない。
  本稿では、「宗門檀那請合之掟」の紹介と「人別帳」作成に至るまでの経緯を略記することを通して、「過去帳」の意味することを一瞥してみたい。
  なお、「寺檀制度の成立」についての法令的変遷の詳細は、拙稿「近世寺檀制度の成立について」(『近世仏教の諸問題』所収・『親鸞大系』歴史篇第九巻「近世の真宗」所収)を参照されたい。


一、キリシタン禁制と宗門改め(慶長・元和期)


  キリシタン禁制の始まりは、秀吉の天正十五年(一五八七)のいわゆる「伴天連追放令」に端を発する。そのねらいは、本願寺「寺内」の解体と宣教師とキリシタン諸侯及び領民の連繋の分断、さらには現実の長崎教会領の解体であった。また、宣教師たちによる貿易への関わりは国産品流出のみならず人身売買にまで及び、秀吉の天下統一に齟齬を来す現状でもあった。一向宗やキリシタン等の宗教勢力による自立的自治組織は、秀吉の天下統一とは必然的に対峙するものであり、武力弾圧による必然性は言うに及ばない。併せて、後年の宗教勢力への支配完了と天下統一は、対外政策の独占(鎖国等)を通して武力の存在価値を低下せしめた。そこには兵農分離による武士勢力が、頂点(幕府)による安堵を通して権力を収斂されてゆくという道程があったことに、武士すら気づかない巧妙な政策であったといえる。天下統一後は武力ではなく思想統制をもって支配できる要因をこれらの政策から醸成されていったことは間違いない。後に残るのは、分離化された農、いわゆる兵以外の人々の完全支配である。それも兵を使わないところに頂点の権力を維持させてゆく装置があった。兵を使うことは兵力を強化することの何者でもないからである。権力内兵力(軍事力)は内部崩壊の要因となりうることは歴史が証明するところである。
  よって、一向宗及びキリシタン弾圧は武力を持って始まるが、後には法令的強化を通して、暴力犯ではなく潜在的に認知せしめる思想犯としての取り締まりの形式を取る。いわゆる、武力弾圧ではなく、思想弾圧としての形態であった。
  しかし、その政策の完全遂行に至るには、朝鮮侵略から関ヶ原、さらには大阪夏の陣を終えるまでの時間を要し、武力を暴力と限定するところの暴力装置からの暴力排除が進められたと見るべきである。いわゆる、戦国時代の終焉は、如何に武士たちの暴力装置としての機能を停止させるかが、頂点に立つ者の必然的課題であったからである。それはそのまま新たな支配装置の構築でもあった。武力なき暴力装置、すなわち意識・思想による暴力装置、その支配装置は宗教的権威や宗教に名を借りた権威、民衆にとっては目に見えぬ意識構造が新たな暴力装置として機能するのである。具体的には、上部構造の朝廷公家の「権威」と幕府の「権力」の確執であったり、民衆においては村の神社や所属寺院との「しきたり」という名の従属関係であろう。必然的にそこには人々に内在化している「差別構造」を顕在化させるものがあった。
  それらの新たな暴力装置としての差別構造の顕在化は、その発端が前述の秀吉の「伴天連追放令」の発布であり、究極的には寺檀制度の成立に結びつくものと考える。
  よって、寺檀制度の帰結である「宗門人別帳」の作成は差別構造の顕在化であり、「過去帳」は「宗門人別帳」の除籍簿と位置づけられよう。それゆえ、「過去帳」には支配の論理が潜在化し、差別構造の温存化の役割を必然的に担っているのである。
  秀吉没後、徳川幕府の政策でキリシタン禁止政策を確認できるのは、『徳川実紀』の慶長十二年(一六〇七)十二月条の家康の杞憂の記述である。禁制初例としては、同書、同十六年(一六一一)八月条の将軍家厳禁の記述である。大名宛の禁制は島津家久宛の元和二年(一六一六)八月八日付の老中奉書である。
  さらには、慶長十八年(一六一三)頃を契機とした法令によるキリシタン禁制から宗門改めによるキリシタン禁制への移行は、改宗者、すなわち「転びキリシタン」の創出となり、彼らに対する証文発給、いわゆる「寺請証文」発行の始まりとなった。
  「転び」が具体的暴力を振るったのではなく、宗教的自由、ひいては人間としての自由を持ち得た信仰者は、権力にとっては目に見えぬ暴力でしかありえないのである。その暴力を放棄したことを証明するのが「証文」であったとみるべきであろう。この時点で、今度は暴力が問われるのではなく、証文を通しての「契約不履行」が問われる形に変質する。
  慶長十八年以降の多くの法度の発布は、総ての勢力に対して法度による契約の履行性を問うものである。たとえば、同年の勅許紫衣・諸寺入院法度、公家諸法度、元和元年(一六一五)の武家諸法度、禁中並公家諸法度、諸宗諸本山法度がそれであり、「紫衣事件」の如く、契約不履行に対する措置は法度支配の確認と強化以外の何者でもなかった。
  次にこれらの法度支配を民衆レベルまで徹底することは、同年の「禁教令」に見る如く、「下々百姓以下至迄」キリシタン禁制の宗門改めが実施され、五人組適用、火刑適用の厳罰主義等、転ばぬ者への厳罰政策と寺請証文による新たな契約によって成立した。このように、慶長期のキリシタン禁制の特徴は、キリシタンの転宗者への管理化の始まりであった。
  慶長・元和期における幕藩制国家による法令的支配のはじまりとその差別構造は、法的に整備されつつも具体的には完全機能とはいえない、なぜならば、法の不履行と違反は厳罰に処されるが、法を順守することの利害が明確でないからである。
  差別構造を伴う支配構造は必ず利害を伴うものとして存在する。差別者が利益を蒙ることによって構造は継続し、その矛盾を指摘することによって構造は瓦解する。しかし、その構造は、数の多少で決定するのではなく、権力を持っているものの正当性において成立する。であるから、誤謬があっても正当性を主張するのが差別者とその構造を支えるものの意識なのである。
  歴史的評価において誤謬性と矛盾を指摘できえても、一旦、強制的であると雖も両者が認知した契約は、その内容を吟味するのではなく、履行の有無にしか評価を見いだそうとしない。一般的には「しきたり」であったり、「みんながしている」という意識であるが、その無意識の遵法性意識こそ、誤謬性を内包する法に対する、いわゆる、潜在的無批判的法遵守意識である。結論的には、誤謬性を指摘しえないから、その意識は差別構造を再生産、温存さすことになる。それが近代における議会における法成立を改正できる機能との大きな違いである。しかし、現代の現実は、一度法が成立すれば、改正できないかの如く錯覚するのは、法の契約の履行に重きを置き、法そのものの正当性を論議しないからである。
  まさに制度(法規制)を絶対化するところには、構造と制度の矛盾を提議あるいは批判等ができないものと思い込む自己呪縛がある。それが差別意識であり、差別構造であり得ることは明白である。
  よって、慶長・元和以降、政策は具体的利害の元での政策に移行する。褒賞金制度の提示である。あるいは、連帯責任制の導入とその強化である。


二、褒賞金制度と宗門改め(寛永期)


  寛永期にはいると宗門改めに褒賞金制度が取り入れられ、宗門改めの全国化が始まる。もちろん、連帯責任制の強化である五人組との連関はいうまでもない。
  さて、褒賞金制度の初例は、寛永十年(一六三三)『徳川実紀』に見られる「邪教の訴人褒賞銀百枚」という記述であるが、その金額には驚嘆すべきものがある。すぐさま、同十三年(一六三六)には、銀二百枚とも三百枚ともに増額された。ただし、これらの施策は長崎奉行宛の下知状であり、バテレン(神父)に対するものであり、全キリシタンに対するものでもなく、未だ全国的なものではなかった。
  ちなみに、当時の貨幣制度や扶持などを考慮してみると、訴人褒賞金は莫大な金額である。いかに、制度の完結に金品が反映したかである。法の遵守性よりも密告による経済効果の大きさは秘密警察的というのは飛躍しすぎであろうか。ここには、思想犯の取り締まりと密告と金品という普遍的な歴史的流れがある。密告であるが故に、必ずしも訴人に対して金品・身分等が保証されたとは言い難い。
  当時の貨幣価値は、金一両=金四分=金十六朱=銀六十匁=銭四貫文=銭四〇〇〇文、が大枠の換金レートであった。また、銀一枚=銀四三匁であったから、銀三枚=約金二両余、金一両=約銀一・四枚となる。すなわち、銀一〇〇枚は約金七十一両余に相当する金額である。江戸期の相場の変動は大きく、時代を通して安定はしていなかったが一応のレートである。
  米との換算では、米相場の変動はあるが、米一石=金一両=銀六〇匁=約銀一・四枚が大枠のレートである。また当時、一人扶持は日当玄米五合をさし、一年間で一石八斗であった。金一・八両である。
  よって、銀一〇〇枚は約金七十一両余(米七十一石余)であるから、約四十人扶持の米となる。五人家族八年分である。
  ちなみに、江戸期を通しての全国人口は約三千万人、村数六万三千五百前後、天保期一村平均四百二十五人、平均石高四百八十二石(約二百六十八人扶持・年貢を考慮すれば実質百六十人扶持)である、しかし、米以外の生産物と生産高は慮外であるから、米は米本位制社会においては金であった故、村財産は平均二百五十から三百両程度と推量できる。
  さて、本論に帰することにする。
  一方、寛永十二年(一六三五)九月には、幕府は江戸城白書院において全国的に諸大名に対して伴天連キリシタンの取り締まりを命じている。これが全国的な宗門改めの端緒となる。翌月には宗門改めを「起請文之案文」を持って出された。さらには、同年同月に、小浜藩では五人組連判手形と宗門改寺手形の両手形を全住民に申しつけた。島原・天草一揆の二年前である。
  ここで重要なのは、「起請文之案文」すなわち「神仏に制約する言葉を文書化したもの、いわゆる誓詞」をもってキリシタン禁制が出されたことである。キリシタンでないことを神仏に誓うことであるから、宗教による宗教弾圧の形を取ることになる。ここに、権力による宗教認知権をみることができ、権力に内包する宗教権力によって統制するという、無意識的祭政一致体制が、いわゆる、国家による宗教による宗教統制である。この統制は権力による統制を「起請文」にすることによって、世俗の論理ではなく、宗教倫理と見せかけることに大きな効果がある。日本古来の神仏に誓うことでキリシタンを排除すること、このときの宗教が普遍的宗教であろうはずがない、それは、教義すなわち救済の論理なき宗教は、権力の道具にしかなりえないからである。
  ゆえに、権力の誘導もしくは強制による宗教政策は、おのずから宗教統制となり、必然的に救済の論理なきゆえに差別構造を温存する宗教意識を作りだすのである。それは、権力の一般民衆政策であり得ても、宗教性をおびたとき、その施策は宗教差別政策と軌を一にすることは明白である。小浜藩の例はそれにあたると考えられよう。
  このように、寛永十二年は寺檀制度成立の重要な年代の一つである。
  以上述べてきた施策が、より一層具体化し強化されたのは、寛永十四年(一六三七)の島原・天草一揆以降である。元来農民一揆であるこの一揆を幕府は宗教一揆として位置づけることによってキリシタン禁制を強化していった。
  たとえば、翌十五年には「禁教令」と「褒美に関する触」の発布によって、褒賞金制度の強化、具体的には全国的な制度になり全キリシタン、すなわち、ばてれん(神父)・いるまん(修道士)・きりしたん(信者)にまで拡大され、きりしたんの訴人、いわゆる信者に対しても銀三十枚から五十枚の褒賞金が出されることになった。前述の貨幣換算によれば約金二十両余(米二十石余・約十一人扶持)から金三十六両弱(米三十六石弱・約二十人扶持)となる。
  また、この頃より、大名・旗本には一紙証文の形式で寺証文を提出させることを徹底化し、全国化の端緒となるが、寛永十八年(一六四一)には、「口上之覚」をもって、往来の不自由にならないよう、かつ、他領での宗門改めの認知等、融通性を持たせながらキリシタン改めの強化を徹底させた。これによって作成され始めるのが「宗門人別帳」すなわち生存する者のキリシタン禁制に基づく人頭改めの集計表、いわゆる「現在帳」とも命名できるであろう冊子であった。
  寛永年中のキリシタン禁制政策の特徴は、幕藩体制の成立上不可欠なものとして捉えられる。それは、キリシタンのみならず、一向宗、日蓮宗不受不施派、等の弾圧に見られるように、基本的には宗教集団に対する仏法為本の徹底否定と宗教集団側の王法為本の受容である。ここに真俗二諦の徹底化が図られる嚆矢をみることができ、最終的には宗教集団の自律的宗教政策として幕府の法度政策を自ら受容し、幕藩体制下の宗教としての役割を担うことになる。まぎれもなく、差別構造の宗教的側面の役割であり、必然的に「宗門人別帳」の作成はその一環になることは明らかである。
  次に、この人別帳の作成と組織の成立を一瞥しておきたい。


三、宗門人別帳と宗門改め


  万治二年(一六五九)、褒賞金の「高札」の再掲示と万石以上の大名に「覚」が出されるが、その「高札」の内容は、ばてれんの訴人銀三〇〇枚・いるまんの訴人銀二〇〇枚・同宿並宗門の訴人銀五〇枚にそれぞれ増額され、五人組まで罪科が及ぶことを強調している。また、「覚」では、(1)未だにキリシタンがいるから家中でも中間・小者まで調査し、奉公人の入れ替わりの時には念を入れること、(2)百姓・町人は五人組単位で檀那寺をよく改めること、不審な宗旨は穿鑿をすること、(3)「高札」の文言がよく見えるよう書き直すこと、等が記され褒賞金制度の徹底と五人組政策と密接な関係を持っていたことが理解できる。
  さらには、寛文三年(一六六三)の武家諸法度改定においても「一、耶蘇宗門之儀、於国々所々弥堅可禁止之事」が加えられ、翌四年の「覚」「口上之覚」によって「宗門改役」の設置が明示された。その内容は一万石以上(大名)・九千石以下(旗本・御家人)・代官支配(幕府直轄領)それぞれに役人を置くこと、寺社領門前町では寺社奉行を通して住持・神主が穿鑿吟味すること、特に転びキリシタンの取り締まりと五人組手形提出の強化は特筆すべきことであった。この五人組手形提出は単なる提出だけにとどまらず、同六年(一六六六)の「関東御領所下知状」では、転び者・不審者・キリシタン等が他所より訴人があった時は五人組のみならず一郷の者を処罰するという厳しい連座制を施行した。
  この後、同九年(一六六九)には、日蓮宗不受不施派の禁制が、五人組連座制の元で寺請禁止として再発布され、さらには、元禄四年(一六九一)には悲田派・不受派も禁止され、邪宗門がキリシタンだけでなく、仏法為本主義の宗派への拡大となった。これにより、幕府による反権力(反体制)宗教への統制の完全帰結となった。
  一方、宗門改めとその役所である宗門改め役の設置は、キリシタン禁制の穿鑿吟味の政策を円滑に遂行させ、「宗門人別帳」の作成を容易ならしめた。この「宗門人別帳」作成については、寛文十一年(一六七一)十月の代官所支配への「達」によって具体化され、後に直轄領から大名・旗本・寺社領へと浸透していった。
  その内容と概略は長文になるが以下に提示する。出典は『徳川禁令考』(読み下し・校正等は筆者)。
 
  『宗門改めの儀につき御代官へ達し』
 「其の方御代官所耶蘇宗門改めの儀、御念を入れられ候由に候えども、いよいよ油断無く申しつけらるべく候。向後は百姓一軒ずつ人別帳へこれを記し、一村切りに男女の数寄せを致し、又一郡切りに成るとも、都合をしめ、自今以後、懈怠無く申し付けられ、帳を作り、手前に差し置かれ、此の方へは当年の通り一紙手形差し上げらるべく候。申すに及ばず候えども、御代官所の男女、他所へ縁付き並びに奉公にこれを遣わし、勿論死去せしめ減じ候分、他所より来たり候これ有り候間、増の分差し引き相違無く、男女も年令をも銘々書き印候様尤もに候。宗門改めばかりに限らず、諸事吟味為され、然るべき事候間、其の意を得らるべき候。但し、改め申され時分の儀は、春夏中より申し触れ置き、秋中検見(毛見)として手代遣わしの節か、又は御年貢取り立てに遣わし申しときに成りとも、其の段は勝手たる可き次第に候、以上。(以下、日付け署名略す)」
  この「達」は、幕府直轄領に出されたものではあるが、内容としては一軒ずつを人別帳に記し、一村・一郡ごとに集計をし、手控えとしてその人別帳を手元に置き、勘定頭へは一紙手形として集計表を提出させている。また、死去・縁付き・奉公等による人数の増減・年齢にも留意し、人別帳の記載は年貢査定(毛見)時期か、取り立て時期かの選択は其の領地に任せていた。しかし、年貢と人頭を同時期に調査する方法はそのまま労働力と貢租負担能力の点検をも兼ねていたと推量される。さらには、「諸事吟味」「然るべき事」「其の意」等の文言から、「宗門人別帳」の作成は単なる人頭調査ではなく、個人情報すべての調査と理解できよう。
  それゆえ、「人数減」の証明帳である「除籍簿」たる「過去帳」は、まさに「宗門人別帳」と表裏一体のものなのである。当然、そこには「人別帳」に記されたことが記されていたであろう事は想像に難くないであろうし、寺院の立場・住職の立場が幕府の末端の下級官吏と同様、いや、思想検証がある故それ以上でありうることは当然であろう。それらの寺院の立場を安定さすことは、そのまま体制順応の庶民教化であり、王法為本の流布以外はありえない状況となる。差別構造の補完以外のなにものでもないのである。
  なぜならば、幕藩制国家の本質は兵農分離の完成による徳川を頂点とする武力・財力の収斂であり、その貫徹されるべき身分制は、民衆の浄穢貴賤意識を徹底化せしめること(無いものを有るものにすること)によって、具体的には身分外身分の存在を慮外することによって、構造と意識を一体化させ成立したのである。
  意識として本来有るべきでない浄穢貴賤意識は、浄穢貴賤意識による身分外身分を作ることによってそれを具体化しながら、一方では身分外身分であるという除外構造で差別意識を潜在化させ、有るべきでない浄穢貴賤意識を有るものとしてしまうのである。そのことは、「差別構造」を「差別構造としない」とする意識(身分外身分を認めながら本来的身分制に属さないとする意識)を創出することによって、「差別を認知できない、もしくはしない」という「新たな差別意識」ができるのである。換言すると、「差別構造」が「差別構造でなく、当たり前の構造」としての普遍性を持たせやすい「差別意識」と「差別構造」を作っていったのである。
  その浄穢貴賤意識の変質には様々な宗教意識が関与していることは当然であろう。日本における浄穢貴賤意識は宗教を抜きにして語ることはできないし、天皇制そのものもその範疇にはいることは自明の理である。
  この差別意識と構造の基底にあるのが完全なる情報管理の元での人頭把握と貢租負担能力の把握であり、かつまた、浄穢貴賤意識を否定する宗教意識の有無査定であり、それらを具体化したものが「宗門人別帳」であり、それによって身分と身分外身分も明白となるのである。
  現在の我々はこの意識と構造を、「差別意識」「差別構造」として批判し、解放していかなければならない状況にあるのである。
  であるから、「過去帳」を検証するとき、「宗門改め」、いわゆる邪宗門吟味と人別帳作成を抜きにして検証できうるはずもなく、また、真俗二諦を論ぜずして語り得ないことは以上の経緯の中から明らかであろう。
  そして、その批判すべき意識と構造の具体的な内容として「宗門檀那請合之掟」が、家康に仮託されて一七〇〇年前後に成立し、偽文書でありながら幕府の正式文書の位置づけを持ち続けたのである。


四、「宗門檀那請合之掟」を読む


  以下に、「宗門檀那請合之掟」をあげるが、この「宗門檀那請合之掟」の成立は、(7)(14)の悲田宗・不受不施派の禁制から考慮すれば、前述より明らかなとおり元禄四年(一六九一)以降となる。また掟の末には十五条とあるが十四条であるのは「廉書き」であるから一条欠落したか、もしくは合併している可能性もある。しかし、現存する史料はほぼこの形で現存している例が多く、ここではこの史料を底本として紹介する。
宗門檀那請合之掟
    (註・読み下しと校正及び通し番号付加は筆者、底本は『徳川禁令考』)
(1)一、切支丹之法、死を顧みず、火に入りても焼けず、水に入りても溺れず、身より血を出して死をなすを成仏と建てる故、天下之法度厳密也。実に邪宗なり。之に依って死を軽する者吟味を遂ぐ可き事。
(2)一、切支丹に元附くものは、闥単国より毎月金七厘与え切支丹になし、神国を妨くる事邪法也。此の宗旨に元附くものは、釈迦之法を用いず故に、檀那寺へ檀役を妨げ、仏法の建立を嫌う、依って吟味を遂ぐ可き事。
(3)一、頭檀那成り共、祖師忌・仏忌・盆・彼岸・先祖命日に、絶えて参詣仕らず者は、判形を引き、宗旨役所へ断り、急度吟味を遂ぐ可き事。
(4)一、切支丹・不受不施のもの、先祖之年忌、僧之弔いを請わず、当日は宗門寺へ一通り之志を述べ、内証にて俗人打ち寄り、弔い僧之来る時は、無興にて用いず、依って吟味を遂ぐ可き事。
(5)一、檀那役を勤めず、然る共我意にまかせ、宗門請合之住持人を用いず、宗門寺之用事、身上相応に勤めず、内心邪法を抱きたる、不受不施を建てる、相心得可く事。
(6)一、不受不施之法、何にても宗門寺より申事を受けず、其宗門之祖師、本尊之寺用に施さず、将に亦、他宗之者を受けず施さず、是は邪宗門なり。 人間は天の恩を受けて地に施し、仏の恩を受けて僧に施し、是正法也。依って吟味を遂ぐ可き事。
  (7)一、切支丹、悲田宗、不受不施、三宗共に一派なり。 彼尊ぶ所の本尊は牛頭切支广頭祭利仏という。故に十頭大うすと言う、天帝は切支丹本尊之名也。我人此仏を願い奉り、鏡見れば仏面と身ゆ。 宗旨を転ずれば犬と見ゆ。是邪法之鏡なり。一度、此鏡を見るものは、深く牛頭切支丹广頭を信じ、日本を魔国と成す。然りと雖も、宗門吟味の神国故に、一通り宗門寺へ元附き、今日人交に内心不受不施にて、宗門寺へ出入らず。依って吟味を遂ぐ可き事。
(8)一、親代々之宗門に元附き、八宗九宗の内、何之宗旨紛れ之無く共、其子如何様なる勧めにより、心底邪宗に組合やも知らず、宗門寺より吟味を遂ぐ可き事。
(9)一、仏法勧談、講経をなして、檀那役を以て夫々の寺仏用修理建立を勤めさすべし。邪宗邪法事一切せず、世間交わり一通りにて、内心仏法を破り、勤めを用いず。吟味を遂ぐ可き事。
(10)一、死後死骸に頭剃刀を与え戒名を授ける事、是は宗門寺之住持死相を見届けて、邪宗にて之無く段、慥に受け合い之上にて、引導致す可き也。 能々吟味を遂ぐ可き事。
(11)一、天下一統正法に紛れ之無きものには、頭剃刀を加え、宗門受け合い申す可く候。武士は其寺之受け状に証印を加え差し上げ、其外血判成り難きには、証文受け合いを証文に差し出す可き事。
(12)一、先祖之仏事、他寺へ持参致し、法事勧め申す事、堅く禁制。然りと雖も、他国にて死去候時は格別之事、能々吟味を遂ぐ可き事。
(13)一、先祖之仏事、歩行達者成者に参詣仕らず、不沙汰に修行申すもの吟味を遂ぐ可き事。其の者持仏堂備え物、能々吟味を遂ぐ可き事。
(14)一、相果て候時は、一切宗門寺の差し図を蒙り事を修行し、天下の敵万民の怨みは、切支丹、不受不施、悲田宗、馬転連之類を以て、相果て候節は、寺社役者へ相断り、検者を受けて宗門寺の住僧弔い申す可き事。役所へ相断らず弔い申す時は、其の僧之越度、能々吟味を遂ぐ可き事。
    右一五ヶ条目、天下之諸寺院宗門受け合い之面々、    此内一箇条も相欠候ては、越度仰せ付け被れ、能々    相守る可きもの也。
     慶長十八年癸丑年五月    奉行
       日本諸寺院
  以上が「宗門檀那請合之掟」であるが、内容的に見ていけば以下のように言えよう。
(1)殉死宗教の禁止
(2)キリシタンは神国誹謗者仏教不信仰者
(3)寺院不参拝者は吟味
(4)先祖年忌の不勤めは邪宗門
(5)檀家役不勤めは不受不施派
(6)寺への不受不施者は吟味
(7)キリシタン・悲田宗・不受不施派は一派で邪宗門
(8)代々檀家でも子供は吟味
(9)檀家勤めが邪宗門否定の証明
(10)頭剃刀は検視、その後戒名授与と引導
(11)頭剃刀は検視と宗門証明
(12)他寺への仏事依頼の禁止、他国での死者は吟味
(13)健康者で寺院不参は吟味
(14)葬儀は檀那寺執行、邪宗門は宗門改め役へ報告後葬    儀執行
  主たる分類は、第一に寺檀関係に関することが十四条中八項目((2)(3)(4)(5)(6)(8)(9)(13))と多いことに注目されよう。邪宗門吟味という名目において布施関係の円滑化と寺院参詣の義務付けが、そのまま邪宗門否定になるという条目である。
  第二に、死後の葬儀に関することが十四条中三項目((10)(11)(14))あり、頭剃刀すなわち剃刀をあてることは、検視以外のなにものでもないことは明らかであろう。特に他国での死去や他国者の死去に重々配慮したことは、「人別帳」「過去帳」がキリシタン禁制と人頭把握そのものであることを例証している。
  第三に、反体制宗教の禁止((1)(7))である。一向一揆以来、殉教者は反体制そのものでしかありえなかった。また、邪宗門は神国・仏国を魔国にすると規定するところに、幕府の宗教統制に名を借りた民衆統制があるのである。
  第四に、他寺への仏事依頼の禁止((12))は、離檀の禁止であり、邪宗門吟味が寺檀関係を不即不離の関係を強固にした。
  第五に、代々檀家であっても子供の邪宗門吟味の強化((8))。これは、邪宗門吟味を徹底化しても、不受不施派の内信者(江戸期を通して二、三万人)、隠れキリシタン、転びキリシタン等の邪宗門信者が後を絶たなかったことに起因している。また、邪宗門吟味はこれら以外にも藩行政において加味された故、隠れ念仏も邪宗門として取り扱われたことは周知の通りである。
  このように、「人別帳」作成に伴う、邪宗門吟味の一連の作業は寺檀関係を強固にし、寺院経済を安定させたといわれているが、強固さと称しても、それは寺院側の理屈であり、檀家の意識は如何様であったか点検の必要性が課題として生じる。
  しかし、一般的に安定したといわれる寺院の経済基盤の実態はあまり明らかではないが、この「宗門檀那請合之掟」から試算すれば、仏事の内、葬儀や先祖の年忌・命日が義務づけられていることから、戦前の玄米による布施の伝承(一例として、月命日五合、祥月一升、年忌一斗、葬儀一俵)より勘案すれば、例えば、両親の月命日の布施を玄米五合ずつで積算すれば、檀家十五軒で月命日三十日分、すなわち、五合三十日で一人扶持となる。年一石八斗=金一・八両である。これに祥月命日三十回玄米一升として年三斗、葬儀を世帯主と配偶者に限定すれば二五〜三〇年一世帯二回、これは十五軒で三十回年平均一度の葬儀となり年米一俵(四斗)、年忌法要(四九日〜百回忌まで)はこの計算では十回で年一石、合計十五軒で三石五斗となる。扶持米の高は藩行政によって相違があるから当然布施の米高も相違はあろう。しかし、半分に見積もっても、檀家十五軒は一人扶持である。
  それゆえ、一応の安定経済であり、かつ寺院に関する普請・仏具全般のことは「掟」によれば檀家の与力であるから、経済的に豊かと言えたのかもしれない。また、、寺領があったり、なくとも永代供養田があったり、なかには、この経済基盤のもと寺子屋や奉公のための女子教育等もなされたこともあろう。多様性は種々推察はできるが、米本位制の社会においては、現在の現金収入に値する経済構造を、寺檀制度の上で成立させていたことは相違ないと思える。
  ちなみに、私寺に現存する本史料「宗門檀那請合之掟」は、龍野藩役所より法中世話役寺院に口達の上、書写された文書を、各寺院が書写した文書である。文書が現存していなくとも末端まで全寺院に達せられたことはこれによりあきらかである。


まとめにかえて


  以上見てきたように、「宗門人別帳」の成立過程は、寺檀制度成立過程であり、そのまま「過去帳」成立基盤の整備となっていたのである。
  結果的には、「宗門檀那請合之掟」が全国的に諸寺院に書写整備され、幕藩制国家の支配原理の中に寺檀制度はあった。
  以下に具体的な「過去帳」の評価を述べて本小論を問題提起にしたい。
  第一に、「過去帳」の作成は、「宗門人別帳」と表裏一体のものとして作成された。
  第二に、「過去帳」の形態は、「人別帳」の除籍簿であり、検視確認結果帳簿とも言える。  第三に、「過去帳」の存在は、寺院の位置や立場を、宗判権付与(邪宗門吟味認定権)を通して、似非自立的形態をとらせて幕藩体制化で支配した証である。
  第四に、「過去帳」の機能は、寺院備え付け帳簿で住職の手控えの形態をとるが、実質は公文書として機能した。
  このように述べると、典型的な自虐史観の様を呈するが、道義的責任を歴史性(時間差)を持って否定出来ても、現在の自らの属性を考慮したとき、責任を回避できないことは自明の理であろう。その観点からの問題意識の克服の提起として、ひとまず、擱筆する。



この論文は、財団法人・同和教育振興会刊「同和教育論究・第21号」用に執筆された原稿を西脇氏のご厚意により、掲載させていただきました。(坊さんの小箱管理者)

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