平成十三年十一月発行・中央仏教学院紀要第一二・一三号抜刷

ハンセン病国家賠償訴訟で問われたこと

  −念仏は人間のためのものであるのか−

仲尾  孝誠


 
 

はじめに

  二〇〇一年五月一一日、熊本地方裁判所はハンセン病元患者等が求めていた国家賠償を認める判決を下した。さらに二三日には国は控訴しないこと、患者・元患者全員を対象にした新たな損失補償を立法措置により講ずるなどの方針を発表した。この動きに対し、「首相の画期的な判断、官僚の低抗を破った」と高い評価もあった。しかしながら、一九九六年にらい予防法が廃止された際、三月二六日に参議院厚生委員会は「らい予防法の廃止に関する法律案に対する附帯決議」を行い、その中で、「政府は、本法施行に当り、深い反省と陳謝の念に立って、次の事項につい」て、特段の配慮をもって適切な措置を講ずるべきである」と述べながら@、全く不十分な政策しかしてこなかったために今日に至ったことを思えば、当然のことであると共に、具体的な措置内容こそが問われるのである。特に、決議事項の四には、「一般市民に対して、また学校教育の中でハンセン病に関する正しい知識の普及啓発に努め、ハンセン病に対する差別や偏見の解消について、さらに一層の努力をすること」
と示されていたが、ハンセン病差別と偏見に対する社会啓発は日常生活レベルにおいて皆無に近いといっても過言ではなかったかと思われる。
  なお、六月一五日に、ハンセン病元患者らに対し補償金を支給する法律が成立したが、原告団が政府・国会に提出した「全面解決要求書」  (五月一一日)に、
    第一  責任の明確化と謝罪
    第二  名誉回復措置と損害賠償
    第三  恒久対策(生活保障  医療、看護・介護、福祉、環境の拡充  差別・偏見の解消)
    第四  真相究明と再発の防止
    第五  継続協議の場の設定
の五項目が示されているように、問題の全面解決こそがめざされなければならないのである。

  さて、私たちの教団である浄土真宗本願寺派は今回の訴訟に対して、原告支援のために三通の声明を公表した。A
その動きは、
「一九八七(昭和六二)年にハンセシ病差別法話問題が提起され、教団はようやく長い差別の歴史からハンセン病に対する偏見を世の中に与え差別し続けてきた責任と課題を受け止めることが出来るようになりました。」  (「『ハンセン病国家賠償訴訟』地裁判決に関する見解」  五月一一日)
とあるように、一九八七年に提起された「S布教使ハンセン病差別法話問題」とそれへの取組みを踏まえた行動であった。そして、
「あらためて、私たちも同じ過ちを繰り返すことのないように学びを進め(中略)すべての人ぴとがハンセン病の偏見と差別から解放される御同朋の社会の実現をめざして歩む」
  (「『ハンセン病国家賠償訴訟』地裁判決に対し国が控訴を断念したことに関する見解」  五月二四日)

ことを決意したのである。
  以下、ハンセン病差別をめぐって、差別解放をめざした念仏者の在り方、差別を支えた信心理解の問題、ハンセン病差別から見えてくる社会的差別の姿について、論じていくことにする。

二・  ハンセン病差別法話問題と伊奈教勝さん

  何もない明日へ時計のネジをまく
  秘めていた名前をそっと呼んでみる
  一九八七年二月、「同朋運動を考える会」の研修会で講演された、長島愛生園真宗同朋会の多田会長が紹介された句である。その時、私は、部落解放運動が生んだ詩人丸岡忠雄の詩「ふるさと」
「わが子よ  おまえには胸張ってふるさとを名のらせたい  瞳をあげ何のためらいもなく  これが私のふるさとですと名のらせたい」
という思いとダブらせて、これらの句を聞かせていただいた。
  その前年一九八六年一一月二八日に、浄土真宗本願寺派の外郭団体である財団法人同和教育振興会で二五周年を記念して、「真宗と人間解放−現実の生活から」と題するパネルディスカッションが開催された。部落差別(故仲尾俊博さん)・ハンセン病差別(故藤井善さん)・性差別(源淳子さん)の各の立場から問題提起がなされた。その席で、藤井善さんが(後に本名、伊奈教勝を名乗られる)、
  「昨年ある有名な布教使が、地方の説教の中に、らい患者のことをのべられておりました。で、その言葉の中にですね、今もらい療養所は非常に厳重な消毒がなされていて、近寄ることがなかなか出来ない、目も不自由な状況の人達ばかりであるというような形容をもって、おはなしされている訳でございます。  (中略)
  私達も、もういいんだと昔のいやなことを思い出したくないんだと、差別も偏見もあったけれども、もうすんだことだと、私達はやがて目をつぶるんだという思いの者も数あるということも現実でございます。しかしながら、私はそれであってはならないのではないか、と申していておる訳でございます。まだまだ私達に対する見方がそういう現実であれば、機会が有れば私達は、現在のらいの状況を説明申しあげ、そして正しく分かっていただき、そして少しでも偏見を無くし、差別の辛い思いをしないですむ社会を作っていくように努力しなければたらないのではないかという思いでおる訳でございます。」(『同和教育論究』第九号)
  という問題提起をうけて、振興会関係者が直接その説教(法話)のテープを取り寄せ、一九八七年五月二六日付で
西本願寺当局・布教団に問題提起したのが「S布教使ハンセン病差別法話問題」への取り組みの端緒であった。
  藤井さん(伊奈さん)が、講演の中でそのことについて述べられているので、引用したい。
  「有名な布教使が山陰でそういう法話をしているのです。らい病はこわい。厳重に消毒しなければ入れない。
  プロミンという薬があるけれども、あれはたいしたことではない。指一本しかない人と二本しかない人が結婚して、三本ある。ない指を悲しむのでなく、ある指を喜ばせていただく、これが大事である。そういう布教を四、五年前にしているのです。それが私達の耳に入った時に、私達は抗議した訳です。西本願寺に対して。私は西本願寺に呼ばれました。全国布教使大会の中で差別について話をしなさいといわれて、私は話をしました。私達はらい病になった夫婦が結婚して、おまえが一本、おれが二本、三本あるからありがたいなんでそういう喜びかたはしていません。私達は死ぬまで、失った自分の七本を悲しく辛く生きております。お念仏はそういう喜びかたですか、あの法話はそういう状況を語って、その裏側には私達は五体満足でよかったなというところに落ち着く訳です。それが仏法ですかといってね。表面は、あなた達は「らい」という病気にかかて非常に辛い思いをしているけど、お念仏を喜んで、三本あるから嬉しいなといっている。とんでもないことです。そういう法の説きかたが私達の病気に対する偏見を深め、差別を現実のものとしておるといって、厳重に抗議しました。向こうでは対応委員会をつくりまして、本願寺をあげて、その問題に取り組んでくださいました。」
    (伊奈教勝「講演本名の名告り」  『ハンセン病・隔絶四十年  人間解放へのメッセージ』所収。なお、西本願寺の取り組みの詳細は『同和教育論究』第二二号、『ハンセン病差別と浄土真宗』  (永田文昌堂)他、参照のこと)
今回の判決を受けて、療養所での結婚に対する非人道的行為である、断種、堕胎の強要が、広く知られるようになった。
  「私たちは結婚手続きを出した翌日から一二畳の夫婦部屋で生活を始めました。四組の夫婦が一緒でした。その朝、夫の洗濯物を洗っているとき、下着にべっとりと血糊が着いていたので夫に訳を尋ねました。即座には答えてくれませんでしたが、その夜、布団の中で打ち明けてくれました。結婚手続きをしに行ったら手術室へ呼ばれ、看護士にウゼクトミー(断種手術)をされた、と。同居する前に相談して欲しかったと詰めると、職員が「爪を切るような手術だから、奥さんにはあとで報告していいこと」と騙したとのことでした。以来、性生活は一度もありません。昭和二一年、一八歳のときでした。」
    (ハンセン病国賠訴訟を支援する会・熊本  武村淳『楽々理解  ハンセン病』花伝杜)
  こうした事実にふれる時、この法話が、障害をもたされた人間の悲しみにふれない、いかに思い上がったものであるのかが理解されてくるのである。
藤井さん(伊奈さん)が所属されていた真宗同朋会は、一九八○(昭和五五)年に発会五十年をむかえ、記念誌『浄華−同朋の軌跡』を発刊されている。そのまえがきに
    「病気は治っても後遺症はもとのようになるわけではなく、故郷や家族に迎えられると云うことではないのである。むしろ、孤独な老いのわびしさに耐えねばならない老人の集団と変わっていくのである。今後の療養所は、宗教活動が真にその役割を果たすか評価されることであろう。その意味では、療養所運営の中での宗教団体の在り方が、従来に増して愈々重要な課題となるのである。」
とあり、らい予防法下で社会的復帰が許されない状況と(高齢化が進む中で「老いのわびしさ」に応えるものが宗教の役割だとされている。そうした状況下で、藤井さんの問題提起がなされたのである。
  藤井さん(伊奈さん)は僧侶として、仏典の中に真実と平等を求められ、親鸞聖人の御同朋御同行の人間平等の精神にふれて生きる道を見出された方であった。だからこそ、非ハンセン病の念仏者に対し、次のように語りかけておられるのである。
  「たとえ排除され、隔離された生活をしていましても、阿弥陀さまの平等なお慈悲を喜ばせてもらっています。『いし・かはら・つぶてのごとくなるわれら』(唯信鈔文意)とご自身を受け止められた親鸞聖人さまのお心をくむ人たちは、私たちの心の痛みに共感されて、普通の人として友だちになって下さる同行さんであり、その人たちは心から歓迎いたします」
  (仲尾俊博「若いお母さんと共に」  『やっばりお母ちゃん』永田文昌堂)
と。この信頼を裏切ったのがハンセン病差別法話問題であった。そして、
  「人間が人間を差別するということはどういうことか、差別されることは辛いことですが、差別する人間も心が淋しいのでしょう。人間のいのちの尊厳とは、人間と人間が人としての優しさを持って出会うことでしょう。奪うてもならないし奪われてもならないのが、いのちであり人権そのものでしょう」
    (中村薫「人間解放への道」  『いのちを差別するもの』法蔵館)
という言葉を遺されて、一九九五年に浄土往生された。今年七年回をむかえる。「真宗と人間解放−現実の生活から」で問題提起されて一五年になる。この年に、ようやくにして、もっとも過酷な棄民政策を実質的に廃止し人間回復への道を保障するための判決がでたのである。

三  強制隔離に反対した真宗寺院出身の医師・小笠原登博士

  私が居住する街で開業されている折田医院では、医院長が毎月月報を出されており、六月号では「ハンセン病訴訟をめぐって」を書かれ、そこで自らも含めて医師の責任を問うておられる。
  「平成七年に日本らい学会が『らい予防法』の廃止を決議しました。その翌年に早くもこの決議を認めて国会は法律を廃止しました。学会がもっと早く廃止を決議すれば『らい予防法』の廃止も早まったに違いありません。私の専門であった結核菌はハンセン菌とごく似ています。ところが私も多くの医師と同じくハンセン病に無知であったと思います。」
と。さらに、その文中に、
  「私が大学で勉強をしていた頃の研究室の横に、皮膚科の『特研』という施設がありました。」
    (「折田医院月報」  六月一日)
とあった。実は、この「特研」  (京大にあった皮膚科特別研究室のこと)で、真宗大谷派の寺院出身である小笠原登博士が、戦前より絶対隔離主義に抗した治療を行っておられたのである。すたわち、
  「あの汚い特研の外来診察室で、患者さんの赤い大きな結節や斑紋を素手でなぜながら、患者さんの訴えにうなずき、ときに自分の意見や仏話を交えて淡々と話される先生の姿は私には救世主のようにみえたものでした。当時の患者さんは社会の邪魔者として警察や民衆から、まるで犯罪者のように扱われ、他人目をさけて逃げるように診察をうけにきていたのでしたが、先生には患者さんに対する差別感が全くなく、普通の病人と同じ扱いで、ときに長いおしゃべりもされていました。先生にはらい菌の伝染力は微弱で、よほど体力の悪いときでなければ感染するものセはたい。したがって、患者さんの隔離なども特別必要はないという医学上の考えを持っておられ、当時の絶対隔離主義に抗して、ひとり外来治療を続けておられたのです。」
(大谷藤郎「小笠原登先生の思い出」  『小笠原登先生業績抄録』)
  どうして、このような診療をなさることができたのであろうか。大谷さんは『現代のスティグマ』  (勤草書房)
の中では、小笠原博士を次のように紹介されている。
  「先生はそういうわけで真宗のお坊さんでもありまして、すべて世の世俗的権威というものを認めない。また私のおばあちゃんと同じで朝も晩も必ずお経をされます。朝一時間、夜一時間される。また、仏教哲学に非常にお詳しい。親鸞上人のお話をよくされた。愚禿親鸞ということをよく言われたが、それが人間の差別を認めない先生の生き方、論理につながっていたと思う。私はこの先生に、子供の頃のムード的陶酔的な宗教的雰囲気だけではなく、宗教を厳しく見る目を改めて開かされたのです。」            (「精神障害とスティグマ」)
  とあり、さらに当時、強制隔離政策が主流の中で、なぜ反対することができたのかについて、
    「どうして隔離に批判的な、ハンセン病に対する独自の見解を持つようになられたのかは、一つは右のような差別を認めない宗教上の見地からと、もう一つは先生の家は十数代続いたお寺ですが、村から追われたらい患者を境内に住むことを認めていて、そこに患者さんがむしろ小屋を造って墓掃除とかをやって生活して死んでいった、ということがあったわけですが、先生は先祖からの経過を調べて、患者さんと接触した家族も他人も誰も伝染していないという事実から、ハンセン病は弱い感染力しか持たないから健康な人間は発病しない。このお寺における歴史的な経験ほど『動かし難い正しい科学認識はない』としばしば私に話された。」  (「同前」)
  とある。親鸞聖人のみ教え、そしてハンセン病患者に開放された寺院の在り方が、博士の強制隔離反対の根拠であったのである。B

四  問われる信心理解と宗教者

  大谷さんは小笠原博士を通じて、「ムード的陶酔的な宗教的雰囲気」の宗教と「差別を認のない宗教上の見地」の二つの宗教観があることを明かにされている。
  大学の講義で「ハンセン病差別」について取り上げた際、資料を提供して仏教のかかわりについても指摘した。その際二つの態度が示された。C
  ある学生は、宗教と人権について次のような意見を述べている。

「『慰めこそしたが人間として解放されるための教えは説かなかったのではないか』(中略)宗教家はその自分の属する宗教の教えを守るんじゃないん」ですか。教えが差別を生もうが、人権を侵害しょうが守るのが宗教者じゃないのですか。空海も釈迦もキリストも教えでは人権なんていっていないからです。釈迦の教えを守る仏教者が釈迦の教えを守らず人権を守るっていうのはこれは非常にまずいんじゃないだろうかと思います。」
と。最初の言葉は六月二日に真宗大谷派本山・東本願寺で開催された「心の底から納得できる解決を!ーハンセン病国賠訴訟判決を受けて」と題して行われたシンポジウムの報道記事による。記事には、
  「『慰めこそしたが、人間として解放されるための教えは説かなかったのでないか』  (中略)指摘されたのは『慰問布教』と呼ばれる活動だった。(中略)慰問布教は患者隔離という国策に従う内容だった。新仏教運動を担った宗教家暁烏敏も、三四年に療養所の患者らにこう語りかけていた。
  『皆さんが静かにここにおられることがそのまま、たくさんの人を助けることになり、国家のためになります』シンポの参加者たちは、政府や国会、医学、報道などの責任とともに、宗教の責任を改めて問いかけた。(中略)
  『差別や偏見の発生源として、宗教は大きな働きをしてきた。宗教者たちが『これこそが信心・信仰』と思っていたことの中に、実は危うさがあるのではないか。今回の判決は、宗教者にも信仰の再点検を迫っている』」
    (「朝日新聞」(夕刊)  二〇〇一年六月八日付)
という内容を踏まえて書かれたものである。「教えが差別を生もうが、人権を侵害しようが守るのが宗教者じゃないのですか。空海も釈迦もキリストも教えでは人権なんていっていないからです。」と、すべての人たちを救おうという信仰の目的を見失い、信仰自体を目的化して、信仰と人権を対立的に捉えるあり方が示されている。こうした隘路に陥ることのない信心獲得が必要なのである。
  それに対し、別の学生は、
  「その差別を元来人々を救わねばならない宗教が助長してしまったこと(中略)元来、万民を救うはずの宗教が、大多数の国民のためという名目をかかげた国家政策のために少数の弱い立場にある人々を差別し、隔離政策を肯定した……。  (中略)宗教は人々を救うべきもの。そのことを胸に刻み、これからのこのようことの二の舞をふむことなく、少数の人々を犠牲にして多くの人々を救うのではなく、全ての人々を救うものでなければならないし、今回の教訓を生かし、二度と過ちをおかすことのないようにしてほしいものだ。  (中略)古いしきたりなどにとらわれ本来の宗教の目的である人々を救うということを忘れて欲しくないとただただ願ってやまたい。」
  と訴えている。

五  ハンセン病差別からみえてくる社会的差別の姿

  今回のハンセン病国家賠償訴訟の中で、社会的差別について示唆されることが多かった。以下、五点について論じておきたい。

@「知らないということは、差別がない・しないということではない」
大学の講義で「ハンセン病差別」について取り上げた際、約一五〇名の受講者のほとんどが、今回の報道で始めて知ったという反応だった。ある学生は
    「私にとってハンセン病はどんな病気か?!それは、今の私からいうと江戸や先人達の飢餓を学ぶような全く別世界のものなのです。」
と書いている。学習をすすめる中で、次のようなレポートが出てきた。すなわち、ハンセン病差別解放への取組みとして、
  「ハンセン病を知らない世代の人たちにとっては、ハンセン病患者だったと知らされても、偏見を持つ人は少ないであろうが、ハンセン病を知っている世代の人にとっては、廃止されていても、偏見の目で見る人がほとんどであろう。そういった社会の中で、生きていくのはどんなに辛いことだろうか。そんな社会の偏見の目で見ることをなくすために、努力しなくてはならないのは、私たちハンセン病を知らない世代なのではないであろうか。」
と述べ、差別はそっとしておけばなくたるのでなく、偏見なしで学習したハンセン病を知ちない世代の課題だと主張している、また、
  「私は最近になって知った訳であるが、国に対する激しい怒りと差別発言をした一部の宗教に対する情けなさを心の中に深く思いました。自分はなんて無知だったのだろう、そしてこうした差別や人権問題は知らなければ良いのでは無い!知っていかなければならない問題であると思います。私が子を持つ親になり、孫をもつ老人になっても、このような問題があったということを伝えていかなければならないと思いました。」
と、自分の差別に対する無知を恥じ、差別や人権問題は、「知っていかなければならたい問題」、そして「伝えていかなければたらない」問題だと指摘している。

A差別の認識−差別や偏見は有史以来!?
  今回、国と原告の裁判になったわけであるが、その争点に差別に対する認識の違いがあった。すなわち
  「原告側は『ハンセン病は強烈な伝染病』という誤った認識に基づく法律で特定の場所に「隔離する政策が取ちれ、患者への差別や偏見が助長され『社会で平穏に暮らす権利を奪われた』と主張する。国は『差別や偏見は有史以来であり、法や政策と娘無関係』と関連を認めていない。」(「読売新聞」  二〇〇一年一月一三日付)
とある。国は、差別は法や政策ではなくせないと、その差別責任を認めようとしていなかったのである。

B啓発の重要性ーらい予防法廃止後の取組みの問題
  一九九六年にらい予防法が廃止された際、三月二六日に参議院厚生委員会は附帯決議を行い、決議事項の四として、
「一般市民に対して、また学校教育の中でハンセン病に関する正しい知識の普及啓発に努め、ハンセン病に対する差別や偏見の解消について、さらに一層の努力をすること」
と示されていたが、「はじめに」でも述べたように、ハンセン病差別と偏見に対する社会啓発は日常生活レベルにおいて皆無に近いといっても過言ではなかったかと思われる。エイズに対する啓発の取組みと比べれば一目瞭然である。エイズも当初、予断と偏見が渦巻いていたが、社会啓発によって、病気への正しい理解が深まっている。ところが、ハンセン病については、まるで、明治初年に、一片の「解放令」を出すのみで、近代社会の放り出された被差別部落とよく似た状況であったといえるのではなかろうか。
  なお、ハンセン病裁判の原告団は、政府・国会に提出した「全面解決要求書」のなかの「差別・偏見の解消」の具体的内容として、
    (1)差別禁止法を制定するなど実効力のある差別・偏見解消策を立案し、実行すること。
    (2)偏見・差別に苦しむ家族・親族に対し、支援対策事業を行うこと。
    (3)差別・偏見に苦しみながら無念の死を遂げ、しかも遺骨の引取先もない犠牲者について、名誉回復、被
害回復の措置をとるとと。
    (4)差別・偏見解消のためのハンセン病教育を実施し、啓発活動を拡充、強化すること。
の四点を指摘している。

C法律・権力の拘束力
「悪法でも法」という言葉があるが、まさに最大の悪法が、らい予防法であった。ハンセン病は遺伝もしない。

D伝染力も非常に弱い。であるのに、優生保護法によって、結婚するものは、ワゼクトミー手術を、しかも十分に医療の安全が確保されていない形で強要された。これは、法律があったためである。法的強制力の恐ろしさを感じる。

E被害者の立場ー立ち上がれる人・立ち上がれない人
  いかに法律が不当であっても、境遇が恵まれていなくても、その不当さに立ち上がる・上れる人はすくない。今回でも当初、国家賠償請求訴訟に立ち上がったのは一三名だったという。第一次原告の溝口製次さんは、次のように述べておられる。
  「この時、『国のやっかいになっているのに国を相手に裁判するとは何事か』と言われました。園長には『おまえたちは世の中のことを何も知らない、弁護士にだまされているんだ。あんたたちのことを支持するものは誰もいない。あんたは園を出ていってくれ』と言われました。」            (『部落』二〇〇一年八月号)
と。伊奈さんも、二章でも紹介したように、西本願寺で問題提起された時、
  「私達も、もういいんだと昔のいやなことを思い出したくないんだと、差別も偏見もあったけれども、もうすんだことだと、私達はやがて目をつぶるんだという思いの者も数あるということも現実でございます。しかしながら、私はそれであってはたらないのではないか、と申してきておる訳でございます。」
とあり、立ち上がるものの孤立した決断の思いが伝わってくる。
  しかし、部落解放運動の成果である同和対策事業でもそうだが、そこで勝ち得た補償内容は原告だけでたく、被害者である元患者にも共有・摘用されることになったのである。
  解放運動の言葉で「先憂後楽」というのがあるが、「先憂」する勇気と行動は、言うまでもたく賞賛すべきものだが、一方で立ち上がることができないほど、抑圧された人たちのあり方も見つめておく必要がある。特に、ハンセン病は不治の病であり、しかもそんな病気にたるのは前世の悪業の報いだと説いてきた仏教者の役割も、深く反省する必要がある。

六  おわりに

伊奈さんの甥にあたられる中村薫さんは、伊奈さんの言葉を踏まえて次のように提言されている。
    「ガンなどの病魔に冒されたいろいろな患者の人たちが、『病気におかげで念仏の教えに出会うことができた』と喜んでいるのをよく聞くが、私には『らい病になったおかげで』とは決して言えない。宿業だからと諦めきれない。今でもこの病にかかったことが無念でならない。
と。叔父と同じ境遇にある人も、今こそこの叔父の主張を共にしていただきたいと思います。私たちが宿業を語るとき、『いかなる差別に苦しんでいる人間も必ず救われる』というのではなく、『いかなる差別も不当である』ということから出発すべきだと思います。」  (「人間解放への道」  『いのちを差別するもの』法蔵館)
浄土真宗の「信心の社会性」喪失への悲痛な問いかけである。また、一人の学生は、「『過去に(前世で)こんなことをしたから、こうなってしまったんだ』でなく『今こうだからこうすれば救
われる』という教えを説いて患者を精神的に助けていくことが必要だったのではないか。」
と指摘している。
  以上、今回のハンセシ病国家賠償訴訟判決をふまえて、差別解放めざした伊奈教勝、小笠原登という二人の念仏者の在り方、差別を支えた信心理解の問題、ハンセン病差別から見えてくる社会的差別の姿等について論じた。
  伊奈さんが勇気をもって、ハンセン病差別法話問題を提起されたように、念仏者として差別解放という悲願を実現していくためには、社会的に差別・被差別という形で対立させられている両者の出会い・交流を通じて、被差別の事実に学び、いのちを共感し、差別の不当性を踏まえた反差別への行動こそがのぞまれるのである。

【註】

@決議事項

  一、ハンセン病療養所入所者の高齢化、後遺障害等の実態を踏まえ、療養生活の安定を図るため、入所者に支給されている患者給与金を将来にわたり継続していくとともに、入所者に対するその他の医療・福祉等処遇の確保についても万全を期すること。

  二、ハンセン病療養所から退所することを希望する者については、社会復帰が円滑に行われ、今後の社会生活に不安がないよう、その支援策の充実を図ること。

  三、通院、在宅治療のための医療体制を早急に整備するとともに、診断・治療指針の作成等ハンセン病治療に関する専門知識の普及を図ること。

  四、一般市民に対して、また学校教育の中でハンセン病に関する正しい知識の普及啓発に努め、ハンセン病に対する差別や偏見の解消について、さらに一層の努力をすること。

A浄土真宗本願寺派のハンセン病国家賠償訴訟判決に関する見解(三通)
(1)  「ハンセン病国家賠償訴訟」地裁判決に関する見解
本日、  「らい予防法」の生涯強制隔離政策により、人権が侵害され人間性を冒漬されてきたとして、ハンセン病の元患者さんたちが、国に対して謝罪とその責任、賠償を求める訴訟に対し初の司法上の判断が熊本地裁において言い渡されました。
  その内容は、原告側の主張を認めるものでありました。これまでの原告、そのご家族の方がたの苦悩を思う時、当然とは言え、この判決を積極的に支持いたします。
  国は、原告団等の願いを深く受け止め、速やかに謝罪の意を明らかにし、その請求に応じることを、私たちは強く要請いたします。
  さて、省みますと、私たちの教団もまた国と同様にハンセン病に対する偏見と差別を助長し、患者さんだけでなく、その家族や周囲の人ぴとの人権を侵害し、尊厳性を犯してきました。その様な中で一九八七(昭和六二)年にハンセン病差別法話問題が提起され、教団はようやく長い差別の歴史からハンセン病に対する偏見を世の中に与え差別し続けてきた責任と課題を受け止めることが出来るようになりました。
  本日の判決を契機に、改めて私たちは原告をはじめ、すべてのハンセン病に関わった人ぴとに謝罪すると共に、今後同様の過ちを犯すことのない様に、いのちと人間の尊厳を訴え、一人ひとりが大切にされる御同朋の社会の実現をめざして歩むことを決意するものであります。      二〇〇一年五月一一日
                            浄土真宗本願寺派総長  武野  以徳

(2)  「ハンセン病国家賠償訴訟地裁判決」に対する国の控訴の断念を求める要請
      内閣総理大臣  小泉純一郎様
      厚生労働大臣  坂口    力様
      法務大臣      森山真弓様

  「ハンセン病国家賠償訴訟地裁判決」に控訴に対する国の控訴の断念を求める要請
      五月一一日、  「ハンセン病国家賠償訴訟」において熊本地裁は、原告勝訴の判決を下しました。この判決は「らい予防法」の違憲性を認め、またこの法律を長期間放置した国会議員の「不作為」に対する責任をも認めた画期的な判決でありました。判決後の今、平均年齢が七四歳を超えた元患者にとって、一日も早い全面解決が求められます。
    貴職には、この判決によって明らかにたった国の過ちの歴史を真蟄に受け止め、一刻も早く控訴の断念をされるように強
く要請いたします。                                                                              以上
                                    二〇〇一年五月一=日
        浄土真宗本願寺派基幹運動本部長
                          不二川  公勝

(3)「ハンセン病国家賠償訴訟」地裁判決に対し国が控訴を断念したことに関する見解
  二三日、政府は国に賠償を求めるハンセン病訴訟熊本地裁判決に対し控訴を断念する決定を発表されました。
  私たちはこれまでに、地裁判決以降、政府に対して控訴を断念するよう要請してきましたが、この政府の英断に心より敬意を表するものであります。今後は、この決定を受け、政府が患者、元患者の方がたはもちろんすべての人びとの願いを具体的に解決する施策等を、一刻もはやく講じられるよう要望いたします。
  ハンセン病に対する法的措置は、患者の方がたに苦しみを与えるだけでなぐ、患者や家族、また周囲の人びとに偏見と差別という苦悩を与えてきました。私たちもこの苦悩を共有するどころかそれを助長する過ちを犯してきました。
  政府り英断の報に接し、あらためて、私たちも同じ過ちを繰り返すことのたいように学ぴを進めていく決意を表明するものであります。そして、すぺての人びとがハンセン病の偏見と差別から解放される御同朋の社会の実現をめざして歩む所存であります。
                                    二〇〇一年五月二四日
    浄土真宗本願寺派総長  武野以徳

B小笠原登(一八八八−一九七〇)

  一八八八(明治二一)七月一〇日、愛知県甚目寺町にある円周寺の二男として生まれる。祖父小笠原啓導は円周寺の僧侶であるとともに漢方医術を行い、癩病、淋病、梅毒、瘰瀝、黒内障の治療を得意としていたといわれる。一九一五(大正四)年、京都帝大医学科を卒業して薬物学を研究、大正十四年皮膚科泌尿器科に転じ、大正五年よりらい治療を担当。
  一九三八(昭和一三年)、らいの診療及び研究施設として新設の皮膚科特別研究室主任を拝命、昭和一六年同大学助教授に任じられ、昭和二三年まで在職ゆその間(らい発病は感染よりも体質を重視すべきこと、らいは不治ではないこと等の考えから、当時の強制隔離、断種に反対したが、邪説として葬り去られた。今日になってみると、その科学的先見性とヒューマニズムには驚嘆の他はない。
  昭和二三年より国立豊橋病院、昭和三二年奄美和光園、昭和四一年退官、昭和四五年一二月一二日円周寺にて死去。八一歳であった。  (佐川修.大竹章『ハンセン病資料館』高松記念ハンセン病資料館運営委員会)
  なお、『小笠原登先生業績抄録』は、河合俊治さんよりコピー資料を御提供いただいた。この場を借りて御礼申しあげます。

C  学生のレポートは、種智院大学二O〇一年度前期「人権思想」受講生のものから引用させていただいた。以下、同じ。

D  ハンセン病は治る病気です。後遺症もありません。
    戦後すぐ、米国より抗生剤プロミンが持ち込まれて以来、治る病気となりました。日本らい学会で効果ありと確認されたのは一九四八(昭和二三年)のことです。それ以来、薬の開発は進み、現在はさらに強力た抗生剤が開発されています。
    早期発見・早期治療で完全に治り、後遺症もありません。
(ハンセン病国賠訴訟を支援する会・熊本、武村淳『楽々理解ハンセン病』花伝社)


※上記の論文は、中央仏教学院講師の仲尾孝誠先生から掲載の許可をいただいたものです、掲載を許可下さりましたこと感謝いたします。

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