民 族 と 人 権 

北海道教区基幹運動推進委員会編。基幹運動テキストより

問一  「民族」とは何でしょうか。

  学問上で人類な分類するとき、身体的特質にもとづくものを「人種」といいます。また、文化や社会の特質にもとづくものを「民族」といっています。
  文化の分野のなかで、言語は一番変化しにくく、安定性に富むので、基本的に言語を基準として民族を考えるのが、一般的だといわれています。
  つまり、同じ言葉を話しながら、同じ文化や社会生活、あるいは習慣などを共有しているひとひどの集団を、「民族」といえるのではないでしょうか。
  人類の歴史をさかのぼるとき、その間さまざまな形で自然が人間に及ぼしてきた影響を考えねばなりません。
  たとえば、気候の違い・地理的な変動・食生活の違い・住居をめぐる生活慣習など……。
  これらを理由として、それぞれ異なった言葉が生まれ、生活慣習が生み出され、「民族」が形成されていったのだと考えられています。
  社会が近代をむかえたとき、産業の発展と市場の形成のなかで、近代国家が生まれ、特に、自覚的な民族意識の形成が始まりました。
  同時に、発展した近代国家が植民地をつくる歴史がはじまりました。やがて植民地から独立しようとする民族意識の高まりが生まれ、特に、戦後、民族独立運動のなかで、植民地からの独立をめざして、多くの民族が国家々形成してきました。そのなかから、民族が統一と独立を実現する権利を国際的に「民族自決権」として認めさせ、現在では人権のひとつとして存在しています。

問二  日本は、「単一民族国家」であるといいますが本当でしょうか。

  私たちの国の多くのひとびとが、日本は「単一民族国家」だという間違った認識をもっています。
  かつて中曽根元首相が、日本は「単一民族国家」と発言し、多くの批判がおこりましたが、いぜんとしてそのように考えているひとびとも多いのです。
  しかし、日本には、多くの和人のほかに、アイヌ民族、そしてそれよりは少数ですが、ウィルタ・ニブヒといつた北方少数民族のひとびとも居住しております。また、朝鮮人・韓国人・中国人も、それぞれの歴史を持ちながらも在日しております。最近は、東南アジアを初め世界各国から異なる民族が入国して生活しています。
  やはり、日本は決して「単一民族」の国ではないのです。「単一民族国家」であると主張するくらい、共存する少数民族の尊厳を傷つけることはありません。
  現代の日本にアイヌ民族をはじめとした少数民族が存在する事実は、明白なことであることにもかかわらず、政府の公式見解は、いぜんとして異なる民族の存在を認めようとはしていません。
  その底流には、戦前からの「皇国史観」にもとづいた「大和民族優秀論」が払拭されずにいるとともに、新たな「国際国家」日本の自己主張を「単一民族」に求めようとする論調が存在するように思われます。
  かつて「皇国史観」は、異民族を侵略し収奪し、アイヌ・ウィルタなど少数民族の文化を破壊し、差別と貧困を生み、民族生存の危機を生みだしてきました。そのため、少数民族の文化や言語は尊重されるどころか、蔑視の対象とされ、つらい歩みの歴史を持たされることになったのです。
  「基本的人権」がうたわれている日本国憲法下の現代でも、少数民族の文化や言語が正しく認められ尊重されているとはいえません。それどころか、今も差別が残り、事態は深刻化しているといえます。

問三  アイヌ民族の歴史と現状を教えて下さい。

大和朝廷の成立時より、その権力に抵抗する〃まつろわぬ”「蝦夷(えみし)」は、つねに”征伐〃の対象とされてきました。
  この蝦夷は、現在のアイヌ民族につらなるひとびとと考えられていますが、日本の歴史
は、この蝦夷を東国に追いやる歴史でもありました。
  アテルイの戦いなど、東北地方を中心に和人の侵略と闘う蝦夷の抵抗は続きますが、しだいにその基盤を失うこととなります。
その後、「蝦夷島」と呼ばれていた北海道を中心に、中世に入ると、いわゆるアイヌ文化の形態ができあがり、文献にも表れてきます。
  また、十五世紀初めには、道南の渡島(おしま)地方に十二の「館(たて)」がつくられ、それらをめぐってアイヌ民族の抵抗の戦いの歴史があります。とくに、一四五七年(長禄元)のコシャマインの戦い、一六六九年(寛文九)のシャクシャインの戦いは、大規模なものでありましたが、いずれも和人側の巧妙な策略により敗北を余儀なくされました。
  蝦夷地を支配した松前氏は、十八世紀に入り、大商人と手を結び「場所請負制」をおこないました。このことにより、アイヌ民族は奴隷的な労働を強制され、コタン(村)が崩壊の危機におちいりました。
  一七八九年(寛政元)、メナシ・クナシリの戦いと、ノッカマップでの和人による大虐殺は、こうした歴史的な状況のたかでおこるべくしておきたものです。
  一八六九年(明治二)、明治政府は、開拓使を設置し蝦夷地を北海道と改称。その後、地租改正条例を発令し、アイヌから土地を取り上げ、「御料地」とするなど、アイヌモシリは専政支配のなかに組み入れられていきました。
  一八九九年(明治三二)、「北海道旧土人保護法」が制定され、明治政府の手による強引な同化政策が遂行されました。これによってアイヌ民族のもっていた文化と民族としての誇りは否定され、抹殺されていったといえます。
  アイヌ民族は、日本のなかのひとつの民族として、存在するにもかかわらず、かつて、一度も言語や文化だけでなく、その存在すら公式に認めることのたいまま現代にいたっています。そして、つねに和人への「同化」を強要され、「旧土人保護法」によって与えられた給与地さえ、剥奪される歴史を経験しなければなりませんでした。
  しかし、差別と抑圧の呻吟のたかでも、アイヌ民族としてめざめ、文化と民族の自立を求めるひとびとのむれも存在しました。
  違星北斗(いぼしほくと)や知里幸恵(ちりゆきえ)など、民族の覚睡とユーカラの伝承をこころざしたひとびとの歩みは、「滅びゆく民族」と称されながら、決して滅びないアイヌの存在を明かすものでした。
  現在、北海道内および本州では、多くのアイヌ民族がみずからの言語や文化を奪われたまま教育や就職、あるいは生活環境の面において差別されている状況下におかれています。
  アイヌ文化の再生、そして民族の自決権。このことが、今、差別を超えていくうえで大変大切なことになっているといわねばなりません。
  いま、アイヌ民族はみずからの文化を誇り高くかかげ、奪われた”ことば〃を回復するためのとりくみをはじめ、民族の自決権を獲得するための「アイヌに関する法律案」(アイヌ新法)の制定運動がすすめられています。

問四  ウィルタのひとびとの歴史と現実を教えてください。

  ウィルタ(トナカイとともに生活している人間という意味を持つ)は(サハリン(旧樺太)のツンドラ地帯で、漁撈・狩猟しながらトナカイとともに移動して生活していく遊牧民族でした。ニブヒ(ギリヤーク)・ヤクーツ・キーリン・サソダーなどの民族と同じ《、北緯五〇度近辺に居住していた「北方少数民族」でした。
  日露戦争が終わってポーツマス条約が結ばれ、樺太の北緯五〇度以南は日本の領土、北はロシア領ということで、その地域に住んでいた少数民族は、分断されました。
  「日本国籍をもったものとみなす」との政府の考え方であったにもかかわらず、一九二一年(大正一〇)にできた土人戸口届出規制の対象は、アイヌのみであって、ウィルタ・ニブヒなどの少数民族は差別され戸籍がなかったままでした。
  しかし、一九三〇年(昭和五)に敷香(ポロナイスク)に土人事務所がつくられ、名前を変えさせられたウィルタは「原住民人名簿」で管理され、オタスという所に集められ閉じこめられました。つまり、生活するどころか、生存権そのものがおびやかされるのでした。
  その後、皇民化教育をされた少数民族の十五才以上の少年たちは、旧敷香陸軍特務機関から招集令状をうけ、北緯五〇度国境戦線へとかりだされ、多数の戦死者をだしました。  生き残ったひとびとは戦後、戦犯者としてシベリアに抑留されますが、シベリアの重労働にも耐えた彼らは、サハリンに戻れず、第二の祖国を求めて日本へ引き揚げてきました。
  網走に定住した彼らは、生活のために戸籍すら申請して得なければなりませんでした。彼らは、差別のなかで、みずからをウィルタと名のることもできずに、生活していましたが、ダーヒンニェニ・ゲンダーヌ(日本名・北川源太郎)さんは、彼を囲む日本人の励ましのなかから、ウィルタとして生きる決意をして立ち上がります。
  そして、軍人恩給の支給を要求する運動に取りくみました。しかし、日本政府は「当時の国籍がない。戸籍がない。軍隊といっても特務機関が非公式にだした招集令状だから」などの見解に終始し、恩給の支給は実現されませんでした。
  しかし、その運働を契機に、彼は、ウィルタの三つの夢を実現することを願いに、一九八四年に急逝するまでウィルタとして生きる道を歩みつづけたのでした。
  元来、ウィルタは、私有概念がなく、上下の身分階級がなく、平等が徹底していて、どの民族とも争わず、平和に共存していく民族です。ウィルタの心は現代に生きる私たちに大変大きな示唆を与えているといえないでしょうか。どんなに少数であっても、胸をはって、民族が互いに生きることのできる社会を築いていきたいものです。

問五  在日朝鮮人・韓国人が受けた差別された歴史と現実を教えて下さい。

  一九一〇年明治政府は、「日韓併合」によって、朝鮮半島を植民地化しました。このことによって、ひとびとは、土地を奪われ、言葉や文字も奪われ、そして、「国家神道」が強要され、いわゆる「皇民化政策」が無理やり押しつけられました。
  一九三九年には、「創氏改名」が強要されるなど、民族の存在さえ認めない、またしても「同化政策」が押しつけられました。
  日中戦争の拡がりとともに、日本国内の労働力が不足してきため、政府は、「労務動員計画」を決定し、強制連行がおこなわれました。
  彼らは、工場・飛行場・ダム・炭鉱・鉱山などの危険な場所で、酷使されました。そして、粗末な食事と長時間の労働により、次々と栄養失調になる人が多く、劣悪な労働条件のもとで多くの人のいのちが奪われていきました。
  強制連行された総数、および死亡者の数は確認されていませんが、総数は百万人以上とも推計されています。
  戦後祖国の解放とともに、帰国した人もいますが、多くのひとびとがそのまま日本にとどまりまLた。
  また、戦争中に日本軍は世界にも類なみない「軍隊慰安婦」として朝鮮人女性をかりだし、その数は二十万人ともいわれています。
  さて、現在の在日韓国・朝鮮人のおかれている状況ですが、就職・教育・社会保証などにおいて、さまざまな差別が大きく横たわっています。彼らの定住原因を、日本政府がみずからの行為によってつくりだしたにもかかわらず、基本政策の底には、「住まわせてやっている」という意識がみられるといえます。
  特に、現在大きな問題となっているのが、「指紋押捺」の問題です。外国人は登録の際に指紋が採取されます。指紋は、プライバシーにかかわる基本的な人権といえます。五年ごとの切り替えに指紋を採られるということは、外国人を潜在的な犯罪者としてみているといえはしないでしょうか。
  「指紋押捺」の狙いがもっとも多く在日する韓国・朝鮮人を対象としていることは明らかです。たかが、「指紋」という人もいますが、韓国・朝鮮人にとっては、みずからの人間としての尊厳が踏みにじられるいたたまれない苦痛を強いるこの制度こそ、人権を踏みにじり、差別と排除を根底にもつ日本社会のありようを象徴しているものです。
  民族が互いに尊重しあい、ともに人間として生きていける社会のために、私たちも「同朋」の精神に立ち返り、制度廃止のための運動に取りくんでいきたいものです。

問六  そうした差別は、日本の近代化や北海道の開拓とも関係がありますか。

  「富国強兵」「殖産興業」を旗印とした日本の近代化は、北海道を〈内国植民地〉として位置づけます。一八六九年の北海道開拓使の設置によって中央政府の直轄支配となった北海道では、アイヌ民族の土地を取り上げ、御料地としました。
  北海道開拓は、そのかげに無惨な生きざまと死にざまとを強いられたひとびとの血と汗の歴史を背負っています。
  とくに、アイヌ民族や囚人・タコ労働者などの犠牲者は、開発の人柱となり、強制連行され、労働させられた朝鮮人や中国入は日本帝国主義の犠牲者でありました。
  一八九九年(明治三二)に制定された「北海道旧土人保護法」は、「保護」ということで狩猟と漁撈を制限し、山の木を伐ることも「盗伐」、鮭漁も「密漁」ということで禁じ、収奪の限りをつくしました。
  アイヌ差別を助長する政策を、政治および経済の面ですすめた政府は、開拓のための主要な労働力を囚人にになわすこととなりました。
  伊藤博文が提案した囚人労働は樺太集治監をはじめ、空知・釧路・網走・十勝の五集治監に収容された六千有余名を拘禁された労働者之して足首に鎖をつけ強制労働することになりました。
  金子堅太郎の復命書は、囚人を人間とは見ていません。普通の土工にたえられない困難な仕事を安い賃金で囚人にやらせれば費用の節約になるし、もしそれでたえられず死んで人員が減れば、監獄費の節約になるという、死んでよし、生きてよしという内容の公文書が上申され、それが実行にうつされるわけです。硫黄山・幌内炭鉱・中央道路の開削と、囚人の血はいたるところにしみついています。
死者を多数生みだした囚人労働の本質は、その後タコ部屋(監獄部屋)に受けつがれます。
  一八九六年(明治二九)、官営の鉄道工事から現れたタコ労働は、その後、道内の鉄道トンネル・ダム・道路・港湾などの事業をになうこととなります。
  逃亡すればつかまりリンチにあったり、あるいは、苛酷な労働の末に死にいたらしめられたタコ労働者も少なくはありませんでした。北海道の大地に、今も、どれくらい多くのタコ労働者が埋もれたままになっていることでしょうか。
  鉄橋やトンネル・ダムの工事で犠牲となったタコ労働者こそ、北海道開拓の礎となったといえるのです。
  いわゆる北海道の開拓の歴史は、先住民のアイヌ民族に対するすべてにわたる収奪に始まり、囚人・タコ労働者・中国人・朝鮮人強制連行とつながります。その人権を無視した差別の構造は、北海道開拓の本質であり、日本の近代化の縮図ともいえます。

問七  すべての民族が相互に文化と人権を認めあい生きていくために、私たちは何ができますか。

  まず〈学ぶ〉ことだとおもいます。異なる民族の文化や知恵を学ぶことによって、差別を超える道はスタートするのです。
  「争い」をしないウィルタ民族、その文化は、友好・平和・平等が徹底し「戦争」という言葉すらもっていません。私たちは、その民族を争わないから「意気地なし」「怠けもの」であり、身分や序列を知らないから「愚かもの」と蔑視してきたのではないでしょうか。
  「アイヌ・ネノアン・アイヌ」(人間らしくある人間)。素晴らしい人に対してアイヌを二つ重ねて呼ぴ、それをめざすアイヌ民族。その自然観は、現代社会に厳しい警告を発しています。鹿の肉を獲っても、けっして必要以上に殺したりはしません。そして神からの恵みとして受け取り、一部は木の枝に吊るしてカラスのために、一部は雪の下に置いてキツネのためにと残しております。
  こうした、自然の中で共に生かされ合っていのちを共有するという自然観をはじめ、高い精神文化に対して、私丸ちは「無知蒙昧」とさげすんできたのではないでLようか。
  世界三大叙事詩といわれる「ユーカラ」や「サコロベ」は、現代がすでに失ってしまったモノを私たちに教えてくれます。
  さて、つぎに〈学ぶ〉ことは、民族の歴史です。多数者の立場での論理や優秀な民族であるといった間違った視点で異なる民族を規定してしまったり、歴史性を無視したりしてはいないでしょうか。
  日本の近代化は、常に異民族に対する同化教育の歴史でした。アイヌやウィルタに対しても朝鮮民族に対しても、土地を奪い、言葉を奪い、名前を奪い、「日本人」となることを押しつけてきたのです。そのことが、民族にとってどんなに屈辱的であり、悲しみに満ちたものであったことは、想像をこえるものだといわなければなりません。
  私たちは、今まで、そのことにあまりにも、鈍感に過ごしてきたといえないでしょうか。
  『赤色赤光・白色白光……』(『仏説阿弥陀経』)という釈尊の教えをいただき、〈異なるもの〉が、互いにその存在を認め合いつつ、なおともに生きていく道を実践する生き方が私たちに問われています。
  『もし、わたしが仏になるとき、国内のひとびとが、ことごとく金色の身となることができぬようなら、わたしはけっしてさとりを開きません』(『仏説無量寿経』)
……ことごとく金色となる……。この言葉は、仏の願いとして語られています。という
ことは、同時に、それは私自身にとっての願いとならなければなりません。
  〈ことごとく金色〉とは、平等をめざす言葉であり、いうならば〈差別〉を超えて、それぞれの〈いのち〉がともに尊く光り輝く歴史を持たなければならないことを示しています。
  いうならば、仏教の本質は人種・国家・民族・階層・思想などは勿論のこと、衆生・有情とよばれるあらゆる〈いのち〉において、あらゆる差別を超えていくこえへの限りない願いといえましょう。
〈願い〉はいつも、私自身を問いつづけています。
〈……ことごとく金色となっているだろうか……〉


語彙解説

【言語を基準とした民族】
  @印欧語族Aフイン・ウゴル語族Bアルタイ語族Cコーカサス語族Dバスク語族E北アフリカ.西アジア語族Fアフリカ諸語族G中国.チベット語族Hマライ・ポリネシア語族Iオーストラリア語族J南アジア語族Kアメリカインディアン語族などに分類する学説がある。

【民族自決権】
  ある民族が、民族や国家の干渉を受けることなく、任意に自己の帰属や政治組織を決定する権利。

【蝦夷】
  古代、関東地方以北に住み、中央から異民族視されてた住民。えみし・えびすと呼ばれている。その後、「えぞ」と呼ばれるようになる。

【アテルイの戦い】
  八世紀半ば、現在の宮城・岩手県などで、大和国家の侵略軍にたいしての原住民抵抗の戦いが数多くおきる。特に、七八九年から約二十年近く胆沢地方を中心に大規模な戦い。

【十二の館】
  志濃里館(函館)、箱館(函館)、茂別館(上磯)、中野館(木古内)、脇本館(知内)、穏内館(福島)、覃部館(松前)、大館(松前)、称保田館(松前)、原口館(松前)、比石館(上ノ国)、花沢館(上ノ国)、のそれぞれに館主である武将たちをはじめ商人たちが多数居住。

【場所請負制】
松前藩では、それまで自ら交易船を仕立ててアイヌとの交易場所に送っていたがこれを一切商人にまかせてそこから上がる運上金(請負代金)によって生活する。

【メナシ・クナシリの戦い】
  一七八九年五月、クナシリ島のアイヌが場所請負人である飛騨久兵衛の虐待にたいしてメナシ領のアイヌとともに蜂起する。

【ノッカマップの虐殺】
クナシリ蜂起のリーダー三七人が、七月二一日松前藩によって処刑される。

【御料地】
  皇室の所有に属する土地。全国に天皇制国家支配の経済的基盤を固めるために形成されるが、その大部分は北海道につくられる。全国で三六五万町歩、北海道は二〇〇万町歩というぼう大な面積を召める。北海道での代表的なものは、神楽村の一万町歩であった。

【違星北斗】
  一九〇二年(明治三五)余市に生まれる。
本名、滝次郎。短歌・俳句を通してアイア民族復興と解放の精神をうたう。雑誌「コタン」を発刊し、民族結束のために全道を歩く。一九二九年、二十七歳で没するが、翌年、遺稿集「コタン」が刊行され、一九三一年(昭和六)彼の志は「北海道アイヌ協会」設立となって現れてくる。

【知里幸恵】
一九〇三年(明治三六)生まれ。
  アイヌ民族が生んだ偉大なアイヌ言語学者であり、アイヌ独立論をとなえる知里真志保の姉である。
  「銀の滴降る降るまはりに、金の滴降る降るまはりに……」という言葉で始まる彼女の『アイヌ神謡集』は、アイヌ民族の最もすぐれた歌といわれる。すぐれたユーカラの伝承者でもあった彼女は、研究者のために上京し、叔母(金成マツ)と協力するが、一九二二年(大正一一)急逝する。翌年『アイヌ神謡集』出版される。又、ヨーロッパでも紹介され、独・伊・エスベラント語に翻訳される。

【創氏改名】
  朝鮮総督府は、一九三九年(昭和十四)「朝鮮民事会」を改訂して、朝鮮人に日本姓を名のるよう強要した。
  創氏をしない場合は入学の拒否、公私機関への採用の拒否、「非国民」とみなすなど、すべての朝鮮人に「創氏」を強要した。
  朝鮮の「姓」への古来からの伝統は破れ、「皇民化」政策としての創氏改名は、多くの朝鮮人にいかりと悲しみをおしつけるものであった。

【タコ労働】
  タコ部屋は、別名「監獄部屋・土工部屋」とも呼ばれている。土木工事の下請人、あるいは孫下請人が経営する飯場のことをいう。
土工夫たちへの労働は大変苛酷なものであり、その奴隷的な労働を強制維持するものがろからか「タコ」と呼ばれるようになった。
自分の手足を食う「蛸」の意味か、脱出できない「蛸つぽ」からきているのかさまざまな説がある。

【民衆史運動】
  歴史運動・教育運動・地域と少数民族の文化を守る運動・人権と民主主義を守る運動・平和と民族連帯を進める運動をめざして、一九七〇年代よりおこる。アイヌ・ウィルタ・囚人労働・タコ労働・朝鮮人強制連行・女性史などの問題について民衆の視点で掘り起こ、追悼・顕彰することをとうして歴史意識
と人権意識の変革がなされ、地域の民衆を主体とする運動として単なる歴史運動をこえ民主主義運動・民族文化運動・他民族連帯の運動へと広がりを見せる。

  【ユーカラ・サコロペ】
アイヌ民族の中で、口承で伝えられている
英雄伝説叙事詩。一般に長大なものが多い。アイヌの自然観について、深い意味に満ちた学ぶべき多くのことがらを教え、物語っている。


[基幹運動テキスト第二集・御同朋の社会をめざして・北海道教区基幹運動推進委員会・平成元年(1989年)7月1日]ヨリ




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