拝復    十一月十五日付けのご書面を拝見いたしました。ご質問にお答えするよう
にという総局の意向でありますので、小職よりお返事申し上げます。

    最初のご質問の三点について、

一、人の死を直ちに「還浄」ととらえますことは、当然人間は浄土からうまれてきたものということが前提になりますので、これは、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流轉して、出離の縁あることなしと信ず」という機の深信に反することになります。従って、もし「還浄」と申します場合には、親鸞聖人が『唯信鈔文意』(『浄土真宗聖典(註釈版)』七〇七頁)でおっしゃっていますように、如来さまが「率てかへらしむ」、即ち「つれてかえってくださる」という意味に理解しなければなりません。それが他カの法門の本義であります。その意味で「乗彼願力・還浄」と申すことが聖人の教えに即した言い方ではないかと私は考えております。しかし、愛する者、とくにおさな子を亡くしましたとき、親の気持ちとして、何の咎もないあの子はきっと仏さまのお浄土に生まれたに違いないと思いたいのは人情でありまして、そうした気持から「お浄土へ還った」と申されることに、「それはまちがっています」ということはなかなか言いにくいことでありまして、そこに「還浄」という表現が用いられる理由があるのではないかと愚考いたします。しかし、そうした凡情に流されず、真宗の本義は本義として護っていくのが私どもの責務であると言わなければなりません。

二、親鸞聖人は、人間はいかなる者も罪悪深重の凡夫であると捉えられたのであり、ただお一人法然上人だけが、浄土から衆生済度のためにこの世に出現された還相の菩薩であったと仰がれたのであります。そういうお考えに基づいて、私たちに聞法によって信心獲得することをおすすめになりました。如来回向の信心を獲ることなしには、私たちが生死の迷いから脱却する道はないのであります。そのみ教えに従って、私たちは生涯聞法を続けなければなりません。聞法もせず、信心を獲得もしないで浄土に生まれることができるなどと聖人がおっしゃったことはありません。教団が「全員聞法・生涯聞法」を掲げる所以であります。

三、そうしたことから考えても、人間の日常生活がそのまま肯定されるはずはなく、『歎異抄』に仰せのように「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもってそらごとたはごと、まことあることなき」ことを肝に銘じなければなりません。そこにこそ、「念仏のみぞまこと」という世界がひらかれてくるのではないでしょうか。「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひ」もする私でありますが、そこにまた「本願のかたじけなさ」を仰ぐ私でもあります。私たちは煩悩にあけくれる自分の日常を深く省み、我が身のいたらなさを思うとともに、少しでも世のため人のためになすべきことをなそうと努めなければならない、それによってはじめて聖人のお気持に沿うことができるのではないかと私は考えております。

    以上、ご質問をいただいたことを機縁としまして、日頃考えておりますことの一端を申し述べました。十分意を尽くしませんがご賢察くださいますようお願い申し上げます。

一九九九年十二月十五日

浄土真宗本願寺派

        浄土真宗教学研究所

                所長    石田慶和

西楽寺住職

            尺一顕正    様



尺一氏から、本願寺から送られてきた「還浄」に対する質問状の解答書の写しを頂きました。
この解答書は、公開すべきものでは無いかも知れませんし、石田先生にも 了解をとっていません。
しかし、還浄に対する教団とらえ方を見る上で大切な一文であろうと思い、私の独断で掲載する事にしました。


基幹運動本部トップに戻る
トップページへに戻る