「敗戦50年」
西本願寺教団の光と闇

『「敗戦50年」西本願寺教団の光と闇』
(教団の戦争責任と戦後処理を荷負するために教団の戦争責任と戦後処理を問う真宗者ネットワーク


『はじめに』

  かつて、日中国交回復のため、中国を訪れた田中角栄首相(当時)にたいし、中国の周恩来首相は「前事不忘・後事之師」(前に行った過ちを忘れることなく、後の世の教訓にする)という、中国のことわざを紹介されたそうです。
  私たちの西本願寺教団では、昨年(戦争犠牲者の五十年法要の年)と、今年はアジア太平洋戦争が終結(日本の敗戦にともない)して五十年の節目の年に当たることから、この二年間に渡って全国三十一の教区や、また沖縄をはじめ、組や寺院などで追悼法要や平和の集いなどを開催してきました。こうした法要や集いがもたれる中、特に敗戦五十年をどのような形で迎えるべきか、いろいろ論議されて参りましたが、教団全体の状況としては、「五十年の節目の年だし、仏教教団として何かしなけれぱ格好がつかない」といった、なんとなく五十年ムードにのっての法要や集いの様相を呈していますが、決して一過性のもので終わらせてはならないと思います。何故ならば、私たちは、この五十年法要を契機として教団の過去の戦争責任の解決の清算とそのことに対する仏祖への懺悔、そして被害国への謝罪や戦後処理をきちんとしてゆかなけれぱならないからです。
  敗戦後五十年を迎えた今日、はたして教団が戦時中に行ってきた戦争協力とそのことの過ちを、どれ程の人が正しく確かに認識しているでしょうか。今日の状況から言えぱ・むしろ事実を本当に知ろうとしていないと言ったほうがよいのではないでしょうか。それゆえに、私たちの教団では教団が戦争に関わった事実についての責任意識も稀薄であり、責任を負うべき主体も成立していないのではないでしょうか。このような状況を憂慮しつつ、私たちの教団が戦時中に犯した過ちやその貴任、及び戦後清算すべき課題が何処にあるのかを・厳しく問い返して行きたくおもいます。
一九九五年八月十五日
教団の戦争責任と戦後処理を問う真宗者ネットワーク

問・   本願寺教団の戦争協力について教えて下さい

答・   国私たちの日本は、一九三一(昭和六)年九月十八日に柳条湖事件において「満州事変」を起こし、翌年には「上海事変」へと拡大し、これをやがて、日中戦争へと拡大させました。さらに、一九四一(昭和十六)年十二月八日には、米英に対する宣戦布告とともに太平洋戦争へと突入してゆきました。そして沖縄の「捨て石作戦」、広島、長崎への原爆投下という多大な犠牲を払って、一九四五(昭和二十)年八月十五日、日本の無条件降伏によって十五年にもおよぶ戦争は終りました。
  この間、日本は、天皇制絶対主義体制や国家神道による国家総動員体制をしいて、「アジア解放」「大東亜共栄圏」「八紘一宇」などの名義を立て、中国大陸、朝鮮半島及び東南アジアたどの諸国の人々をも戦火に巻き込みました。そしてその結果二〇〇〇万人といわれる多くの人びとのいのちが奪われました。
  この大戦下において、私たちの教団は、その教学、布教、法式などの宗務機構のすべての機関を統制し、内局は「今や、我が国家としても非常時に際会し、外、満州国の独立を扶け東洋の平和を確立すべき使命を荷負し、その前途には、あらゆる困難を忍び、種々の迫害とも戦ふべき覚悟を要するは当然のことである。従って我が宗門も、国策に順応して教化の大方針を立てて、王法為本の宗風を恢弘し、真俗相資の実を発揚すべきことは、また当然の責務であって、深慮遠謀、よくその饗ふ所をあやまらざるようせねばたらぬ。」と訓示し、「興亜報国生活運動」などを展開して、積極的に戦争に協力してゆきました。
  そして、「皇国宗教としての浄土真宗」を内外に明示せんがために、「戦時教学」なるものを構築して、「大麻は大神宮を拝するための神札である」、「真宗教徒も日本国民たる以上当然進んで奉受し敬礼するべきものである」と、大麻拝受をすすめました。 そして、神杜及び皇道の崇敬についても「皇道は日本民族の伝統的信念であり、国体信念であるからそれは一言にして尽くせば国体明徴の役割に立つ」と解釈し、「これに則りとれを敬うことを忘れてはならぬ」と神社参拝を奨励したのです。
  また、「戦死は無我の行」、「戦死は菩薩の行」、「義勇奉公こそ仏恩報謝」と教示し、僧侶や門徒を戦地に駆りたててゆき、戦死にたいしては、「忠誠院」や「芳忠院」などの院号法名を下附し、それを偉業として賛えてきました。
  また、宗祖親鸞聖人がその全生涯を捧げて製作された、主著『教行信証』などの真宗聖典の一部を、その当時の国体観念に矛盾し天皇神聖の原理に抵触するたどの理由から「削除」や「不拝読」を指示したり、近世から本願寺に伝統された「五尊安置様式」に基づく聖徳太子御影の右余間安置(内陣向かって左、下座)を変更して、七高僧御影と懸けかえの通達を行い、国体護持の戦時体制に迎合してゆきました。
  更には、門主は内局と相談しながら、多数の『ご消息』を発布して、当時の僧侶と信者に対し、「教団を挙げて天皇に忠誠を誓い、もって戦果を挙げるべし」との教示を行なってきました。




問・   では、戦後、教団は戦争協力の問題をどのように処理してきましたか

答・   戦後、我が国においては、GHQ指令により、明治憲法を初め教育勅語や神権天皇制など、戦前の全ての法律や制度が破棄され、民主主義を基調にし、人権や平和、信教の自由などを尊重した国民主権の憲法が制定されました。また、同時に「宗教法人法」の改定に伴い、本願寺教団も「宗法」や「宗則」及び「寺院規則」を改正し、宗務機構体制も刷新されましたが、宗教教団の生命線とも言うべき教学、布教、法式たどのその殆どが、改められませんでした。
  しかし、日本遺族会や保守勢力の台頭に伴い「靖国神杜国家護持」化が進められようとする中、一九八五年本願寺の法灯が大谷光真第二十四代門主に継承され、戦時の祭政一致、自家神道に追随し迎合してきた反省と、敵味方の別なく、みな「父母兄弟」という真宗のみ教えに基づき、再び戦争があってはたらないという餓悔の心から、東京の千鳥ヶ淵墓苑において、門主ご親修による、「全戦没者追悼法要」が営まれることとなりました。
  この法要と前後して、教区や組という教団の行政組織やまたは各寺においても、ささやかたがらも、同じ趣旨による法要や、市民運動と連帯しての反戦・非戦の運動が実践されてきました。
  これを受けて漸く、敗戦五十年を前にした一九九一年二月に、教団中央では宗会決議としてその戦争責任を内外に宣明しました。それにしても、戦時教学の誤りを清算することなく、本堂荘厳における「聖徳太子別殿奉安」の問題も放置され、真宗聖典の「削除」、「不拝読」の撤回はなされておらず、門主の戦時中の『ご消息』に至っては、現在たお地方の門徒の「講」などにおいて拝読されるままにたっています。




問・   真宗者ネットワークの活動について知りたいのですが

答・   一九九一年二月二七日、本願寺派宗会では「わが宗門の平和への強い願いを全国・全世界に徹底しようとする決議」を、教団の戦争責任として国の内外に宣明し、そして、
「一、総局は過去の戦争協力への深い反省を表明し、『世の中安穏なれ、仏法弘まれ』との宗祖のご遺訓に添うべく、全国、全世界に念仏者め平和へめ願いを行動に示す。
  二、前項の行動を具体化するために、全宗門的合意が得られるような法要儀式その他の事業計画を策案して、全教団で実施される宗務上の処置を採る。」
  との趣旨を言明しました。しかし、「宗会決議」後、教団として「平和への強い願い」を全国、全世界にどのように具体化してこられたのか、その真意に疑念を抱かざるを得なくなりました。
  そこで私たちは、宗会決議に基づき本山本刹において、五十年法要を実施し、戦争責任と戦後処理をきちんと行うことを求めて、教団内の《教団の戦争責任を考える真宗者の会》《同朋運動を考える会》《樹心の会》《真宗遺族会》《反靖国連帯会議》の運動五団体が連帯して、昨年の六月に結成されたのが、教団の戦争責任と戦後処理を問う真宗者ネットワークです。主な活動は・「敗戦五〇年を迎えるにあたり、本願寺教団の戦争責任と戦後処理を求める請願署名活動」を全国全寺院に展開し、いまも継続しています。

  その趣旨内容は、教団の戦争責任は教団を構成する一人ひとりにあるものと自覚し、先の大戦中、仏法の名において犯した罪責を、一切の衆生と仏祖に対して、餓悔するとともに、念仏者の責務として、次の三項目について、総局並ぴに宗会に強く要望しました。
  1. 戦争遂行のために発布された戦前の、「門主消息」の失効宜言を行うこと。
  2. 「教行信証・後序」の中の書葉などが、日本の国体観念に矛盾し、天皇神聖の原理に抵触すると認めて、国家への忠誠を表すため、一九四〇(昭和一五)年四月五日に出された「聖典削除・改訂指令」を撤回すること。
  3. 聖徳太子像を右余間(内陣へ向かって左)へ、安置してきた「五尊安置様式」を変更して、一九三九1(昭和一四)年九月一六日(甲達二十二號)、全国の寺院にたいして出された、左余間「別殿」に「奉安」すべきとの「聖徳太子奉安様式」の達示を撤回し、聖徳太子像を右余間安置にもどす旨の通達をすること。
となっています。
  そして、本年七月までに、五千人を超える宗門関係者の署名を集めて、総長及び宗会議長宛に提出したところです。
  また、本年四月には、京都にて第一回目の全国集会を開催し、十五日の本山での「終戦五十年全戦没者総追悼法要」にも参拝し、参詣者へ理解と協力を求めるビラの配布などを行いました。
  その他、本願寺の宗会議員(門徒議員三十一名・僧侶議員四十五名)への戦後処理に対する協力要請や、宗政やこの運動にたいするアソケート調査などを行い、啓発活動への取組みも進めているところです。




問・   聖典削除・不拝読の問題についてしりたいのですが

答・   一九四〇(昭和十五)年四月五日、本願寺当局は、宗祖親鸞聖人の主著である『教行信証』と『高僧和讃』及び『正像末和讃』の中の一部、そして覚如上人によって製作された聖人の伝記である『御伝妙』などの一部の文言が日本の国体観念に矛盾し天皇神聖の原理に抵触すると認めて、国家への忠誠を表すために、それらの文章を拝読し引用するについては、「削除」ないし「不拝読」とすべきであると決定しました。そして、教団の地方組織である全国の教区管事及び別院輪番あてに『聖教の拝読並びに引用の心得』を通達配布いたしました。
  その「削除」ないし「不拝読」とすべきであるとした文章を紹介しますと、
四、
(イ)『教行信証』流通分ノ「主上臣下背法違義成念結怨」
(ロ)『御伝妙』下巻ノ「主上臣下法二ソムキ義ニ違シイカリヲナシアタヲムスブ」右ノ文ハ空白トシ引用若シクハ拝読セザルコト、
など、十三項二十六目に分類し詳細にわたって示しています。
  このような通達文書に対して、当局の枢密部長は「要するに本願寺派の人々(門末全部)に『心得方』を示し、当本山の赤誠の心もち、宗祖の御意志を歪曲せしめたくないためにしたことであります。宗祖は王法為本のご精神を基礎とされ、特に国家観念の強烈たる方であります。決してその点『誤解さるべき方』ではない。よって正しき宗祖以来の歴史的伝統的精神をこの際明瞭に内示したのであります。」(昭和十五年五月九日。中外日報記事)との談話を発表しています。
  さらに、本願寺当局は『心得』について『内示趣旨』を発表しました。それによりますと、この聖典の文字削除は、ひとえに「王法為本の宗風を遵守して国体明徴の周知を期せんが為」になされたものであって、その聖典削除については、「宗義安心に関しては」「全然触るる所なし」とし、この度の削除通達は、帰結するところむしろ「宗意を開顕せる」ものであり、「勧学寮に諮問し其の他これに関係する、各種の研鑽を総合し」て「合法的に決定せる」ものであって、批判反対は許さないという、きわめて強圧的た姿勢で指示されたものです。




問・   聖徳太子奉安様式の問題について教えて下さい

答・   西本願寺では、蓮如上人の頃から、それまでの道場が次第に寺院形態(内陣余間の諸尊安置空間を具備する)を形成することに伴い、本尊である南無阿弥陀仏の六字名号を内陣中央の須弥壇に安置し、宗祖の御影並びに前住上人(もしくは歴代宗主)僧及び聖徳太子の御影像はそれぞれ左右の両余間に安置する、五尊安置の様式が定式化され下附様式の制度化をみるようになったと言われます。教団の歴史の中できちんとした形で「五尊安置様式」が成立し「通式」とされたのは本願寺第十二代准如宗主(一五九二(文録元)年〜一六六〇(寛永七)年)の時代だと言われています。
  その五尊安置様式及び「通式」の特徴は、余間の安置様式において、七高僧御影が聖徳太子御影よりも上座に位置する左余間(外陣からむかって右側)に安置されているというととです。それは七高僧御影の中に、龍樹・天親のように菩薩の位にあり、歴史的には聖徳太子よりも先に生まれられた方であり、聖徳太子は俗体にして後代の先徳であるとの理由からでありました。また、七高僧御影、聖徳太子御影の安置に左右の両余間の上下の位と順序の別はあっても、あくまでも、左右の余間が対称的な安置空間であり、対副形態の枠内での区別であって、七高僧御影を安置する左余間を特別扱いするというわけではありませんでした。
  しかし、一九三九(昭和十四)年九月、近世、近代と一貫して伝統されてきた教団の「法式」における五尊安置様式を覆す次めようた「聖徳太子奉安様式」め制定が当局によって断行されました。
甲達二十二号
末寺一般
今般聖徳太子奉安様式ヲ別記ノ通相定ム
  昭和十四年九月十六日
執行長本多恵隆
(別記)
一、太子影ヲ本堂二安置スル場合ハ向ッテ右余間二奉安スヘシ
追而七高僧御影ハ向ッテ左余間二安置ス
由緒宗主御影等安置ノ場合ハ其左側トス

別院及び一般寺院では、この通達によって、西願寺法式に伝統されてきた五尊安置様式を変更して、聖徳太子御影を七高僧御影よりも上座である右余間に懸け変えさせました。しかも、従来「安置」という用語でもって本堂荘厳を表してきたにもかかわらず、新たに「奉安」なる用語を用いたのでした。しかも、単なる余間ではなく「太子殿」という別格の意義を持った「別殿奉懸安置」という性格を有すると心得べきとの内容をもつ達示でありました。
  こうした改変が行われた背後には、当時、軍部主導による天皇権威の形成と相侯って、国体明徴運動(国体観念を愈々明徴ならしめる)や軍事体制がいうそう強化されていった時代であり、政府は仏教教団に対しても、文部省次官通達等によって国体明徴運動への理解と協力を要請しました。
  一方、教団の教学者たちは、「聖徳太子は、日本の神国なることを十分に意識し、其の神国の理想を円成せんが為に、仏教によりて国民精神を長養せんとつとめられたのである。爾来わが皇道精神は仏教の無我的体験によりて教養され、愈その具体的発展を遂げ、万邦無比なる国民性を成就し来った。(中略)今日はまさに挙国一致興亜の大業を益々光彩あらしめ、こめ聖業に猛進すべきである。」(普賢大円「興亜の仏教精神」)と説き、親鸞聖人が頂かれた聖徳太子の恩徳を歪めて門信徒を教化していったのでした。
※注・真宗における本堂内陣・余間の荘厳のあり方は、今後の大きな研究課題であります。




問・   門主「ご消息」の失効宣言について教えて下さい

答・      「ご消息」については、「門主が教義について宣述される文章を消息という」と定義されており、また、その性格について、次のようにのべています。
▼「ご消息というのは一人一人の教学と違って、教団では、宗制の中でお聖教の中に数えられているものだと思います。ですから三部経をはじめとして教行信証その他の聖教と同じ価値をもっておると、こうみられておるものです。これはおしいただいて、いただくものとしています。(中略)あるいは、昔のご消息は、今の人が一寸どうなのかなと思うものがあれば、それはご消息自体の問題よりも、そのご消息の時代と今の時代とのズレというものが一つは考えられるとおもいます。ご消息はその時代その時代において、やはり、尊いものとして、ご門主さまのおさとしとて頂いてきた」
▼「ご消息の裏にこもっている、そのお心をいただいていくべきものであると考えます。決して時代が変わったから廃止処置をとれというような乱暴な意見には同調しない」
▼「そうしますと、ご消息については、門末といいますが、宗門の一般は、絶対に批判は許さない。どのようたものでもご消息をめぐる論争たどは、もってのほかであるとこういう結論になるのですね。」
▼「しかし、教団という一つの組織体ということになると、やはりそういうものと無関係ではないにしても、秩序が成り立っておる。そうしたならば、それを批判することによって、例えば処分されるということは大学の真宗学の研究室にはないかも知らんけれど、教団にはあるという差がありはしないかと思うのです。
(教学論争とご消息批判の是非をめぐって)」

*(引用文は、一九七二(昭和四十七)年二月二十一日教団発行の『宗報』別冊宗務情報「座談会・今日の課題」より。)
この発言に見られるように、歴代門主の書かれた「ご消息」は、教団内では絶対的な権威を持つものであり、門末の者が批判することは絶対に許されなく、廃止処置たど絶対に行うべきでない性質のものであるとの認識を僧侶や門信徒の一部の人は持っているようです。
  ならば、その内容が仏教の教えに背き、親鸞聖人が領解された、
  本願の精神に根本的に違反する内容のものであっても、これを批判してはいけないのそしょうか。
改廃すべきことを主張してはならないのでしょうか。戦時中発布されたご消息には、例えば、
「凡そ皇国に生を受けしもの誰か天恩に浴せざらん、恩を知り徳に報ゆるは仏祖の垂訓にしてまたこれ祖先の遺風なり、各々その業務を格守し奉公の誠を尽くさばやがて忠君の本義に相契ふべし、殊に国家の事変に際し進んで身命を鋒鏑におとし一死君国に殉ぜんは誠に義勇の極みと謂つべし、一家同族の人々にはさこそ哀悼の悲しみ深かるべしと覚ゆれども畏くも上聞に達し代々に伝はる忠節の誉を喜び、いやましに報國の務にいそしみ其の遺志を完うせらるべく候」
と、天皇の御聖恩に報ずるため、命をやすく君に捧げよと諭されています。このようた内容をもつ門主による「ご消息」が数多く発布され、同時に戦争協力の「真俗二諦」の教学などで補完することによって、積極的に、僧侶や門信徒を戦地に駆り立てて行きました。
  私たちは、戦後(昭和二十三年六月)「教育勅語」をはじめ天皇の詔勅などが、衆議院と参議院において失効宣言されたように、たとえ教団内において特別な権威を持つ「ご消息」であろうとも、仏祖に背き戦争に協力してきた内容のものについては、総局が責任をもって、その効力を失わせる宣言を行うべであると考えています。何故ならば、
浄土真宗本願寺派宗法
第九条  門主は宗務機関の申達によって宗務を行なう。
二  前項の宗務については、申達した宗務機関が、その責任を負う。
第十一条  門主は総局の申達によって、左の事項を行なう。
三  「消息及び宗令の発布」
と示されておりますので、宗務機関であるところの総局において当然「ご消息」の失効宣言を行なうことが出来ると、解するからです。




問・   本年四月十五日本願寺御影堂において営まれた「終戦五十年全戦没者総追悼法要」は、どのような内容のものでしたか

答・   当日の法要の様子を報じた本願寺新報や宗教新聞の『中外日報』の見出とは、"仏法の名において戦争協力""悲痛の事実を漸魂""教団の戦争協力餓悔""「過去の過ち」光真門主、松村総長が表明""各教区の総集編として"とあり、朝日新聞四月二十三日の東京版(夕刊)には"「英霊供養型から平和祈念型へ」"〃戦争協力の清算をめぐり論議も"と報道されています。
  法要当日は、親鸞聖人の御真影を安置する、御影堂に、千五百人の門徒、僧侶が参拝し、門主の導師のもとで正信偈が唱和されました。
  その後、門主は『ご親教』ご自身の心境を、
 「人類の罪業ともいうべき戦争は、人間の根源的な欲望である煩悩にもとづいて、集団によって起こされる暴力的衝突であります。そこでは非人間的行為が当然の事となり、「いのち」は物として扱われ、環境が破壊されます。それへの参加を念仏者の本分であると説き、門信徒を指導した過ちを厳しく見据えたいと思います。宗祖の教えに背き、仏法の名において戦争に積極的に協力していった過去の事実を仏祖の御前に漸塊せずにはおれません」
と、述懐されましたが、日本軍のアジアヘの侵略に伴う西本願寺の海外開教、従軍布教の問題などには触れられませんでした。
  引き続いて、松村了昌本願寺総長はご親教を頂いての「決意表明」として、教団の具体的戦争協力に触れ、
「聖教の削除、不拝読。聖徳太子奉安様式の変更」などの戦時下の宗務行政は「教団の犯した過ちであった」
と明言しつつ、「誠に慚愧に堪えない」と懺悔の念を明らかにしました。こうした発言は、西本願寺教団トップの人の発言だけに、今後の戦後処理への取組みに充分に注目してゆかなければならないと思われます。




問・   今後真宗者ネットワークはどのような運動を展開されるのですか

答・   本願寺教団当局が、国の内外で多くの人々が納得出来るよ差形で、教団の戦争責任と戦後処理を実現するよう、請願署名活動を更に継続しつつ、総局への要望を提出してゆきたく思っております。また、今回作成する小冊子を平和学習会などの研修資料として宗門関係者へ配布し、課題をきちんと提示したいと考えております。そして、教団内で運動への理解と協力を拡大する予定です。
  そのためには、宗門を挙げて推進しようとしている基幹運動の一貫として、各教区が前向きに取り上げて頂くよう、関係機関にも働きかけをしなけけばなりません。何故たらば、基幹運動計画の重点項目(4)には「平和・人権・靖国をはじめとする杜会の問題に取組み、いのちめ尊厳を守ろう。」と提示されていることにも深く関係するからであ,ります。
  このように戦後処理を誠実に行たうことは、わが教団が杜会的た信頼を回復するためのもっとも主要な行為であり、またそのことは、私たち真宗者にとって信心の本質に関わる問題でもありましょう。




『あとがき』

  『ユネスコ憲章』には「戦争は、人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かねぱならない。相互の生活と風習を知らないことは、人々の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信を起こした共通の原因であり、この疑惑と不信のために諸人民の不一致があまりにもしぱしば戦争となった」と、戦争の原因を指摘しています。
  私たちが、仏祖のお心に背いて、先の侵略戦争に加担したその原因は、私たち真宗門徒が本願の教法を、ただ観念的にしか理解していなかったこと、そして、アジア諸国に対する、無理解と非連帯からではなかったのでしょうか。
  親鸞聖人は、性信御坊へのお手紙のなかで(「ご消息」二五)、承元の法難と承久の乱を取り上げて、「仏のご恩をおぼしめさんに、念仏をふかくたのみて、世のいのりに、こころいれて、申しあはせたまふべし」と教えられています。私たちは、改めて親鸞聖人の悲痛な「世のいのり」への教訓に耳を傾け、二度と"仰せにてなきことを、仰せだ、仰せだ"と言って、再び門徒を欺き、世を欺かぬよう、心して歩みたいとの思いから、この小冊子を刊行するものです。


敗戦五十年
西本願寺教団の光と闇
教団の戦争責任と戦後処理を荷負するために
一九九五年八月一五日発行
(仏暦二五三九年)
編集・発行    教団の戦争責任と戦後処理を問う真宗者ネットワーク