「資料」    本願寺と小鹿島更正園

以下の資料は、戦前戦中の小鹿島(ソロクト)更正園について、私が集めた(西)本願寺の資料です。未発見が多いのかほとんど残っていないのか、今のところ解りませんが、あまり有りません。今後新たな資料の発見を望みます。
尚差別語を含んだ文章ですが、検証のためそのまま掲載することをご了解下さい。



「癩患者の刑務所教誨」

朝鮮総督府にては、全羅南道小鹿島に四千人の収容力ある癩患者療養所を新設「更正院」と命名して十月十五日盛大な落成式をあげた、同時に総督府では同所に癩患のみを収容する刑務所を特設するが、由来朝鮮方面の癩患者への宗教的修養機関は、カトリック教徒専属の形勢にあつたのを、本派後藤総長は刑務所の新設に伴い朝鮮に於ける刑務所教誨事業は、殆んど本派独占の立場にある関係上、新設の刑務所及び、「更正院」の教誨事業は本派に一任されたいと、総督府と折衝した結果、当局もその意を諒とし朝鮮語通の教誨師を派遣されたいとの希望があったので、従来瑞奥支所教誨師である盛田静圓氏を十月二十日附で特派して、癩患者刑務所及び更正院の教化事業に着手することとなった。佛教徒として癩患者の刑務教誨に着手することは、日本の刑務史上特記するべきことである。

教海一瀾(西本願寺発行の僧侶向けの官報のようなもの)昭和10年11月25日

「仏教婦人会百五十年史」年表より
1937(昭和12)年全朝鮮仏教婦人会、小鹿島癩療養所へ梵鐘を寄贈

教誨百年下巻(東西本願寺の教誨師の百年誌)
昭和四十九年四月一日発行
「終戦と教誨師」
P354

光州刑務所の小鹿島支所は癩患者収容所で、終戦と同時に収容者により仏壇が破壊されたとの情報があったので−多分神社とまちがえたのであろう−本所教誨堂の御本尊は光州の本願寺に移し安置した。また、保護者会の有隣会の集会所に安置してあった御本尊は、浦本師が引き揚げのとき身をもってお守りし、お伴して帰り、現在同師宅のお仏壇に安置し礼拝しているという。

●光州刑務所小鹿島支所

光州刑務所小鹿島支所の竹島良幸教誨師は、昭和二十年七月五日朝鮮二三五部隊に応召、終戦により十七日召集解除、十八日帰島した。ちょうど島内はいわゆる小鹿島事件で混乱し、日本人職員家族は公会堂に集結し、島外との連絡も断たれ、不安恐怖の中にあった。この島内の事情を見て、十八日帰島した竹島師ほか五名は、直ちに光州の部隊に通報、軍隊一個小隊が来島、島内朝鮮人の空気も変わった。この機会に島から離れるよう指示があったので、竹島師は着のみ着のまま二十日小鹿島を脱出、光州へ向かった。光州の親戚に約一カ月滞在、アメーバ赤痢の回復期にあった二人の子供と老母を連れての引き揚げは言語に絶する苦しみであったという。その甲斐もなく帰国直後長男は死亡された。竹島教誨師は、一時札幌西別院に勤務し、引き続き大阪拘置所に勤務することとなったが、昭和二十三年十月三十日在職中死去された。

(注)小鹿島暴動事件

小鹿島には朝鮮らい患者約六千人を収容した世界一の施設を誇る更生園があった。八月はじめ、大暴風雨のために電信電話が故障になり、ラジオもきけず、小鹿島在住者は十五日の放送も知らなかった。
更生園職員で応召中のものが除隊となり、そのもち帰った「全南新報」により、十七日にはじめて終戦が明らかとなった。
十八日朝、更生園園長西亀三圭氏は、職員に終戦に処する訓示をした。その直後、約三百名の朝鮮職員は治安維持会の名で大会をひらいて更生園の接収を要求し、小鹿神社を焼き打ちして万歳を叫んだ。これに対し患者(朝鮮人)側は、自治委員会の名の下にみずから経営する方針をたて、二十条にわたる主張をして譲らなかった。十九日に小鹿島刑務所の受刑者七十名が脱獄し、一般患者とともに朝鮮人職員を襲撃した。軍隊が出動し数十名の犠牲者が出たが平静に帰し、日本人約二百名はその間に島を離れ、軍隊は二十四日に撤退し落着した。

その他として、「植民地下
朝鮮におけるハンセン病資料集成
第6巻」滝尾英二編・解説
不二出版。
資料66「小鹿島更生園訪問記録」宮川量1936年7月(原本は長島愛生園の神谷書庫に保管されている)に、教誨師のお連れ合いが園内の学校の先生をされていることが少しふれられている。



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