少し考えて欲しい。

本願寺新報.2002年(平成14年)2月20日水曜日号に、以下の記事が掲載されました。

  平成十年十月から十年計画で進められている御影堂平成大修復は、四年目に入り工事は順調に進んでいる。葺き替える瓦に寄進者の氏名などを記名する「瓦懇志」も全国から寄せられているが、国家賠償請求訴訟などの運動を通しての国との和解成立を踏まえて永年の差別・偏見を解消する緒についたハンセン病の元患者・○○さん(八五)から昨年十二月、瓦懇志三百万円が届いた。(中略)
(全文は下に掲載)
私はこの記事は大変問題のある記事だと思う。
「同和教育振興会編・差別被差別からの解放−西本願寺と部落差別」に、
  「一九〇二(明治三五)年、石川県の布教使Rは、和歌山県有田郡教念寺で、前年に設立された大日本仏教慈善会財団の募金宣伝の説教中「過日海草郡塩津村教徳寺において慈善会御趣意を演述した。然るところ同郡の被差別部落(原文は賤称語を用いてあるが改めた。入力者註)から移住した二人の奴が」それぞれ各十円ずつの寄附を申し出た。これに対しRは、「けれども彼らはそも何ものなるぞ、社交上人間外に擯斥(ひんきん)される蟻同様のものではないか、満堂の皆の衆は知らぬが、被差別者(原文は賤称語)は御同様一般社会から疎外されて居るもので御座るぞよ」と、参詣者大衆に向かって言語道断の差別発言をした。(中略)西本願寺では、同年一一月当該布教使の慈善会布教員を解くと共に「乙達三七号」をもって、門末に、差別的呼称をして同朋を卑む者がいる、教区内で厳重に取り締まるようにと告示したのであった。」とある。
  この文の「被差別部落・被差別者」と、今回の新報の記事とでは、その論法が全く同じ手なのではないだろうか。確かに記事の後半には啓発文と療養所の実態が出ており布教使R事件とは違うようにも思えるが、その基礎的構造は「虐げられた人が(あるいは人でも)、多額の懇志をあげてくださった。だから皆さんも懇志をあげて下さい。」というものではないのか、この構図は、本願寺派の場合一九八七(昭和六二)年のハンセン病差別法話問題にも同様の構図がみられる。そこでは懇志ではなく御法義に対してだか。
  名作といわれる映画「砂の器」の最大の見せ場は、ハンセン病発症者父とその子の放浪の場面でこの映画の泣かせ場面である。確かに映画の最後にスーパーで啓発文が流れるのであるが(このスーパーも全患協の要求によるものである)、ハンセン病に対する悲哀を感じざるを得ない仕上がりになっている。
  いま挙げた事例の根本は哀れみという特別で特殊な思いで括られるのではないか。
ハンセン病差別撤廃に尽力された伊奈教勝さんはその著「ハンセン病・隔絶四十年」の中で、「『いま療養所にいる人たちは、決して特別な、特殊な人ではありません。みんな普通の人たちです。どうか普通の人として、友だちになって下さい』という言葉こそ、世の人々に訴えたいし、私たちの心に響くものはない。
『みんな友だちです』と申されたのは、親鸞聖人である。『名利の太山に迷惑して、・・・恥づべし傷むべし』と述懐され、『いし・かはら・つぶてのごとくなるわれら』とご自身を受け止められた聖人のお心をくむ人々は、このいたみに同心するならば、普通の人として友だちになったいただけるに違いないと信ずるものである。』と述べられている。
  今回の記事は、伊奈さんの思いを踏みにじっている気がしてならない。
 
本願寺新報.2002年(平成14年)2月20日水曜日号  全文
「ハンセン病元患者の○○さん」(見だし1)
「平成大修復・瓦懇志を進納」(見だし2)
「聴聞の喜びを本山護持へ」(縦見出し1)
「大谷本廟へ亡夫の納骨がご縁で」(縦立見だし2)
  平成十年十月から十年計画で進められている御影堂平成大修復は、四年目に入り工事は順調に進んでいる。葺き替える瓦に寄進者の氏名などを記名する「瓦懇志」も全国から寄せられているが、国家賠償請求訴訟などの運動を通しての国との和解成立を踏まえて永年の差別・偏見を解消する緒についたハンセン病の元患者・○○さん(八五)から昨年十二月、瓦懇志三百万円が届いた。
  ○○さんは、二十歳の時にハンセン病を発病。当時、国が『らい予防法』のもと終生隔離を患者に強いていたため、群馬県草津町のハンセン病国立療養所「栗生楽泉園」への入所を余儀なくされた。手次き寺や家族のある郷里を後にするという苦境にも立たされたが、同所で人生の伴侶と出会い結婚。相手も、同じ病で同所に収容された本派の念仏者だった。
  一九六二年に、○○さん夫妻は宮城県迫町の国立療養所「東北新生園」へ移転し、同療養所の本派門信徒で組織されている「真宗慈光会](金沢末作会長)に入会。  「発病前には母に連れれられ幾度も本山に参拝していたので、最初の療養所に他宗派のグループしかなくさびしかった。慈光会と巡り会い『やっと居場所が見つかった』と、二人で喜び合った。そこは、やむなく生地を離れた私と夫にとって、人間らしく生かされるような場だった」と○○さん。入会後は、同会と親交の深い同県若柳町・甘露寺(堀本英信住職)の門徒として歩んでいる。
  ハンセン病の息者や元患者にとって差別と偏見の温床だった『らい予防法』の廃止から六年。九十年にも及ぶ強制隔雌からは解放されたが、高齢化や差別解消など課題は残り、現在も療養所にとどまる人たちは多い。○○さんは、「東北新生園」で入所生活を続けていて、「人権無視の歴史とお念仏の人生を夫と歩んできた。苦楽を共にし先に往った夫を本山の無量寿堂(大谷本廟に納骨したが、私も一緒に納めてもらいたいので本山護持に努めたかった」と瓦懇志を進納した。
  ○○さんは、慈光会で夫とともにみ教えに触れてきたが、本紙や「大乗」を購読、その中で二百年振りに御影堂平成大修復工事のこ》とを知り、「こころのふるさと」である御影堂のご修復にお役に立ちたいと進納した。
慈光会では月一回の法話会や週一回の例会が開かれており、○○さん夫妻は会員の心の故郷である同会の念仏道場「西本願寺会館」に足繁く通い、正信偈をおつとめし法話を聴聞。二十年前に前門さまが同会館を訪問された際には帰敬式けた。
  しかし現在でも差別や偏見は根強く、親族が遺骨の引き取りを拒むため同所の納骨堂に納めたり、「客に迷惑がかかる」と、同所入所者への乗降拒否を二年前まで続けた駅も存在する。
高齢化の影響も受け社会復帰者は全国的に皆無に等しいが、治癒しても差別から家族を守るため帰郷を果たせず実名も名乗れないのが現状だという。
  金沢会長(八三)は、「最高時に百人いた会員も今では二十一人。平均年齢は七十五歳を超えた。『実家に帰っても恐らく家族は困るだろう』と唇を噛む会員もいるが、予防法撤廃があと三十年ほど早ければ所外での信仰生活に尽くせたかも知れない」と語るなど、社会復帰と人権回復の糸口さえ見えない状況は、高齢化の進行や啓発活動の遅滞から悪化の一途をたどっている。
  ハンセン病は、かつて「癩病」と呼はれた。潜伏期間が長く感染経路が特定しにくかったり有効な薬がなかったことなどを理由に「不治の病」「天刑病」「業病」ともいわれたが、実際は病原菌の極めて弱い感染症。
療養所職員が感染したことは一件もない。一九四三年のプロミンの発見で治療も可能になるものの、非人間的な予防政策は継続。「癩」という書葉にも、不治の病といった否定的観念がついてまわった。
  全国国立癩病療養所患者協議会(全患協)は、一九五二年から継続的に病名を改めるよう求めてきたが、その変更は同法廃止まで待つことになる。療養所の入所歴がある患者と元患者に対し昨年、国は「ハンセン病国家賠債請求訴訟」で隔離政策の誤りを認めた。ことし非入所者などにも謝罪し訴訟は全面解決を迎えたが、社会の差別を撤廃しようと今も啓発運動は続いている。
  本願寺派も、昨年五月の「国家賠償訴訟」地裁判決に対して、武野以徳総長名で「私たちの教団もまた国と同様にハンセン病に対する偏見と差別を助長し、患者さんだけではなく、その家族や周囲の人びとの人権を侵害し、尊厳性を犯してきました」と述べ、ハンセン病差別法話間題の提起などを通して責任と課題を受け止めることができるようになったことと、同じ過ちを繰り返すことがないよう学びを進めていく決意を表明している。
(改行は入力者に改めた)


上に書きましたが、新報の記事に対する私の意見です。

同朋(基幹)運動 トップに戻る

トップページへに戻る