下の一文は、私の遠縁に当たります方が本願寺へ出した、質問状の写しです。
氏は今年(平成11年)の始めに御子息を亡くされました。住職を御子息に渡されたばかりの出来事でした。
  私としましては、亡くなられた御子息が私の祖母の葬儀の収骨の席で、火葬場の職員が「これから精一杯供養して下さい」と声をかけてきたとき「真宗ではそのような言葉は用いない」と親族の声を火葬場に職員にかけたことが今でも耳に残っております。
  その出来事を思い返してみると、この「還浄」という言葉は単に真宗流の言い換えで、なんら暖かみの無い言葉ではと思ってしまいます。

  感想等を掲示板によせて頂ければ幸いです。

  本年6月本願寺より1月に死去致しました当寺前住職・英順(私の次男)の退職記念品が送られてまいりました。彼の死去後、私が再度の住職を致しましたが、老齢の上、病身でありますために当時も今もとても忙しく記念品の開封もかなり遅れたようなことでありました。
ところがその後、記念品の開封をしましたところ、送り状に前住職が「還浄」されたとの文言がありましたので、これは受け取るべきではないと判断し、総局公室長宛てに
(1)還浄という言葉で記念品が送られたこ とを確認するように、
(2)この文言は宗門で認められた用語であるか、の二点についての質問とともに送り返しました。
それがそちらに7月6日に配達されています。

  ところで私の質問の意向はつぎの三点につきます。

1、人の死を還浄、浄土に還ったと捉えるならば、人間は本来浄土から生まれてきたものだということが前提になっているわけでありますから、それでは、仏は人を悲しませ、困らせるために浄土を創られたのか。または、死ぬものと残ったものとは全く別個の種類の人間なのでありますか。

2、人間が浄土から生まれてきたものであれば人間の生活は還相の行業となり、聴聞することも、教えを説くことも自己矛盾となり、現実に聴聞にはげむ人や教えを説く人に対して、これほど人を食った言葉はないと思うが、なぜ、そのような人を食った言葉を吐きかけねぱならないのか。

3、「還浄」という言葉を使うと、人間の生活の後姿がすべて仏と拝まれるのあるから、どのような現実であっても無批判に受けとめるべきで、現実の批判も現実を生きぬく努力もすべて必要でなくなるとなぜいわないのか。

  その後、7月29日付けの文書で公室長から「『還浄』という言葉は、宗門の公式用語として認定したわけではございません。そのような言葉を公文書にもちいましたこと、軽率であったと存じます。今後はこうしたことのなきよう、担当部門を指導して参りたいと存じます。」との返事がありましたが、現に発送されたものについてどのように取り扱うか、またその指導はどのようなものかについては全く触れられてはいませんでした。
  それで、これは教学上の問題としても宗派の機関でつめてもらわなければ返答が出来ないのだろうと判断しまして教学研究所宛てに「人の死を還浄と捉えることの是非について判断を求めました。

  8月17日、教学研究所長より来信。「今回のご質問からもわかりますように、「還浄」という言葉は、教学的にも重要な問題を含みますので、慎重に検討しなければならないと考えております。」しかし、「教学研究所は『教学研鑽を行なう』ため設置されております機関であり、教団を代表して意見を表明する機関ではありません。」とありましたため、改めて勧学寮に質問状を出しました。

  9月20日、勧学寮の部長の来訪があり、寮員の意見として「勧学寮は主として門主の諮問に答える機関であるから、質問には答えられない」と、伝えられ、『中外日報』記載の論説3回分のコピーを渡されました。

  そこで、勧学寮に再質問を致しましたところ、11月11日付けで部長から返事がありまして、「勧学寮は『宗法』において、設置され、その職務においても規定されております。本来、宗意安心に関する門主の諮問に答申するために設置されており、他に総局、宗会、監正局などの機関寄り要求のあった教義に関する重要事項を審議し回答するなどの職務が定められております。したがいまして、この他の教義に関する質問については『総局部門職制規定』に『教学上の諸問題についての質 疑相談すること』の職務が設定されている『教学研究所』で受け持つこととなります。」とありました。

  そこで第1の質問ですが、

(1)現実には門主や宗派の機関だけに宗派の内部で質問する権利があり、無常は迅速で、生死はこと大でありますのに門徒や住職には質問する権利もなく、従って宗派の内部に門徒や住職の質問に応答する機関もないという、内部の意志統一がされていないという、まことに無責任な宗政が行なわれていることになりますが、そのことを認められますか。

  つづいて第2の質問を致します。

(2)宗門では人権の問題を柱とする基幹運動を推進していますが、一般門徒や住職には宗派内部に生死の問題で質問する機関もはっきりしないし、椎利も行使出来ないということですが、このような状況で人権の問題を取り上げる基幹運動が間違いなく展開出来るとお考えですか。

  ところで、勧学寮の部長を通じて『中外日報』1999年7月1日号、7月3日号、7月6日号掲載の基幹運動本部専門委員執筆の論説3部のコピーを小職に届けられましたが、この論説は問題の多いものでありますのに、なぜこのようなものをわざわざコピーして私に届けられたのか、さっぱりわけがわかりませんままに、届けられた理由を尋ねましたところ、勧学寮の見解とは無関係に、このような意見もあるということで参考までに届けたということでありました。

  そこで第3の質問に移ります。

(3)勧学寮では参考までにと申されますが、いやしくも基幹運動本部専門委員の書いた論説を少なくとも教団中枢部の部長が届けたのでありますから、申される参考までにということは、宗務当局がこのような見解を持っているから、参考にせよということだと理解せざるを得ませんが、それでよろしいのでしょうか。

  勧学寮の部長が持参された論説には教学と宗政に関する重大な問題がみられます。氏は、「還浄運動と教学論争」の中で、「還浄」運動は広島県における同朋三者懇と関係があり、「私個人は「還浄」の張り札は、過渡的な形式であると考えている」と申され還浄運動を推進されています。そこで、「還浄」論争の発言も「還浄札」推進運動も、人権問題に対する過渡的対策的なアプローチであることがわかります。ところが、私たちの教団では、過去において人権問題を過渡 的対策的に取り扱い、たいへんな間違いを犯した苦い経験を持っています。それでありますのに、なおさらこのような観念論的なしかも主観的な、間違った論説を発表されることは基幹運動専門委員として甚だ不見識なことであります。
  まず、この論説が観念論的なしかも主観的ものであり、大変間違っているものであることを指摘しておきます。

  国民に健康で文化的な生活を保障するという国政の場合だとか、住民福祉を目的とする地方自治の場合であれば、目的実現のための施策として過渡的対策的な施策は必要であり、その効果もあがることでありますが、宗教と政治とでは目的が違います。宗教の場合、覚りまたは救いが目的でありますから、そのための過渡的対策的な方策をたてますことは、目的を暖昧にするだけであります。したがって、宗教の場合目的実現のための教えは明確に示されるべきであります。ここに氏の論説の問題点があります。
  かって大和同志会や黒衣同盟、また全国水平社では人権の平等について本願寺教団に対して、その実践について真俗二諦という信心と生活を使い分ける論理ではなく、教義上の直接の位置付けを求め、これについて具体的な要求も出しました。そしてこの要求は水平社の後身の全国部落解放委員会に、その後の運動団体に数十年もの間、毎年の運動方針として引き継がれてまいりました。それは何時も本願寺教団がこの要求に真っ正面から答えようとしなかったからであります。本願寺教団では真俗二諦を抱えたまま、護教的対策的なトンネル会社にひとしいダミー機関の同朋会を創って誤魔化し続けたのでありました。
  しかし、そのようなことですまされるものではなく、1971年にこのダミー機関も正式に教団の職制に組み入れられなければならなくなりましたが、永年にわたって養われた対策的な体質は即座に改められるはずもなく、この後だされた『同朋運動の理論と実践』には「宗祖の御同朋御同行という暖かい人間関係をきずいていく」と記されているものの、その人間関係とはどういう関係なのか、またその関係をどうきずいていくのかが欠落した観念的な内容のものでありました。これでは水平社でいわれる「解放の精神を麻痺せしむるが如き・・・教化運動」であり、さらに「本願寺が部落解放をなし得るかの幻影を植えつけ・・・水平運動とはっきりした反動性をもって対立する」ていたらくであります。このように本願寺教団の同朋運動は非常に歪められ、今日もあるべくもない姿を、一面ではさらしているようなことであります。
  それでありますのに、過去に学ぶこともせず、宗政上の間違いの歴史に批判も加えず、事実に対する反省も欠いて、またしても対策的に「還浄」という言葉を使うことを認める文書を持参せられるということは、どういうことでありますか。また還浄という言葉は、還相という用語との相違を明らかにしない限り、無批判に現実を受け入れやすい用語となりましょう。その限り、人権の問題も他人事にしてしまうことになるのです。
  現に、教団は子どもを先だたせた老父に対し、先立った者への記念品の送り状の中で、お前の息子は自己矛盾も自覚しないうつけものだったといわんばかりの言葉を吐いて、私の悲しみの傷口に手を突っ込んで、ひっかき廻すような非礼なことをし、また勧学寮員たちはその悲しみを受けとめようともしないのでありました。

  そこで、最後に第4の質問を致します。

(4)最後に還浄という用語についての私の3つの質問に直接にか、教学研究所かまたは勧学寮を通じられても結構ですから回答されんことを要求致します。

合掌


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