『親鸞聖人のお言葉にしたがって浄土にかえろう」
(『季刊せいてんno.47』pp.58-60)および
「『還浄』運動と教学論争」上・中・下
(中外日報、1999.7.1;1999.7.3;1999.7.6)
を公開するにあたってのコメント


沖  和史

今回棚原正智師のお申し出により、師のホームページに上記拙文を掲載して頂くことになりました。師からのお手紙の中に、尺一顕正師の本願寺派宗務総長あて質問状が同封してあり、その質問状の中で尺一師が拙文を批判なさっていることも知りました。従いまして、尺一師のご批判に対する簡単なお答えのコメントを掲載させて頂きたいと存じます。

1.「還浄」という表現の妥当性について

11.この点については拙文に対する尺一師のご批判はありませんが、宗務総長宛の質問状では「還浄」という表現が本願寺派において使われていることを批判していらっしゃいます。上の拙文では、本願寺派ご門主が「お浄土に還られた」と仰ったことを指摘し、その表現は宗祖のお言葉に根拠を持つことを示しています。

12.すなわち、宗祖は、私共凡夫が他力廻向の信心を得てのち悟りを開くこと(大涅槃を証すること)をさまざまに表現なさり、「法性のみやこへかへる」とも表現なさいました。したがって、法性のみやこである浄土にかえることを意味する「還浄する」という言葉は、「浄土で悟りを開く」(往相回向の利益を得てただちに還相回向の利益に入る)ことを示す言葉です。

13.この「還浄」という表現が宗門で認められるべき表現であることは、当然のことと存じます。なぜならこの表現は、宗祖の上述の文や引用文(「本国に還りぬれば、一切の行願自然に成ず」化巻)や、ご門主のご親教の表現と同類の表現だからです。むしろ小生には、総局公室長の返事は宗祖とご門主をないがしろにしているとしか思えません。


2.沖が進める還浄運動が、人権問題に対する過渡的対策的なアプローチである、というご批判について

21.まず、還浄運動と同朋三者懇の活動とが「関係があり」、沖個人は「還浄」の札を玄関に貼り付けることを「過渡的な形式」であると判断している、という前提から、「還浄札推進運動も、人権問題に対する過渡的対策的なアプローチであることがわかります」(一部変更して引用)と仰います。これは小生にとってはとても乱暴な議論に見えます。

211.中外の拙文では、「往生と本願」というテーマで三者懇が議論しているのは、実体的浄土を死後の別世界に設定して信心の社会性を喪失した従来の「信心」の差別性を問い、本来的な教学(反差別の教学)を回復するためであることを示し、その方向性と「還浄運動」の方向性とは「現場から往生を改めて問う」という点で一致していることを論じています。

212.しかし、三者懇の活動と還浄運動とが直接に関係していると主張してはいません。現在、三者懇で還浄運動について論じ、あるいは推進するということは、なされておりませんし、小生もそのようなことを書いてはおりません。

22.また、還浄の意義を周知することについてではなく、還浄札を貼ることについて、「過渡的な形式」であると言った理由は、中外(中)に書いたとおり、「忌中の張り札自体の無意味さ」によるものです。

221.「忌中」の札を貼るのは、ご承知の通り、その家が死穢に曝されている最中で、世間から隔離されていることを明示し、死穢が伝染しないようにと注意を促すためです。江戸時代までは、隔離され家に閉じこもって服喪(服忌)しなければならない期間が、けがれの種類によって細かく規定された法令があったということです。このような法令に何らの実質的根拠もないことは、明治時代に権力の都合で「忌引」が最高七日間に短縮されたことによってはっきりしています。したがって、張り札自体が何の根拠も持っていないことも明らかですし、服喪期間を実質的に持たない現代人にとっての年賀欠礼の「喪中」も言葉に縛られている他律的な因習に過ぎません。

222.物忌み不要というおそれなき生き方、すなわち真宗本来の行動への復帰を目標としている還浄運動は、張り札を「忌中」から「還浄」に張り替えることだけを目指しているのではなく、死者が出ると札を貼るという、死穢の習俗全体の束縛(他律性と全体主義)を問題にしています。

223.それゆえ、還浄運動を推進する僧侶のつとめは還浄の意味を徹底することであることを強調して、中外(中)では「(還浄を)単なる死亡通知の張り札に終わらせてはならない」と表現しています。死亡通知として張り札が必要だという思い込みも、死穢思想の変形としてターゲットにしているということです。

23.以上の通り、「張り札は、過渡的な形式」であるということは「対策的」であることを意味するのではなく、還浄運動の「徹底化」を意味していることを、ご理解いただきたいと存じます。

231.なお、念のために申しますと、「張り札」は過渡的形式ですが、「還浄」という表現は、過渡的なものではありません。「還浄」という表現は宗祖のおことばに根拠があることを、既にご説明いたしました。

232.宗門の尺一師へのご返事が「対策的」であるか否かについては、判断を保留しておきます。私には、少なくともご門主が「お浄土に還られた」と仰ったことを擁護する責任と義務が、宗門(とくに勧学寮や教学研究所)にはあると思われます。

基幹運動本部トップに戻る
トップページへに戻る