悪人正機  判決

【題意】

浄土真宗の教義に於いて、悪人の語の意味するところと、悪人の位置づけを明らかにする。

【出拠】

『本典』「化身土巻」註釈版・382頁
言汝是凡夫心想羸劣則是彰為悪人往生機也
「汝是凡夫心想羸劣」といへり、すなはちこれ悪人往生の機たることを彰すなり。
『本典』「化身土巻」註釈版・382頁
言若仏滅後諸衆生等即是未来衆生顕為往生正機也
「若仏滅後諸衆生等」といへり、すなはちこれ未来の衆生、往生の正機たることを顕すなり。
と、悪人の語・正機の語が出る。また、『愚禿鈔』註釈版・511頁には
菩薩・縁覚・声聞・辟支等を浄土の傍機、天・人を浄土の正機と示されている。
 
※資料※
又有傍正者
一菩薩  大小
二縁覚
三声聞辟支等  浄土之傍機也
四天
五人等  浄土之正機也
【52】また傍・正ありとは、
一には菩薩  大・小
二には縁覚、
三には声聞・辟支等
浄土の傍機なり。
四には天
五には人等なり。
浄土の正機なり。

【釋名】

悪人とは、先の「化身土文類」の文では心想羸劣の凡夫を指す。正機の機とは教法に対しての位置づけを示す語であり、正機とは弥陀法にあさましく適合する存在との意味となる。よって、悪人正機とは、心想羸劣の凡夫こそが弥陀法にまさしく適合している存在であるということを示している。
 

【義相】

1.宗祖に於ける悪人・悪・罪・罪悪等の用例は多いが、以下の三種に分類できる。

一.「行文類」註釈版・186頁

大小聖人重軽悪人皆同斉応帰選択大宝海念仏成仏
大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべしと、
大小の聖人と悪人とが並列されているのは善人・悪人相対の立場であり、その悪人とは『唯信鈔文意』註釈版706頁に『十悪・五逆の悪人、謗法・闡提の罪人』と示される存在である。

二、「信文類」(註釈版、231頁)に、

一切群生海自従無始以来乃至今日至今時穢悪汚染無清浄心虚仮諂偽無真実心
一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし


と示されているのは一切衆生を全て悪人と位置づけるものであり、この悪人は、自力による報土往生不可能な存在をいう。

三、「信文類」(註釈版、217頁)引用の二種深信の機の深信に

罪悪生死の凡夫
といわれているのは自己の自力無功の信知であり、悪人とは他力の念仏者の意となる。
なお、「信文類」(註釈版、248頁)引用の『聞侍記』に、
屠謂宰殺沽即ウン売如此悪人止由十念便得超往
屠はいはく、殺を宰る。沽はすなはちウン売。かくのごとき悪人、ただ十念によりてすなはち超往を得


といわれるのは、一部の社会的階層を悪人と位置づけているようであるが、「化身土文類」で悪人と示される「心想羸劣の凡夫」とは、『観経』に於ける章提希という王妃を指し、また「信文類」、逆謗除取釈引用の『涅槃経』では、国王である阿闍世が難化の三機すなわち悪人と位置づけられているのであり、宗祖に於いて、社会的階層による善人・悪人の位置づけを見るのは困難である。
前述の三種のなか、悪人正機の悪人とは、一の善人・悪人相対に於ける悪人であり、成仏道を歩む能力を持つ善人よりも能力を持たない悪人こそを弥陀法のまさしきめあてであることを悪人正機というのである。

2.近時、悪人が救われるということについて、悪の自覚のあるものは宗教的に勝れているので救われ、悪の自覚のないものは宗教的に劣っているので救われないとする説が堤出されている。悪の自覚を信機とすれば、必ずしも誤りであるとはいえないが、宗祖に於ける罪悪深重・煩悩具足の自己との表明が、我こそは宗教的優者なりと誇る姿勢を示していると考えることはできない。逆に、

『正像末和讃』(註釈版、617頁)の
(97)

無慚無愧のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば
功徳は十方にみちたまふ


という一首には、弥陀の光明に照らし出された自己の罪悪性に対する徹底的な慚愧と、その自己にはたらきかけている名号法の超勝性に対する慶嘆とがうたいあげられている。宗祖に於ける悪人・善人の語は、前者を宗教的優者、後者を宗教的劣者と位置づけることを表現する語ではないことに注意をはらっておきたい。

3.『西方指南抄』【真聖全4ー221頁】に示される法然聖人の「罪人なほ生まる、いはんや善人をや。」との言葉と、『歎異抄』第三章(註釈版、833頁)に示される宗祖の『善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。』との言葉との対比から、法然聖人は善正悪傍であり、宗祖は悪正善傍であるとする説がある。しかし、『選択集』(七祖註釈版、1185頁)二門章には、元暁の『遊心安楽道』にいはく、「浄土宗の意、本凡夫のためなり、兼ねては聖人のためなり」ととあり、醍醐本『法然聖人伝記』【『法然聖人伝全集』七八四頁上・七八七頁上)には、
 

此宗悪人為手本、善人摂也。聖道門善人為手本、悪人摂也。
この宗は悪人を手本とし、善人まで摂すなり。聖道門は善人を手本とし、悪人をも摂すなり。
善人尚以往生、況悪人乎。
善人なほもつて往生す、いはんや悪人をや。


とまでいわれ、法然聖人にも悪正善傍の説示がみられるのである。弥陀の救済の正所被が悪凡夫であるというのは浄土教の通規であり、その意は、『本典』「信文類」(註釈版、279頁)引用の『涅槃経』に出る七子中の病子の譬喩によくあらわれているというべきである。
法然聖人の「罪人なほ生まる、いはんや善人をや。」の言葉は、悪正善傍に対して善正悪傍と表現されるべきものではなく『選択集』讃歎念仏章(七祖註釈版、1260頁)に、

念仏三昧は重罪なほ滅す。いかにいはんや軽罪をや。
と示されるような滅罪の難易についていわれるものであり、その意では、「信文類」逆誇除取釈(註釈版、295頁)に、難化の三機が救済される弘願法を一切の病を治療する醍醐の妙薬に譬えられる宗祖も法然聖人と軌を一にしているといえよう。なお、救済の正所被としての説示は、悪の勧めとも誤解されやすく、そこで対機を限定した口伝にのみ存するのであると考えられる。
2000安居


※私が入手した判決では、聖教のページ数が聖教全書に依っていましたが註釈版に変えました。

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