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帰命義趣

〔題意〕
帰命の釈義を窺い、真宗にあっては名号仏勅に信順する義であって、衆生の側より運心希求する義でない旨を明らかにする。
〔出拠〕
『玄義分』第六和会門言南无者即是帰命・南無といふは、すなはちこれ帰命なり、とあり、行文類の六字釈しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、[至なり、]また帰説(キエツ・よりたのむ)なり、説の字は、[悦の音なり。]また帰説(キサイ・よりかかる)なり、説の字は、[税の音なり。悦税二つの音は告なり、述なり、人の意を宣述するなり。]命の言は、[業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。]ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。
と釈され「尊号真像銘文」に「玄義分」を釈して、「言南無者」といふは、すなはち帰命と申すみことばなり、帰命はすなはち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがひて召しにかなふと申すことばなり、」と示され、『浄土論』の建章の偈には、「一心帰命」と自督を述ベ、『論註』には、帰命即是礼拝門と釈されてある。
〔釈名〕
「帰命」とは梵語「南無」の訳語で、南無は帰命のほかに信従、恭敬、敬礼、度我・救我などとも訳される。今はこの帰命の義趣を明らかにするのである。
〔義相〕
帰命については一般仏教にあっても、また浄土門内にあっても、帰投身命、帰還命根、帰願勅命など、諸種の解釈がある。しかし、真宗にあっては、帰命について左の通り信心と勅命と礼拝との三釈がある。
『玄義分』の「言南無者即是帰命」や、『銘文』の「帰命はすなわち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがび、めしにかなふとまふすことばなり」とあるがごときは、機受の信心を示すのであって、行文類の六字釈に「帰命者本願招喚之勅命也」とあるのは、弥陀の勅命に約する。また、『論註』に「帰命即是礼拝門」というのは礼拝の義である。この中、信心(本願の信楽)の義を帰命の当釈とする。これを仏に約して勅命とされるのは、われらの信心が如来より起こさしめられるものであることを示されるのである。
また礼拝の義とされるのは、信が身業の行儀に顕われた相の上で語られるのである。
よって、真宗にあっては掃命は本願招喚の勅命に信順する義が主であって、衆生の方から仏に対して運心希求する義ではない。
〔結び〕
帰命とは如来の勅命に帰依信順することである。その信心は如来の勅命が至り届いた相であるから、宗祖は約仏の釈を施して他力回向の信なる旨をあらわされるので、衆生の側から仏に向かって請求する義ではない。