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信心正因

〔題意〕
真宗は本願名号を信ずる一つで報土の因が決定するので、往生成仏のためには衆生のいかなる造作をも必要としない。したがって、本願には信心と称名とが誓われているげれども、称名は信相続の行であって、往生成仏の果を開くべき因はただ信心一つなる旨を明らかにする。
〔出拠〕
「正像末和讃』に、「不思議の仏智を信ずるを報土の困としたまへり信心の正困うることはかたきがなかになをかたし」とある。およそ信文類一巻は信心正因の旨をあらわされるので、信心正因の意味を示す文は随所に見られる。
〔釈名〕
「信心」とは、総じては本願の3心、別しては三心即一の信楽を指す。「正因」とは、まさしき因ということで、往生成仏の果を開くぺき因が衆生の上に成ずることである。
〔義相〕
本願には機受の全相を示して「至心信楽欲生我国、乃至十念、若不生者」と誓われてある。これは第十七願に誓われた諸仏所讃の名号を信受せしめ、一生涯称名相続させて、報土の往生を
得させようという誓いである。しかるに、乃至十念の称名は信後の相続であって、往生の困は一声の称名をもまつことなく、名号を信受したところで決定する。その理由は、弥陀の名号は衆生を往生成仏せしめる悲智万行の徳を円具した業因であって、これを信受したとき、名号の全徳が衆生の上に具するからである。したがって、称名は往因決定以後の行業であって、信心が正因とされるのに対し、おのずから報恩の意味となる。これを本願の文について窺うと、十念の称名には「乃至」という語を冠している。乃至とは従多向少の意味で、上は千声・万声の多念から、下はわずか十声の者までということで、称名の数の一多不定をあらわす。一多不定ということは能称の功をいささかも認めないことである。そのような意味をあらわす「乃至」の語が、称名に冠してあるということから、称名は往生の困が決定することに関係しないことが知られる。
また成就の文には「信心歓喜乃至一念…即得往生住不退転」と述成せられている。「信心歓喜」は因願の信楽であり、「一念」は信楽開発の時剋の極促である。「即得往生住不退転」とは、信楽開発の一念即時に報土往生の真因が決定して、現生に不退の位に住するという利益を得ることである。よって、信相続の称名をまつことなく、信心獲得のところで往生の困が決定することは明らかである。
この信心正因ということについては、二つの所顕がある。
一つは、内、本願の十念に対して称名は正因ではない旨をあらわす。すなわち、本願の称名はその体名号であるから、その体徳をいえば声々みな正定業であるが、行者の称える心持ちをいえば摂受したもう仏恩を報謝する思いのほかはない。
二つには、外、要門・真門の法が己の修する行を必要とするのに区別する。すなわち、要門・真門などの法は己の行功を往因とするから、信のほかに行を必要とするのに対し、弘願他力の法は唯信独達であることを示すのである。
名号正定業ということと信心正因ということとは、いずれも因についていうのであるが、その所顕が異なる。正定業というのはまさしく往生の決定する業因ということで、法そのものの力用をあらわす。すなわち、名号自体に衆生をして往生成仏の果を開かしめる因徳がそなわっていることを意味する。
信心正因というのは、その名号が衆生に届いて個々の行者の上に往生成仏の因が成ずることをあらわす。したがって、名号正定業と信心正因とは矛盾するのではなくて、名号が業因であるからこれを領受した信心が正困となるのである。
また、この信心正因というのは、信心が単に浄土に往生する因であって、往生して後、さらに修行の功を積むことによって仏果に到るということではない。信心が仏果すなわち往生用成仏の果を開くぺき因であるという意である。ゆえに「報土の真因」とも「涅槃の真因」ともいわれ、この信心のことを菩提心とも信心仏性ともいわれるのである。
〔結び〕
第十八願の法は、衆生の造作をからず、名号願力を信ずる一つで、その独用により、往生即成仏の当果に対する困が決定することを示す。