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信疑決判

〔題意〕
信疑決判の釈を窺い、本願を信受するか否かによって迷悟が分かれる、というけじめを明らかにする。
〔出拠〕
『選択集』第八、三心章に、「深心者、謂深信之心。当知、生死之家以疑為所止涅槃之城以信為能入故今建立二種信心決定九品往生者也・深心とは、謂はく深信の心なり。当に知るべし、生死の家には疑を以て所止と為、涅槃の城には信を以て能入と為。故に今二種の信心を建立して、九品の往生を決定する者なり。」とあり、
宗祖はこれを承けて、『正信掲』に、「還来生死輪転家決以疑情為所止速入寂静无為楽必以信心為能入生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもつて所止とす。すみやかに寂静無為の楽に入ることは、かならず信心をもつて能入とすといへり。」という。
〔釈名〕
「信」とは本願名号の法を信受すること、「疑」とはこれを信受しないことである。そこで、「信疑決判」とは、本願名号の法を信ずると否とによって迷悟が分かれることをいう。
〔義相〕
「生死之家」とは三界の迷いの果を言い、「以疑為二所止」とは本願疑惑によって迷界に止まることをいう。「涅槃之城」とは生死の迷いを断滅した寂静の悟りの境界を言い、「以信為能入」とは本願の信を獲ることによって涅槃界に入ることをいう。ここにいう所止・能入とは、いわゆる能所の関係を示すのではない。三界六道に輪回するのは本願を信受しないからであり、報土に往生するのは本願名号の法を信受することによるという意味である。
この信疑決判は善導大師が深心を二種深信に開いて示された義意を顕わす。すなわち、無有出難の機を摂受する本願であるから、悪業煩悩はあれども往生の障りとならず、また善根はあれども功なく、往生成仏の因はひとえに仏願力に乗託するほかはない。そこで、すぺて機の善悪をいわず、信ずれば往生、信ぜざれば迷いに止まるという義を成ずる。法然上人が信疑を決判して「故に今二種信心を建立して九品の往生を決定するものなり」と言われたのは、この意である。
なお、「以疑為所止」といっても、本願疑惑が生死流転の因であるというのではない。生死輪回の因はもとより我等の無明煩悩である。然るに、既に救済の法たる本願が成就しているにもかかわらず、これを信受しないから、またもとの如く生死に止まるというのである。
また、同じく信疑の別をいうても、今の信疑決判と、『大経』の胎化段や、『易行品』の弥陀章の偈に示される信疑得失(胎化得失)とは、所顕が異なる。信疑得失の場合は、信とは明信仏智であるのに対して、疑とは不了仏智を指し、本願他力の信を獲た者は化生(報土往生)を得るのに対して、自力修善の願生者は胎生(化土に止まる)の厄を受げると、その得失を示して真仮廃立せられるのである。したがって、信疑決判の場合の疑が不信であるのに対し、信疑得失の場合の疑は自力の修善願生を意味する。しかしながら、信疑決判も信疑の得失も、共に本願の信を報土の因として、勧信・誠疑せられるということは同じである。
〔結び〕
本願を信ずれば浄土に往生して涅槃のさとりを得、これを信受しなければ迷界に止まって悟りを開くことができない。