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歓喜初後

〔題意〕
歓喜は初起にもあるのか、それとも後続に限るのかを窺い、歓喜は初後に通ずるのであって、初起の歓喜は行者の三業の造作ではない旨を明らかにする。
〔出拠〕
本願成就文に「聞其名号信心歓喜、乃至一念」とある。
〔釈名〕
「歓喜」とは信心の相であって、信楽の「楽」の義であり、信楽の「楽」は愛楽の意である。
「初」とは乃至一念の「一念」であって、信心開発の促の時、すなわち初起をいう。「後」とは乃至一念の「乃至」であって、信相続の延の時、すなわち後続をいう。
〔義相〕
信楽は初後一貫するから歓喜も初後に通ずる。初起の一念は信楽が開発した一念であるから、歓喜の相があることは勿論である。信楽は疑蓋無雑の心相であって、もし初起にこの疑蓋無雑の心相がないのであれば、それは信楽開発の一念とはいえない。疑蓋無雑の心相は即ち愛悦の心であり、歓喜の心である・然るに、初起一念に歓喜があるといっても、それは仏願力の摂受に対して疑雲の晴れた促時の心相であり、仏勅の印現した当初の心相であって、行者の意業にかけて思うというのではない。意業に運想し、さらに身口二業に発動するのは、必ず第二念以後の後続である。
宗祖が成就文を釈して、信文類に「言歓喜者、形身心悦豫之見也」といい、「一念多念文意」に、「歓喜といふは、歓はみをよろこばしむるなり、喜はこゝろによろこばしむるなり。」と言われてあるのは、相続の顕著なる相をもって示されたもので、初起一念の時に身心にわたって歓喜が現われるという意味ではない。
なお、信楽といい信心歓喜と言われるように、疑蓋無雑は即ち愛悦の心相であるから、信心の異名として歓喜の語を用いる場合がある。『正信偈』「能発一念喜愛心」と示され、『和讃」に「一念歓喜するひとを、かならず滅度にいたらしむ」とか、「一念慶喜するひとは、往生かならずさだまりぬ」といわれるごときがこれである。
しかし、信心正因というが、歓喜正因とはいわれない。なぜなら、信心は名号を体とし、その自利々他の因徳を具有するから、その体徳の辺より正因となるのであって、喜ぶ人は往生するというように示されてあっても、喜ぶとは信心を獲得したことであり、信心獲得の故に必ず仏果に到るぺき身に定まるというのであって、喜ぶということを往生の因とするのではない。
〔結び〕
歓喜は初後に通ずる。初起の歓喜は無疑愛楽の心の開発せる相をいうので、行者の意業に発動することではない。
意業に発動し、また身口の二業を伴うのは信後相統の行に属するのである。